条件の悪さと、意識について考えてみよう。たとえば、一〇〇段階のグレードを考えることにする。一段階にひとり人がいるとする。一〇〇段目の人が、もっとも、条件がいい人だ。一段階目の人が、もっとも、条件が悪い人だ。
二段階目の人は、一段階目の人より、条件がいいけど、三段階目以上の人にくらべると、条件が悪いということになる。たとえば、「努力をすれば成功する」ということについて考えてみよう。ほんとうは、一〇〇段の「条件の差」があるのだけど、みんながみんな、条件の差については無視するような発言をするとする。
たとえば、「努力をすれば成功する」という文も、条件に関係なく、努力をすれば成功するということになる。
条件は、あるのだけど、思考をする場合は、条件は、ないことになっているのだ。条件は、成功するかどうかに、影響をあたえないのである。
けど、ほんとうは、条件こそが、相当に、成功するかどうかということに影響をあたえている。
いままで、家の格差、親の格差ということについて語ってきたけど、今回は、本人の才能の格差というものについて考えてみることにする。
本人における「才能の格差」というのも、じつは、「家の格差」とおなじことが成り立ってしまう。
一〇〇段階目の人は、たいして努力をしなくても、家の格差、親の格差がおなじであれば、成功してしまうのである。
いっぽう、一段階目の人は、どれだけ努力をしても、成功しにくいということになる。
けど、「条件の格差なんてない」ということになっているので、理論的な必然として「努力をしなかったのだ」ということになってしまうのである。
一段階目の人が成功しなかった場合、ほかの人は、一段階目の人に向かって、「努力不足だ」と言うことができるようになっている。
けど、ほんとうに努力不足なのだろうか?
もちろん、努力不足である場合もあるけど、その人が、その人にとって最大限の努力をしても、成功しない場合もある。
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問題なのは、二段階目の人は一段階目の人に説教をできるということだ。これ、下に下に、圧力がかかるようになっているのである。
ほんとうは、条件によっては、どれだけがんばっても成功しないのに、条件を無視して、「努力をすれば成功する」と言うことになっている。
だから、もし、成功しないのであれば、本人の努力不足が原因だということになり、他者が、「努力不足だから成功しないのだ」と言ってくるということになる。
本人(言われた人)が、「条件が悪かった」と言えば、「そんなのは、あまえだ」「そんなのはいいわけだ」と言えるようになっているのである。
この場合、言っているほうが、ストレスを発散して、言われたほうが、ストレスをため込むということになる。
この、下へ下への圧力もセットなのである。ようするに、下にはえらそうなことを言っていいということや、「そんなのは、あまえだ」「そんなのはいいわけだ」だと、条件に関係なく、無条件に判断していいということになっているということが、「条件を無視していい」文化をつくりあげているのである。
下に対して、マウントをとっていいというのは、むしろ、常識なのである。みんなが、文化にしたがって、そうするようになっているのである。
「マウント合戦」で、負けるのは、だいたい条件が悪い人だ。条件が悪いと、成功できないのである。
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「成功するということは、どういうことなのか」ということについて、疑問をもつ人もいるだろう。
こんなのは、本人が、「成功した」と言えば、成功したことになるようなことでしかない。定義なんて不可能だ。
だから、この意味でも、じつは「努力をすれば成功する」というのは、なんにも、法則性がないことだということが、わかる。よくわかる。
だって、成功するということの定義ができないのだから、なにか確からしいことは、なにも言えないのである。成功するということの定義があいまいなら、当然、法則性があるようなことをいうことはできない。そもそも、なにか、確かであることは、言えないのだ。
なにも、確からしいことを言ってないのに、法則性があるなんてことは言えない。
けど、一般人は、社会的な成功を成功のイメージとしてとらえているので、社会的な成功が成功なのだということになることが多いだろう。
けど、社会的な成功にしても、本人が「成功だ」とか「成功ではない」ということを決めてしまうところがあるので、成功を社会的な成功にかぎったとしても、なにか確からしいことは、なにも言っていないということになる。
ようするに、個々人が、それぞれ、「社会的な成功」というものを考えているわけだから、個々人が思い浮かべる「社会的な成功」がその個人においてだけ「社会的な成功」の内容を構成するものになるのである。それは、個々人が勝手に思い浮かべていることなのであるから、統一的に「これが、社会的な成功だ」と決めつけることができない。
