ぼくは、ほかの人がやられたことがない騒音攻撃をうけたのだけど、ほかの人が、「自分だって同等の騒音攻撃をうけた」という前提で「それでもちゃんとやらなければだめじゃないか」と言うのである。
けど、同等の騒音攻撃なんてうけてない。同等の騒音なんて経験してない。特殊なきちがい家族と一緒に住んでいるわけではない。
特殊なきちがい家族と一緒に住んでいないから、特殊なきちがい家族がどういう感覚で、どういう行動をするかまったくわかってない。どういう感覚で、どういう行動をするまったくわかってないということは、ようするに、「やられてない」ということを意味しているのである。
いまでも、「そんなの、関係ない」「そんなの、影響ない」「ちゃんとやらなきゃだめだろ」「俺だってつらい」「俺だって、騒音ぐらいあった」と言ったやつを、なぐってやりたい気持ちになる。
同等の騒音攻撃をうけてないから……同等の騒音攻撃のことがまったくわからず、無視してしまうのだ。この、きちがいの、騒音攻撃の影響がまったくわからないから、「そんなの、関係ない」「そんなの、影響ない」と言ってしまう。ほんとーーーに、腹がたつ。腹がたつ。
しかも、「すべては、受け止め方の問題だ」と言うやつは、目の前の俺にあわせて、受け止め方をかえようとしないのである。俺は、そいつにとっては、他人だ。「すべては、受け止め方の問題だ」と言っているのだから、他人である俺にあわせて、受け止め方をかえればいいのである。ところが、自分の考えに固執して、受け止め方を、まったくかえない。普通の人よりも?頑固に固持していると言ってもいいぐらいだ。「すべては、受け止め方の問題だ」と言うやつも、「すべては、受け止め方の問題である」という考え方自体は、絶対の意地で、固持して、かえようとしない。
「すべては、受け止め方の問題である」と言うやつらは、「お兄さんにあわせて、あなたがかわればいい」ということを言っているのである。こんなの、ない。あるいは、親父のことも言うのであれば「お父さんにあわせて、あなたが、かわればいい」ということを言っているのである。こんなのない。こんなのない。善悪を、うち兄貴やうちおやじとおなじように、とびこえている。こんなのない。
「自分にあわせて、相手をかえることができないなら、相手にあわせて自分をかえるべきだ」ということ言うやつも、目の前の俺にあわせて、自分をかえようとしないのである。目の前の俺にあわせて、「自分」をかえればいいでしょ。
「相手をかえることができないから、自分をかえればいい」と言うやつも、俺にあわせて、「自分」をかえればいいでしょ。
俺が、ヘビメタ騒音のことについて、説明したら「そんなのは、影響がない」「そんなの、関係がない」と考えないで、「それは、たしかに、影響がある」「それはたしかに、関係がある」と考えて、それまで自分が持っていた「そんなのは、影響がない」「そんなの、関係がない」という考え方を、俺にあわせて、かえればいいでしょ。
どうして、「そんなのは、影響がない」「そんなの、関係がない」というスタンスをたもちながら、「相手をかえることができないから、自分をかえればいい」と言うのか?
これ、きちがい家族にやられている人に、こういうことを言ってしまうということは、じつは、ひどいことなのである。これも、ぜんぜんわかってないからな。言っているやつは、ぜんぜんわかってない。言っているやつは、「いいことを言っている」つもりだ。
ぜんぜん、いいことじゃないよ。俺が、いいことじゃないと言ったら、俺にあわせて、そう考えればいいのである。いいことじゃない」と受け止めればいいのである。「真理」を語っているつもりで、まちがったことを言っている。しかも、悪質な発言なのである。
きちがい家族にやられている人に、きちがい家族がやっていることに関する受け止め方をかえればいいなんて、よく言えたものだな。きちがい家族にやられている人に、きちがい家族に、自分をかえてあわせればいい、なんてよく言えたものだな。
これ、人の気持ちを破壊するようなことを言っているのに、まったくわかってない。きちがいにあわせて暮らせばいいなんて、ほんとうに、よく言えたものだよ? きちがいのやった、きちがいが的な行為の受け止め方をかえればいいなんて、よく言えたものだよ?
これ、こいつらもこいつらで、自分がっていることの意味が、まったくわかってないなぁ。
きちがいにやられてすでに、ものすごく悪い影響をうけている人に、きちがいにあわせればいい、きちがい行為の受け止め方をかえればいいなんて、よく言えたものだな。
これ、きちがいになればいいと言っているだけなのである。
きちがいあわせて、きちがい的な受け止め方をするのか?
きちがい行為を、きちがい的な解釈で、受け止めなおすのか?
