ネズミを窒息死させてしまったのだけど、そういうことも、じつは、こたえている。ぼくはやりたくなかったんだ。
けど、きちがい親父が、そういう状態を作ってしまう。
きちがい親父が、生きていたころ、きちがい親父が餌付けをしたから、ネズミがうちのなかに入ってくるようになった。俺は、ネズミ対策工事をしたほうがいいといったけど、きちがい親父は「自分がネズミシートで捕まえるからいい」と言ってきかなかった。
それだと、ネズミがはいってきたあとに、捕まえるわけだから、ネズミの糞が増えるのである。とてつもなく、不衛生なのである。
この、ネズミの糞やネズミの糞処理だって、親父が俺におしつけたことだ。
ともかく、きちがい親父のなかで、「ネズミ問題は、ネズミシートで捕まえて処理する」という考えがあって、それ以外のことを言われると、顔を真っ赤にしておこる状態になってしまった。これが、こまるんだよ。
言っておくけど、これは、きちがい兄貴が「ヘビメタをやめろ」「しずかにしろ」と言われると顔を真っ赤ににしておこる状態とおなじだ。
これ、おなじなんだよ。スイッチがはいったら、きかない。自分のなかで、スイッチが入ってしまうと、それを否定されるようなことを言われると、顔を真っ赤にしておこるという反応がしょうじる。
相手がこまっているかどうかなんて、関係がないのである。
この相手がこまっているかどうか、ということがまったくわからないという部分が、修正できないのだ。
こっちが、どれだけ言っても、きちがい兄貴側の(この)感覚やきちがい親父側の(この)感覚が、影響をうけない。頭にセットされていることで、これが、不動なのだ。
もう、しくみとして、相手の言っていることは、無視するということになっているわけで、どれだけ言っても、まったくなにもわからない状態になっている。
相手が自分のやっていることでこまっているということよりも、自分のほんのちょっとの気持ちをとおすほうが、一兆倍ぐらい重要なのである。自分のなかでスイッチが入ってやっていることを、なんだろうが、やりきるということが、一兆倍ぐらい大切なのである。
ほんとうに……「相手こまっているということ」は、ゼロなんだよ。どれだけ言われたって、一(いち)も、はいってこない状態なんだよ。
どれだけ相手が言っても、自分の頭の中にはいってこない。親父の頭には、はいってこないし、きちがい兄貴の頭にも、はいってこない。
ともかく、嘘だろうがなんだろうが、かならず、基本的なことを否定して、その場を押し切るということになってしまう。しかも、それをやったあとは、ほんとうに関係がない人になってしまうのだ。
これがこまるんだよ。
主体者だから、関係がある。主体者というのは、その問題行為をやっている本人だということだ。意地をはって、やっている人間だから、関係がある。やっている人間だから、やっていることに関係がある。ところが、関係があるということ自体がまったくわかってないのである。
これが、まったくわからないやつらなのである。きちがい兄貴も、きちがい親父と頭の構造がおなじなのである。だから、きちがい親父のネズミ対策工事に対する態度というのは、きちがい兄貴のヘビメタ騒音に対する態度とまったくおなじだ。これは、重要ことなんだよ。そして、ほかの人の家では、こういうことがないんだよ。どうしてかというと、ほかの人の家族は、きちがい兄貴やきちがい親父の脳みそを搭載した人物ではないからだ。
* * *
話を、きちがい親父のネズミにもどすことにする。
親父に「親父が入院したら、俺がネズミを片づけることになるから、工事をしよう」と言っても、「入院しないよぉ!!!入院しないよぉ!!!入院しないよぉ!!!入院しないよぉ!!!」と、顔を真っ赤にして、どなって、認めないのである。
これ、親父が、一度、脳梗塞で入院したあとなんだぞ。
だから、「親父は脳梗塞で入院しただろ。入院することだってある」と親父に俺が言ったら、親父が「入院しないよぉ!!!入院しないよぉ!!!入院しないよぉ!!!入院しないよぉ!!!」と発狂して怒鳴るのだ。
「死ぬことだってあるだろ。親父が死んだら、俺がネズミを片づけなければならなくなるんだぞ」と親父に俺が言ったら、親父が「死なないよぉぉ!!!死なないよぉぉ!!!死なないよぉぉ!!!死なないよぉぉ!!!」と顔を真っ赤にして絶叫するのだ。「死んでほしいのか」と親父が言ったので、「死んでほしくはないけどさ……人間は死ぬだろ」と俺が親父に言ったら、親父が「死なないよぉぉ!!!死なないよぉぉ!!!死なないよぉぉ!!!死なないよぉぉ!!!」と、また、顔を真っ赤にして絶叫したのだ。
でっ、さらにいやなのは、こういうやり取りをしたということが、ゼロになってしまうことだ。これ、自分が絶叫して否定したということが、自分のなかで、なくなってしまう。だから、「あのとき、絶叫してこういうふうに言っただろ」とぼくがきちがい親父に、未来のある時点で言ったとすると、未来のある時点のきちがい親父は「言ってないよ!!言ってないよ!!言ってないよ!!言ってないよ!!」顔を真っ赤にして絶叫することになるのだ。この「死なないよ」ときちがい親父が顔を真っ赤にして絶叫していた時間から見て、未来ということだ。実際に、こういうことが、おこった。「死なないよ」ときちがい親父が顔を真っ赤にして絶叫していたときから見れば、未来の話だけど、いまのぼくから見れば、過去の話だ。過去において、実際に、きちがい親父が言ってないよ!!言ってないよ!!言ってないよ!!言ってないよ!!」顔を真っ赤にして絶叫した。
