ヘビメタ騒音なしで、ぼくの才能を発揮できるところで、働きたかったなぁ。
それなら、ぼくは、働き者なんだけどなぁ。
ヘビメタ騒音に汚染された体(からだ)で、動くこと自体が、くるしくてくるしくて、くるしくて、くるしいことだ。
そのほかにも、実際にやられないとわからないことが、いっぱい、いっぱい、いっぱい、ある。
みんな、やられてないから、軽く考えて「こうすればいい」「ああすればいい」と言う。自分だったら影響をうけないという前提で「過去は現在に影響しない」とか「ヘビメタ騒音なんて、そんなのは、関係ない」と言う。
いやーー。実際にやられたら、ちがうんだよ。
毎日続いたら、ちがう。
どれだけがんばっても、毎日続いたらダメだ。影響をゼロにすることなんてできない。
あんだけ、きちがい的な音で、やられているのに、やられてないのとおなじ状態で暮らすなんてことは、できない。
ぼくだけではなくて、ヘビメタがきらいな人は、みんなそうだ。そして、ヘビメタが好きな人だって、別の音でやられたら、おなじ状態になる。
* * *
きちがい兄貴も、きちがい親父も、自分(たち)の行為が相手に与える影響なんていうのは、考えない。言われないからわからないのではなくて、言われたってわからない。
何万回、何十万回言われたって、わからない。これ、ほんとうに、頭がおかしいからそうなってるんだよな。自分にとって不都合なことは、絶対に認めないのである。
これ、じつは、重度の認知症より、ひどい症状なのだ。
けど、「よそ」だと、おさえつけられるから、ある程度、無意識的にがまんするところがある。だから、ある程度がまんしている状態を知っている人は、「そんなわけがない」と思うわけ。
けど、場所場所で……おさえつけられる状態であっても、頑固に意地をはるところがあるんだよ。これ、本人は、嘘をついているつもりがないから、きらわれるわけだけどね……。
きらわれたって、そんなの気にしないよ。だって、きらわれたことに、まったく気がつかないもん。
ともかく、無意識的な命令で、認めないことは、絶対に認めないのだ。認めないことに命がかかっている状態で、認めない。けど、やりたいことはやってしまう。
だから、きちがい的な意地でやったことを、きちがい的な意地で認めないということになる。
これは、ほんとうに、やったつもりがなくて、やったことを知らない状態なのである。重度の認知症より、ひどい状態なのである。本人は、自分の都合を(本人の感覚としてはのーだーじで)押し通すことができるので、なんともないことなのだけど、「まわりいる人」にとっては、ものすごくこまることなのである。重度の認知症患者を家族として抱えている人よりも、こういうタイプのほうが、こまるのである。
ともかく、無意識的に、感覚器を書き換えて、やったってやってない状態にしてしまう。
でかい音で鳴らしたって、でかい音で鳴らしてないと、つねに、頑固に、認識しているのだ。くさいにおいをだしたって、くさいにおいをだしてないと、つねに、頑固に、認識している。
これ、においはわかるけど、わからないふりをしているのとは、ちがうのだ。そのときだけ、においに鈍感になる。無感覚になる。
においのことは、親父の話だけど、兄貴の場合は、音でそうなる。
きちがい的にでかい音で鳴らしているのに……そして、聴力は正常だから(だったから)でかい音で鳴らしているということが、普通の状態なら、わかるはずなのに、わからないのだ。
自分が鳴らしたい音だと、ごく自然に無意識的な妨害がはいって、でかい音で鳴らしているということ自体が、わからないということになる。「うち」では、つねにそうなんだよ。「よそ」だと、どうだか知らないけど、「うち」だと、つねにそうなんだよ。
もし、自分が、でかい音で鳴らしているということを認めてしまったら、それ以降、(ほんとうに鳴らしたい)でかい音で鳴らせなくなってしまう。常識的な範囲で、音を落とさなければならなくなる。
それは、命にかけて、死んでも、いやなのである。
