たとえば、三メートル前に、落とし穴があるとする。落とし穴に気がついた。そのとき、どうるのか?
落とし穴があるから、避けようと思うはずだ。そして、避けて、落とし穴にはまらず、通り抜けることができる。
精神世界の人が言っていることは、「落ちると思うから落ちる」ということだ。
三メートル前に落とし穴があって、それに気がついた。
「落ちると思うからおるのだ。落ちないと思えば落ちない」と言って、穴の上を通り抜けようとしたら、実際には、落ちる。精神世界の人が言っていることは、まさしく、「落ちると思う『から』落ちる」ということだ。
いや、物理法則にしたがって落ちるのでしょう。
歩くということだって、精神世界の人は無視しているけど、物理法則にしたがって歩いているのだ。
精神世界の人が、妄想的なことを考えて、行動しているだけだ。
けど、精神世界の人たちが、ずるいところがある。もし、ほんとうに、落とし穴がある場合は、精神世界の人だって、ちゃんと落とし穴をよけようとする。
「落ちると思うから落ちるんだ」「落ちないと思えば落ちない」なんて……人には言っているけど、本人が、現実的な問題に直面した場合は、すぐに、物理的な思考をして、落とし穴を避けようとするのだ。
「あそこの上を歩くと落ちるから、あそこの上を歩くのはやめよう」と思って、落とし穴があるところを避けるのだ。
だから、ほんとうは、思霊主義者が落とし穴を避けた場合は、「どうして、自分は、普段、落ちると思うから落ちるなどと言っているのに、いざ現実的な場面になると、落とし穴を避けてしまうのだろう?」ということについて、ほんとうは、考えなければならないのである。
思霊主義者なら、落とし穴が見えているときも、「落ちると思うから落ちる」「落ちないと思えば落ちない」と思って、落とし穴の上を歩こうとしなければならないのである。
そして、落ちたら、落ちたということを、認識しなければならないのである。
つまり、「落ちると思うから落ちるのだ」という考え方はまちがった考え方だということを、認識しなければならないのである。「落ちないと思えば、落ちない」という考え方は、まちがった考え方だということを、認識しなければらないのである。
「落ちないと思えば、落ちない」と思って、歩いたけど、「落ちた」ということを、認識しなければならないのだ。
ところが、思霊主義者は「見てわかること」だと、途端に、物理法則にしたがった現実的な思考をしてしまうのである。
そして、思霊主義者は、自分が現実的な思考をしているということを、無視してしまうのである。
だから、「思ったことが現実化する」というような考え方が、思霊主義者のなかで、くずれないままなのである。
思霊主義者だって、現実の生活場面では、実際には、物理法則したがった考え方を優先して、思霊法則にしたがった考え方を軽視しているのである。
現実的な場面では、思霊主義者といえども、現実を無視せずに、思霊思考におちいらずに、現実を判断して、行動しているのである。
ただし、思霊主義者は「現実を無視せずに、言霊思考におちいらずに、現実を判断して、行動している」ということに、まったく気がつかないのである。
思霊法則にしたがわずに、物理法則にしたがって行動している自分というものを、認めることができないのである。都合よく、(自分の真の姿を)無視してしまっているのである。認識しないことにしてしまっているのである。思霊主義者は無自覚なままだ。
* * *
落とし穴ではなくて、ゲロでもいい。
ゲロが、道路の上にあったとする。このまま進むと、踏んでしまう。その場合どうするか?
