2025年3月8日土曜日

ところが、Aさんは、自分の「思いの力」によって、雨になったと誤解をするのである

 「思ったから、できた」という場合について考えてみよう。

たとえば「消しゴムを動かそうと思ったから、消しゴムを動かすことができた……だから、思いは現実化する」と考えた場合について、考えてみよう。

この場合、確かに「思った」「から」「思った通りになった」のである。

けど、じゃあ、「だから、思いは現実化する」のかというと、そうではないのだ。

ちがうのだ。

「だから、思いは現実化する」と言う場合は一〇〇%詐欺があり、「例(れい)」と「法則的な言葉」にへだたりがある。

その「例(れい)」が成り立つから、普遍法則として、「思いが現実化する」ということが成り立つとは……じつは……言えないのだ。ここらへんのことがまったくわかってない人たちがいる。

ひとつの例について説明されたあと、普遍法則について語られると、あたかも、普遍法則が、いつも成り立つような気持ちになってしまうのだ。

けど、「へだたり」がある。

理論的ではない。

なんで、これがわからないのか?

たしかに、消しゴムを動かそうと思ったら、たいていの場合は、動かせる。

しかし、動かそうと思ったあと、すぐに死んだ場合は、動かせずに死んでしまうのだから、いつも、動かせるとは限らないのだ。

また、自分が思った通りに身体が動くという前提があるけど、その前提だって、いつも、成り立っているわけではない。

たいていの場合は、腕がある人が、自分の腕をつかって動かすことを前提にしているのだけど、腕がある人ばかりではない。おなじように、たいていの場合は、手がある人が、自分の手を使って動かすことを前提にしているのだけど、手がある人ばかりではない。

けっきょく、思ったあと、自分の身体をつかって、動かしているのである。

この「思ったあと身体をつかって動かす場合」は、たいていの場合において、「思った通り」になる。事実、思ったことが、現実化する。たいていの場合は、そうなる。

けど、だから!!思ったことが現実化するとは言えないのだ。

もう、一〇〇%詐欺のこところでじゅうぶんに説明したので省略する。

今回、言いたいのは、「思った」だけではないということだ。

たしかに、思った。

けど、思っただけではなくて、自分の身体を動かしている。

「思えば、思ったことが現実化する」と言う場合は、「思っただけ」で現実化するという意味をもっているのである。

しかも、ほんとうは、体を動かすのに、体を動かすということが、考えのなかに、入っていないのである。

ようするに、「なんでも思ったことは、思っただけで現実化する」ということと「身体を動かせばどうにかなることについては、思った『あと』身体を動かせば、現実化する」ということは、別のことなのに、おなじこととして語られているのだ。

語られた人の頭の中で、両者の区別がついてないのだ。

まーーったく、区別がついていない。

簡単に説得される人は、区別なく「思いが現実化する」と考えているのである。だまされやすい人たちなのである。

ちがうことについて語られたのに、ちがうことについて語られたという自覚がないのだ。こまったものだ。ちがうことについて語られたことに気がつかない人は、両者の区別をしてないのだから、その通りだと思って、両者の区別をしないまま、今度は、自分が他人に語りだすのである。

「思っただけでそうなる」ということと「思ったあと(思ったことを現実化させるために)行動をしたら、そうなった」ということは、ぜんぜんちがうことなのである。

身体を動かせば、できることに関しては、あたかも、「思えば、思ったことが現実化する」ように思える。

しかし、社会的なことは、自分の身体を動かしても、現実化しないことがあるのである。

ところが、社会的なことに関しても、思えば、思っただけで、自分の身体を動かさなくても、現実化するという意味を込めて「思えば、思ったことが現実化する」と言ってしまう。

ぜんぜんちがうことについて語っているのに、ぜんぜんちがうことについて語っているということがわかってない。

思っただけで、自分の思い通りになることは、案外、少ない。たしょうは、自分身体のことなら、思っただけでそうなる場合がある。たとえば、訓練をすれば、微妙な体温の変化は、自分の意思によって引き起こすことができるのかもしれない。あるいは、自分の脈拍については、自分の意識的な「思い」によって、ある程度!は、制御できるかもしれない。

これは、人間の身体というものを使っているからそうなるのである。

それと、外部の人間がかかわっていることや、自分の身体を動かしても、どうすることもできない自然現象がかかわっていることは、思っても、思ったことが現実化するとは限らないのである。

さらに、「思ったら現実化する」と言う場合は、思ったあとに、ほかの原因で、現実化しているわけで、本人が思ったから、「思いの力」によって現実化したわけではない。「思いの力」を「念力」という言葉に置き換えるとわかりやすいかもしれない。

たとえば、「明日は雨になる」とAさんが思ったとする。Aさんの思いの力によって、雨になったわけではない。ところが、Aさんは、自分の「思いの力」によって、雨になったと誤解をするのである。

これは、幼児的万能感がかかわっている。幼児的万能感は、たぶん、言語の初期的な発達の時期と、因果関係について認識し始める時期が重なるので、脳のなかで、ある程度ネットワークができてしまうことが原因ではないかと思う。

これは、ぼくが勝手に思っているだけだ。

けど、ともかく、幼児的万能感は、大人にもあるのだ。「自分が、明日は雨になると思ったから、雨がふった(雨になった)」と思えるのは、幼児的万能感があるからなのである。

ともかく、普通の人は「思いが現実化する」と言うとき、「思っただけで、現実化した」のか「思ったあと行動をしたから現実化した」のかということについてあんまり考えない。

思っただけで、現実化したと考えるときも、「自分の思いの力で現実化した」のか、「ほかの力(条件を満たしたいろいろな力)によってそれが現実化した」のかということについて、考えない。

それが現実化したということは、結果的に!そうなったということだ。

まず、第一段階で、「思っただけ」なのか「思ったあと行動した」のかちがいについて、誤認識があり、第二段階で、原因について誤認識があるのである。

例としてあがっている「消しゴムを動かそうと思ったから、消しゴムを動かした(結果として、消しゴムが動いた)」ということと「思えば、思ったことが現実化するという法則性がある」ということは、まったくちがう内容を含んでいるのである。

わからないかな?

