きちがい家族にやられた人間が自殺する確率は高いと思う。きちがい家族の割合は、たいへんに小さい。けど、きちがい家族にやられた人間というのは、きちがい家族にやられたことがない人間から、ものすごく悪く言われるのだ。しかも、多数派であるきちがい家族にやられたことがない人間というのは、きちがい家族にやられるということがどういうことなのか、まったく理解していない。そして、言霊ではなくても、妄想的なことが、前提として成り立っていることを言う。どうして、妄想的なことを前提にしてしまうかというと、きちがい家族にやられたことがないからだ。きちがい家族にやられたことがないので、きちがい家族に、「毎日」やられるということの意味が、みずからの経験をとおしてわかっていないということになる。結果、無限の寛容性を要求したりする。そんなのはたいしたことがない」と言いきって、無限のゆるしを要求したりする。ところが、無限のゆるしを要求するやつらは、じつは、まったく迷惑をかけられてないのに、ゆるさないのである。たとえば、きちがい家族にやられて、しかたがなく、無職になった人間がいるとする。通勤して働けなくなったのだ。きちがい家族に「毎日」やられて、通勤して働ける体(からだ)ではなくなったのだ。しかし、きちがい家族にやられたことがない人たちは、わからない。だから、「そんなのは、どうでもいい」「そんなのは、理由にならない」と言って、働けないということを認めない。きちがい家族の行為によって働けなくなったということを、認めない。きちがい家族にやられたことがない人間にとっては、「そんなことは、どうでもいいこと」なのである。だから、きちがい家族にやられた人に対して、無限のゆるしを要求する。たとえば、きちがい家族にやられた人のことをAさんだとする。Aさんに、きちがい家族の行為をゆるすように、要求するのだ。ところが、きちがい家族にやられたことがない人は、Aさんが、無職であることをゆるさない。ぜんぜん、寛容ではないのだ。Aさんには、きちがい家族に対して、無限の寛容性を発揮するように求めるのに、自分たちは、Aさんに対して、まったく寛容ではないのだ。無限の寛容性、無限のゆるし……そういうものを、Aさんには求めるのに、Aさんに対して、こいつらは、寛容じゃない。まったく寛容じゃない。
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「自分」は、俺に対して無限の寛容さを発揮することを求めるけど、「自分」は、俺に対してまったく寛容じゃないという話ね。「ゆるし」とか聞こえはいいけど、やられたやつが、がまんして死ねばいいということじゃないか。どれだけやられたかわかってないから、言えることだ。そして、やられたことの影響について、勘違いをしているのである。やられたことの、影響の、でかさについて勘違いをしている。「そんなものじゃない」とどれだけ説明しても、不寛容なこいつらは、理解しないのさ。それじゃ、悪いやつがやりがちになってしまうだろ。しかも、きちがい的な意地でやるやつらは、やったつもりがないんだよ。まったくやったつもりがない。「なんじゃこりゃ」という話になる。
ともかく、無限の寛容さを、だれかに求めるのはやめたほうがいい。「自分」の不寛容さが目立つだけだぞ。