「楽しいと言えば、楽しくなる。……これは、科学的に立証されたことだ」……などと言ってしまう人がいる。まったく科学的じゃない人なんだよな。まったくなにもわかってない。まあ、それに関しては、ずっと書いてきたから、いいとして、今回、言いたいのは、やはり、環境が悪い人にとって、こういうことを言うやつらが、悪い要素なのだということだ。こういう人たちは、環境が悪い人を、追いつめている人たちなのだということを言いたい。「環境が悪い」ということは、不愉快なこと、腹立たしいこと、憂鬱なこと、悲しいことが、たくさん発生するということなのである。発生回数自体がちがうのだ。たとえば、「楽しいと言えば、楽しくなる」と言っている人とは、不愉快なことが起こる回数がちがう。もちろん、「楽しいと言えば、楽しくなる」などと言っている人のほうが、回数が少ない。そういう環境のなかで生きている。ところで、「楽しいと言えば、楽しくなる」と言う人だって、ものすごく腹がたつことが起こったときに、「楽しい」と言えば、楽しくなるのかという問題がある。文脈と言ってきたけど、ちゃんと文脈が成り立っているかどうかと言うことが問題なのだ。「楽しいといえば楽しくなる」と言っているときに、そうしているのは、難の文脈もない場合なのである。文脈がない「空白状態」「中間状態」で、「楽しい」と言うことを、抽象的に想像しているにすぎないのである。宙ぶらりんの空白状態で「楽しい」と言ったら、どうなるのかと言うことを、抽象的に考えているだけなのである。言ってしまうと、問題があるけど、言霊主義者は、言霊理論が否定されただけで、相当に不機嫌になる人たちなのだ。この場合は、自分が信じていることを否定されるという出来事が実際に生じたから、その出来事に対応した感情が発生しているのである。直前の出来事は、感情に影響をあたえるけど、直前の出来事ではないにしろ、強く記憶に残る不愉快な出来事は、そのときの感情に影響をあたえる。
出来事という(本人にとっての)文脈を無視して、(本人の)感情を語ることはできないのでああ。ところが、「出来事」という(本人にとっての)文脈を無視して、ただ単に「楽しい」と言えば、楽しくなるということを言う。
実際に、猛烈に腹がたつことが発生したあと、「楽しい」と言えば、楽しくなるのかといえば、楽しくならないのが普通なのである。言霊主義者だって、「楽しい」と言っても、楽しくならないのである。普段はそうなのである。
猛烈に腹がたつやり取りをしている最中に、そのやり取りとは関係なく、突然に「楽しい」と言って、楽しくなるのかという問題がある。
これ、言霊主義者だって、こういうことについてまったく考えてない一般人だって、本人が本人の文脈で、腹をたてているときは、「楽しい」と言っても、楽しくならないのである。
人間の気持ちというのは、そんなものじゃないのである。言霊主義者が言ってるように、文脈に関係なく「楽しい」と言えば楽しくなるのかというと、そうではない場合のほうが多いのである。
特に不愉快なことは、発生していないという状態で「楽しい」と言えば、楽しく感じたような気がしたというだけの話なのである。
何度も言うけど、言霊主義者だって、猛烈に腹がたつことが、立て続けに起こり、腹がたって腹がたってしかたがないときに「楽しい」と言えば、楽しくなるのかと言えば、楽しくならない。言霊主義者だけではなくて、「楽しいといえば楽しくなる」ということに、疑問をもたない一般人だって、猛烈に腹がたつことが、起こり続ければ、「楽しい」と言っても楽しくならない。
これが、現実だ。こっちのほうが、現実なのに、文脈から解き放された、中立的で、宙ぶらりんな状態を考えて、「楽しいといえば楽しく感じるはずだ」と思ってしまうのが、おろかなことなのだ。
条件が悪い人と言うのは、条件が悪いので、不愉快なこと、腹がたつこと、憂鬱になること、つかれはてることが、猛烈な頻度で発生してしまうのである。
だから、「楽しい」なんて言ったって、楽しくならないのである。
どうしてなら、直前に、強烈に腹がたつことを経験しているからだ。
あるいは、現在進行形で、強烈に腹がたつことが発生しているからだ。
ちゃんと、文脈がある。文脈に対応した感情が発生する。当然のことだ。この当然のことを無視して、「楽しいといえば楽しくなる。これが絶対に正しい」と言ってしまうのが、精神世界の人たちなのである。