「消しゴム」の場合は、思っただけではなくて、思ったあと、行動をしているのである。

「思ったから、現実化した」と言えるのだけど、その場合は、日常的な意味としての「原因」をあらわす「から」を使っている。

しかし、実際には、自分の身体をつかって、消しゴムを動かしたのであり、たしかに思ったことが「起点」ではあるけど、思っただけでは、消しゴムは、動かないのだ。何度も言うけど、思っただけでは、消しゴムは、動かない。

これは重要なことだ。

別に「念力」を使って、動かしたわけではない。「思いの力」が、消しゴムを動かしたわけではない。けっきょく、思ったあと、行動をしている。思ったあと、自分の身体を使って、物理的に消しゴムを動かしている。

これは、たしかに、「思ったから」と言える部分を含んでいるのだけど、「思ったから」の「から」がちがうのである。

この場合の「思ったから」はあくまでも、「起点」しか、しめしていないのである。思ったあと、自分の身体を使って、思いを現実化したのである。

結果として、たしかに、消しゴムは動いたのである。

けど、消しゴムは、念力によって動いたわけではない。「思った」から、動いたのではないのだ。

思ったあと、動かす動作をしたので、消しゴムが動いた。思った「から」念力によって、動いたのではなくて、思った「あと」身体を使って、動かす動作をした「から」動いたのだ。

言い方の問題なんだけど、「から」ではなくて、「あと」なんだよ。そして、思っただけではなくて、身体を使って動かしたんだよ。

こういうところに、トッリクがある。

ちがう内容について言っているということがわからないかな?

あたかも、法則として成り立っているような言い方になっているけど、「例」であがったことと「法則性がありそうな文言」とは、ぜんぜんちがう内容を含んでいるのだ。

例と合致することに関しては、日常的な言い方の「から」がからんでいる。

「起点」でしかない。

たしかに「思った」のだ。

思った「から」身体を動かして、結果的に、消しゴムの位置がかわった。だから、日常的な表現だと「から」という表現を使える。

けど、言っている内容がちがうのだ。

*     *     *

「消しゴムを動かそう」と思わなかったら、消しゴムは動かなかったのだから、思いは重要だという言い方について考えてみよう。

思わなかったから結果的に、そうならなかった。これも、思えば、思っただけで、思いが現実化するというまちがった結論を補強するものとして語られることなのだ。

思わなかったから、現実化しなかった。なら、思ったことは現実化するのか?

だましがある。

そして、思わなかったことというのは、自分の思考に関することなのだ。自分の行動に関することなのだ。「明日は雨がふる」と思わなければ、いつも、雨がふらないのか?

ちがうだろ。

「明日は、雨がふる」と思わなくても、雨がふってしまうことがある。これは、自分の身体を動かして、現実化するようなことではないので、「自分が思わなかった」ということとは、まったく関係なく、結果が発生するのだ。


思わないことで、発生させないことができるのかというと、それはちがうのだ。

自分の身体を動かしてやることに関しては、たしかに、思わなかったことで、現実化しないことが多い。だから、全部がそうなのか?

ちがう。

法則性が成り立っているのか?

ちがう。

「(自分が)思わなかったことは現実化しない」という法則なんて成り立っていない。

けど、例として、自分が思わなかったから、自分がしなかったことをあげ、あたかも、「自分(自分が)思わなかったことは現実化しない」という法則が成り立っているようなイメージをあたえるのだ。詐欺。トリック。

*     *     *

「思いが現実化する」という言い方や「思ったから現実化した」という言い方だと、起点として「思ったから」ということが言える。けど、それは、起点として思ったからだ。起点として思って、自分のからだを使って動かしたのだ。

だから、これは、「念力」で動かしたのとは、ちがう。

けど、「思ったから現実化した」と言ってしまう。

消しゴムの場合だと、念力で消しゴムを動かした場合と自分の身体を使って動かした場合は、ちがうのに、そのちがいを、無意識的に無視するのだ。

だから、「思ったから現実化した……。これが正しい」と思うことになる。

たしかに、起点としては、消しゴムを動かそうと思ったということがある。けど、思っただけでは、動かないのである。本人が、本人の身体を使って動かした。

これは、思いの力で、消しゴムを動かしたのとはちがう。ぜんぜんちがう。ところが「おなじだ」と思っているのである。どっちも「思ったから」「移動した(動いた)」と思っているのだ。ぜんぜんちがうことについて言及しているのに、おなじことについて言及しているつもりなのだ。こういうレベルの錯誤がある。 


2025年3月7日金曜日

思ったか思わなかったかという条件以外の条件を無視しているのである。

起こる確率というのは、条件によって決まる。

だから、条件は非常に重要。条件が、確率を決めているのだから、条件は、めちゃくちゃに重要だ。

ところが、思霊理論は、最初から最後まで、思ったか思わなかったかという条件以外の条件を無視しているのである。

実際には、 思ったか思わなかったかという条件以外の条件が結果に影響をあたえている。思ったか思わなかったかということが、影響をあたえる事象と、影響をあたえない事象がある。

