ほんとうに、ものすごい力で、「できなくなる」のである。あの一日を経験したことがないやつが、「俺だって苦労した」と苦労を抽象化・平均化・同量化・同質化してしまうのは、頭にくる。だいたい、「俺だって苦労した」と言っているやつは、なんらかのことが、毎日、何千日も続いて「できなくなる」ということを、体験しているわけではないのである。経験していないのである。だから、「できる状態で」やっている。「できない状態」になった、俺のことを、せめる側に回っているわけだ。「そんなのは、関係ない」「俺だって苦労した」……と言っているのに、当の経験はないのである。当の症状は出ていないのである。これだけで、ぜんぜんちがう。「できなくなっていない」から「そんなのは、関係ない」「俺だって苦労した」と言っているんだぞ。それだけの「量」なんだよ。そういう「質」なんだよ。異質な騒音を、ものすごい「量」聞かされたわけじゃないんだよ。症状がちがうんだよ。ようするに、俺に、「そんなのは、関係ない」「俺だって苦労した」といえる立場なのだから、同量・同質の出来事を経験していない。「できなくなる」ということが、わからない立場なのだから、経験していない。「そんなのは、あまえだ」といえる立場なのだから、経験していない。こいつらときたら、経験したつもりになって、俺に、がたがた言っている。同量・同質の出来事を経験したという前提でものを言っているのである。けど、こいつらは、きちがい兄貴といっしょに住んでいるわけではない。きちがい的な家族と一緒に住んでいるわけではない。ぜんぜん、ちがう。ちがうので、ちがう。ちがうので経験していない。きちがい的な家族がもたらすものを、経験していない。普通の家族と一緒に暮らしているから、きちがい的な家族がもたらす出来事を、経験していない。経験していないから、経験していない。経験していないから、体がじょうぶで「できなくなる」ということが、わかっていないだけなのである。
どんだけ、足を引っ張られるか、わかってない。
どれだけ、たえても底なし沼のように襲ってくるということがわかってない。そして、やられているあいだ、不可避的に『影響をうけている』と言うことがわかってない。どうして、わかってないかといったら、経験がないからなのである。経験がないから「不可避的に影響をうける」と言うことがわかってない。わかってないだけなのに、えらそうなんだよ。経験がないから「できないからだにならなかった」というだけで、おなじ経験をしたのに、「できない体にならなかった」わけじゃないのだ。そこのところを、まったく理解していない。おなじ経験をしたけど自分は、だいじょうだったという感覚で、ものを言っている。頭のなかではだいじょうぶだということになっているのである。頭のなかでは……。頭のなかでは……。経験したことがないから、あたまのなかでは、おなじことが起こっても、自分ならだいじょうぶだということになっているのである。頭のなかで、想像すると、自分なら、おなじことが起こっても影響をうけないで普通に生活することができると思っているのである。おなじことが起こっても……自分なら……普通に勉強することができると思っているのである。……思っているのである。だから、「勉強することができなくなるなんてことはない」と思い「そんなのはあまえだ」「そんなのはいいわけだ」と言うのである。経験してないから……。頭のなかで、考えただけだから……。こいつらの想像力が欠如しているのに、こいつらは、こいつらで、自分たちの想像力の欠如について考えることがない。経験していないので、まったくわからない。まったくわからないから「自分なら、できるにきまっている」と軽く考えてしまうのだ。