思霊主義者だって、ゲロを避けようとするのである。ゲロを踏まないようにするのである。「ゲロを踏むと思うからげろを踏んでしまう」「げろを踏まないと思えば、ゲロを踏まない」と思って、そのまま進んでゲロを踏んでしまうわけではない。
ゲロがあったら、避けようとするのだ。
犬のフンでもおなじだ。犬のフンがあるということがわかったら、避けようとする。ネズミの死骸があったら避けようとする。なんの汚れだか知らないけど、汚れたところがあったら、避けようとする。
避けて通る。
踏まないように気をつける。
「踏むと思うから踏む」「踏まないと思えば踏まない」などと考えて、そのまま、踏む経路を歩くわけじゃない。
気がついたらよける。
気がつかない場合は、よけずに進んでしまう。
ゲロを踏んでしまったときは、そこにゲロがあると気がつかずに、足を踏み入れ、ゲロを踏んだあとに、ゲロを踏んだと認識するのだ。
これは、まさしく、「暗いことを考えなかった場合」なのである。
「ゲロを踏んでしまう」という暗いことを考えずに、ゲロに進む経路(道すじ)の上を、歩いてしまったから、ゲロを踏んでしまったのだ。
ゲロに気がつかない状態というのは、まさしく、「このまま歩くと、ゲロを踏んでしまう」という「暗いこと」に気がつかない状態なのである。
落とし穴でいえば、「落ちる」と思っていない状態なのである。落とし穴があるということに、気がつかないで、落とし穴に落ちる経路の上を歩いている状態なのである。この状態のとき、人はたしかに暗いことを考えていないのだけど、暗い出来事が発生するように、行動しているのである。
* * *
意識の集中というのがある。言霊主義者がどういう説明を受けるかということだ。
たとえば、「右を見ると右に進んでしまう」ということを言われるのだ。そういうふうに説明される。けど、右を見ても、まっすぐに進もうと思っているときは、すぐに、前を見て、先に進もうとする。
確かに、人間は、見た方向に進んでしまうというところがある。
けど、それと、「思ったことが現実化する」「思わなかったことは現実化しない」ということはちがう話だ。
まちがった説明をうけて、まちがったことを信じてしまうのだ。
例としてあがっていることが不適切なのである。
ようするに、その例からは、「思ったことが現実化する」「思わなかったことは現実化しない」ということは、言えない。言えないのだけど、言葉たくみに説明されると、「思ったことが現実化する」「思わなかったことは現実化しない」ということを信じてしまう。
これ、トリックなんだよ。意識の集中と、意識が集中しているところに、行こうとする性質はあるのだけど、それは、思霊とは関係がないことなんだよ。
* * *
右を見ると右に進んでしまうということは、ゲロの話に置き換えると、ゲロに気がついて、ゲロを見ていると、ゲロのある方向に進んでしまうということになる。
ちがう。
ゲロを見て、ゲロに気がついたら、ゲロを避けるようにする。言霊主義者だって、思霊主義者だって、実際にはそうしている。
ところが、「ゲロに気がつくと、ゲロを見てしまう。ゲロを見てしまったら、ゲロがある方向に進んで、ゲロを踏んでしまう」……と考えているのが、言霊主義者であり、思霊主義者なのだ。
言霊主義者や思霊主義者は「ゲロに気がつかなければいいんだ。ゲロを踏んでしまうという暗いことを考えなければ、げろを踏むことはない」と考えてしまうのである。
右を向くと右に行ってしまうというのは、ひとつのたとえであり、すべの例について語っているわけではないのである。
運転中に右を向くことはあるけど、だから、すぐに、右にハンドルを切って、右に行ってしまうのか? そんなことはない。
問題なのは、言霊主義者や思霊主義者が、いったんは暗いことを考えたのに、自分が、いったんは暗いことを考えたということに気がつかないことなのだ。
そして、自分が、回避行動をとったということに気がつかないことなのだ。
言霊主義者や思霊主義者だって、現実的な問題には現実的に対処しているのである。その対処の過程でおこなわれる思考は、物理的な思考なのである。