「思った」か「思わなかった」かということは、ひとつの条件なのだけど、これを、固定して考えよう。

その場合、「思った」か「思わなかった」かということよりも、その他の条件が与える影響のほうがでかいことがある。

「思った」か「思わなかった」かということが、〇%の影響をあたえ、その他の条件が一〇〇%の影響をあたえる場合について考えてみよう。

たとえば、天候など、本人の意思とは関係がないものは、「思った」か「思わなかった」かに関係なく、その日のその時刻の、その地域の天候が決まってしまう。本人の思いとは関係がない事象がある。本人の思いとはまったく関係がない事象は、本人の思いとはまったく関係ないのだから、本人の思いとはまったく関係なくしょうじる。

しょうじた結果に関して言えば、生じた結果の影響を本人がうけることはある。これは、その結果が、本人の「新たな条件」になっているということだ。

*     *     *

「思った」か「思わなかった」かということが、大きな影響をあたえ、その他の条件が小さな影響をあたえる場合について考えてみよう。

たとえば、机の上にある消しゴムを動かすということは、「思った」か「思わなかった」かということが、大きな影響をあたえる。けど、この場合も、まず、机の上に消しゴムがあるという条件を満たさなければならないのである。

なので、条件は大きな影響をあたえるということもできる。

まず、消しゴムがなかったら、消しゴムを買いに行って、消しゴムを手に入れたあと、消しゴムを机の上に置かなければならない。消しゴムの入手方法は、他にもある。

だから、なんらかの方法で、消しゴムを手に入れるということを、まず、しなければならない。

すでに、ほかの条件がそろっている状態なのであれば……つまり、これは、さまざまな条件を満たしているということになるのだけど、「意思」が強く影響をあたえることがある。

机の上にある消しゴムを動かそうと思わなかったのであれば、動かさないわけだし、動かそうと思ったから、動かしたわけだから、「意思」は、結果に、大きな影響をあたえている。

けど、そもそも、消しゴムがなかったら、消しゴムを動かすことができないのだから、机の上に消しゴムがあるという条件が、意思以上に大きな影響をあたえているということもできる。

消しゴムがあるかないかという条件について語ったわけだけど、じつは、机があるかどうかという条件も重要だ。机の上に消しゴムがなければ、机の上の消しゴムを動かすことができないのだから、机があるということも重要な条件なのだ。

そして、思ったあと、本人が、死なないということも条件として成立していている。

消しゴムを動かそうと思ったあと、突然、体調が悪くなり倒れて死んでしまった場合は、消しゴムを動かそうと「思った」のに、消しゴムを動かせなかったということになる。

この場合も、消しゴムを動かそうと「思った」かどうかということ以外の条件が、「結果」に影響をあたえている。

*     *     *

もう一つ例をあげておく。たとえば、トマトを食べようと思ったとする。そして、家にトマトがなかったとする。その場合、店にトマトを買い行くというような行為が必要になる。

普通に動ける状態で、買いに行く時間があるのであれば、買いに行って、トマトをゲットすることができる。

しかし、これも、店にトマトがあるかどうかということが、結果に影響をあたえる。いつもよく行く店にはなかったとする。

けど、別の店に行くことを思い立って、別の店に行ってトマトを買ったとする。そのあと、家に帰って、家でトマトを食べたとする。次の店には、トマトがあったわけだけど、これだって、次の店にトマトがあるかどうかという条件が結果に影響をあたえている。

影響をあたえない事象ほうが多い。圧倒的に多い。だいたい、オギャーと生まれるまえから、さまざまな条件が影響をあたえているので、「さまざまな条件の影響をうけない思考」というのが、ほんとうにあるのかどうかわからない。

たぶん、ないんじゃないかな。

2025年3月6日木曜日

『原因すりかえ詐欺』

 『原因すりかえ詐欺』のようなものが成り立っていて、原因がすりかえられているのである。ほんとうは、条件が影響をあたえているのに、ただ単に「思ったから」こうなったと思うようにしむけられているのである。

「思うこと自体」も、じつは、さまざまな「条件」がかかわっている。脳みその状態だって、条件のうちのひとつだ。

条件と「意思」はじつは、切り離して考えることができないぐらいに、接近している。実際に、意思と脳みその状態を切り離して考えることはできないだろう。

しかし、そういうレベルの話ではなくても、「意思」だけが、結果に反映していると思わせるような説明のしかたをしているのである。その説明のなかには「条件」は一切合切、出てこない。

まあ、「思う」ということをひとつの条件として考えた場合、「思う」ということ以外の条件については、まったく語られないということになる。

「こう思った」……「だからこうなった」という思考スタイルを採用しているのである。

これは、条件が満たされていることで、思えば、普通にほぼ100%の確率でできることに関しては、あたかも、正しいことのように感じられるのである。

しかし、厳密なことを言えば、その場合も、じつは、ほぼ100%の確率で可能だという「条件」がかかわっている。「条件」が関係している。

いづれにせよ、精神世界の話というのは、言霊であれ、思霊であれ、引き寄せであれ、すべて、「条件」を無視しているのである。

条件を無視して、「言うか言わないか」を問題にし、「思うか思わないか」を問題にし、「引き寄せ行為をするかどうか」を問題にするのである。

条件はガン無視なのである。

 

2025年3月5日水曜日

一〇〇%詐欺についてずっと、説明してきたので、もう、省略する。

 起こる確率が低いことを心配している場合は、起こる確率が低いのだから、たいていの場合は「落とし穴はないと思って歩いたら、落とし穴に落ちなかった」ということになるのである。

