「明るいことを思えば、明るいことが起こる」ということについて考えてみよう。
たとえば、明るいことを、一日のなかで、一回、一個、思った場合、一日のなかで、一個の明るいことが実際に起こる条件の人と、明るいことを、一回、一個、思った場合、一日のなかで、ゼロ個の明るいことが実際に起こる条件の人を考えてみよう。
ようするに、明るいことを発生させる条件というものについて考えてみるのである。条件がいい人のうちでは、子ども側の人間が、明るいことを思うと、親によって明るいことが一つ発生するのである。
しかし、条件が悪い人のうちでは、子ども側の人間が、明るいことを思っても、親によって、暗いことが一〇個発生するのである。明るいことは一個も発生しない。
いまは、かりに、「明るいことを思うと」と書いたけど、明るいことを思うかどうかは関係なく、実際には、条件によって、明るいことが起こる回数や、暗いことが起こる回数が決まっているのである。
だから、ほんとうは、「思ったかどうか」というのは、出来事にまったく影響をあたえない。「明るいこと」の定義によるけど、「明るいこと」の発生頻度が、外界の条件によって決まることなのであれば、「明るいことが起こる」と思ったかどうかということは、関係がないことなのである。
「空想のなかでは、明るいことが起こったということにする」ということについても、実際には、現実の世界のなかで、「その明るいこと」が起こらなかったら、起こらなかったのである。
自分の内部環境というものを考えて、自分の内部環境で、完結するものであるならば、そりゃ、「これこれこういう明るいことが起こる」と思って、「思ったことが実際に起こったと空想する」ことはできる。あくまでも、空想だ。
だから、自分の内部世界で完結しているのであれば、現実には、明るいことが起こらなかったとしても、自分のなかでは明るいことが起こったのだと言うことはできる。
しかし、それは、空想のなかのことだから、実際には、思ったことが発生しなかったのであれば、発生しなかったとみなすべきなのである。ようするに、実際に発生するということが必要なのである。
人間は、想像の中でだけで生きているわけではなくて、物理的な存在としての「人間のからだ」を、外界に対して保持しているので、必然的に、外界の刺激をうけることになるのである。
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なにを言っているか、あんまり、よくわからないかと思うけど、「自分のなかで、いいことが起こると想像して、いいことが起こることを想像すれば、それで、思ったことが実現化したということになる」というようなことを言う人がいる。そういう、空想内のことで完結することについては、排除して扱わないようにするということだ。