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で、喉元をすぎたら、本人は、忘れてしまう。基本的なことを否定して絶叫したという事実が、なくなってしまう。基本的なことを否定して絶叫したという事実が、本人の頭のなかから消えてしまう。
どのくらいの時期になくなってしまうのかというと、絶叫した直後になくなってしまう。押し通してしまえば、本人は、ケロッとしている状態になる。相手が言っていることを、全否定して、全力で否定したという事実が、まるでなかったことのようになってしまう。
第一段階(第一期)で「入院しない」「死なない」と(基本的な事実を否定して)絶叫した。第二段階(第二期)では、「『入院しない』『死なない』と基本的な事実を否定して絶叫した」という(基本的な事実を否定して)絶叫するのである。
だから、基本的には、ぼくが、親父が入院したあと、ネズミ処理をしなければならなくなる。きちがい親父が死んだあと、ネズミ処理をしなければならなくなる。ネズミ処理を、おしつけられることになる。
親父は、そういうことを、おしつけることに、成功したわけだ。
基本的な事実を、否定して認めないという態度は、腹がたつものなのである。相手が基本的な事実を否定して認めないということは、相手にやられたほうは、頭にくることなのである。
これ自体が、こっち側の心の負担になるものなのである。腹がたつことなのである。きちがい親父の基本的な態度が、こっちには、こころの負担になるものなのである。やったきちがい親父のほうは、ケロッと忘れてしまって、まったく心の負担になっていないのである。
ところで、これは、きちがい親父タイプの父親が、いない家では、経験しないことなのである。けど、きちがい親父タイプの父親がいない家でも、父親との対立はある。だから、父親との対立というところまで抽象化すれば、確かに、ぼく以外の人も、父親との対立を経験したことになる。
けど、きちがい親父タイプの父親がいない家の、親父との対立が、(うちの)きちがい親父との対立とおなじなのかというと、ちがうのである。ほかの人の父親は、うちの父親と違って、頭が正常なので、基本的な事実を否定して反対語を絶叫して、自分がやりたいことを押し通して、自分がやりたいことを押し通したという事実や、基本的な事実を否定して反対語を絶叫したという事実を、忘れてしまうということはない。これ、ただ単に、普通に忘れたのではなくて、一〇〇%、いつも、ケロッと、忘れてしまうのである。だから、おなじことが繰り返されるのである。説明では、第二期までしか説明してないけど、第三期、第四期がある。無限に、こういうことが、繰り返されてしまうのである。何十年も一緒に住んでいれば、何十万回もこういうことが積み重なってしまうのである。十数年で十数万回、いま説明したようなことが繰り返されてしまうのである。それは、普通の父親・子供関係ではないのである。普通の父親と普通の子どもの間にある対立関係ではないのである。
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ほかの人は、こういうプロセスをへて、ネズミ処理をおしつけられたりしない。普通の父親は、ネズミがはいってきたあとに、ネズミの処理をしても、ネズミの糞が増えてしまうということを、否定しない。認める。自分が入院したら、(自分の子どもが)ネズミの処理をしなければならなくなるということを、認める。こういう基本的な部分で、くるっていない。ぼくの記憶では、ぼくが幼稚園生になるまえから、こういうことをしているのだ。きちがい親父に絡むとなると、かならずこういうことが発生するのだ。今回説明したトラブルのタイプは、ほかのことでも発生していることなのである。何千前回、何万回と発生していることなのである。だから、親父が、認知症になったから、忘れるということではないのだ。これ、認知症の健忘に見えるのである。単純に言えば、自分がやったことを覚えていない。認知症なら、親父さんの場合も、認知症の健忘でそういうふうになっていたのだろう……ということになってしまう。これは、まちがった解釈だ。けど、よその人は、まったくわかってないので、そういう間違った解釈をしてしまう。これだって、きちがい親父にやられた上に、よそのやつに、誤解をされるのだから、おもしろくない経験だ。不愉快な経験だ。
