オギャーと生まれてから……ひょっとしたらそれ以前から……出来事に対応して感情が発生しているのである。言葉と感情の「連携」ができあがったのは、言葉を学習したあとなのである。
言葉を学習しているさいちゅうも、なんらかの不愉快な出来事が発生して、こういう感情になることを「不愉快になる」と表現するのだということを、学んだのである。
これは、学習したということだ。
どうして、「不愉快になる」と言うと、「不愉快な気持になったような感じがする」場合もあるかというと、学習の結果、言葉と感情の「連携」ができたからだ。
しかし、まったく、不愉快になる出来事が発生してないのに、突然、「不愉快になる」と言って、「なんとなく不愉快な気持になったのかもしれない」と思った場合の「不愉快な気持ち」と、ちゃんと理由がある「不愉快な気持ち」はちがうのである。
質も量もちがうのである。
理由がないと書いたけど、たとえば、「不愉快だと言うと、不愉快な気持になるかどうか調べる」という理由以外の理由がないときということだ。「不愉快だと言うと、不愉快な気持になるかどうか調べる」という欲求が発生したのは、「言霊の効果を調べよう」と思ったからだ。言霊に効果があるほうがいいと思っている人は、その思いに引きずられて、「不愉快になっていないのに、不愉快かもしれない」と思うかもしれない。ここらへんは、たしかに「思いよう」なので、願望が反映するかしれない。
ともかく、 「不愉快だと言うと、不愉快な気持になるかどうか調べる」という理由以外の理由がないときと、不愉快になる具体的出来事が発生したので、不愉快になっているときは、ぜんぜん、状態がちがうのである。両者を「おなじように不愉快になっている」とか「不愉快になっている」と考えること自体に、むりがあるのである。おなじ状態ではないのに、おなじ状態だとみなしていること自体が問題なのである。
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いつもかならず、「不愉快になる」と言ったら「不愉快な気持になる」わけではないのである。楽しい時に「不愉快になる」と言ったって、自分のこころは、「不愉快にならない」のである。
だから、一〇〇%の確率で、そうなっているわけではないということを、忘れてはならないのである。
ところが、言霊主義者は、一〇〇%の確率でそうなっているわけではないということを忘れて「言ったことが現実化する」「言った通りになる」と声高に主張するのである。
ところが、その言霊主義者だって、たいていの場合は、実際に不愉快な出来事が発生したから、不愉快になっているのである。
もちろん、不愉快な出来事というのが、だれにとっても不愉快な出来事かというと、そうではない場合もある。しかし、たいていの人にとって不愉快な出来事だと感じられる出来事があるのである。
もちろん、厳密なことを言うのであれば、おなじ出来事は存在しないということも言える。二度、おなじ川に入ることができないように、まったくおなじ出来事は存在しないのである。
だいたい、似たような出来事だと、(普通の人に)認知されるような出来事のことを、同じ出来事と、かりそめに言っているだけなのである。厳密なことを言うなら、おなじ出来事なんて、存在しない。こっちが正しい。
しかし、とりあえず、似たような出来事を考えると、例外的な人は除いて、ほとんどの人が、「不愉快だ」と感じるような出来事がある。
その場合、実際に、不愉快だと感じることが起こったのである。不愉快だと感じることが、人生のなかで何回も何回もあると、こういうときの感情をあらわす言葉として「不愉快になった」とか「不愉快だ」とかという言い方があるということを、学ぶのである。
ようするに、出来事が起こった「あと」に、言葉と感情の対応を学ぶのである。
一度、学んで、こういう感情のことを「不愉快な感情」だというのだということがわかると、「不愉快な感情」というものについて、想起できるようになるのである。これは、抽象的な「不愉快な感情」だ。
その感情は、さまざまな実際に発生した不愉快な出来事をあわせたような総合的な感情なのである。
だから、この段階で「不愉快になる」と言うと、「不愉快になったような感じがする」ということが、しょうじる場合があるのである。
言霊主義者は、すっかり、この反応回路ができあがったあとに、「言ったことが現実化する」と言っているのだ。これは、反応回路ができあがったあとに言っていることなのである。なので、厳密なことを言うなら、まさに、出来事が先なのである。言葉で表す前に、感情があるのである。言葉を学習する前に感情があるのである。言葉と感情の連携ができるまえに、感情があるのである。
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もう一つ、付け加えておくと、「不愉快になる」と言ったあと、なんとなく不愉快になる場合があるのは、言霊の力によって、なんとなく不愉快になるのではなくて、言葉の力によって、なんとなく不愉快になるのである。
けど、楽しい時に「不愉快になる」と言って、ほんとうに不愉快になるかな?
