ネガティブなことが起こったあと、ネガティブなことが起こったと認知・認識するのである。
たとえば、きちがい的な親が、迷惑行為をする場合は、継続的に迷惑行為をするのである。いちおう、迷惑行為ということで、固定しておく。
迷惑行為をされた子ども側の人が、注意をしても、きちがい的な親は、腹をたてて、迷惑行為を続行するので、注意をすればやめさせることができるかというと、そうではない。注意をしても、やめさせることができない。
迷惑行為をしているほうが、つねに、迷惑行為をしているという認識があるかといえば、ない場合もあるのである。きちがい的な親の場合は、つねに、迷惑行為をしているのに、つねに、迷惑行為をしているという自覚がないのである。
なので、きちがい的な親は、迷惑行為を継続的に繰り返すことができる。あるいは、迷惑行為を継続的に繰り返す場合が、ある。
その場合、順序しては、「ネガティブな出来事」→「ネガティブなことが生じたいという認知」→「ネガティブな出来事」→「ネガティブなことが生じたいという認知」という順番になる。
ようするに、きちがい的な親が、繰り返し、迷惑行為をするので、不愉快な気持になるということも、繰り返される。やられたほうが、何回も連続的に不愉快な気持になるということだ。
その場合、何回目かで、「ネガティブなことが起こる」と思うようになるのである。そりゃ、予想すると、そうなるのである。
頻繁に、きちがい的な行為を繰り返す親がいる。頻繁に、きちがい的な行為を繰り返す親がいるということを認めたくない人は、「そんなのは親じゃない」などと、わけのわからないことを言い出すけど、この世には、頻繁にきちがい的な行為を繰り返す(親の立場である)人間がいる。
親がきちがい的な行為を繰り返しているのである。それを、精神世界の人が、外側から見て考えると、子ども側の人が「ネガティブなことが起こる」と思っているから、子ども側の人に「ネガティブなことが起こる」と思ってしまうのである。
実際、子ども側の人間は、「こういういやなことが起こるのではないか」と思っている。じゃあ、この「思い」がきちがい的な親のきちがい的な行為をうみだしているのかというと、そうではないのだ。しかし、やられた側をいじめまくりたい、精神世界の人は、やられた側が「こういういやなことが起こるのではないか」と思っているから、実際に、ネガティブなことが起こると、決めつけてしまう。これは、まちがった決めつけだ。
繰り返されたことだから、予想がつく。
ネガティブなことが起こるという予想は、確かに、ネガティブな「思い」なのだけど、ネガティブな「思い」が、きちがい的な親をネガティブな行為に駆り立てているわけではないのだ。
子ども側の人は、過去のデータから、きちがい的な親はこういう行為をするということがわかっているのである。だから、予想がつくのである。
出来事の順番と、出来事の繰り返しが、精神世界の人には見えないから、誤解をして、子ども側の人に問題があるように決めつけて、そのように言うのである。
しかも、きちがい的な親とおなじように、精神世界の人は、自分がまちがった決めつけをしているということに、気がつかないのである。説明されても、気がつかない。
「思ったことが現実化する」「ネガティブなことを思ったから、ネガティブなことが発生した」と、精神世界の人は、思っているわけである。
けど、これは、時系列的な順番がちがうのである。そして、原因と結果がちがうのである。そして、原因の所在について、まちがった考え方をもっているのである。
だから、こういうところで、きちがい的な親と精神世界の人は、ある程度、似ているということが発生してしまうのである。
自動的に「やられた人」にとって不利な決めつけをしてくるのが、精神世界の人なのである。そして、自分がまちがった前提でまちがった結論に至ったということ認めないのが、精神世界の人なのである。こまっている人がもっている条件を認めないのが、精神世界の人なのである。
だから、きちがい的な親にやられた人にとってみれば、精神世界の人は、「天敵」のようなものなのである。
精神世界の人は、正しいことを言っていると思っていると思うけど、じつはまちがったことを言っている。「因果関係を逆転させるな」と言いたい。
そして、このことは、精神世界の人が、普段、「中立的に事柄を受け止めているわけではない」ということを、意味しているのである。
そりゃ、やられた人間をせめる思考を常にしているのだから、中立的に事柄を受け止めているわけではないということが、あきらかだ。
たとえば、やられた子ども側の人が、「こういうことがあった」ということを言えば、子ども側の人が、ネガティブなことを言ったと(彼らは)認知・認識するのである。
そして、「やられた子ども側の人がネガティブなことを言うから、やられた子ども側の人に、ネガティブな出来事が発生したのだ」と(彼らは)決めつけるのである。
どちらとも、出来事を中立的に受け止めているわけではないということが、あきらかだ。ようするに、精神世界の人は出来事を中立的に受け止めているわけではないということが、あきらかだ。
すで、「こういうことは、ネガティブなことだ」と認知・認識するようなプリセットが(頭の中に)存在しているのである。そして、そのプリセットの内容にそったかたちで現実を認知・認識しているのである。ぜんぜん、中立的に出来事を認知・認識していない。
そして、不幸なことに、このプリセットは、やられた側の人間をひたすら「悪く言う」プリセットなのだ。やられた人間のほうを、原因に関係なく、せめるプリセットなのだ。そういう価値観のプリセットを搭載して、この世のなかを見ているということについて、精神世界の人は、もっと、真摯に認識するべきなのである。
自分たちは、価値観中立的にものごとを認識できるという考え方をもっているのだけど、それは、まちがいだ。ちゃんと、やられた側の人間を悪く言うというゆがんだ価値観をもっている。これは、ゆがんだ価値観であって、中立的な価値観ではない。