その精神世界の人たちだって、腹がたつことが発生し続けている最中に「楽しい」と言えば、楽しくなるかと、楽しくならないのだ。
精神世界の人たちは、「普段の自分」を無視しているのである。精神世界の人たちにだって、現実世界で、さまざまな現在進行形の出来事が発生するのである。
そして、そのなかで、出来事に対応した感情が発生するのである。
出来事とは、関係なく、「言った」だけで、自分の感情を操作できるのかというと、操作できないのである。
なのに、ほかの人には、「楽しいといえば楽しくなる」と説教してしまう。自分のことを棚に上げて、よく言うよ」とぼくは思ってしまう。
環境が悪い人、条件が悪い人は、下の立場になりやすいのである。精神世界の人は、自分より立場が下である人には、説教をし始めるのである。そういう人種なのである。だから、環境が悪い人、条件が悪い人は、精神世界の人から説教をされやすい立場なのである。
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言霊主義者は、相手の身に起こっていることを無視してしまうのである。特に、「頻度」を無視してしまう。特に「外的な理由」を無視してしまう。外的な理由によって、頻繁に起こっていることは、その個人の感情に影響をあたえている。その感情と関係なく、言葉を発すれば、その感情が消え、言葉通りの感情になるということは、ありえないことだ。
言霊主義者だって、普段の生活のなかでは、感情が赴くままに感じているのである。その感じていることにさからって、別の、真逆のことを感じるように、自分自身に命令したって、自分自身は、その感情に支配されていて、命令した通りには、感じないということを、言霊主義者だって、経験しているはずなのである。もっと、言霊主義者は、単純なので、言霊のことについて考えているときは、言霊のことについて考えているだけで、普段、自分がどういう感情で、どういう行動をしているかということに、考えのリソースを分配しないのである。
言霊主義者だって、腹がたつことがあれば、言霊を無視して、腹をたてる。腹がたって当然だと考えている。ちゃんと文脈があるときは、現実的な思考をしているのである。その現実的な思考というのは、メタ認知によってささらえれた思考なので、特に「文にして」説明しなくても、瞬間瞬間、時間の流れに従って、感情をうむ出すのである。以降、これを、文脈のある感情ということにする。言霊主義者って、普段は、文脈のある感情にしたがって、行動しているのである。文脈のある感情とは、真逆の言葉を考え出し、真逆の言葉を言うと、文脈のある感情が消え去り、真逆の言葉が意味している感情が、吹き出すなんてことはないのである。真逆の言葉が意味している感情に支配されるということがないのである。これは、言ったって言った通りにならないということなのである。しかし、言霊主義者は、このことに関して、おそろしく、無頓着なのである。無頓着。「あったってない」なのである。普段自分は、文脈のある感情にしたがって行動しているのに、そのことは、無視してしまうのである。「言霊」ということを考える場合は、普段の自分の行動を無視してしまうのである。けど、言霊理論が、だれかによって否定されれば、自然な感情として、怒りがわいてきて、相手の言ったことを、ともかく、否定しようとするのである。そのとき、「楽しい」といっても、楽しくならないのである。「うれしい」といっても、うれしくならないのである。「なんだこのやろう! 言霊は正しい!」と感情的に思っているのである。
これは、言霊理論が否定されたときだけではなくて、ほかのことでも、文脈にしたがって、感情の流れがあり、感情の流れに従った行動をしているのである。文脈とは、まったく関係がない言葉を考え出し、その言葉を発して、その言葉に対応した感情を自分のなかに作り出すということはしていないのである。
そして、このこころみは、発生した出来事の影響が強ければ強いほど、失敗してしまうのである。ところが、言霊主義者は、失敗を無視してしまうのである。あるいは、こころみようとも、しないのである。実際の場面では、文脈とは正反対の感情をもとうとはしないのである。普通に出来事に対応した感情をもっているのである。無自覚。無自覚。無自覚なんだよなぁ。