言霊的な思考や思霊的な思考ではないのである。
言霊主義者だって、思霊主義者だって、三メートル先にゲロがある場合は、ゲロに気がついて、ゲロを避けるのである。
言霊主義者だって、思霊主義者だって、「ゲロに気がつかないようにすれば、ゲロを踏むことはないので、ゲロに気がつかないようにしよう」とか、「ゲロがあるということに気がついてしまうと、ゲロを踏むことになるので、ゲロに気がつかないようにしよう」とかということは、考えないのである。
言霊主義者だって、思霊主義者だって、ゲロを見たら、ゲロを避けることができるのである。ゲロを見たから、ゲロがある方向に進んで、ゲロを踏んでしまうということはない。
* * *
おカネについて考えてみよう。
普通の人は「このままおカネを使っていると、赤字になってしまう」といったんは、暗いことを考えて、おカネをなるべく使わないようにしているのである。言霊主義者だって思霊主義者だって、普段生活のなかでは、そう考えるのである。
「赤字になってしまう」と暗いことを考えると、実際に赤字になってしまうので、赤字になるということは考えないようにして、そのまま、おカネを使い続けるわけではない。
むしろ、そのまま、おカネを使い続けるのは、よくないことなのである。
そのままおカネを使い続けると、実際に!赤字になってしまうのである。「赤字になってしまう」と暗いことを考えないと、そのまま、おカネを使い続けて、実際に!赤字になってしまうのである。
この場合、問題なのは、おカネを使いすぎているということであって、おカネを使いすぎていると考えることではない。
おカネを使いすぎているということは、暗いことなのである。暗いことを考えないと、逆に、そのまま、おカネを使い続けて、赤字になってしまうのである。
暗いことを考えないようにすれば、暗い結果をさけられるというのが、そもそも、まちがった考え方なのである。暗いことを考えないようにしたから、暗い結果を招来してしまうのである。
問題なのは、言霊主義者も思霊主義者も、現実生活のなかでは、いったんは、暗いことを考えて、普通に回避行動をしているのに、それについて、まったく自覚がないということなのだ。
だから、「思ったことが現実化してしまう」と考えるのだ。
だから、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」と考えしまうのだ。
これは、夢、希望、期待などがかかわる部分で、ある程度、空想的な部分があることなのだ。
いっぽう、道の上にあるゲロとか、横から飛び出してくる人とか、貯金不足とかという、現実的な問題に関しては……言霊主義者といえども、思霊主義者といえども……現実的に対処しているのである。
いったんは、暗いことを考えているのである。いったんは、回避したほうがいいことについて、思いを巡らしているのである。
あまりにも、日常的だから、現実的な問題に関しては、暗いことを普通に考えて対処しているということに、言霊主義者や思霊主義者は、気がつかない。
問題は、そういう思考スタイルを採用しているのに、そういう思考スタイルを採用しているということに気がつかないことなのだ。そういう思考スタイルというのは、現実的な思考スタイルのことだ。言霊思考や思霊思考が介在しない!思考スタイルのことだ。
実際には、いったんは、暗いことを考えて、回避行動をしているのに、(本人は)暗いことを考えたという自覚がないのだ。
だから、いつまでも、まちがった考え方に取りつかれているのである。
精神世界人は、「見ないようにすること」や、「気がつかないようにすること」で、暗い出来事が発生しないようにすることができると思い込んでいるけど、それはちがう。
見ないようにすることや、気がつかないようにすることは、無防備な状態を作り出すのである。
むしろ、将来のある時期において、暗い出来事をつくりだしてしまう。
精神世界の人だって、現実的な問題に関しては、とっさに暗いことを考えて、暗いことを回避するような行動をしているのである。
なんで、これに気がつかないかな?
