あの音のでかさで、あの至近距離で、「わからずや」が、ガンガン鳴らすわけだよ。毎日鳴らすわけだよ。鳴らしているとき、どれだけこっちが「鳴らさないでくれ!!!」と言っても、鳴らし続けるわけだよ。
それも、「申し訳ないけど、どうしても鳴らさなきゃならない理由があるから、鳴らさせてくれ」というような態度ではなくて……「鳴らさないでくれ」と言われたら、おこって鳴らすような態度で鳴らすわけだよ。
これが、どういうことかわかるか?
工事で鳴っているわけではないのだ。どうしても必要な作業で音が出るわけではないのだ。きちがい兄貴が、きちがい的にでかい音で鳴らしたいから、でかい音で鳴らしている。きちがい兄貴が、満足できる、きちがい的にでかい音で鳴らしているから、でかい音で鳴っている。
基本、理由は、きちがい兄貴のなかにある気持ちだけなのだ。
ほんとうに、まさしく、気持ちだけ。
そして、鳴らされると、日常の生活に支障が出るのだ。
日常生活に支障が出るという高度なことがわからないのはともかくとして、あれだけでかい音で鳴らしていたら、でかい音で鳴らしているということが、わかって当然なのだ。
どれだけ無視したくても、わかってしまう。
自分の感覚は、否定できないものなんだよ。普通は……。
その普通や、普通の概念を、きちがい家族が、ガン無視して、鳴らしている。
これが、きちがい空間でなくてなんだ。
きちがいが鳴らす音の攻撃を常にうけているのである。ほかの人は、きちがいが鳴らす音の攻撃を常にうけている状態ではない。
だから、ちがう。
これを、「俺だって騒音ぐらいあった」と抽象化、一般化、同質化、同量化して、理解してしまうこと自体がおかしい。おかしいけど、こいつらはこいつらで、きちがい兄貴とおなじように、「ちがい」を無視して、「俺だって騒音ぐらいあった」と言い張るのだ。
「俺だって騒音ぐらいあった」……というのは、ほんとうのことなのだろう。
けど、ちがう。
そして、こいつらがほんとうに言いたいことは、「俺だって、騒音ぐらいあった」ということではなくて、「だから、できないというのは、いいわけだ」ということなのだ。
「だから、できないというのは、いいわけだ」ということのほうが言いたいわけ。
ようするに、きちがい家族によるきちがいヘビメタ騒音なんて「できない理由にならないんだよ」ということを、こいつらは、言いたいわけだ。
どうして、こいつらが、こういうことを言えるのかというと、実際には、きちがい家族による騒音攻撃をうけてないからだ。
ようするに、きちがい家族と一緒に暮らしていない状態で、きちがい家族が鳴らす騒音というものを知らないから、その「苛烈さ」と「どうしようもなさ」がわからずに、「そんなのは、できない理由にならないんだよ」と言っているのだ。
こいつらもこいつらで、抽象化、一般化、同質化、同量化して、きちがい兄貴の特殊性を無視してしまうのだ。
きちがい兄貴のようなやつが、そんなにいるはずがない。きちがい兄貴のような脳みその構造?で、自分の意地をとおしてしまうやつなんて、そんなにいるはずがない。
だから、ほんとうは、おなじことを経験してない。
同レベルのことを経験してないのだ。
ところが、抽象化、一般化、同質化、同量化してしまうから、俺だって同レベルのことを経験したということにして、俺に、むりなことを言ってくるのだ。けど、(こいつらは)むりなことを言っているというつもりがないのだ。
こういうところで、なんか、きちがい兄貴の無視構造と似てくるものがあるのだ。
こいつらが鳴らしたわけじゃない。それはわかる。
けど、抽象化、一般化、同質化、同量化が、不適切なのだ。しかも、不適切なことをやっているという自覚がないんだよな。
だから、こういう、一般人の「特質」と、きちがい兄貴の「きちがい的な特質」がセットなんだよ。
抽象化、一般化、同質化、同量化して……「俺だって、苦労しているけど、できるはずだ」という意見をもつということは、うちのきちがい兄貴の特殊性を無視することなのである。
きちがい的な感覚の家族がが鳴らしている音を聞かされるという「経験の特殊性」を無視することなのである。
きちがい兄貴が、きちがい兄貴の脳みそにしたがって、普通の感覚ではない感覚で、きちがい兄貴側の意地をとおしてしまうと……そういう「異常なやり方で」とおしてしまうと……普通の感覚の持ち主が、「ぼくの身の上に起こったこと」について、自動的に、誤解をしてしまうのである。
普通の感覚では、きちがい兄貴の態度と行為は、理解できない。
だから、普通の感覚の持ち主が、ごく自然に、自動的に、誤解をしてしまう。きちがい兄貴の態度と行動には、普通の感覚の持ち主が誤解をしてしまということまで、含まれている。
どうしてかというと、ぼくが、普通の感覚の持ち主と、切っても切れない関係で暮らしているからだ。実際には、学校に行けば、普通の感覚の持ち主とあわないということはない。先生も含めて、普通の感覚の持ち主ばかりなのである。
普通の感覚の持ち主は、抽象化、一般化、同質化、同量化して理解するので、きちがい兄貴の特集性を理解しない。特殊なきちがい兄貴がもたらす、特殊な状況につい理解しない。特殊なきちがい兄貴がもたらす、特殊な影響について、理解しない。
無視する。
無視して、自分の意見を言う。自分の意見は、虫の上に成り立つ意見なのである。だから、ぼくが、必然的に、こいつらから、侮辱されたことになるのである。
不愉快なんだよ。
こういうこと自体が不愉快だ。
そして、家に帰れば、きちがいが、きちがいモードで、四六時中鳴らしているのである。これは、つねに、騒音につきまとわれるということだ。思考を破壊してしまうような騒音につきまとわれるということだ。無視できるわけがないだろ。トイレに入っていたって、風呂に入っていたって、きちがいの音が、大音響で攻めてくるのだ。
こんな状態でくらしていいわけがない。
それが、「俺だって騒音ぐらいある」と表現されるような騒音とおなじであるはずがない。いっしょくたにされていいわけがない。同一視されていいわけがない。
ちがうんだよ。