まあ、定義することができないということになる。
定義があいまいなので、個々人の頭の中にあるイメージにしたがって「ほかの人はどう考えているかわからないけど、自分は社会的に成功したと思っている」と言うことができるのだ。
個々人が勝手に「社会的な成功のイメージ」を頭中に作り上げて、「自分は社会的に成功した」と言えるということが、逆に逃げ道をあたえている。つまり、逃げ道があるから、あたかも、法則性があるようなイメージを作り上げることができるのだ。
しかし、しょせんは、個々人が勝手に「社会的な成功」のイメージを頭に作り上げているだけなので、もちろん、法則性なんてない。たとえば、「努力をすれば社会的に成功する」と言うことを言ったとしよう。
その場合、「社会的に成功する」ということの定義がない。実際にどうなれば、「社会的に成功」したことになるのかという定義がないのだ。まあ、個人が個人の頭の中で勝手に定義した定義はあるかもしれない。
けど、統一的な定義がない。一意に決まらないのだ。努力をするということも、定義できず、社会的に成功するということも定義できないのであれば、法則性がある分などは、構成することができないのだ。
一意に決まらない内容が右辺にあり、一意に決まらない内容が左辺にある。こんな状態で、法則性について語れるはずがないだろ。
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そもそも、問題なのは、ほとんどの人が、条件を無視して、相手にマウントをとろうとするところなのである。そして、もっと問題なのは、条件を無視して言っているということについて、言っている本人が無頓着なことだ。条件は、重要なのに、無視することが当たり前のことになっている。これが、問題なのである。
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条件がちがうと、適応度がちがってくる。難なく適応できる人と、どれだけがんばっても適応できない人が出てくる。だから、実質的には、やはり、条件があり、条件が格差をうみだしているのである。
しかし、「認めない」ようになっているのだ。成功しないということは、努力不足だということになってしまうのである。
適応というのは、まあ、いろいろとあるけど、とりあえず、仕事に適応するということにしておこう。仕事ではなくて、仕事場に適応するといこうとでもいい。
たとえば脳の癖があり、仕事に適応できない人がいたとする。努力では、脳の癖をかえられないのだ。あたかも、努力をすれば適応できるということになっているのだけど、仕事というものに対する適応度も、個人によってちがう。
脳みその構造も、条件の一つなのだ。
こんなにでかい条件を、やすやすと無視して、「努力をすれば、適応できる」と言うのは、どう考えても、言いすぎだ。
ところが、社会のなかの多くの人が「努力をすれば適応できる」ということを信じていると、「適応できないのであれば、適応しようと努力をしないやつが悪いのだ」ということになってしまうのである。
ところが、努力をしても、適応できないということが発生する。だから、脳みその構造という条件を無視して、「努力をすれば適応できる」と決めつけてしまうのは、よくないことなのである。
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みんながおなじ適応度をもっているわけではないのに、努力をすれば適応できるということになっていると、条件によって適応度が低い人は、居心地が悪くなるのである。
つまり、「努力不足だ」とマウントしてくるやつが、次から次へとわきだして、不愉快なことを言ってくるということになる。どうして、次から次へとわきだすかというと、たいていの人が「努力をすれば適応できる」と考えているからだ。
そして、たしかに、多くの人が、適応するために、努力をしているのである。そして、適応するための努力が、苦労している感じをうみだすのであれば、「自分だって苦労している」ということを言いやすい環境になる。
この場合、条件を無視しているので「相手の苦労も自分の苦労もおなじレベルの苦労だ」と考えてしまうのである。
しかし、脳みその構造レベルで適応度がちがうのであれば、苦労は、おなじではない。難なく適応できる人と、どうしても適応できない人の苦労が、おなじであるはずがないのだ。
だから、「努力をすれば適応できる」という「キレイゴト」が逆に、どうしても、適応できない人の苦労感を増大させてしまっているところがある。
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少数の例外をのぞけば、社会全体が「努力をすれば適応できる」と思っている人たちで構成されているなら、脳みその構造レベルで適応できない人は、どこに行っても、文句を言われ、説教をされるということになるのである。
脳みその構造というのは「条件」だろ。条件じゃないのか?