「不愉快になる」と言ったあと、なんとなく不愉快になる場合は、じつは、かぎられているような感じがする。
ようするに、あるとしても、毎回ではなくて、相当に少ない回、そういうことがあるという感じだ。
基本的には、ぼくは、楽しいとき「不愉快になる」と言っても、ぜんぜん不愉快にならない。なんの理由もないのに、不愉快になると言ったって、不愉快になるわけではないのだ。「なんの理由もない」と書いたけど、「不愉快になるような理由がない」ということだ。
いちおう、言霊主義者に配慮して、中立的な状態で、「不愉快になる」と言った場合、「不愉快になったような感じがする場合もある」という内容のことを書いたけど、毎回そうなるわけではないのだ。そして、繰り返しになるけど、「不愉快になったような感じがするかもしれない」というような、ものすごく微弱な「不愉快な感じ」なのである。
そして、中立的な状態で「自分は不愉快になる」と言った場合、「不愉快な気持になった感じがする」ということが、「毎回毎回」発生するかというと、そうではないのである。
回数を問題にするなら、言霊主義者だって、「不愉快になる」と言っても、不愉快にならない場合のほうが多いのだ。
ほんとうは……言霊主義者も……普段、ちゃんと、理由があることで不愉快になっている。
回数を問題にするなら、言霊主義者だって、実際にしょうじた出来事に応じて、不愉快になっている場合のほうが多いのである。
「不愉快になる」と言って不愉快になった場合は、言葉と感情の連合ができあがっているので、「そんなふうな感じもするかもしれない」という意味で「不愉快になる」だけなのである。
これは、言葉の力で不愉快になっているだけで、超自然的な力である言霊の力で不愉快になったのではない。勝手に、「言霊」なるものを想定して、そう思っているだけなのである。
言霊主義者が、勝手にそう思っているだけなのである。
法則性なんてもちろんない。言霊の法則なんて、そんなもの、もちろん、ない。
言霊というコンセプト自体が、妄想を土台にしたコンセプトなのである。
「不愉快になると言うと不愉快になる」「これは、言霊の法則が成り立っているからだ」と、言霊主義者が勝手に妄想しているだけなのである。
妄想を土台にしたコンセプトを使って、人のことを悪く言うのは、やめろ。
ようするに、妄想的な理論をふりまわして、人を不幸にするのはやめろ。
嘘が前提として成り立っている理論で、人を不愉快な気持にさせるな。
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ちなみに、実生活のなかでは、言霊主義者だって、「直前の」出来事に対応して、不愉快になっているのである。これは、現在進行形の場合もある。というか、ほとんどの場合が現在進行形なのである。感情が生じたということを考えると「直前」ということになる。出来事が変化するので、感情もそれに合わせて、変化しているのである。感情は流動的に発生しているのである。
しかし、「不愉快になった」という表現を使う場合は、不愉快になった出来事がすでに発生しているのである。出来事を時間的にどのように区切るかによるけど、明確に「自分が不愉快になった」と表現しているのであれば、不愉快になる出来事が、不愉快になるまえに発生したと考えるのが、まあまあ、妥当なのである。
ともかく、直前の過去か、あるいは、現在進行形かと言うことは、別にして、言霊主義者だって、現実の出来事に対応して、不愉快になったり、愉快になったりしているのである。どうして、それを無視してしまうのか。
なにも理由がないのに、突然「愉快だ」と言って愉快になるのわけではないのである。なにも理由がないというのは、対応する出来事が発生しなかったのにと言うことだ。「愉快だといえば愉快になるかどうか」ということを調べるために、「愉快だ」という場合は、たしかに、「愉快だと言えば、愉快になるかどうかを調べる」という理由があるのである。
実際には、それ以外の理由がないのである。それは、特別に不愉快なことが発生した直後に、「愉快だ」と言っている状態とはちがうのである。まあ、何回言っても、言霊を信じている人は、わかってくれないと思うけど、言っておく。
たとえば、ぼくが言霊理論を批判すると、言霊主義者はおこる。怒りという感情がわきあがるのだ。これは、自分が信じていることを批判されたから不愉快だと思ったということなのである。あるいは、自分が正しいと思っていることを正しくないと言われて怒りの感情がわきあがったということなのである。
ちゃんと、理由がある。
ちゃんと、現実の出来事に対応して感情がわきあがっている。
まったく、おこる理由がないのに、「おこった」と言って、怒りという感情がわきあがったわけではないのである。