「落ちない」と思って歩いたら、落ちなかった。「だから、思霊理論は正しい」ということにはならない。落ちなかったのは事実だけど、思霊理論は正しくない。

「暗いことを考えなかったら、暗いことが起こらなかった」というケースだから、思霊理論が正しいように思うかもしれないけど、正しくない。なんで、これがわからないのかということが、わからない。一〇〇%詐欺についてずっと、説明してきたので、もう、省略する。

実際に、落とし穴に落ちなかったのは、落とし穴がなかったからだ。あるいは、落とし穴の上を通らなかったからだ。あるいは、落とし穴があるところに、足を踏み入れなかったからだ。

まず、そこに落とし穴がある確率が低いのであれば、たいていの場合は、落とし穴に落ちない。これは、条件によってちがうんだよ。条件のちがいを無視するわけにはいかないだろ。どうして、これがわからないのか、ぜんぜんわからない。

起こる確率が高いことを心配している場合は、起こる確率が高いのだから、たいていの場合は、「落とし穴があると思って歩いたら、落とし穴に落ちた」ということになるのである。

「落ちる」と思って歩いていたら、落ちた。「だから、思霊理論は正しい」といこうことにはならないの。落ちたのは事実だけど、思霊理論は正しくない。

「暗いことを考えたら、暗いことが起こった」というケースだから、思霊理論が正しいように思うかもしれないけど、正しくない。なんで、これがわからないのかということが、わからない。一〇〇%詐欺についてずっと、説明してきたので、もう、省略する。



 

 

2025年3月3日月曜日

精神世界の人だって、ゲロを避ける(2)  その必然性が(やられてない他人には)わからないのである

 もうすでに、きちがい的な家族が、きちがい的な大音量で、自分のきらいな音を鳴らしている場合は、現実的な問題なのである。

もうすでに、現実的な問題が発生しているのに、言霊や思霊で対処できるわけがないだろ。

実際に、「一分以内に、鳴りやむ」と何回言っても、鳴りやまなかった。

現実的な問題について、言霊的解決方法や思霊的解決方法について語るのは、ナンセンス。 現実的な問題について、言霊的解決方法や思霊的解決方法をすすめるのは、ナンセンス。

これ、助言になってないのに、いい助言をしたと(言霊主義者や思霊主義者は)思ってしまう。言霊を信じている人や思霊を信じている人にとっては、言霊的な問題解決方法や思霊的な問題解決方法は、じゅうぶんに現実的な問題解決方法なのである。

けど、相手にとっては、それは、まったく現実的ではない。

これも、言霊主義者だって、本人の現実的な問題に関しては、とくに、言霊を使っていないのである。現実的解決方法だと思ってないから、最初から、現実的な問題に関しては、言霊思考が関与するスキがないのだ。

ようするに、現実的な問題で「余裕がない」と言霊思考にならないのである。

ある程度、問題との距離があり、「余裕がある」と言霊思考になる。

だから、現実度ということを考えた場合、本人のことについては、本人において現実度が高い問題に関しては、現実度が高いということは、わかっているのだけど、相手のことになると、相手の問題だから、本人の現実度が極端にさがるのである。

「本人」と「相手」という言い方をすると、本人の場合は、本人の問題だから、本人にとって現実度が高くて、相手の問題だと、相手の問題なので、本人にとって現実度が低いのである。

だから、普段は、自分の現実的な問題に関しては、言霊思考をしない言霊主義者であっても、相手の問題は、自分にとって現実度が低いので、途端に、言霊思考をしてしまうのである。

すでに発生している問題なのか、それとも、将来(低い確率で)発生する問題なのかということを考えなければならないのである。

これを、区別せずに、「言霊は正しい」「言ったことが現実化する」「思ったことが現実化する」と思っているから、現実的な問題をかかえている人を傷つけるのである。

すでに現実的な問題をかかえている他人を、傷つけるのである。

まちがった助言をして、まちがった助言しているということにまったく気がつかないなんて、ひどいことだと思うけどなぁ。

現実的な問題をかかえているのに、言霊主義ゃや思霊主義者から、現実的ではないことを言われて、問題が増えてしまうだろ。すでに、現実的な理由があって、現実化している問題に関しては、言霊的解決方法や思霊的解決方法は、まったく役に立たないんだよ。無力なんだよ。

*     *     *

きちがい兄貴も言霊主義者も、普段「あたりまえのように」やっていることを、やっていると認識してないのである。けど、もちろん、おなじではない。

言霊主義者の言霊法則の無視は、現実に対応したものなのである。

言霊主義者は、普段、現実主義者で、現実に適応して生きているのである。言霊主義者が、普段も、言霊的な行動をとっていたら、現実に適応できなくなってしまうのである。

言霊主義者は、普段、言霊法則を無視して、現実に適応しているということを、無視しているのである。ごく普通にやっているのに、やっているという感覚がない。

言霊主義者は、自分が言霊法則にしたがってないということを、うまく、認知・認識できないのだ。言霊法則にしたがわず、現実的な行動をしているときは、言霊法則にしたがってないということを、意識することができない。

いっぽう、きちがい兄貴は、よそのうちでは鳴らせないようなでかい音で音楽を鳴らすという逸脱行動をしているのに、逸脱行動をしているということに、気がつくことがないのである。

言霊主義者は、言霊原理にしたがわす、現実原理にしたがって行動しているということに気がつかないわけだから、けっきょく、現実に適応しているのである。

けど、きちがい兄貴は、現実に適応しているとはいえない。きちがい兄貴が無視しているのは、逸脱行為をしている「自分」なのである。「自分」というのは、きちがい兄貴自身のことだ。

