きちがい兄貴が、あまりにも、常識はずれなモードで、常識はずれなことをするから、普通の常識的な人たちが、「そんなのは嘘だ」「そんなことはない」「そんな人はいない」と誤解をしてしまう。
けど、ほんとうなんだよね。きちがい兄貴は、きちがい的な意地で、すべての時間を使って、自分が満足できるものすごくでかい音で思いっきり鳴らしているけど、ほんとうに、「そのつもりがない」のである。
これ、ずっと毎日、毎時間、毎分毎秒、ずっと、しずかにしてやったつもりでいるのだ。
がまんして、しずかにしてやるということがなかったのだけど、本人のなかでは、ずっと鳴らさなかったのとおなじぐらいの感覚なのである。
まったく鳴らしてないから、弟に影響をあたえていないと思っている状態で、鳴らすのである。弟に影響をあたえているとは思ってない状態で、どれだけ言われても、自分が満足できる、きちがい的でかい音で、鳴らすことにこだわってこだわって、鳴らしているのである。
兄貴にとって「空白」なんだよ。
そして、普通の家族に囲まれてすごしている普通の人には、きちがい兄貴のような人間がいるということが、わからない。わからない。わからないから、普通の人たちにっても、「空白」なのである。
「そんなことはない」「そんな人はいない」と思っている人は、ぼくが抱えているハンディがわからない。そりゃ、「ない」と思っているのだから、ハンディもないと思ってしまうだろ。
これが、きちがい家族のしくみなんだよ。まわりの人……常識的な人……普通の人に、絶対に理解されないことをする。絶対に理解されないモードで、絶対に理解されないことをする。
だから、普通の人は、「ない」と思ってしまう。空白なのである。
影響が空白。
ほかの人は、信じないけど、きちがい兄貴は、ほんとうに関係がない普通の人たちよりも、自分は関係がないと思っているのだ。弟にあたえる影響について、ほんとうに、まったく鳴らしてないときのように「関係がない」と思っているのである。
きちがい兄貴も、まっしろな「空白」なんだよ。
これ、普通の人が理解できないから「空白」だとというのはわかるけど、きちがい兄貴が真犯人なのに……きちがい兄貴が張本人なのに、まったくわかってないというのが、信じられないわけだ。起きているときに、自分が意地になってやっていることが、まったくわかってない……こんなことがあるはずがないと(普通の人は)感じてしまう。
いっぽう、うちの兄貴は普通の人よりも、自分がやっている行為について「空白」なのである。
ほんとうに、まったくなにも鳴らしてないときおなじ感覚が成り立っているのである。
だから、やってないのとおなじ感覚で、きちがい的な意地で、一秒だってゆずらずに、自分が満足できる音で鳴らすのである。
きちがい兄貴にとって「自分が満足できる音」というのが、普通の人にはわからないほど、きちがい的でかい音なのである。
だから、きちがい兄貴のきちがい騒音がはじまってしまった日から、こっちは、地獄なのである。きちがい兄貴のきちがい行為にさらされてくるしくて地獄だし、よその人の無理解にさらされて、なんとも言えない気持ちになって地獄なのだ。
うちの場合、真横が幼稚園だから……ぼくは、普通の人よりも、騒音が多い環境でくらしているのである。きちがい兄貴のきちがい騒音がはじまるまでだって、普通の人が「騒音だ」と感じる音を、普通の日よりも、長時間、経験して生きてきたのである。
きちがい兄貴のヘビメタ騒音がはじまるまえだって、普通の人の騒音環境よりは、騒音がある状態でくらしてきたのである。
けど、うちきちがい兄貴の騒音は、普通の人が普通に経験する騒音とは、まったくちがう騒音なのである。まったく異質の、まったく無視できない、きちがい的な騒音なのである。
あの音を、この至近距離で、ずっとガンガン、キーキー鳴らされ続けるということが、どれだけつらいことなのかということについて、普通の人は、わかってない。工事の音とか、普通の人のステレオ騒音とか、そういう騒音じゃないのである。
これがわかってないやつが、俺に対して、えらそうなことを言う。
自分が経験してないから影響のでかさがわかってないのに、自分だったら影響をうけないという前提で、くそを言ってくる。ほんとうに腹がたつ。こいつらは、騒音の影響を無視しているという点では、きちがい兄貴とおなじなのである。
こいつらの態度と、きちがい兄貴の態度は、かぶるところがある。
そして、こいつらは、ほんとうは、経験がないから、まちがっているのだけなのに……勘違いしているだけなのに……勘違いしているということを、認めないのだ。
「俺だって騒音ぐらいあった」と言って、腹をたてる。……こいつらが、悪質。
……普通の人なのだけど、こいつらが、悪党で悪質。
けど、きちがい兄貴場、こいつらがわからないようなことを、やってしまうから、こういう、あらそいがしょうじる。こういうズレがしょうじる。このズレは回収されない。
「相手」は、「自分だったら、平気だ」「自分だって騒音ぐらいあった」と思ったままなのである。
たぶん、一生涯、そうだ。そいつにとって、俺のヘビメタ騒音のことなんて、たいしたことじゃないからな。勘違いしたままだ。こいつらは、こいつらで、自分の見積もりがまちがっているということを言われると、腹をたてるのだ。
