それから、もう一つ言っておきたいことがある。それは、実際に、きちがい的な親が、きちがい的なことを、やりきるので、きちがい的な親にたたられている子ども側の人は、ネガティブな気持になりやすいということなのである。
きちがい的な親というのは、きちがい的な親の脳みそにしたがって、普通の人がやらないことをやるのである。普通の人がやる場合は、配慮が必要なことを、まったく配慮しないでやってしまうことも多いのである。
そして、きちがい的な親は、相手がこまっているということが、まったくわからない人なので、相手が「やめてくれ」ということを言ってきた場合には、起こるという反応をする。
その場合、起こって、やりきるわけだから、もともとの不愉快な行為にくわえて、起こられるという不愉快な出来事が付け加わってしまうのである。さらに、もともとの不愉快な行為(迷惑行為を続けてやる)のだから、「やめてくれ」と言ったあとも、ずっと、迷惑行為をやられるということになる。
そして、迷惑行為をしたというつもりがないので、「迷惑行為をしてない」思ったままになってしまうのである。
きちがい的な親側の頭の中で起こっていることは……こういうことなので……迷惑行為をやり続けることになってしまうのである。そうなると、迷惑行為をされる頻度が高くなるのである。
これは、実際に、不愉快なことが頻繁に起こるということだから、もし、普通の愚痴度?で、親の行為について言及した場合、ほかの人から見て、きちがい的な親にやられている子ども側の人が、愚痴の多い人に見えてしまうのである。
いやなことが発生した回数を分母にして、実際にいやなことがあったと言う回数を分子にした値を、愚痴度と呼ぶことにする。いやなことがあったと言うことは、かなしずしも、愚痴を言うことと等価ではない。相手がどのように感じるかが重要なのである。しかし、今回は、いやなことがあったと、だれか言ったら、それを聞いた他人は一〇〇%の確率で愚痴を聞かされたと思うということにする。ようするに、いやなことがあったと言う回数と、愚痴を言った回数がおなじだとする。
以上のことをふまえたうえで、話をすすめる。
たとえば、一〇個いやなことが起こった場合、一個のことについてほかの人に言うという場合の愚痴度は一〇分の一だ。〇・一だということにしておこう。そして、一〇〇個のいやなことが起こった場合、愚痴度が〇・一だと、一〇にいやなことについてほかの人に言うということになるのだ。
愚痴度はおなじなのに、一〇個いやなことが起こる場合は愚痴をあんまり言わない人というとになり、一〇〇のいやなことが起こる場合は、愚痴を言いやすい人だということになるのである。
愚痴度というのは、表面的な意味で、どのくらい愚痴を言うかの度合いのことだから、性格として語られることだ。愚痴を言いやすい人と、愚痴を言いにくい人という具合に、性格として語られる。
しかし、実際に発生個数がちがう場合は、愚痴の言いやすさの度合いとして理解してしまうわけにはいかないのである。性格傾向ではないかもしれないのである。
単位時間当たりの発生個数が問題になっている場合がある。まあ、なにを「いやなこと」と感じるかは、たしかに、人によってちがう。しかし、いやなことだと感じることには一定の傾向があり、ほとんどの人にとっていやなことは、やはり、ほとんどの人にとっていやなことなのである。つまり、なにがいやなことかということについては、確かに個体差があるのだけど、それでも、全体的な傾向がある。事柄と受け止め方の間には、あるていど、人間に共通した受け止め方があると前提して話したほうが、そうではない前提で話した時よりも、えるものが多いので、そうすることにする。つまり、たしかに、受け止め方には個体差があるのだけど、しかし、すべては受け止め方の問題だとは言えない部分があるのである。たとえば、悪臭は、ほとんどの人が、悪臭だと感じる。あるいは、悪臭だと、ほとんどの人が感じるにおいがある。でかい音のすべてが、騒音ではないけど、でかい音は、小さな音よりも、そうおんだとんかんじられるきかいが多いのである。音のでかさと、人間が騒音だと感じるどうかは無関係だと言えない。ある人にとって、そのでかい音が快感をもたらす音だとする。そして、別の人には騒音だと感じるとする。だったら、人によってちがうのだから、全体的な傾向(感じ方の傾向)がないかと言えば、あるのである。だから、すべては受け止め方の問題だとは言えない部分があるのである。
つまり、受け止め方の個体差はあるけど、それでも、完全に受け止め方の問題だとは言えない状況の中で、人は暮らしているのである。このことは、あとでもう一度、考えなければならない。けど、今回は、このくらいにしておこう。
今回言いたいことは、実際に「不愉快だと思う回数」が多ければ、おなじ愚痴度の人でも、愚痴を言う回数が多くなると言うことだ。愚痴を言う傾向(愚痴を言いやすい傾向)はたしかにあると思うけど、いやなことが発生する回数を、無視するわけにはいかないということだ。