つねに、逸脱行為をしているのに、つねに、逸脱行為を「している」という自覚がないし、つねに、逸脱行為を「した」という自覚がないのだ。うちのきちがい兄貴には自覚がない。

そのぶんの、「ズレ」がぼくのほうに、つかれとして、あらわれてしまうのである。勉強することができないということにあらわれてしまうのである。「宿題を忘れる(宿題をやらないまま登校する)」ということにあらわれてしまうのである。

きちがい兄貴が逸脱行為をしているのに、俺が逸脱行為をしているように思われてしまう。

きちがい兄貴が、逸脱行為をするから宿題ができないというのは、鳴っているときの状態から言って、事実なのだけど、その場にいない人には、それがわからないのである。ようするに、「こうなる」という必然性が見えていないのだ。

ヘビメタ騒音が鳴っていれば、宿題ができずに、宿題を忘れるということになるのだけど、その必然性が見えない。

ヘビメタが「かりに」鳴っていても、宿題ぐらいできるはずだと、ほかの人は、思い込んでいる。けど、むりなのだ。

おなじことが、遅刻にもあらわれる。あれだけ鳴らされて、普段、(ヘビメタ騒音がなければ眠れていた時間に)眠れなくなるのは必然なのに、その必然性が(やられてない他人には)わからないのである。

わからなければ、「鳴り終わったら眠れる」「ヘビメタ騒音あびたって、夜になったら眠れる」ということになってしまう。その人のなかで、そういうことになってしまう。

だったら、「エイリがあまえているんだ」「エイリが嘘を言っているのだ」ということになってしまう。その人のなかで、そういうことになってしまう。

精神世界の人だって、ゲロを避ける(1) 「気がつかないことで、暗い出来事が起こることを制御できる」

たとえば、三メートル前に、落とし穴があるとする。落とし穴に気がついた。そのとき、どうるのか?

落とし穴があるから、避けようと思うはずだ。そして、避けて、落とし穴にはまらず、通り抜けることができる。

精神世界の人が言っていることは、「落ちると思うから落ちる」ということだ。

三メートル前に落とし穴があって、それに気がついた。

「落ちると思うからおるのだ。落ちないと思えば落ちない」と言って、穴の上を通り抜けようとしたら、実際には、落ちる。精神世界の人が言っていることは、まさしく、「落ちると思う『から』落ちる」ということだ。

いや、物理法則にしたがって落ちるのでしょう。

歩くということだって、精神世界の人は無視しているけど、物理法則にしたがって歩いているのだ。

精神世界の人が、妄想的なことを考えて、行動しているだけだ。

けど、精神世界の人たちが、ずるいところがある。もし、ほんとうに、落とし穴がある場合は、精神世界の人だって、ちゃんと落とし穴をよけようとする。

「落ちると思うから落ちるんだ」「落ちないと思えば落ちない」なんて……人には言っているけど、本人が、現実的な問題に直面した場合は、すぐに、物理的な思考をして、落とし穴を避けようとするのだ。

「あそこの上を歩くと落ちるから、あそこの上を歩くのはやめよう」と思って、落とし穴があるところを避けるのだ。

だから、ほんとうは、思霊主義者が落とし穴を避けた場合は、「どうして、自分は、普段、落ちると思うから落ちるなどと言っているのに、いざ現実的な場面になると、落とし穴を避けてしまうのだろう?」ということについて、ほんとうは、考えなければならないのである。

思霊主義者なら、落とし穴が見えているときも、「落ちると思うから落ちる」「落ちないと思えば落ちない」と思って、落とし穴の上を歩こうとしなければならないのである。

そして、落ちたら、落ちたということを、認識しなければならないのである。

つまり、「落ちると思うから落ちるのだ」という考え方はまちがった考え方だということを、認識しなければならないのである。「落ちないと思えば、落ちない」という考え方は、まちがった考え方だということを、認識しなければらないのである。

「落ちないと思えば、落ちない」と思って、歩いたけど、「落ちた」ということを、認識しなければならないのだ。

ところが、思霊主義者は「見てわかること」だと、途端に、物理法則にしたがった現実的な思考をしてしまうのである。

そして、思霊主義者は、自分が現実的な思考をしているということを、無視してしまうのである。

だから、「思ったことが現実化する」というような考え方が、思霊主義者のなかで、くずれないままなのである。

思霊主義者だって、現実の生活場面では、実際には、物理法則したがった考え方を優先して、思霊法則にしたがった考え方を軽視しているのである。

現実的な場面では、思霊主義者といえども、現実を無視せずに、思霊思考におちいらずに、現実を判断して、行動しているのである。

ただし、思霊主義者は「現実を無視せずに、言霊思考におちいらずに、現実を判断して、行動している」ということに、まったく気がつかないのである。

思霊法則にしたがわずに、物理法則にしたがって行動している自分というものを、認めることができないのである。都合よく、(自分の真の姿を)無視してしまっているのである。認識しないことにしてしまっているのである。思霊主義者は無自覚なままだ。

*     *     *

落とし穴ではなくて、ゲロでもいい。

ゲロが、道路の上にあったとする。このまま進むと、踏んでしまう。その場合どうするか?

