2025年3月8日土曜日

ところが、Aさんは、自分の「思いの力」によって、雨になったと誤解をするのである

 「思ったから、できた」という場合について考えてみよう。

たとえば「消しゴムを動かそうと思ったから、消しゴムを動かすことができた……だから、思いは現実化する」と考えた場合について、考えてみよう。

この場合、確かに「思った」「から」「思った通りになった」のである。

けど、じゃあ、「だから、思いは現実化する」のかというと、そうではないのだ。

ちがうのだ。

「だから、思いは現実化する」と言う場合は一〇〇%詐欺があり、「例(れい)」と「法則的な言葉」にへだたりがある。

その「例(れい)」が成り立つから、普遍法則として、「思いが現実化する」ということが成り立つとは……じつは……言えないのだ。ここらへんのことがまったくわかってない人たちがいる。

ひとつの例について説明されたあと、普遍法則について語られると、あたかも、普遍法則が、いつも成り立つような気持ちになってしまうのだ。

けど、「へだたり」がある。

理論的ではない。

なんで、これがわからないのか?

たしかに、消しゴムを動かそうと思ったら、たいていの場合は、動かせる。

しかし、動かそうと思ったあと、すぐに死んだ場合は、動かせずに死んでしまうのだから、いつも、動かせるとは限らないのだ。

また、自分が思った通りに身体が動くという前提があるけど、その前提だって、いつも、成り立っているわけではない。

たいていの場合は、腕がある人が、自分の腕をつかって動かすことを前提にしているのだけど、腕がある人ばかりではない。おなじように、たいていの場合は、手がある人が、自分の手を使って動かすことを前提にしているのだけど、手がある人ばかりではない。

けっきょく、思ったあと、自分の身体をつかって、動かしているのである。

この「思ったあと身体をつかって動かす場合」は、たいていの場合において、「思った通り」になる。事実、思ったことが、現実化する。たいていの場合は、そうなる。

けど、だから!!思ったことが現実化するとは言えないのだ。

もう、一〇〇%詐欺のこところでじゅうぶんに説明したので省略する。

今回、言いたいのは、「思った」だけではないということだ。

たしかに、思った。

けど、思っただけではなくて、自分の身体を動かしている。

「思えば、思ったことが現実化する」と言う場合は、「思っただけ」で現実化するという意味をもっているのである。

しかも、ほんとうは、体を動かすのに、体を動かすということが、考えのなかに、入っていないのである。

ようするに、「なんでも思ったことは、思っただけで現実化する」ということと「身体を動かせばどうにかなることについては、思った『あと』身体を動かせば、現実化する」ということは、別のことなのに、おなじこととして語られているのだ。

語られた人の頭の中で、両者の区別がついてないのだ。

まーーったく、区別がついていない。

簡単に説得される人は、区別なく「思いが現実化する」と考えているのである。だまされやすい人たちなのである。

ちがうことについて語られたのに、ちがうことについて語られたという自覚がないのだ。こまったものだ。ちがうことについて語られたことに気がつかない人は、両者の区別をしてないのだから、その通りだと思って、両者の区別をしないまま、今度は、自分が他人に語りだすのである。

「思っただけでそうなる」ということと「思ったあと(思ったことを現実化させるために)行動をしたら、そうなった」ということは、ぜんぜんちがうことなのである。

身体を動かせば、できることに関しては、あたかも、「思えば、思ったことが現実化する」ように思える。

しかし、社会的なことは、自分の身体を動かしても、現実化しないことがあるのである。

ところが、社会的なことに関しても、思えば、思っただけで、自分の身体を動かさなくても、現実化するという意味を込めて「思えば、思ったことが現実化する」と言ってしまう。

ぜんぜんちがうことについて語っているのに、ぜんぜんちがうことについて語っているということがわかってない。

思っただけで、自分の思い通りになることは、案外、少ない。たしょうは、自分身体のことなら、思っただけでそうなる場合がある。たとえば、訓練をすれば、微妙な体温の変化は、自分の意思によって引き起こすことができるのかもしれない。あるいは、自分の脈拍については、自分の意識的な「思い」によって、ある程度!は、制御できるかもしれない。

これは、人間の身体というものを使っているからそうなるのである。

それと、外部の人間がかかわっていることや、自分の身体を動かしても、どうすることもできない自然現象がかかわっていることは、思っても、思ったことが現実化するとは限らないのである。

さらに、「思ったら現実化する」と言う場合は、思ったあとに、ほかの原因で、現実化しているわけで、本人が思ったから、「思いの力」によって現実化したわけではない。「思いの力」を「念力」という言葉に置き換えるとわかりやすいかもしれない。

たとえば、「明日は雨になる」とAさんが思ったとする。Aさんの思いの力によって、雨になったわけではない。ところが、Aさんは、自分の「思いの力」によって、雨になったと誤解をするのである。

これは、幼児的万能感がかかわっている。幼児的万能感は、たぶん、言語の初期的な発達の時期と、因果関係について認識し始める時期が重なるので、脳のなかで、ある程度ネットワークができてしまうことが原因ではないかと思う。

これは、ぼくが勝手に思っているだけだ。

けど、ともかく、幼児的万能感は、大人にもあるのだ。「自分が、明日は雨になると思ったから、雨がふった(雨になった)」と思えるのは、幼児的万能感があるからなのである。

