ともかく、だれでも、あんなことをやられたら、「ひきこもり」と呼べる状態になるんだよ。
どれだけ体力がある人だって、どれだけ頭がいい人だって、どれだけコミュ力がある人だって、みんな、みんな、「ひきこもり」になる。
ひきこもり」に偏見がある人だって、あんなことをやられたら、ひきこもりになる。それがわからないのだから、たいした苦労をしてないと言える。
同質・同量・同期間の苦労をしたら、「ひきこもり」になる。これは、もちろん、照明はできない。そりゃ、実験するわけにはいかないからなぁ。だから、俺が勝手にそういうふうに言っているだけだということになるのだろう。
けど、自信をもっていうけど、だれだって「ひきこもり」になる。
どういう状態で毎日すごしているか、サル並みの頭だと、わからないだけだろ。こいつらに、俺が説明したって、理解しないんだよな。こいつらはこいつらで、「ひきこもり」に偏見があるから、エイリさんがひきこもりだから、そういうふうに言っているだけだと解釈してしまうんだよね。
そして、ひきこもりになるような人だから、コミュ障なのだろうと解釈してしまう。妄想的な解釈だ。
けど、サルのようにつたない頭だと、自分のまちがった解釈に自信をもってしまう。
そして、否定されても、受けつけない状態になる。
悪いけど、この状態も、ほんのすこし、きちがい兄貴の状態に似ているんだよな。きちがいあにきの「受けつけない状態」に似ている。
「エイリさんは、ひきこもりだからコミュ障だ。コミュ障だから、お兄さんにちゃんと言うことができなかったんだ。だから、お兄さんが気がつかずに鳴らしていたんだ」……と考えるやつらだっている。
こんなの、ほんとうにまちがいなのに、本人は、自信があるんだよな。そして、一度「エイリはコミュ障だ」と決めつけると、すべてを、「エイリはコミュ障だ」という線で?考えようとする。
さらに、たとえば、エイリが嘘を言っていると考えるやつは、ぼくが精神病か人格障害者だと思ってしまうのだ。
こうやって、ぼくのことを軽蔑して、いろいろとまちがったことを言ってくる。そういう存在になってしまう。きちがい兄貴もきちがいだけど、こいつらの思考力も思考力だ。こんなに、偏見ばかりのやつが、うようよしているのが、この世だ。
きちがい兄貴がもたらしたことを、普通の人は経験してないんだよ。けど、自分だってつらい経験をしたと言って、ぼくと同等の経験をしたということにしてしまう。
「ぼくと同等の経験したけど、自分は、通勤・通学ができる。つらいけどがんばっている」……と言うわけ。えらそうなんだよな。自分が、普通の家族と住んでいて、きちがい家族がどういう頻度で、どういう感覚で、どういう行動をするか知らないだけじゃないか。きちがい家族と一緒に住んだことがないから、わかってないだけじゃないか。きちがい家族と一緒にすんだことがないから、きちがい家族の影響を受けずに生きてきただけじゃないか。同質・同量の経験なんてしてない。ぜんぜんちがうことについて、言っている。たとえば、「朝のつらさ」はきちがいヘビメタ騒音が毎日ほんとうに続いたときの朝のつらさはちがうつらさなのである。ちがう「朝のつらさ」なのに、いかにも、自分が、同質・同量の「朝のつらさ」を経験しているように思いやがって! ほんとうに、むかつく。
こいつらに、「ぜんぜんちがうんだ」ということを、言ったって、こいつらはこいつらで、認めないのだ。
ほんとうに、通勤・通学ができなくなったのは、きちがいヘビメタ騒音のせいなのである。きちがいヘビメタ騒音が原因で、通勤・通学が「できなくなっただけ」なのである。原因について、勘違いをしているんだよな。そして、それは、とりもなおさず、ぼくと同等の経験をしてないということなんだよな。ぼくと同等の経験していたら、本人も通勤・通学ができない状態になっているし、本人が、その過程についてよく知っている状態になっている。ところが、「その状態」「その過程」について、まったく理解してないのだから、ぼくと同等の経験はしてないということになる。