問題なのは、条件が悪い人の不幸な状態を、条件が悪い人のせいにしてしまうということだ。
精神世界の考え方にこだわっていると、そうみなすようになるのだ。これは、たぶん、しくまれているんじゃないかな。
ようするに、精神世界の考え方がはやっている?のは、不幸な状態の人を追いつめるためなんじゃないかな。
条件がじつは、悪い状態を作り出している。
けど、精神世界の人の考え方というのは、条件を無視して、その人の性格のせいにしてしまう。「その人が、暗いことを考えるから、暗い状態になっている」と考えるわけだ。「その人が、ネガティブなことを考えるから、ネガティブな出来事が起こる」と考えるわけだ。
これは、条件が悪い人のことをせめていることになる。
「条件が悪い人が、悪い状態から抜け出すためには、ネガティブな考え方を捨てればいいということになる。ネガティブな考え方がネガティブな状態を作り出しているのだから、ネガティブな考え方をすれば、ネガティブな状態から、抜けだすことができるのである」……こういう考え方をする。
そして、説教をする。けど、暗い状態というのは、たいていの場合は、条件によって作り出されたものなので、本人が、ネガティブなことを考えなくても、条件によってネガティブな出来事が発生するのである。
「条件によってネガティブな出来事が発生する」ということを無視するということが、そもそも、よくないことなのである。
はっきり言えば、トラブルのもとなのである。
ネガティブな状態である人は、社会的な立場が低く、対人的な立場が低い。
なので、こういう人に、むりなことを言ってマウントをとることが、はやっているのだ。相対的に相手の立場が低ければ、妄想的なことを言って、悦に浸ることがはやっている。
しかも、本人は、いいことをしたつもりなのだ。こんなのは、条件によってネガティブな状態になっている人を、妄想的な理由でせめることにすぎない。
やっていることは、よくないことなのである。狡猾な悪魔が、他人の条件を無視することを、教えているのだ。だから、条件なんて無視する。ただの「こころのもちかた」の問題なんだと決めつけてしまう。
ところが、「こころのもちかた」ではなくて、ネガティブな条件が、ネガティブな状態を作り出しているのである。
たしかに、ネガティブな状態が不愉快な出来事を引き起こしてしまう場合があるけど、すべてではない。すべての場合において、本人が、気をつければ、うまくいくということではないのとおなじように、本人がポジティブな気持になっても、うまくいかないことがある。そういう、ものすごく劣悪な条件がある。
人間である以上、そういう条件では、むりだというのがある。
ところが、そういう条件ではむりだということを認めず、なんでも、こころの持ち方で解決できると思ってしまうのが、精神世界の人たちなのだ。ところが、こころの持ち方では、解決できない問題があるのである。
ようするに、条件からダメな状態がしょうじる必然性があるのかどうかということを考えなければならないのである。ところが、必然性なんて、無視なのである。条件なんて、いろいろとあるから、たいして影響をあたえない条件も確かにある。
けど、不可避的な影響をあたえる条件も確かにあるのであっる。ところが、精神世界の人は、対して影響をあたえない条件と不可避的な影響をあたえる条件の区別をせず、すべての条件が、たいして影響をあたえない条件だと仮定して考えているのである。
だから、すべての問題が、こころの持ち方をかえれば解決できる問題だと想定してしまうのである。これか、よくないことなんだよ。どうしてかというと、不可避的で、必然的な問題をかかえている人がいるからだ。その人たちは、こころの持ち方をかえても、解決できないのだから、無意味なことを言ってこまらせるべきではない。