精神世界の人が「暗いこと」だと思っていることは、あるていど抽象的で、空想的な部分があることなのである。
たとえば、将来に関する漠然とした不安などだ。
精神世界の人だって、ゲロや、飛び出してくる人や、現実的な金銭問題に関しては、ちゃんと、いったんは、暗いことを考えて、暗いことを回避する行動をしている。
抽象的で空想的な部分があることに関しては、暗いこと考えないようにするということは、まあまあ、有効なことだ。
これは、現実感が薄いことで、現実する可能性がないことか、現実する可能性があるにしろ発生する確率が、比較的に言って、低いことだからだ。
実は、明るいことに関しても、抽象的で空想的な部分があるのだ。だから、「夢、希望、期待」がかかわることについて、特に、言霊の話や思霊の話が出てくるのである。
* * *
「気がつかないことで、暗いことを避けることができるかというと、できない」ということだ。気がつかなければ、暗いことが起こらないというわけではない。
気がつかなければ、暗いことが起こらないと思っている人たちがいるのだ。
「ゲロがあることに気がつかなければ、ゲロを踏むことはない」という、かわった考え方だ。
けど、「思ったことが現実化する」とか「言ったことが現実化する」というような精神世界的な思考にこだわっていると、「ゲロがあることに気がつかなければ、ゲロを踏むことはない」というような……かわった考え方をするようになるのである。
これは、むしろ、現実的な問題に対して、無防備になるということを意味している。
気がつかないようにして、暗い出来事について考えなければ、暗い出来事が起こらないようにすることができるという考え方自体が、まちがっている。気がつかないことで、制御できないのだ。
彼らは、気がつかないことで、暗い出来事が起こることを制御できると考えているのだけど、制御できない。
「気がつかないことで、暗い出来事が起こることを制御できる」という考え方は、言霊思考や思霊思考から、必然的に導き出される思考スタイルなのである。
けど、この思考スタイルを採用していると、現実な問題に対処できなくなってしまう。むしろ危険な状態を作り出してしまう。現実的な問題というのは、現実的に高確率で起こりえる問題だ。あるいは、すでに起こった問題だ。
ちょっと話のベクトルがちがうけど、現実的な問題というのは、物理法則にしたがって発生するのである。言霊法則にしたがって発生するのではない。思霊法則にしたがって発生するのではない。
だから、現実のなかにいる言霊主義者や思霊主義者は……本人たちが、どう思っているか別として、現実のなかでは、物理法則にしたがって、行動しているのである。
認知やメタ認知が、物理法則にしたがった、推論を可能としているのである。言霊主義者や思霊主義者においても……。
* * *
見た方向に動くというのは、本能的な行動と学習行動が組み合わさったものだと思う。しかし、すべての場合においてそれが成り立っているかというとそうではないのである。
危険な存在を見たら、避けようとするも、本能的な行動と学習行動が組み合わさったものだと思う。「やばい存在」を見たら、そっちの方向に、体を動かすことよりも、そっちの方向から逃れようとして体を動かすことのほうが多い。
見るというのは、たいていの場合、目で見るということを意味している。バッターボックスに立ったら、ボールをよく見ようとする。見た方向に体を動かすのであれば、ボールが目にあたるように体を動かすことになる。
まあ、野球のボールが接近しているのを見たら、顔面をボールの前に動かすなんてことは、普通の人はしない。
アニメや漫画で、ぼーっとしている主人公に、サッカーボールがあたるというような描写があるけど、これも、サッカーボールに気がつかないから、サッカーボールが主人公のからだにあたってしまうのである。たとえば、頭とか……。
ボールが頭にぶつかりそうだったら、よけようとするのが、人間だ。
もちろん、サッカーをしていて、ヘッディングシュートを決めたい場合は、ボールに、頭をぶつけようとする。
だから、ボールの接近に対して、人間がとる行動は、場面場面によってちがう。背後の文脈によってちがうのだ。ボールが接近していて、そのボールを見たとしても、そのボールのほうに体を動かすとは、かぎらない。とくに、顔面を動かすとは、かぎらない。
けど、「見ている方向に体を動かす」「見たものに向かって体を動かす」ということは、なんとなく納得しやすいことだから、精神世界の話をするときに、例としてあがるのだ。どうして、なんとなく納得しやすいことかというと、実際にそういう場合が多いからだ。
けど、「だから、言霊が正しい」ということにはならないし、「だから、思ったことが現実化する」ということにはならない。