こんなことを、要求するなんてどうかしているぞ。そして、きちがい家族にやられた影響というのを、これでもかというほど、過小評価しているのである。この感覚! この感覚!!
これは、ひどい。
過小評価して、『影響なんて、たいしたことはないだろう』と思っているから、言えることなんだよ。
けど、自分は、受け止めたかをかえようとしないのである。自分の意見に固執するのである。
精神世界の人の「攻撃」には何種類かあるのだけど、すべての種類において、誤解がある。前提として、めちゃくちゃな誤解が成り立っている。
精神世界の人じゃなくても、精神世界の人の言い方というのは、ひろく大衆の意識のなかにとけこんでいるので、似たようなことを、発言してしまう一般人もいる。ようするに、多数の一般人は、精神世界側のなのである。俺の意見よりも、精神世界の人の意見が正しいと思っているのである。
『理想としては、精神世界の人が言っていることが正しいけど、なかなかうまくいかない』というような意識をもっている場合が多い。『受け止め方をかえればいい」のだけど、なかなかうまくいかない』と思っている人も、いるだろう。
けど、これ、「うまくいかない」と思っているいるのだから、理想としては「うまくいけばいい」と思っているのだろう。
自分の気持ちを破壊してしまうものであるということが、まったくわかってないのである。これも、言霊主義者が、普段、言霊的な解決方法を選んでいないということに、無頓着なように、えそらごととして、受け止めているから、そういうふうな意見になってしまうのである。
その場その場の相手にあわせて、自分の受け止め方をかえてしまうということは、非常に、まずいことなのである。
もし、ほんとうに、かえることができるなら、それは、精神の崩壊を意味しているのである。心理システムの崩壊を意味しているのである。かえられるわけがないし、かえるのもよくないというが、ほんとうのことなのである。
いわば、真理だ。
まるで、わかってないんだよなぁ。「相手」のことになると、途端に、抽象的な考えになり、真実を、見失ってしまう。これ、よくないことだよ。
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他人の条件を無視して、他人には「受け止め方をかえればいい」と言っているわけだけど、その人自体が、日常生活のなかで、「受け止め方をえて」生活しているかというと、「受け止め方をかえて」生活していない。
他人の条件を無視して、他人には「相手にあわせて自分をかえればいい」と言っているわけだけど、その人自体が、日常生活のなかで、「相手にあわせて自分をかえているのか」というと、相手にあわせて自分をかえていない。自分にあわせて、相手をかえようとしている。実際、俺のヘビメタ騒音に対する受け止め方を、かえようとした。俺の意見にあわせて、自分の意見をかえようとしていないし、実際、かえなかった。
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まあ、一般人の多くは、「受け止め方をかえればいい」とは、考えていないのだろう。ただ、理想としては、そういうことも思っている。「受け止め方をかえればいい」というのは、きれいごとのなかの、理想像を保持している。「ほんとうに受け止め方をえれていたら、心理システムがこわれるよ」というぼくの意見は、あんまり、よく、受け止められない。けど、「多くの一般人は」と書いたのは、精神世界系のことがわりと一般論としていきわたっている部分があるということを言いたかった。努力論も、精神世界系の理論?とおなじような力をもっていて、ひろくいきわたっている。まあ、努力論は、ビジネス系精神世界の理論なのだよ。精神世界系の理論や努力論は、抽象的な意味では、理想論として語られるのである。そして、精神世界系の理論は、幼児的万能感を礎(いしづえ)にしているので、多くの人に訴えかけるチカラをもっているのである。また、努力論は、アニメや漫画をとおして、小さいころから、意識のなかに植えつけられているのである。抽象的には、精神世界の理論や努力論のほうが、響きがいいのである。「努力をすれば、成功する」「明るいことを考えれば、明るいことが起こる」「人と争わず、受け止め方をかえればいい」……こういうきれいごとのほうが、正しいと思われてしまうのである。けど、ほんとうは、いっていることがめちゃくちゃなんだよ。精神世界の理論や努力論は、まちがっている。
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ひとこと「俺だって騒音ぐらいあった」と言えば、同等の騒音を経験したことになって島のである。けど、同等の騒音なんて経験してないよ。うちの兄貴とおなじタイプのきちがい家族と一緒に暮らしていたわけじゃないでしょ。実際に、家族のうちの誰かが、うちのきちがい兄貴と同じタイプのズレをもっている家族で、ひどいを騒音をしつこくしつこく毎日毎日、十数年にわたって鳴らしていたわけじゃないでしょ。
これ、ほんとうに、ちがうのに……。いい迷惑だよ……。不愉快だよ。