「俺がこまっている」ということが、兄貴にはわからないんだよなぁ。どれだけ言っても、わからない。
普通の人だったら、あれだけでかい音で鳴らせば、横の部屋の人がこまるということは、言われなくてもわかることなんだよ。
けど、何万回、十何万回言われても、わからないままなんだよ。だから、「俺がまったく気にしていない」と思って、ずっと、鳴らしている状態なんだよな。こっちがどれだけ、地獄かわかってない。
どれだけ言っても、きちがい兄貴が、わからない。
この「わからなさ」というのが、異常なんだよ。だから、兄貴がわからないと言うことが、「よその人」にはわからない。だから、俺が誤解をうける。
そして、よその人は、けっきょく、兄貴みたいな家族に、騒音でたたられていないんだよ。だから、どういう状態になるのか、わかってない。
だから、自分なら影響をうけないという前提で「そんなの、関係がない」「影響なんてない」と言いやがる。これがどれだけ腹立たしいことか、これまた、よその人にはわからない。
きちがい兄貴の「わからなさ」というのは、きちがい親父の「わからなさ」とおなじなんだよ。きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で、きちがいヘビメタを、思いっきりでかい音で鳴らす。
スピーカーの位置から考えれば、きちがい兄貴の立ち位置よりも、ぼくの部屋の壁のほうがスピーカーに近いのである。
このスピーカーも、きちがい兄貴が鬼のようにバイトをして買った、ものすごく高いスピーカーなんだよ。「自分でバイトをして買ったスピーカーだから、一切合切、文句を言われる筋合いがない」という思考になってしまう。
実際、きちがい親父は、兄貴がバイトをして買ったスピーカーだから文句を言えなかった。
自分がバイトをして買ったスピーカーだから、どれだけ鳴らしても問題ないと考えしまう、きちがいなのである。だれのカネで買ったかなんて関係がないんだよ。でかい音で鳴らしているということが、問題なんだよ。
けど、親父とおなじタイプの気ちがいだから……兄貴は、親父とおなじタイプの気ちがいだから、それがわからない。
ほんとうに、自分がガンマしなければならないことを言われたら、きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で、発狂して、黙りこくって認めない。
けど、これが、「言われた」ということも、わかってないような状態なのである。なにか、不愉快なことを言われたという感じがして、それに猛烈に反応しているだけだか、「言われたことの正確な意味」がわかってない状態なのだ。
だから、何万回言われてもそうやって、きちがいモードではねのけてしまえば、本人は「なにも言われなかった」という設定で、なんの気兼ねもなく、鳴らしてしまう。
だから、鳴らしているあいだじゅう、弟であるぼくに悪いと思ってないのだ。でかすぎる音だと思ってないのだ。
きちがい兄貴が音をゆずるときは、自分がゆずってやりたい分だけ、ゆずってやるということになる。
〇・〇〇〇一デシベルでもゆずってやったら、ゆずってやったということになってしまう。定期テストのときも、本人が七時間鳴らせるなら、七時間鳴らして、一〇時間鳴らせるのであれば一〇時間鳴らして、日曜祭日で一三時間鳴らせるなら、一三時間鳴らしていたのだ。
定期テストというのは、ぼくがうける定期テストね。中間テストとか期末テストとか……。普通、試験の前に(あれだけでかい音で鳴らされたら)こまるというのが、言われなくてもわかるはずなのに、きちがい兄貴はきちがいだから、その日に何十回言われても、わからないんだよ。わからないまま、やり続ける。
ほんとうに、「まったく鳴らしてない」ときとおなじ気分なんだよ。全部の時間、がめてがめてがめて、全部の時間鳴らしたときの俺に対する気持ちと、ヘビメタを鳴らそうと思ってなくて、全部の時間鳴らさなかった時の俺に対する気持ちがおなじなんだよ。
この全部の時間鳴らさなかったときというのは、仮定の話だ。
きちがい兄貴が、ヘビメタに興味をもたず、おもっきり鳴らしたいと思わなかったときの話だ。仮定の話。鳴らしてないのだから、気にしないだろ。別世界の話なのだけど……。その鳴らしてないときの気持ちと、全部の時間、がめて、鳴らしたときの気持ちがおなじなんだよ。……仮定の話なんだけどさ。……仮定の話。
別世界のきちがい兄貴を想定して、別世界のきちがい兄貴が、ヘビメタに興味をもたなかった場合の話だ。