思霊主義者だって、ゲロを避けようとするのである。ゲロを踏まないようにするのである。「ゲロを踏むと思うからげろを踏んでしまう」「げろを踏まないと思えば、ゲロを踏まない」と思って、そのまま進んでゲロを踏んでしまうわけではない。

ゲロがあったら、避けようとするのだ。

犬のフンでもおなじだ。犬のフンがあるということがわかったら、避けようとする。ネズミの死骸があったら避けようとする。なんの汚れだか知らないけど、汚れたところがあったら、避けようとする。

避けて通る。

踏まないように気をつける。

「踏むと思うから踏む」「踏まないと思えば踏まない」などと考えて、そのまま、踏む経路を歩くわけじゃない。

気がついたらよける。

気がつかない場合は、よけずに進んでしまう。

ゲロを踏んでしまったときは、そこにゲロがあると気がつかずに、足を踏み入れ、ゲロを踏んだあとに、ゲロを踏んだと認識するのだ。

これは、まさしく、「暗いことを考えなかった場合」なのである。

「ゲロを踏んでしまう」という暗いことを考えずに、ゲロに進む経路(道すじ)の上を、歩いてしまったから、ゲロを踏んでしまったのだ。

ゲロに気がつかない状態というのは、まさしく、「このまま歩くと、ゲロを踏んでしまう」という「暗いこと」に気がつかない状態なのである。

落とし穴でいえば、「落ちる」と思っていない状態なのである。落とし穴があるということに、気がつかないで、落とし穴に落ちる経路の上を歩いている状態なのである。この状態のとき、人はたしかに暗いことを考えていないのだけど、暗い出来事が発生するように、行動しているのである。

*     *     *

意識の集中というのがある。言霊主義者がどういう説明を受けるかということだ。

たとえば、「右を見ると右に進んでしまう」ということを言われるのだ。そういうふうに説明される。けど、右を見ても、まっすぐに進もうと思っているときは、すぐに、前を見て、先に進もうとする。

確かに、人間は、見た方向に進んでしまうというところがある。

けど、それと、「思ったことが現実化する」「思わなかったことは現実化しない」ということはちがう話だ。

まちがった説明をうけて、まちがったことを信じてしまうのだ。

例としてあがっていることが不適切なのである。

ようするに、その例からは、「思ったことが現実化する」「思わなかったことは現実化しない」ということは、言えない。言えないのだけど、言葉たくみに説明されると、「思ったことが現実化する」「思わなかったことは現実化しない」ということを信じてしまう。

これ、トリックなんだよ。意識の集中と、意識が集中しているところに、行こうとする性質はあるのだけど、それは、思霊とは関係がないことなんだよ。

*     *     *

右を見ると右に進んでしまうということは、ゲロの話に置き換えると、ゲロに気がついて、ゲロを見ていると、ゲロのある方向に進んでしまうということになる。

ちがう。

ゲロを見て、ゲロに気がついたら、ゲロを避けるようにする。言霊主義者だって、思霊主義者だって、実際にはそうしている。

ところが、「ゲロに気がつくと、ゲロを見てしまう。ゲロを見てしまったら、ゲロがある方向に進んで、ゲロを踏んでしまう」……と考えているのが、言霊主義者であり、思霊主義者なのだ。

言霊主義者や思霊主義者は「ゲロに気がつかなければいいんだ。ゲロを踏んでしまうという暗いことを考えなければ、げろを踏むことはない」と考えてしまうのである。

右を向くと右に行ってしまうというのは、ひとつのたとえであり、すべの例について語っているわけではないのである。

運転中に右を向くことはあるけど、だから、すぐに、右にハンドルを切って、右に行ってしまうのか? そんなことはない。

問題なのは、言霊主義者や思霊主義者が、いったんは暗いことを考えたのに、自分が、いったんは暗いことを考えたということに気がつかないことなのだ。

そして、自分が、回避行動をとったということに気がつかないことなのだ。

言霊主義者や思霊主義者だって、現実的な問題には現実的に対処しているのである。その対処の過程でおこなわれる思考は、物理的な思考なのである。

言霊的な思考や思霊的な思考ではないのである。

言霊主義者だって、思霊主義者だって、三メートル先にゲロがある場合は、ゲロに気がついて、ゲロを避けるのである。

言霊主義者だって、思霊主義者だって、「ゲロに気がつかないようにすれば、ゲロを踏むことはないので、ゲロに気がつかないようにしよう」とか、「ゲロがあるということに気がついてしまうと、ゲロを踏むことになるので、ゲロに気がつかないようにしよう」とかということは、考えないのである。

言霊主義者だって、思霊主義者だって、ゲロを見たら、ゲロを避けることができるのである。ゲロを見たから、ゲロがある方向に進んで、ゲロを踏んでしまうということはない。

*     *     *


おカネについて考えてみよう。


普通の人は「このままおカネを使っていると、赤字になってしまう」といったんは、暗いことを考えて、おカネをなるべく使わないようにしているのである。言霊主義者だって思霊主義者だって、普段生活のなかでは、そう考えるのである。

「赤字になってしまう」と暗いことを考えると、実際に赤字になってしまうので、赤字になるということは考えないようにして、そのまま、おカネを使い続けるわけではない。

むしろ、そのまま、おカネを使い続けるのは、よくないことなのである。

そのままおカネを使い続けると、実際に!赤字になってしまうのである。「赤字になってしまう」と暗いことを考えないと、そのまま、おカネを使い続けて、実際に!赤字になってしまうのである。

この場合、問題なのは、おカネを使いすぎているということであって、おカネを使いすぎていると考えることではない。

おカネを使いすぎているということは、暗いことなのである。暗いことを考えないと、逆に、そのまま、おカネを使い続けて、赤字になってしまうのである。

暗いことを考えないようにすれば、暗い結果をさけられるというのが、そもそも、まちがった考え方なのである。暗いことを考えないようにしたから、暗い結果を招来してしまうのである。

問題なのは、言霊主義者も思霊主義者も、現実生活のなかでは、いったんは、暗いことを考えて、普通に回避行動をしているのに、それについて、まったく自覚がないということなのだ。

