あっ、それから、気をはった状態というのは、不自然な状態だから、「なにかいやだ」と思われることがおおくなる。あるいは、突っ込まれることがおおくなる。
これ、たとえば、きちがい家族によるヘビメタ騒音が続いて、「元気だ元気だ」と自分を言い聞かせて、元気になろうとする状態が続くと、「なんか不自然な人間」になってしまうのである。
「なんか不自然だ」とほかの人から「思われる」人間になってしまうのである。
言霊主義者は、ほんとうに元気な状態と、ほんとうは元気じゃないから、「元気だ元気だ」と言わなければならない状態がおなじだと思っている。
そりゃ、「元気だ元気だ」と言えば、ほんとうに元気な状態の元気な状態になると思っているのだから、言ったとたんに元気になる……はずなのである。
もともとの元気な状態を「元気な状態A」とする。元気だ元気だと言ったあとの元気な状態を「元気な状態B」だとする。言霊主義者は「元気な状態A」と「元気な状態B」のちがいがわからない。あるいは、別の言い方をすると、言霊主義者は「元気な状態A」と「元気な状態B」がまったくおなじものだと考えているのである。
ある理由で元気な状態ではない人が、「元気だ元気だ」と言えば、「元気な状態A」になれると思っているので、言っただけで、「元気な状態Aになる」と「仮定」してしまう。
けど、言霊主義者の頭のなかでは、「仮定」ではなくて「事実」なのだ。
言霊主義者は「現実の無視」を無視している。
手短に言うと、元気Aと元気Bはちがうので、きちがいヘビメタ騒音などで、つかれる理由がある場合は、「元気だ元気だ」と言ったあとも、元気ではない状態が続くのである。
ようするに、元気ではない状態で「元気だ元気だ」と言っても、元気ではない状態が続くのである。
けど、「元気だ元気だ」と言ったあとに、元気ではない状態が続くとは思ってない妄想的な人たちが、現実を無視するのである。
そうすると、きちがいヘビメタが毎日続くと、元気だ元気だと言っているにもかかわらず、つかれている状態が続くということになるのである。
実際の身体はもともとの原因に対応して、もともとの原因に対応した身体反応をしているので、元気ではないわけだし、それが毎日続けば、恒常的に元気ではない状態が続くということになる。
もともとの原因というのは、ヘビメタ騒音のことだ。ヘビメタ騒音が続くので、元気がなくなり、疲れた状態になっているのだ。
ようするに、毎日、元気にならない原因が発生していて、その原因によって、元気ではないにもかかわらず……言霊主義者の助言にしたがって……毎日、「元気だ元気だ」と言って、毎日はりつめた状態でくらす人間になってしまうのである。
言霊主義者の助言にしたがって、ぼくが、もし、毎日「元気だ元気だ」といって暮らした場合、ヘビメタ騒音が毎日、ひどい音で長時間鳴っているのだから、元気にならず、ただ、「元気だ元気だと言って元気にならなければならない」という考えし縛られた状態になってしまうのである。
これは、実際に、元気ではないのだから、はりつめた状態になるだけだ。
実際に、きちがいヘビメタが、ガンガンガンガン鳴って、どれだけやめるように(兄貴に言っても)兄貴がやめない状態なので、(実際に鳴っている)ヘビメタ騒音によって、精神がはりつめた状態になるのだ。
精神がはりつめた状態で暮らすということになる。
そういう毎日、はりつめた状態でくらす人間に、言霊主義者たちは、「元気だ元気だと言えば元気になる」と言ってしまう。わかるかな?
言霊主義者たちは、「元気だ元気だと言えば」ほんとうに、元気にならない原因がふっとんで、ほんとうに元気になると思っているのだ。
ようするに、「元気だ元気だ」と言ったあとの「元気さ」というものは、もともとの原因がない場合の「元気さ」とおなじなのだと……言霊主義者は……仮定しているのだ。
ちゃんと仮定しているわけではなくて、「そういうものだ」と妄想的に断定しているのだ。
妄想的な言霊主義者は、妄想のなかで話をでっちあげてしまうので、現実にこまっている人がいるということには、無関心なのだ。わかるかな?