これでなにを言いたいのかというと、ほんとうに、鳴らさなかった場合の気持ちと、全部の時間、自分の意地をとおして、俺がやめろやめろと言っているのに、鳴らしきったときの気持ちがまったくおなじだということを言いたいのだ。そのくらい、気にしてないのである。
たとえば、ほんとうに、なにも鳴らしてなかった場合のことを考えてみよう。なにも鳴らしてないのに、横の部屋の弟が「うるさい音で鳴らすな」と言ってきた場合のことを、仮に考えてみよう。実際にはなにも鳴らしてないのだから、おかしいのは弟だということになる。きちがい兄貴は、実際に鳴らしていないときのように、自分は悪くないと考えているのだ。
ここらへんが、ずれているのである。ここらへんが、きちがい的にずれているのである。普通の人だったら、絶対に、あんな音で鳴らそうと思わない音で鳴らしているのである。普通の人だったら、普通に遠慮して、「でかい音で鳴らすのはやめよう」と思うような音で鳴らしている。
まったく鳴らしてなかった場合ではなくて、たとえば、きちがい兄貴が、フォークギターを鳴らしていた場合について考えてみよう。
フォークギターの音は、まあ、普通の音だ。この場合、鳴らす時間の長さにもよるけど、「そんなにでかい音で鳴らしていないのに、なんなんだ」と思う場合もあるだろう。
きちがい兄貴は、きちがい的にでかい音で鳴らしているのに、フォークギターぐらいの音で鳴らしているつもりなのだ。あるいは、まったく鳴らしていないつもりなのだ。
だから、弟がなにを言ったって、聞いてやる必要はないと考えているわけ。
もっとも、この表現は、きちがい兄貴の無意識的な行動を、かなり意識的な行動に変換して考えた場合の話だ。
* * *
きちがい兄貴のなかでは、思考が成り立っていないのである。ようするに、ほんとうのことを言えば、「フォークギターぐらいの音で鳴らしているのに、なんだ」とさえ思っていない状態なのである。
だけど、態度としては、そういう態度で、自分がやっていることが、非常識な悪いことだとは、まったくまったくまったく、思ってないのだ。そこが、異常なのである。そこが、きちがいなのである。聴力が弱い高齢者が、テレビの音を比較的に言って、うるさい音で鳴らしているというようなものではないのだ。
最初のうちは、きちがい兄貴は、ヘビメタで耳が悪くなっていないので、耳は正常だった。ところが、その正常なときから、ものすごくでかい音で鳴らして、まったくでかい音ではないと考えていたのだ。
思いっきり、どでかい音で鳴らしたかったので、無意識的なレベルで、どでかい音だと認知しないようにしたのだ。だから、どれだけ「でかい音だ」ということを(こっちが)言っても、きちがい認知バリアーによって、(兄貴は)認めないのである。
さっきも書いたけど、きちがい親父のはんだ小手事件のときも、きちがい認知バリアーによって認めないと言うことが発生している。これ、本人にとっては、いいことなのだ。
怒り狂ってはねのけて、自分がやりたいことを押し通すことが手きるので、本人にとっはいいことなのだ。けど、こういう家族と一緒に住んでいる人がすくないので、ぼくが言っていることが、普通の人にはまったく伝わらないのである。
でかい音で鳴らしていれば、でかい音だと認知できるはずだということになる。聴力が正常なのに、どれだけでかい音で鳴らしているかわからなくなるということはないという、前提で、ぼくの話をきくのである。
だから、ほかの人は、「たいした音で鳴ってなかったのだろう」と思ってしまう。そして、「ヘビメタ騒音だとかなんだとか言って、言い話を消している」と考えてしまうのだ。
けど、その人たちが想定している音より……つまり、その人たちが想像している音より、ずっとずっとずっとずっと、でかい音で、きちがい兄貴が鳴らしていた。あの音のでかさで、自分が苦手な音を、ずっと鳴らされていたら、夜、眠れなくなる。
たとえば、午後一一時一一分には鳴りやんでいるとする。じゃあ、午後一一時一一分には、普通に眠れるのかといったら眠れないのである。
けど、「俺だって騒音ぐらいある」と言っている人が、経験している騒音とはちがうので、夜、適切な時間に眠れなくなるという効果があるのである。それがわかってないということは、「俺だってそうぐらいはある」とといっている人の騒音が、たいした騒音じゃないというとがわかる。逆にわかる。
だってそうだろ。おなじように眠れくなるような騒音にさらされた経験がある人は、「ねむれなくなる」ということに、賛成する。