けど、「俺だって苦労した」「俺だって、朝はつらい」「俺だって、騒音ぐらいあった」と言う。けど、その「苦労」は、ぼくの経験した「苦労」とは全然ちがう「苦労」なんだよ。けど、その「朝のつらさ」はぼくが経験した「朝のつらさ」とは全然ちがう「朝のつらさ」なんだよ。けど、その「騒音」は、ぼくが経験した「騒音」とは全然ちがう「騒音」なんだよ。同質・同量の騒音を経験したら、ぼくとおなじ体になっているので、ぼくが言っていることがわかるはずだ。わからないのだから、ぼくとおなじ苦労をしてない。ぼくとおなじ「朝のつらさ」を経験してない。ぼくとおなじ「騒音」を経験してない。
きちがいヘビメタがはじまってから、三週間で、ひきこもりになったのと、ちがうよ。十三年後に、ひきこもりになった。だいたい、前半の七年間ですら、普通の人は耐えられない。普通の人だったら、一年で引きこもり状態になっていると思うよ。俺がどれだけ無理をして、学校に通っていたかわかってないなぁ。だから、同質・同量・同等の経験はないと言える。この、七年間の通学が、通勤・通学ができない体(からだ)を作った。七年間の通学が、通勤・通学ができない体(からだ)を作ったということが、わからないやつが、くそを言うな。わかったようなことを言うな。これがわかっていないのだから、わかっていない。実際には、「ひきこもり」状態になったのは、きちがいヘビメタがはじまってから二〇年後だ。きちがいヘビメタがはじまってから一五年間、鳴ってた。実際には、一四年と六か月間だけどな。友だちづきあいが、まだ、二〇年後あたりまではあったんだよな。
「過去は関係がない」「そんなのは関係がない」という人たちは、まったくわかってないんだよな。わかってないということが、わかる。こいつらは、ほんとうにくそ。こういう頭がわるいやつらに、バカにされるようになった。これ、ほんとうに、きちがい兄貴が、きちがい感覚で、きちがい的な騒音を毎日鳴らしたからなのである。どれだけ、つらいか、みんな、わかってない。どれだけ、体にひびくか、みんな、わかってない。
* * *
約七年で、通勤・通学できないからだになるわけだけど、そのときは、まだ、中学時代の友達とつながっていた。中学時代の友達というのは、近所に住んでいるわけで、予定をいれてなくても、起きているときは、あうことができた。だから、そのころは、ひきこもりの定義からは、はずれる。日時を決められてしまうと、前の日から眠れなくなり、二四時間起きっぱなしのまま行くことになる。俺だって、もとから、そういう状態ではないのである。どうしてそうなったのかというと、ヘビメタ騒音が毎日なっていたからそうなった。ここらへんのことが、わかってないやつが……体(からだ)でわかってないやつが、えらそうなことを言う。そりゃ、俺だって、ヘビメタ騒音がはじまる前の時期においても、「朝がつらい」という日はあった。けど、ヘビメタ騒音の「朝のつらさ」とは、ちがうんだよ。ひとこと、説明して、これがわからないなら、わかってないよ。ヘビメタ騒音の「朝のつらさ」とおなじレベルの「朝のつらさ」なんて経験してない。「ぜんぜん、ちがう」と言っているのに、こいつらは、こいつらで、認めない。こういうやつらになめられるようになったのも、きちがい兄貴が、関与を認めないまま、でかい音で鳴らし続けたからだ。こたえるにきまっているだろ。普通の人は、ほかの人に迷惑がかかると思って、そもそも、鳴らさないようなでかい音で鳴らして、まったくなにも感じないんだよ。俺がどれだけ「迷惑だからやめろ」と言っても、「迷惑をかけている」ということを認めない。きちがい兄貴が認めなかったら、きちがい兄貴のなかでは「迷惑をかけてない」ということになってしまうのだよ。こういうところの、都合のよさが、きちがいレベルなのである。こういうところの、つうじなさ」がきちがいレベルなのである。だから、よそのうちには、気ちがい兄貴みたいな人がいないから、きちがい兄貴みたいな人がやり続ける騒音にさらされ続けることがない。だから、「ちがう」と言っているのに、こいつらは、こいつらで、ほんとうに、わからないままだ。