もうすでに、きちがい的な家族が、きちがい的な大音量で、自分のきらいな音を鳴らしている場合は、現実的な問題なのである。
もうすでに、現実的な問題が発生しているのに、言霊や思霊で対処できるわけがないだろ。
実際に、「一分以内に、鳴りやむ」と何回言っても、鳴りやまなかった。
現実的な問題について、言霊的解決方法や思霊的解決方法について語るのは、ナンセンス。 現実的な問題について、言霊的解決方法や思霊的解決方法をすすめるのは、ナンセンス。
これ、助言になってないのに、いい助言をしたと(言霊主義者や思霊主義者は)思ってしまう。言霊を信じている人や思霊を信じている人にとっては、言霊的な問題解決方法や思霊的な問題解決方法は、じゅうぶんに現実的な問題解決方法なのである。
けど、相手にとっては、それは、まったく現実的ではない。
これも、言霊主義者だって、本人の現実的な問題に関しては、とくに、言霊を使っていないのである。現実的解決方法だと思ってないから、最初から、現実的な問題に関しては、言霊思考が関与するスキがないのだ。
ようするに、現実的な問題で「余裕がない」と言霊思考にならないのである。
ある程度、問題との距離があり、「余裕がある」と言霊思考になる。
だから、現実度ということを考えた場合、本人のことについては、本人において現実度が高い問題に関しては、現実度が高いということは、わかっているのだけど、相手のことになると、相手の問題だから、本人の現実度が極端にさがるのである。
「本人」と「相手」という言い方をすると、本人の場合は、本人の問題だから、本人にとって現実度が高くて、相手の問題だと、相手の問題なので、本人にとって現実度が低いのである。
だから、普段は、自分の現実的な問題に関しては、言霊思考をしない言霊主義者であっても、相手の問題は、自分にとって現実度が低いので、途端に、言霊思考をしてしまうのである。
すでに発生している問題なのか、それとも、将来(低い確率で)発生する問題なのかということを考えなければならないのである。
これを、区別せずに、「言霊は正しい」「言ったことが現実化する」「思ったことが現実化する」と思っているから、現実的な問題をかかえている人を傷つけるのである。
すでに現実的な問題をかかえている他人を、傷つけるのである。
まちがった助言をして、まちがった助言しているということにまったく気がつかないなんて、ひどいことだと思うけどなぁ。
現実的な問題をかかえているのに、言霊主義ゃや思霊主義者から、現実的ではないことを言われて、問題が増えてしまうだろ。すでに、現実的な理由があって、現実化している問題に関しては、言霊的解決方法や思霊的解決方法は、まったく役に立たないんだよ。無力なんだよ。
* * *
きちがい兄貴も言霊主義者も、普段「あたりまえのように」やっていることを、やっていると認識してないのである。けど、もちろん、おなじではない。
言霊主義者の言霊法則の無視は、現実に対応したものなのである。
言霊主義者は、普段、現実主義者で、現実に適応して生きているのである。言霊主義者が、普段も、言霊的な行動をとっていたら、現実に適応できなくなってしまうのである。
言霊主義者は、普段、言霊法則を無視して、現実に適応しているということを、無視しているのである。ごく普通にやっているのに、やっているという感覚がない。
言霊主義者は、自分が言霊法則にしたがってないということを、うまく、認知・認識できないのだ。言霊法則にしたがわず、現実的な行動をしているときは、言霊法則にしたがってないということを、意識することができない。
いっぽう、きちがい兄貴は、よそのうちでは鳴らせないようなでかい音で音楽を鳴らすという逸脱行動をしているのに、逸脱行動をしているということに、気がつくことがないのである。
言霊主義者は、言霊原理にしたがわす、現実原理にしたがって行動しているということに気がつかないわけだから、けっきょく、現実に適応しているのである。
けど、きちがい兄貴は、現実に適応しているとはいえない。きちがい兄貴が無視しているのは、逸脱行為をしている「自分」なのである。「自分」というのは、きちがい兄貴自身のことだ。
つねに、逸脱行為をしているのに、つねに、逸脱行為を「している」という自覚がないし、つねに、逸脱行為を「した」という自覚がないのだ。うちのきちがい兄貴には自覚がない。
そのぶんの、「ズレ」がぼくのほうに、つかれとして、あらわれてしまうのである。勉強することができないということにあらわれてしまうのである。「宿題を忘れる(宿題をやらないまま登校する)」ということにあらわれてしまうのである。
きちがい兄貴が逸脱行為をしているのに、俺が逸脱行為をしているように思われてしまう。
きちがい兄貴が、逸脱行為をするから宿題ができないというのは、鳴っているときの状態から言って、事実なのだけど、その場にいない人には、それがわからないのである。ようするに、「こうなる」という必然性が見えていないのだ。
ヘビメタ騒音が鳴っていれば、宿題ができずに、宿題を忘れるということになるのだけど、その必然性が見えない。
ヘビメタが「かりに」鳴っていても、宿題ぐらいできるはずだと、ほかの人は、思い込んでいる。けど、むりなのだ。
おなじことが、遅刻にもあらわれる。あれだけ鳴らされて、普段、(ヘビメタ騒音がなければ眠れていた時間に)眠れなくなるのは必然なのに、その必然性が(やられてない他人には)わからないのである。
わからなければ、「鳴り終わったら眠れる」「ヘビメタ騒音あびたって、夜になったら眠れる」ということになってしまう。その人のなかで、そういうことになってしまう。
だったら、「エイリがあまえているんだ」「エイリが嘘を言っているのだ」ということになってしまう。その人のなかで、そういうことになってしまう。