言ったあとはおなじになると思っているので、おなじにならないとしたら、そいつの言い方が悪いと思ってしまう。
こういうレベルのやつらだ。
そして、こういう、妄想的な言論が世にはびこっているために、「元気だ元気だと言って」自分のからだの不調を解決しようとする人たちが出てくるのである。
しかし、そんな方法では、もともとの原因がある限り、解決なんてしないのである!!
けど、解決しないと、これまた、自己責任だと言われるのである。
刺激に対する身体の反応というものを認めいないやつが、くるしい状態の人間に、ダメ出しをするのである。
そういう社会になっている。
そうなると、原因があってこまっている人間は、ほんとうは、つかれはてているのに「元気だ元気だ」と言って、見せかけの元気さを出して暮らさなければならなくなるのである。
ところが、「はりつめた見せかけの元気さ」と、「普通の元気さ」はちがうので、普通の人間も、そういうことを、敏感に感じ取ってしまうのだ。ようするに、普通の人間が、はりつめてがんばっている人を「不自然な人間だ」と感じてしまう。
そして、妄想のなかで満足している人間……言霊主義者は、「はりつめて」元気だ元気だと言っている人間が不自然な人間だと言われることは、ガン無視してしまう。
言霊主義者にしてみれば「元気だ元気だ」と言えば元気になるのは自明の原理なので、はりつめている人の不具合なんて、まったく無視する。
* * *
ところで、言霊主義者というのは、自分の現実的な問題に関しては、現実的に対処している。そして、自分が、自分の現実的な問題に関しては、現実的に対処しているということを、ガン無視している。
矛盾だとは思わないのである。
ようするに、コーヒーを飲みたいと思ったら、普通にコーヒー飲むための行動をする。コーヒーを飲みたいと思ったら、「コーヒーが出てくる」と言ってコーヒーが目の前に出てくることを期待しない。
期待しないし、言って、コーヒーを出して、コーヒーを飲もうとしない。
言霊主義者だって、急いでいるときは、普通に、走るなどの行動をする。「あそこに瞬間移動する」と言って、瞬間移動しようとしない。
言霊主義者の世界では、言えば言った通りになるので、ほんとうは、コーヒーを飲もうと思ったら「コーヒーが出てくる」と言って、コーヒーを出さなければならない。
急いでいるときは、「あそこに瞬間移動する」と言って瞬間移動しなければならない。
ところが、そんなことはしないのだ。
言霊主義者といえども、言霊の力をまったく信用してないので、「言ったって言った通りにならない」と思っているのだ。「言ったって、言った通りにならない」と思っているから、言霊的な解決方法は採用せず、現実的な解決方法を採用するのである。
ようするに、言霊主義者は、自分の「矛盾」に気がついていないのだ。
人に「元気だ元気だと言えば元気になる」と言う場合も、相手が元気にならないとしても、矛盾を感じない。
また、はりつめて動いている状態でも、はりつめてむりに動いているということを、察知しない。「元気だ元気だ」と言ったので、ほんとうに元気になったと思ってしまうのだ。
これは、言霊が、話の焦点になっているときの言霊主義者の感じ方だ。
言霊が話の焦点になってないときは、言霊主義者も、はりつめて行動している人のことを、「なにか」不自然な人だと思うときがある。
しかし、言霊主義が話の焦点になっている場合は、「元気だ元気だと言えば元気になる」とまちがった前提で説教をし始めるのである。
言霊が話の焦点になっているときは、言霊主義者は、元気にしなければならないと思って、無理やり元気にしているときの「不自然さ」には気がつかない。
言霊主義者ではない人は、無理やりがんばっている人の不自然さに気がつくことが、言霊主義者よりも多い。
けど、じゃあ、同情するのかというとそうではない。