努力で脳みその構造を自由に(意図したとおりにかえられるなら)だれも苦労はしないのではないか。努力をしても、かえられないから、どこに行っても、文句を言われ、説教をされる状態になり、不愉快な気持になるのではないか。
そして、不愉快な気持をもったということについても、「未熟だ」と言われるようになっているのである。どうしてかというと、発言者のなかでは「努力をすれば適応できるのは、あたりまえのことだから、当たり前のことを言われて不愉快な気持になるのは、未熟だ」ということになるのである。発言者の頭のなかではそうなる。多くの発言者のなかでは、「正しいことを言われたのに、不満になっている人は、未熟だから、不満になっている」ということになる。
「努力をすれば適応できる」という考え方自体がまちがっているということは、考えない。指摘されたって、目下の人から指摘されたのであれば、頭にきて「努力をしても適応できない場合があるかもしれない」とは考えないのだ。
まあ、考える人も、なにはいるかもしれないけど、多くの人は考えない。
そして、自分自身が「条件を無視している」ということを指摘された場合も、腹をたてて「条件なんて関係がない」と言うだろう。「そんなのはあまえだ」「そんなのは、いいわけだ」と言うだろう。
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脳みその構造という条件は関係なく、努力という条件だけが、適応できるかどうかを決めていると考えている人がいるとする。その人にとっては、適応できないある人は、だれもがしている努力をしてないないということになってしまうのである。
なので、安心してせめることができる。
なので、安心してマウントをとることができるのだ。
左辺に一意に決まらない言葉が書いてあり、右辺に一意に決まらない言葉が書いてあるのに、法則性があることなんて言えるわけがない。ところが、そういう「ミス」をおかしてしまっている。基本的にまちがっていることなのだけど、あたかも、正しいこととして流通してしまうのである。
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そうなると、条件が悪い人が「壁」を感じるようになるのである。この壁というのは、雰囲気としての壁だ。多くの人が、「おなじことを言って」自分をせめてくると感じることが多くなるのである。実際に、多くなるので、そう思うわけだ。そういう出来事が多く発生すると、人は「壁」を感じるのだ。他者と自分の間にある「壁」だ。
これは、幼稚さとは関係がない。むしろ、常識にあわせて、マウントをとろうとする人のほうが幼稚なのではないか。もちろん、言われるほうが、実際に幼稚である場合は、ある。あるけど、一〇〇%の確率で言われるほうが幼稚だということはない。どうしてかというと、言っているほうがまちがった理由で、そのように言っているからだ。
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最初に言いたかったことが、ぼけてしまったので、ちょっと書き足しておく。 二段階目の人は、下から二番目なので、じゅうぶんに『下』である人だ。ところが、じゅうぶんに『下』である人が、努力をすれば成功すると思っている状態ができあがるのだ。
そうなると、ほんとうは、条件が悪いから、下から二番目なのに、自分の努力が足りないから、下から二番目なのだと思うようになるのである。狡猾な蛇の目的は、それだ。
いかにも、明るいことを言っているのだけど、実際には、条件において『下』である人がくるしむように、最初からできているのである。いかにも、希望がもてることを言うのだけど、条件において『下』である人がくるしむように、最初からできているのである。
そして、下から三番目の人も、下から四番目の人も、下から二番目の人と、おなじような立場なのだけど、下から二番目の人には「努力をすれば適応できる」と説教をするようになるのである。
これも、最初から、目的のなかに織り込まれていることだ。下から三番目の人も、下から四番目の人が、下から二番目の人に「努力をすれば適応できる」という考え方が正しいということを、言うのである。
だから、『下』のほうの人間同士で、首をしめあっているという状態になる。
多少のちがいしかないのに、多少のちがいがあれば、途端に説教をし始めて、首をしめるのである。自分よりも『下』である人に説教をして、自分よりも『下』である人の首をしめるのである。
そして、それが正しい行為だと思うようになるのである。狡猾な蛇が求めている状態というのは、こういう状態だ。
「いかにも、明るいことを言っているのだけど、実際には、条件において『下』である人がくるしむように、最初からできているのである」と書いたけど、「明るいことを思えば明るいことが起こる」というような思霊的なことも、実際には、条件が『下』である人をくるしめるようになる。これ、「明るいことを言っているのだから、いいことを言っている」と思うかもしれないけど、実際には、今まで説明したような悪い状態をひきおこす考え方なのだ。
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これは、どういうことかというと、『下』の人たちが、支配者の視点で、自分よりも『下』である人を見るということになるのである。全体的には、『下』に入る人のほとんどが、自自分より『下』の人に対して、支配者にとっては、都合がいいことを、主張するようになるのである。
まあ、ちょっとズレた記述になるけど、会社のなかで下から二番目の人が、会社のなかで下から一番目の人に、経営者目線で、いろいろな無理なことをおしつけるようになる……と記述すると、ぼくが言いたいことが、わかってくれるかもしれない。
会社のなかで下から二番目なのだから、経営者じゃないのはあきらかだ。その人が、経営者目線で、経営者にとって都合のいいことを、「自分より下の人に」おしつけてくれるようになるのだ。経営者にとっては、都合がいいことだ。
こういうことが、社会全体で成り立っているのである。