だから、聴覚のほうを無意識的にだます。
これ、だまそうと、意識的に思ってやっているのとはちがうのだ。
* * *
ともかく、話の通じなさがおなじなんだよ。親父と兄貴でおなじだ。親父は、当時、高校生になった兄貴のことがこわくて、注意できなくなっていたのだ。これも、親父は、(自分では)意識してないことだ。
だから、めちゃくちゃな理由をつけて、絶対の意地で注意しないのである。
けど、十数年たって、「注意しなかった」ということを認めるのが、いやな状態になると、「注意した!!注意した!!注意した!!」とわめきはじめる。
これも、全部、おなじなんだよ。当時から、おなじしくみが、脳みそのなかに成り立っている。
この、やらなかったのに、やったと言い張るのは、やらなかったのに、やったと言いはるのとおなじなんだよ。そのとき、不都合なことは、口先の嘘で、認めないようにする。
口先のうそと書いたけど、普通なら、口先の嘘だと認識できることなのに、きちがいだから、(自分がやっていることなのに)口先の嘘だと認識できないんだよ。言っているあいだは、ほんとうにそう思っている。
これが、こまるんだよ。
この「嘘つき構造」は、親父にも成り立っているし、兄貴にも成り立っている。だから、そういう「嘘つき構造」をとおして、自分がやりたいことを押し通してしまう。
そして、こんなのは、普通の家ではありえないことなので……普通の家では、こんなことをする人間がいないので、ぼくが嘘を言っているということになってしまう。よその人の認知が、これまた、現実的な認知じゃないのである。
ぼく、認知が現実的な認知なんだよ。
よその人は、そんな人と一緒に住んでいるわけではないので、ぼくの言っていることがわからない。「そんなのは、嘘だ」と思うわけだ。
「そんな音で、長男が鳴らしているのに、無視して注意しないなんてことはありえない。(だから、エイリさんが嘘を言っている)」と思うのだ。
こういう誤解が、幾重にも積み重なっている。
普通の人は、ごく普通に、誤解をする。「うち」のことを誤解する。「うち」の真実を誤解する。「うち」の現実を誤解する。
みんな、自分のことではないので、そもそも、あんまり関心がないことなのだけど、自分の常識とは、相反することなので「不愉快」なのである。認知的不協和がしょうじるのである。
「家族というものはこういうものだ」「人間というものはこういうものだ」と思って自我が安定しているのに、それを打ち壊す、情報が(ぼくから)送り込まれるのである。それは、自我を不安定にするものなのだ。
だから、「不愉快さ」を感じる。
「そんなこと、あるわけないだろ」とおこったように言うやつがいるけど、ほんとうにおこっているのだ。
家族が気ちがいだと、家族が普通人のやつからか、おこられるのだ。まったく、わりにあわない。こんなのは、ない。「うちの現実」について、ほんとうの話をしたのに、よそのやつが常識的に判断して「そんなのは嘘だ」と言ってくるのである。この場合、まちがっているのは、「よそ」の人たちなんだよ。「うちの現実」について「よそ」の人がまちがった判断をする。これがデフォルトだ。ほんとうにやってられない。
そして、よその人は、実際にこういうタイプからやられたことがないので、やられたことの「総重量」について、誤解をしているのだ。これもわかってない。
だから、「俺だって苦労した」と言えば、きちがい家族と一緒に住んでいるわけではない人が、きちがい家族からもたらせられる……つまり、きちがい家族がもたらす……苦労を経験したということになってしまう。
「経験したからそんなのは、知っているけど、そんなのは、関係がない」……という文脈で「関係がない」と言ってしまうことになる。ほんとうに、迷惑な話だ。
ほんとうに「総重量」がちがうのである。苦労の質がちがうし、きちがい家族がもたらす、きちがい的な困難の数がちがうのである。数というのは、発生回数だ。おなじであるはずがないだろ。