「不自然だ」と言ってバカにして、ダメ出しをするのである。あるいは、「不自然だ」と思って、なるべくかかわりをもたないようにするのだ。あるいは、裏にまわって「あの人、不自然だよね」と言って、悪口を言うのだ。
* * *
継続的な原因というものについて考えなければならないのである。毎日、きちがい家族による、きちがい的な騒音が続くのであれば、きちがい的な騒音で「つかれる」のである。
継続的に続くというのが問題なのだ。
ある期間、ずっと続く。
そうなると、ある期間ずっと毎日つつかれている状態で暮らすということになる。それが何十年と続く場合だってある。それは、(現実的な問題をかかえている)本人にとっては深刻な問題なのである。
けど、他人にとっては深刻な問題ではない。
他人は、「本人」の体(からだ)をつかって暮らしているわけではないので、「本人が不調」でも、別にこまらない。
そうすると、「元気だ元気だと言えば元気になる」というような妄想的な助言をしたくなる人たちがいる。
生粋の言霊主義者じゃなくても、普通の人でも、「元気だ元気だと言えば元気になる」というような妄想的な助言をしたくなる場合がある。言霊的な感覚は、幼児的万能感から生じるものであるから、幼児期を経験して行きぬいているものは、程度のちがいはあるものの、言霊的な感覚がある。
言霊理論というのは、社会に組み込まれている。
努力論も社会に組み込まれている。
言霊理論と努力論は、社会に組み込まれている。洗脳されて、多くの人が信じていることだ。言霊理論と努力論は、社会のなかで「正しいこと」として流通しているものだ。
言霊理論にしたがったことを言ったり、努力論にしたがったを言っても、普通の人は「へんなことを言った」と思わないのである。
逆に、言霊理論に歯向かう人や、努力論に歯向かう人を、「へんな人だ」と思って排斥しようとする。
けど、そういうレベルの「思考」のほかに「不自然だ」と感じる部分があるのである。
ようするに、普通の人には……言霊理論や努力論が正しいと思う妄想的な思考と、むりをしている人を「不自然な人だ」と思う肌感覚がある。
そのつど、どっちが優勢になるのかが、決まる。場面場面で、矛盾を含みつつ、判断される。場面場面の判断が、相互に矛盾していたとしても、矛盾は感じないことになっている。ようするに、一般人においても、言霊が話の焦点になっているときと、言霊が話の焦点になっていないときは、状態がちがうのである。おのおの生活の中で、言霊を信じたい状態になるときがあるのである。そして、特に言霊のことを気にしてないときもある。
* * *
ちょっとわかりにくい部分があったと思う。たとえば、ブラック社長と、名前だけ店長のことを考えたとする。ブラック社長が、「できると言えばできる」と言ったとする。
そして、名前だけ店長は、もう、10年間も無理をして働き続けたから、つかれはてているとする。だから、「残業はむりだ」と言ったとする。
けど、ブラック社長が「できると言えばできる」と言ったあと、名前だけ店長が、しかたがなく「できるできる」と言って1時間、動いたとする。
ブラック社長は、名前だけ店長が、はりつめて動いている状態にまったく気がつかない。
『できると言えばできるというのは、ほんとうのことじゃないか。実際、できるできると言ったあと動いただろ』と思うだけなのだ。
相手の状態を無視する傾向がある人が強い人が、この世のなかには、いる。
言霊主義者は、言霊に焦点があっている場合は、相手の状態を無視する傾向がとてつもなく強いのだ。
けど、言霊主義者だって、現実モードで動いているときはある。自分の現実的な問題に関しては、現実的な問題解決方法が優先するのである。
そういうときは、他人がはりつめて(無理をして動いていることに)普通の人のように、気がつく場合もあるのだ。言霊主義者といえども、気がつく場合がある。
けど、それは、言霊が焦点になっていない場合の話なのである。言霊が焦点になっていれば、ブラック社長とおなじように、相手の状態を無視して、言霊理論が正しいということを言う。