だから、「思ったことが現実化してしまう」と考えるのだ。

だから、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」と考えしまうのだ。

これは、夢、希望、期待などがかかわる部分で、ある程度、空想的な部分があることなのだ。

いっぽう、道の上にあるゲロとか、横から飛び出してくる人とか、貯金不足とかという、現実的な問題に関しては……言霊主義者といえども、思霊主義者といえども……現実的に対処しているのである。

いったんは、暗いことを考えているのである。いったんは、回避したほうがいいことについて、思いを巡らしているのである。

あまりにも、日常的だから、現実的な問題に関しては、暗いことを普通に考えて対処しているということに、言霊主義者や思霊主義者は、気がつかない。

問題は、そういう思考スタイルを採用しているのに、そういう思考スタイルを採用しているということに気がつかないことなのだ。そういう思考スタイルというのは、現実的な思考スタイルのことだ。言霊思考や思霊思考が介在しない!思考スタイルのことだ。

実際には、いったんは、暗いことを考えて、回避行動をしているのに、(本人は)暗いことを考えたという自覚がないのだ。

だから、いつまでも、まちがった考え方に取りつかれているのである。

精神世界人は、「見ないようにすること」や、「気がつかないようにすること」で、暗い出来事が発生しないようにすることができると思い込んでいるけど、それはちがう。

見ないようにすることや、気がつかないようにすることは、無防備な状態を作り出すのである。

むしろ、将来のある時期において、暗い出来事をつくりだしてしまう。

精神世界の人だって、現実的な問題に関しては、とっさに暗いことを考えて、暗いことを回避するような行動をしているのである。

なんで、これに気がつかないかな?

精神世界の人が「暗いこと」だと思っていることは、あるていど抽象的で、空想的な部分があることなのである。

たとえば、将来に関する漠然とした不安などだ。

精神世界の人だって、ゲロや、飛び出してくる人や、現実的な金銭問題に関しては、ちゃんと、いったんは、暗いことを考えて、暗いことを回避する行動をしている。

抽象的で空想的な部分があることに関しては、暗いこと考えないようにするということは、まあまあ、有効なことだ。

これは、現実感が薄いことで、現実する可能性がないことか、現実する可能性があるにしろ発生する確率が、比較的に言って、低いことだからだ。

実は、明るいことに関しても、抽象的で空想的な部分があるのだ。だから、「夢、希望、期待」がかかわることについて、特に、言霊の話や思霊の話が出てくるのである。

*     *     *

「気がつかないことで、暗いことを避けることができるかというと、できない」ということだ。気がつかなければ、暗いことが起こらないというわけではない。

気がつかなければ、暗いことが起こらないと思っている人たちがいるのだ。

「ゲロがあることに気がつかなければ、ゲロを踏むことはない」という、かわった考え方だ。

けど、「思ったことが現実化する」とか「言ったことが現実化する」というような精神世界的な思考にこだわっていると、「ゲロがあることに気がつかなければ、ゲロを踏むことはない」というような……かわった考え方をするようになるのである。

これは、むしろ、現実的な問題に対して、無防備になるということを意味している。

気がつかないようにして、暗い出来事について考えなければ、暗い出来事が起こらないようにすることができるという考え方自体が、まちがっている。気がつかないことで、制御できないのだ。

彼らは、気がつかないことで、暗い出来事が起こることを制御できると考えているのだけど、制御できない。

「気がつかないことで、暗い出来事が起こることを制御できる」という考え方は、言霊思考や思霊思考から、必然的に導き出される思考スタイルなのである。

けど、この思考スタイルを採用していると、現実な問題に対処できなくなってしまう。むしろ危険な状態を作り出してしまう。現実的な問題というのは、現実的に高確率で起こりえる問題だ。あるいは、すでに起こった問題だ。

ちょっと話のベクトルがちがうけど、現実的な問題というのは、物理法則にしたがって発生するのである。言霊法則にしたがって発生するのではない。思霊法則にしたがって発生するのではない。

だから、現実のなかにいる言霊主義者や思霊主義者は……本人たちが、どう思っているか別として、現実のなかでは、物理法則にしたがって、行動しているのである。

認知やメタ認知が、物理法則にしたがった、推論を可能としているのである。言霊主義者や思霊主義者においても……。

*     *     *

見た方向に動くというのは、本能的な行動と学習行動が組み合わさったものだと思う。しかし、すべての場合においてそれが成り立っているかというとそうではないのである。

危険な存在を見たら、避けようとするも、本能的な行動と学習行動が組み合わさったものだと思う。「やばい存在」を見たら、そっちの方向に、体を動かすことよりも、そっちの方向から逃れようとして体を動かすことのほうが多い。 

見るというのは、たいていの場合、目で見るということを意味している。バッターボックスに立ったら、ボールをよく見ようとする。見た方向に体を動かすのであれば、ボールが目にあたるように体を動かすことになる。

まあ、野球のボールが接近しているのを見たら、顔面をボールの前に動かすなんてことは、普通の人はしない。

アニメや漫画で、ぼーっとしている主人公に、サッカーボールがあたるというような描写があるけど、これも、サッカーボールに気がつかないから、サッカーボールが主人公のからだにあたってしまうのである。たとえば、頭とか……。

ボールが頭にぶつかりそうだったら、よけようとするのが、人間だ。

もちろん、サッカーをしていて、ヘッディングシュートを決めたい場合は、ボールに、頭をぶつけようとする。

だから、ボールの接近に対して、人間がとる行動は、場面場面によってちがう。背後の文脈によってちがうのだ。ボールが接近していて、そのボールを見たとしても、そのボールのほうに体を動かすとは、かぎらない。とくに、顔面を動かすとは、かぎらない。

