たとえば、性格がいい父親がいるとする。そして、性格が悪い父親がいるとする。性格が悪い父親が、迷惑行為をきちがい的な意地でやったとする。
その場合、子ども側の人間が、ネガティブなことを考えたから、子ども側の人間にネガティブなことが発生したわけではないのだ。
ところが、性格が悪い父親を外部環境として持っている子どもの「心の持ち方」の問題にしてしまうのだ。性格が悪い親にやられなかった一般人が、性格が悪い父親にやられた人間の「性格の問題だ」と決めつけてしまう。
これ、子ども側の人間は、父親側の人間の脳みそをかえられないのである。父親側の人間が、発狂的な意地で問題行為をするということを、子ども側の人間がかえることができないのである。
どれだけ言ったって、脳みその問題だから、きちがい的な欲望にかられて、きちがい的な行為をするのである。きちがい的な父親は、きちがい的な脳みそをかかえているから、脳みそ癖によって、ひどい迷惑行為をするのである。
一緒に住んでいれば、きちがい行為の影響をうけるのである。父親側の人間が、父親側の脳みそにしたがって、迷惑をかけているという認知がないまま、きちがい的な迷惑行為をした場合、子ども側の人間が影響をうける。
これは、子ども側の「こころの持ち方」の問題じゃないんだよ。子供側の人間の「受け止め方の問題」じゃないんだよ。ところが、子ども側の「こころの持ち方」の問題にしてしまうのだ。
こういう決めつけが、やられた側の人間にとってどれだけ有害か、一般人はわかってない。どうしてかというと、しくみがわからないからだ。
そして、みんなたしかに、トラブルを抱えているのである。ようするに、どれだけできた親だろうが、親とのトラブルは、生活していればあるわけで、そういう意味で、だれだってトラブルは、かかえているし、だれだって親とのトラブルを経験したことがあるということになる。
なら、普通の親の頭と、きちがい的な親の頭がおなじなのかというと、そうではないのである。
普通の親との間に抱えるトラブルと、きちがい的な親との間に抱えるトラブルは、ちがうのである。ところが、一般人は「自分だって親とのトラブルを経験したことがある」と思えば、そのトラブルは、きちがい的な親をかかえている人間のトラブルといっしょだと、無意識的に、あるいは、意識的に思ってしまうのである。
これも、決めつけなんだけど、本人が、否定することが非常に難しい決めつけなのだ。だって、実際に「自分だって(親との)トラブルを経験したことがある」わけだから、トラブルは経験したということになるし、実際に、「きちがい的な親とのトラブルは経験したことがない」ので、きちがい的な親とのトラブルと普通の親とのトラブルがちがうということは、わからないからである。
なら、それとおなじことが、きちがい的な親にやられた人にも成り立っていると思う人もいるだろう。つまり、きちがい的な親にやられた人は、正常な親に育てられたわけではないので、正常な親とのトラブルの質がわからないといういう主張も成り立つ。
けど、普通の親とのトラブルというのは、きちがい的な親にやられた人が、一般人との間に抱えるトラブルに似ているので「ちがう」というのが、なんとなく、わかるのだ。
ようするに、一般的な親とのトラブルを経験してない人も、一般的な人とのトラブルを経験したことがあるので、類推することができるのだ。
そして、なら、一般的な人も、きちがい的な親にやられた場合のトラブルやトラブルの質のちがいについて、類推できるのではないかということになる。たしかに、類推は可能だ。だから、職場のようなかぎられた場所での異常な人とのトラブルから、異常な家族とのトラブルを類することは可能だ。しかし、必要性と感心の度合いがちがうのである。
そして、一緒に住んでいるということがもつ意味がわからない。いっしょにすんだことがないので、一緒に住んでいるということのもつ意味がわからない。わかりようがないのである。
たとえ、きちがい的な人が職場にいたとしても、職場にいるきちがい的な人は、職場という公的な場所で問題行為をおこなうので、職場の人間……みんなに、きらわれているところがあるのである。
ところが、家族だと、「うち」という閉鎖空間が成り立っているので、ほかの人は、関知しないということになる。この性質は、トラブルの「質」に大きな影響をあたえるのである。
そして、職場などでのきちがい的な人間とのかかわりは、一時的だけど、家という場所でのきちがい的な人間のかかわりは、一時的ではないのである。だから、継続性と閉そく性がちがうのである。
そして、一般人というのは、「親」を「親」としてみなすので、問題が複雑になる。一般人が、ある人にとってある人を「会社の人」とみなした場合と、一般人がある人にとってある人を「親」とみなした場合は、関係性にまつわるコンセプトがぜんぜんちがうということになる。このちがいも、じつはで買い。
ようするに、他者が「親子関係」だとみなす関係と、他者が「職場の関係」だとみなす関係では、他者の介在度がちがうのだ。「親子関係」には口を出さないことになっている。「親子関係」というのは、他人が口を出しにくい関係なのだ。