言霊的な問題解決法方法は、現実的な解決方法だということを、言霊主義者は、強く主張する。
けど、本人が、本人の問題について、現実的に問題を解決しようとするときは、言霊主義者といえども、言霊的な問題解決方法で問題を解決しようとないのだ。
試みようともしない。
* * *
今回、言ったことは、ちょっと、自分のなかでもまとまってない部分がある。言霊主義者は、「言い方が悪いから現実化しなかった」と主張する。
けど、言い方が悪くても、言ったことは、現実するのである。言霊主義者は、他人に対して100%詐欺をしているのだけど、自分に対しても100%詐欺をしている。
「言ったことが現実化する」というのは、「100%の言ったことが、100%の確率で現実化するということなのである。
「言ったことが現実化する場合もあるし、現実化しない場合もある」ということは、言ってないのである。
「言えば、言ったことが現実化する」という文字列のなかに「言えば、100%の言ったことが、100%の確率で現実化する」という意味と、「言ったことが現実化する場合もあるし、現実化しない場合もある」という意味を両方とも、含めて、「言えば、言ったことが現実化する」と言っているのだ。
そして、矛盾を指摘されれば、「言い方が悪かったから、現実しかなかったのだ」ということを言い出すのである。
けど、それは、言っても、現実化しないことがあるということを意味している。手短に言うと、矛盾している。ここまでは、ずっと、指摘しているとおりである。
今回は、言霊主義者が、だれか相手に言霊主義的な問題解決方法をすすめた場合、相手の状態に無関心であるということを言いたかったのだ。
たとえば「元気だ元気だ」と相手が言ったあと、相手がほんとうに元気なのかどうかということについて、無関心なのだ。
特に、相手がほんとうは元気になってない場合について、観察力がさがる感じがする。ようするに、相手がほんとうに元気になったのか、元気なふりをしているのか、まったく元気じゃないのか、言霊主義者は、気にしない。関心がない。
けど、言霊主義者のなかでは……「言霊は絶対だ」ということになっているのである。
ようするに、「言霊理論は絶対的に正しい」ということになっているのである。言霊主義者のなかで……。
言霊主義者は、幼稚で、いろいろな矛盾に気がつかない。そして、相手の状態に関しても、実は、幼稚な感覚で気にしない。相手がどういう状態なのか、気がつかないのである。
言霊主義者は、相手がほんとうはどういう状態なのかということに注意を向けない。相手の状態を識別する能力が、あまりないのである。言霊主義者は、相手の状態に関する認識があまいのである。
ところが、言霊主義者といえども……言霊理論とは関係がない部分では、ときどき、識別能力があがる。普通の人並みに、相手の状態を識別することができる場合がある。
できない場合もあるのだけど、できる場合もある。「無理をして、がんばっている状態」というのが、言霊とは関係がない場合は、識別できる場合がある。
そういう場合もあるのだけど、そういう場合は、言霊思考が焦点になっていないときなのだ。……言霊主義者のなかで焦点になっていないときなのだ。
* * *
手短に言うと、言霊主義者は、普段、自分の矛盾に気がついていない。 言霊理論が正しいと言っているにもかかわらず、普段、現実的な問題については、現実的な解決方法で対処しようとするのである。だから、そういう、矛盾した部分が、実は、相手に対する認識についても、反映しているのではないかということだ。言霊主義者が言霊理論から離れている場合は、相手の状態に対する識別能力があがるのである。言霊主義者が言霊理論にフォーカスしている時よりも、フォーカスしてないときのほうが、相手の状態に対する識別能力があがる。これは、矛盾に気がついていないのと同じ仕組みが成り立っているのではないかと思えるのである。