けど、「見ている方向に体を動かす」「見たものに向かって体を動かす」ということは、なんとなく納得しやすいことだから、精神世界の話をするときに、例としてあがるのだ。どうして、なんとなく納得しやすいことかというと、実際にそういう場合が多いからだ。

けど、「だから、言霊が正しい」ということにはならないし、「だから、思ったことが現実化する」ということにはならない。

2025年3月1日土曜日

「こだわっているからダメなんだ」

 きちがい兄貴が、ヘビメタを「思いっきり」でかい音で鳴らすことに、こだわった。こだわって、ゆずらなかった。俺が「ヘビメタ騒音にこだわっている」わけじゃないのである。俺が、ヘビメタ騒音にこだわっているように見えるのは、「ヘビメタ騒音にこだわっている」とみなすやつが、「影響の度合い」について勘違いをしているから、こだわっているように見えるだけなのである。ようするに、影響をうけて当たり前なのに、影響をうけないことが可能だと考えているから、俺がこだわっているように見えるだけなのである。影響をうけないことは可能じゃない。ところが、バカだから、あるいは、うぬぼれやだから、それがわかってないだけなのである。もちろん、本人だって、おなじことをやられて、おなじことを経験すれば、わかるようになる。けっきょく、この手のバカは、経験がないからわかってないだけなのである。この手のバカだって、家族から、おなじことをやられ続けたら、表面的には、「こだわっている」状態になるのである。これ、表面的にはというのは、バカな他人から見れば……ということだ。バカな他人は、やられてないから、影響がない。たとえば、俺に対して「こだわっているからダメなんだ」と言った他人がいたとしよう。この他人をバカな他人Aさんだとする。バカな他人Aさんは、自分がやられていないので、影響を認めていないだけなのである。かりに、バカな他人Aさんが、ヘビメタを好きだとする。その場合は、バカな他人Aさんにとってきらいな音が鳴っていたとする。至近距離で、大音量で、自分のきらいな音が鳴っていたら、それが気になるのである。気になって勉強することができない状態になるのである。その状態のことを、「きらいな音を気にしている状態だ」とか「きらいな音にこだわっている状態だ」と(バカな他人ではない人が)思っているだけなのである。じゃあ、バカな他人ではない人を、他人Bさんだとする。他人Bさんは、バカな他人Aさんが、「きらいな音にこだわっているからダメなんだ」と言うわけだ。

まあ、この言い方はやめよう。ともかく、こまっている人と、こまってない人がいるとする。こまっている人は、こまっているから、こまっているのに、こまってない人は、それがわからない。こまってない人から見ると、こまっている人が、「そのこと」にこだわっているように見えるのである。だから、浅はかな考えで「こだわっているからダメなんだ」とダメ出しをする。こういうやつが、どれだけ多いか。必然性がわかってないだけじゃないか。

相手の状態を無視して、相手における必然性を無視しているので、不必要なことにこだわっているように見えるのである。不必要なことというのは、こだわる必要がないことだ。けど、こだわる必要がないものだと思えるのは、やられてないからだ。こまってないからだ。こういうレベルの人間がどれだけ多いか。

ほんとうに、きちがい兄貴に(うちで)やられると、よそのやつから、バカにされるようになる。こまってないよそのやつが、こまっている俺をバカにするのである。どうしても、できなくなるからこまっているのに、(きちがい兄貴の行動で)できなくなるからこまるという必然性を、無視するやつが、わいて出てくるのである。こういう、失礼なやつばかりだ。こいつらは、えらそうに、説教をし始めるけど、必然性がわかってないだけのやつなんだよ。自分だって、ほんとうに、同等のことをやられたら、こまるわけ。必然的に困ることをやられたら困るんだよ。その人だって困るんだよ。けど、夜郎自大で、バカだから、「こまらない」「自分なら平気だ」と思って、まちがったことを言い始めるのである。まちがっている。

ほんとうに失礼だな。きちがい兄貴みたいな感覚で、きちがい兄貴みたいなことをするやつが、珍しいので、ほかの人は、やられていないだけなのである。こいつら、ほんとうに、弱っている人間に、説教して、いい気になっているだけだ。まちがっている。前提がまちがっている。平気じゃないのである。そいつだって、おなじことをやられたら、普通にこまるのである。つかれたら、つかれるのである。けど、「つかれにこだわっている」ということになってしまう。「つかれてできなかったことに、こだわっている」ということになってしまう。 

あんなでかい音で、自分のきらいな音が、一日に、何時間も何時間も鳴っていたら、こまるんだよ。こういう基本的なことを、ガン無視して、自分なら平気だという前提で、クソを言ってくるやつが、多すぎる。頭がわるいことを言ってくるやつが、多すぎる。

これ、ほんとうに、いいことを言っているつもりなの? これ、ほんとうに、正しいことを言っているつもりなの? これ、ほんとうに、いいことをしているつもりなの?

くそ、おろか。くそ、おろか。こんなことを、言われたら、腹がたつに決まっているだろ。「心外だ」と思うに決まっているだろ。どうしてわからないんだ?

自分だって、やられみればわかるよ。自分にとって必然性があることを、あたかも必然性なんてないように言われて、おもしろいはずがないだろ。ほんとうに、まったく、わかってないなぁ! 

悪いことを絶対の意地でやるやつじゃなくて、やられてこまっているほうを、悪く言うなんて、ほんとうに、おまえら、鬼畜だな。悪いことをやることに、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、絶対にゆずらずにやっているほうに、ダメ出しをしないで、やられてこまっているほうに、ダメ出しをするなんて、おまえら、鬼畜だな。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。