「俺だって苦労した」「わたしだって、苦労した」と言っている人たちがみんな、きちがい的な家族にたたられた経験がない人たちなんだよなぁ。わかってないんだよなぁ。そして、けっきょくは、きちがい的な家族にやられなかったから!社会に適応して生きているのに、それがわかってない。きちがい的な家族に、毎日やられるということが、どういうことなのか、わかってない外部の他者なのである。外部の他者だって、そりゃ、いろいろな困難を経験するだろう。「自分だって苦労した」というのは、ほんとうのことなのだろう。たしかに、苦労したのだと思う。けど、無視の度合いから言って、やはり、きちがい家族という特殊な相手がいる人たちではないのである。これ、そりゃ、わかるよ。きちがい家族のことをガン無視して、普通の家族だと思って発言しているのだから、無理解だというのがわかる。無理解だということは、きちがい家族がもたらす災厄を経験したことがないということなのである。そして、けっきょくは、社会生活や学生生活を家族によって破壊されたわけではないのだから、やはり、家族によってされたことというのは、たいしたことじゃないのである。普通の人は、普通に働いていて、それで、無職にえらそうなことを言うわけだけど、そんなことができない状態になるんだよ。無職にえらそうなことを言っている時点で、めぐまれているやつなんだよ。きちがい家族に、毎日毎日、何年間も何十年間も、たたられたことがないやつなんだよ。
きちがい的な家族にやられたことがないからこそ、社会に適応できるのに、きちがい的な家族にやられたことがない人が、きちがい家族にやられたことがある人に説教をするのである。「そんなのは、関係がない。自分だって苦労した」……これを、どういう立場で言っているかということなんだよ。きちがい家族にやらたから、社会に適応できなくなった……普通に会社員生活ができなくなった人に……おなじ程度の苦労をしたといっているわけだよ。けど、おなじ程度の苦労を経験したら、そんなことを言える側には立っていないわけなんだよ。わからないかな?
きちがい家族に毎日やられるということは、社会生活ができくなるということなのである。きちがい家族に毎日やられなかったから、社会生活ができている状態なのである。社会生活ができているということは、きちがい家族に毎日やられなかったということなのである。まあ、きちがい家族にやられることが、「激しい騒音」のように、生活を破壊するものだとそうなる。これ、ほんとうによそじゃ、絶対にありえないことだから、みんな、経験してないのである。経験してないから、ぼくと同等の苦労はしてないのである。ぼくと同等の苦労をした人は……たとえば、きちがい家族に「激しい騒音」でたたられた人は、みんな、無職になっている。通勤・通学ができなくなっている。ようするに、ぱっとしない学歴になっているはずなんだよ。どれだけ才能があっても、そうなるんだよ。通勤・通学ができないからだになるんだよ。通勤・通学ができないからだになっていないのであれば、それは、ぼくと同等の騒音被害を受けていないということになんだよ。きちがい家族から激しい騒音でたたられたことがないということなんだよ。それに相応するような、長期間の苦労がないということなんだよ。
通勤ができる状態……通って働くことができる状態で、えらそうなことを言うな!! えらそうなことを言うな!!!