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実際の行為や実際の出来事が重要なのだよ。実際の行為や実際の出来事……に……関係なく、「楽しい楽しい」と言えば楽しくなるかいえば、楽しくならない。けど、妄想で、「言えば言ったことが現実化する」「言えば、言った通りになる」と考えているやつは、「どんなじょうたいでも、楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言う。これも、たしょうは、相手の感情を無視している。これも、たしょうは、相手の状態を無視している。そして、本人は、具体的で現実的な理由があるときは、具体的で現実的な理由に反応して、生きているのである。ようするに、本人にとって、不愉快な出来事が起こったら、不愉快な出来事が起こったと、解釈するのである。そして、不愉快な出来事が起こった直後は「楽しい楽しい」と言っても、楽しくならないのである。
ところが、妄想的な人は、この事実を無視してしまうのである。ほんとうは、自分だって、腹がたつ出来事が発生した直後に「楽しい楽しい」と言ったって、楽しくならないのに、楽しくなると思っているのだ。「時間がたてば楽しくなる」……。「楽しい楽しい」と言ったのに、楽しくならなかったということが重要なんだよ。普段、自分がどういう気持で、どういう反応をしているのか、こいつらも無視しているところがある。
これを言うと、言霊主義者はおこるけど、なんかちょっとだけ、似ているところがあるんだよなぁ。もちろん、言霊主義者は普通の人なので、家の中で、親父や兄貴のようにふるまうということはない。そこまではおかしくない。きちがいというのは、普通の人がもっている感情を強く持っているだけなんだというような言い方がある。だれだって、そういう考えの癖があるのだけど、きちがいは、そういう考えの癖を、普通の人よりもずっとずっとずっとずっと、強く持っている「だけなんだ」という説がある。この説は、ぼくにとって不愉快な説なのだけど、それについては、かつて、説明した。これは、腹がたつ説だ。
けど、言霊主義者の自分勝手なところを一兆倍、一京倍すると、きちがい親父やきちがい兄貴に似てくるところもあるんじゃないかと思っている。 言霊主義者は、きちがい親父やきちがい兄貴とおなじだといっているわけではないのである。事実、ちがう。事実、普通の言霊主義者は、家族に対して、きちがい親父やきちがい兄貴のような態度をとっていない。普通の態度で(家族に)接している。
だから、おなじではない。
何回も言うけど、おなじではない。そして、何回も言うけど、きちがい兄貴が(うちのなかで)やることや、きちがい親父が(うちのなかで)やることを、言霊主義者は(うちのなかで)やっていない。やったことがないだろう。どうしてかというと、普通の言霊主義者脳みその構造と、きちがい親父の脳みその構造がちがうからだ。普通の言霊主義の者脳みその構造と、きちがい兄貴の脳みその構造がちがうからだ。なので、普通の言霊主義者は、うちのきちがい親父の行動や、うちのきちがい兄貴の行動について、誤解をする。
普通の言霊主義者は、実際になされたことに関しては、無関心なのである。実際に発生したことについては、無関心なのである。自分のことではなくて、相手のことであれば、実際に発生したことは、自分にとって、意味がないことだから、感心をもてないのである。相手における重要度というものを、ごく普通に無視してしまう。言霊主義者は、相手の出来事の重要さを、相手の立場に立って考えることが苦手なのだ。じつは、言霊主義者は、相手における「実際に起こった出来事の意味」を過小評価してしまう。そんなこと……は、重要ではないのである。実際に起こった出来事よりも、言ったか言わないかということが、重要なことなのである。
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普通の言霊主義者と書いたり、言霊主義者と書いたりしているけど、おなじ意味だ。
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言霊主義者の態度と、六割の普通人の態度は、だいたいおなじだ。きちがいヘビメタ騒音のことをぼくが説明したとき、「そんなのは関係がない」と言うのである。実際に起こった出来事を軽視するのである。「そんなのは関係がないから、働ける」と思ってしまう。「ヘビメタ騒音なんて、そんなのは(働けない理由に)ならない」と思ってしまう。
こいつらは、実際に、きちがい兄貴のような人間と暮らしたことがないから、きちがいヘビメタ騒音を避けることができだけなのに、まるで自分の能力のように言うのだ。自分は、平気だと思って、影響をうけた俺(エイリ)をバカにしてくる。「影響なんてない」「そんなのはあまえだ」と言ってくる。 こいつらは、ほんとうにまるでわかってない。そして、考え違いをしている。影響がないわけないだろ。実際にやられなかったから、影響を想像できないだけだろ。影響のでかさを想像できないだけだろ。俺が説明しても、影響のでかさが理解できないだけだろ。こいつらがみんな、「自分なら影響をうけない」と思って、むりなことを言ってくる。えらそうに……。
「の」の重複は指摘しなくてもいいよ。