なにも不愉快なことは発生してないのに「不愉快になる」と急に言って、言った結果、言霊の力によって不愉快な気持になったわけではないのである……と書いたけど、これは、短く書くと、「不愉快になる」と急に言って、不愉快な気持になったわけではないのである……ということになる。
不愉快な出来事が発生してないのに「不愉快になる」と言ったから、言霊の力によって、不愉快な気持になったのではないということだ。
楽しいことに関しても、状況に関係なく、「楽しいと言ったから、楽しくなる」わけではないのである。たとえば、言い家族に恵まれて、いい友人に恵まれて、楽しいことが、相対的にたくさん発生するような状態でくらしているとする。
その場合、別に、「楽しいことが起こる」と言わなくても、わりと頻繁に楽しいことが発生するのである。これも、持続的な繰り返しがあるから、楽しいことが発生して、楽しいと感じることができるのである。
ようするに、出来事に対応して、楽しいと感じるわけだ。
そういう生活の中で、たとえば、「楽しいと言えば楽しくなる」ということを言われて、「楽しい」と言ったら、なんとなく楽しくなったというだけの話なのである。
あるいは、楽しいことが起こるという繰り返しがあるので、「楽しい」と言った「あと」実際に、楽しいことが起こった場合は、「楽しい」と言った「から」楽しいことが起こったのだと「誤解」することができる。
なので、「事実そうなった」「事実だ」と思うことができるのである。
「誤解」なのだけど、実際に、「楽しい」と言ったあと、実際に「楽しいこと」が、起こったので、「楽しいと言えば楽しいことが起こる」という命題は「真」であると考えてしまうのである。もちろん、まちがいだ。
ところが、精神世界の人も、一般人も、みんなみんな、条件は無視するので、「楽しいと言えば、楽しくなる」という言葉がひとり歩きをするようになるのである。
ようするに、この場合は、一〇〇%詐欺が成り立っているので、状態に関係なく、状況に関係なく、「楽しいと言えば、楽しくなる」ということになってしまうのである。
みんなが、「楽しいと言えば、楽しくなる」ということを信じている状態だと、「そうではない」と言いにくくなってしまうのである。たとえ、言っても、信じている人は、ぼくが言っていることを認めない。
「実際に、楽しいと言ったあと、楽しいことが起こった。これが真実だ」と言って、きかないのである。「楽しいと言えば、楽しくなる」という言葉を命題として考えた場合、偽であるということは、確実なんだけど、「実際に、楽しいと言ったあと、楽しいことが起こった。これが真実だ」と言っている人は、「偽」であることを認めない。「真」であると言いきる。
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この人たちは、みんな、最悪の条件をかかえている人よりも、条件が「相対的に」いい人たちなのである。だから、「実際に、楽しいと言ったあと、楽しいことが起こった。これが真実だ」と思えるだけなのである。
ところが、この人たちも「自分だって苦労した」と言ってゆずらないのである。
「くるしいときこそ、楽しいと言えばいいのだ」と言って、ゆずらないのである。
「自分だって苦労した」という言葉で、苦労の質と量を問題にしないようにしてしまうのである。
最悪の条件をかかえている人の苦労と、自分の苦労は、おなじぐらいの苦労だと設定してものを言ってしまうのである。しかし、大きく、苦労の内容がちがうのである。また、苦労だと思えることが発生する頻度がちがうのである。
つまり、苦労の質と量がちがう。「実際に、楽しいと言ったあと、楽しいことが起こった。これが真実だ」と言ってしまう人が、かかえている苦労や、かかえていた苦労なんて、ほんとうに、たいした苦労じゃない。もう、断言できる。
そんなことを言えるはずがないのである。
最悪の条件をかかえている人は、そんなことを、言えるはずがない。
最悪の条件をかかえている人よりも、ずっと良い条件をかかえているので、「実際に、楽しいと言ったあと、楽しいことが起こった。これが真実だ」と言っているだけだ。これ、本人が、わかってないんだよね。
そんなことは、言えなくなる条件がある。そういう条件下でくらしたことがないから「実際に、楽しいと言ったあと、楽しいことが起こった。これが真実だ」などと言うことができるだけだ。
実際に、「実際に、楽しいと言ったあと、楽しいことが起こった。これが真実だ」と言えない条件下でくらしたら、「実際に、楽しいと言ったあと、楽しいことが起こった。これが真実だ」なんて言えなくなる。これが、真実だ。
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ほんとうに、条件が悪い状態でくらしている場合、頻繁に、悪いことが起こるのである。そういう条件がある。まわりの人がどういう人かという条件は重要なんだよ。
ところが、条件が悪い人だって「楽しいと言えば楽しくなる」ということになってしまう。そういう意味で、精神世界の人も、一般人も、「楽しいと言えば楽しくなる」という言葉を使いたがるし、実際に、そういう意味で、「楽しいと言えば楽しくなる」ということばを使っている。
だから、ズレがあるのだけど、条件を無視している人には、ズレが見えないのである。条件を無視している人は、一〇〇%詐欺に引っかかり、どんな条件でも、「楽しいと言えば楽しくなる」ということが成り立つと信じ込んでいる状態でくらしている。
これは、まちがいだ。ところが、まちがいだとは思っていないので、「楽しいと言えば楽しくなるのに、楽しいと言わないからダメなんだ」と条件が悪い人に、ダメ出しをするようになるのである。