ともかく、普通の人は「思いが現実化する」と言うとき、「思っただけで、現実化した」のか「思ったあと行動をしたから現実化した」のかということについてあんまり考えない。

思っただけで、現実化したと考えるときも、「自分の思いの力で現実化した」のか、「ほかの力(条件を満たしたいろいろな力)によってそれが現実化した」のかということについて、考えない。

それが現実化したということは、結果的に!そうなったということだ。

まず、第一段階で、「思っただけ」なのか「思ったあと行動した」のかちがいについて、誤認識があり、第二段階で、原因について誤認識があるのである。

例としてあがっている「消しゴムを動かそうと思ったから、消しゴムを動かした(結果として、消しゴムが動いた)」ということと「思えば、思ったことが現実化するという法則性がある」ということは、まったくちがう内容を含んでいるのである。

わからないかな?

「消しゴム」の場合は、思っただけではなくて、思ったあと、行動をしているのである。

「思ったから、現実化した」と言えるのだけど、その場合は、日常的な意味としての「原因」をあらわす「から」を使っている。

しかし、実際には、自分の身体をつかって、消しゴムを動かしたのであり、たしかに思ったことが「起点」ではあるけど、思っただけでは、消しゴムは、動かないのだ。何度も言うけど、思っただけでは、消しゴムは、動かない。

これは重要なことだ。

別に「念力」を使って、動かしたわけではない。「思いの力」が、消しゴムを動かしたわけではない。けっきょく、思ったあと、行動をしている。思ったあと、自分の身体を使って、物理的に消しゴムを動かしている。

これは、たしかに、「思ったから」と言える部分を含んでいるのだけど、「思ったから」の「から」がちがうのである。

この場合の「思ったから」はあくまでも、「起点」しか、しめしていないのである。思ったあと、自分の身体を使って、思いを現実化したのである。

結果として、たしかに、消しゴムは動いたのである。

けど、消しゴムは、念力によって動いたわけではない。「思った」から、動いたのではないのだ。

思ったあと、動かす動作をしたので、消しゴムが動いた。思った「から」念力によって、動いたのではなくて、思った「あと」身体を使って、動かす動作をした「から」動いたのだ。

言い方の問題なんだけど、「から」ではなくて、「あと」なんだよ。そして、思っただけではなくて、身体を使って動かしたんだよ。

こういうところに、トッリクがある。

ちがう内容について言っているということがわからないかな?

あたかも、法則として成り立っているような言い方になっているけど、「例」であがったことと「法則性がありそうな文言」とは、ぜんぜんちがう内容を含んでいるのだ。

例と合致することに関しては、日常的な言い方の「から」がからんでいる。

「起点」でしかない。

たしかに「思った」のだ。

思った「から」身体を動かして、結果的に、消しゴムの位置がかわった。だから、日常的な表現だと「から」という表現を使える。

けど、言っている内容がちがうのだ。

*     *     *

「消しゴムを動かそう」と思わなかったら、消しゴムは動かなかったのだから、思いは重要だという言い方について考えてみよう。

思わなかったから結果的に、そうならなかった。これも、思えば、思っただけで、思いが現実化するというまちがった結論を補強するものとして語られることなのだ。

思わなかったから、現実化しなかった。なら、思ったことは現実化するのか?

だましがある。

そして、思わなかったことというのは、自分の思考に関することなのだ。自分の行動に関することなのだ。「明日は雨がふる」と思わなければ、いつも、雨がふらないのか?

ちがうだろ。

「明日は、雨がふる」と思わなくても、雨がふってしまうことがある。これは、自分の身体を動かして、現実化するようなことではないので、「自分が思わなかった」ということとは、まったく関係なく、結果が発生するのだ。


思わないことで、発生させないことができるのかというと、それはちがうのだ。

自分の身体を動かしてやることに関しては、たしかに、思わなかったことで、現実化しないことが多い。だから、全部がそうなのか?

ちがう。

法則性が成り立っているのか?

ちがう。

「(自分が)思わなかったことは現実化しない」という法則なんて成り立っていない。

けど、例として、自分が思わなかったから、自分がしなかったことをあげ、あたかも、「自分(自分が)思わなかったことは現実化しない」という法則が成り立っているようなイメージをあたえるのだ。詐欺。トリック。

*     *     *

「思いが現実化する」という言い方や「思ったから現実化した」という言い方だと、起点として「思ったから」ということが言える。けど、それは、起点として思ったからだ。起点として思って、自分のからだを使って動かしたのだ。

だから、これは、「念力」で動かしたのとは、ちがう。

けど、「思ったから現実化した」と言ってしまう。

消しゴムの場合だと、念力で消しゴムを動かした場合と自分の身体を使って動かした場合は、ちがうのに、そのちがいを、無意識的に無視するのだ。

だから、「思ったから現実化した……。これが正しい」と思うことになる。

たしかに、起点としては、消しゴムを動かそうと思ったということがある。けど、思っただけでは、動かないのである。本人が、本人の身体を使って動かした。

これは、思いの力で、消しゴムを動かしたのとはちがう。ぜんぜんちがう。ところが「おなじだ」と思っているのである。どっちも「思ったから」「移動した(動いた)」と思っているのだ。ぜんぜんちがうことについて言及しているのに、おなじことについて言及しているつもりなのだ。こういうレベルの錯誤がある。 


毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。