「そんなの、なんだ!」という気持になる。「なんだ!そんなのぉ!!」という気持になる。
けど、こいつらは、経験してないし、影響について勘違いをしている。こいつらはこいつらで、きちがい兄貴の態度、音のでかさ、至近距離であることなどを、理解しない。説明したって、「異質な騒音だ」「自分が経験したことがない騒音だ」ということを認めない。自分が経験した「普通の騒音」「どこにでもある騒音」だと思っている。
けど、ちがうんだよ。生活的に、至近距離で、あの音を聞かされ続けるということは、ちがう意味をもつようになるんだよ。「騒音」と言えば騒音なのだけど、生活的に、普通の騒音とは、まったくちがう意味合いをもつようになるんだよ。
ひとつは、きちがい兄貴の態度からしょうじていることだ。普通の人には、きちがい兄貴のような態度の家族が、そもそも、いないのである。だから、家族から、うちのきちがい兄貴がやったような騒音攻撃をうけるということがないのである。だから、ない。だから、経験してないことなのである。
「毎日続いたらどうなるか?」ということが、まったくわかってないやつらなのだ。音のでかさも重要だけど、音源が至近距離にあるということも重要だけど、きちがい家族が、「毎日」鳴らしている音だということが、生活全体に影響をあたえるのである。きちがい家族が鳴らしている音だということが、毎日の生活に影響をあたえるのである。
だから、毎日られたことがない人は、わからない。音のでかさがおなじでも、毎日、やられてない人にはわからない。普通の人の「騒音体験」とは、ちがう「騒音体験」なのである。そして、期間が長すぎる。音源が、きちがい家族のスピーカーだというところもでかい。
けど、きちがい家族と一緒にすんだことがない人は、きちがい家族がどういう態度で、どういう感覚で鳴らしているかわからない。だから、その点だけでも、もう、まるでちがうのだ。もう、その点だけで、まるでちがう騒音だと言える。ちがうんだよ。
けど、「自分だって騒音ぐらいあった」と言う人は、認めない。自分だって騒音ぐらいあった」という人は、騒音でほんとうに宿題ができなくなるとか、騒音でほんとうに、朝起きることができなくなると言うことを、否定している。
騒音が鳴ってたって、毎日、遅刻をしないで通える」と思っているのだ。その人が経験した騒音というのが、そういうレベルの「普通の騒音」なんだよ。
ぼくとおなじレベルの、おなじ質のそうおんを経験した人が、そんなことを言えるわけがないだろ。
どうしてなら、もれなく、遅刻をしてしまう体(からだ)になっているからだ。自分の経験をとおして、ほんとうに、騒音が鳴っているから、勉強ができなくなるということを知っているからだ。おなじ質の騒音を経験していたら、「あの騒音のなかでは、勉強することができない」「勉強しようとするとマイナスの記憶がこびりついてしまう」「頭が、混乱して、勉強がまったくできない」ということを経験しているはずなんだよ。
その人が……そういう人が「どれだけ、騒音が鳴ってたって宿題ぐらいできる」とか「どれだけ、騒音が鳴ってたって勉強することができる」とかとは、言わない。言えなくなる。ところが、ぼくに対して「俺だって騒音ぐらいあった」と言った人は、みんな「どれだけ、騒音が鳴ってたって宿題ぐらいできる」とか「どれだけ、騒音が鳴ってたって勉強することができる」とかということを言っているのである。ぼくの経験の範囲でそうだ。
「俺だって騒音はあった」と言うけど……「あの騒音のなかでは、勉強することができない」「勉強しようとするとマイナスの記憶がこびりついてしまう」「頭が、混乱して、勉強がまったくできない」とは、思ってないのだ。
経験してないから、経験的にわかってない。経験的にわかってないから、「あの騒音のなかでは、勉強することができない」「勉強しようとするとマイナスの記憶がこびりついてしまう」「頭が、混乱して、勉強がまったくできない」とは思わず、「どんな騒音のなかでも、勉強することはできる」「どんな騒音のなかでも、勉強しようとするとマイナスの記憶がこびりついてしまうなんてことはない」「どんな騒音のなかでも、頭が混乱して、勉強がまったくできないと言うことはない」と思っているのである。
これ、実験的に、騒音下で、作業をするというのとはちがうんだよ。たとえば、ものすごくでかい音で、ヘビメタの音を聞かせて、計算作業をしてもらう実験をしたとする。けど、その人たちは、実験が終われば、そういう騒音環境からは、解放される。人生における、「意味合い」がちがうのである。
けど、騒音下で、作業をさせると、短時間なら、むしろ効率が上がった人がいる……という実験結果が出たとする。そうしたら、よくわかってないバカな人たちが、「どんな騒音が鳴っていても、騒音環境下で作業効率があがる人がいる」と思ってしまう。毎日、家族が鳴らしているのか……実験室で、短時間だけ……たとえば一〇分間だけ、騒音環境下で作業をしたのか……ぜんぜんちがう。
実験室から出れば、騒音から解放されてしまう。
ぜんぜんちがうだろ。
人生のなかで、ずっと毎日この騒音が続いてしまうのではないかと思って暮らしている五五〇〇日が、影響をあたえないはずがないのである。
ほんとうに、考え方が幼稚!!