いやーー。ほんとう、つまんない。ヘビメタ騒音でズタボロだった。毎日毎日、ズタボロだった。一分間だって、ほんとうにゆずってくれたことがないのだ。毎日、はりだして、鳴らしていた。はりだして……。そりゃ、やられてない人間にとっては、どうでもいいことで、どうってこと、ないことだ。けど、四六時中たたられていると、ほんとうに、くるしいのである。ダメなのである。鳴らされて、ヘビメタ騒音を浴びているのに、影響をうけないということができないのである。これを、鳴らされてないやつが……同等の騒音を毎日経験してないやつが、……自分なら影響をうけないことが可能だという前提で……ものを言ってくる。それ自体が不愉快なことだ。そりゃ、どうしたって影響をうけて、どうしようもない状態でくらしているのだから……。本人の意思では、どうしようもない状態でくらしているのに……簡単に影響をうけずに暮らせるという前提で……ものを言ってくる。そんなやつばかりだ。だから、ヘビメタ騒音が鳴っていると、相手に対して「よわくなる」のである。突っ込みどころ、満載になるのである。しかも、「そんなのは、自己責任だ」という考え方がある。当時、自己責任という言葉はそれほどはやっていなかったけど……「ともかく、そんなのは、本人の責任だ」……「自分の身に起こったことは、すべて自分の責任だ」という考え方は、日常生活に浸透していた。ようするに、きちがい兄貴をしずかにさせることができないのは、エイリの責任だということになる。そいつらにとってはそうだ。けど、こいつは、きちがい家族が、うちでやることについてまったくわかってないのだ。どうしてなら、きちがい家族と一緒に住んだことがないからだ。きちがい兄貴の脳みそなんてかえられるわけがないだろ。「ちゃんと言えばわかってくれる」……こんなレベルで思考しているやつらが、わかったようなことを言ってくる。けど、ぜんぜんわかってない発言だ。どれだけちゃんと言っても、きちがい感覚で無視してやりきる。きちがい感覚が成り立っている。兄貴のきちがい感覚は、俺にはどうすることもできないんだよ。脳みその改造手術をするわけにはいかないのだから……。これ、そういうレベルのことなんだぞ。「ちゃんと言えばわかってくれる」という……妄想的にあまい設定でものを言うな! それこそ、現実に対応してない発言なのである。空想の、妄想発言なのである。脳みそがくるっているから、ほんとうに、そうしちゃうんだよ。きちがい兄貴は、きちがい兄貴がやっていることについて、客観的に正しい認識をもってないんだよ。きちがい頭の中で、「こんなのはたいした音じゃない」「これは、普通の音だ」と書き換えて、猛烈にでかい音で鳴らしているのであり、どれだけこっちが「迷惑だ」と説明しても、「迷惑行為をしている」とは全然考えることができない状態で、やっているのである。そして、自分が頑固にやったことは、「やったってやってない」の境地に立って「やってない」と思ってしまうようなきちがい人間なのだ。これが、よその人にはわからない。「言えばわかってくれる」という妄想的な前提に立てば「言わないエイリが悪い」ということになってしまうのである。さらに、「ちゃんと」というわけのかわからないことばをつけると、「ちゃんと言えばわかってくれるはずだ」ということになってしまうのでる。「わかってくれないなら、ちゃんと言ってない」ということになってしまうのである。日本語がわからない人のために説明しておくと、エイリさんがちゃんと言わないから、お兄さんがわかってくれないという意味だ。ここでも、精神世界的な「アトダシじゃんけん思考」が成り立っている。これだと、わかってくれない以上、ちゃんと言ってないということになってしまうのである。こんなでたらめなこと、ない。こんなでたらめな思考を普通にするやつが、俺のことを「ちゃんと言うことができない人」としてバカにしてくる。ほんとうは、きちがい兄貴に問題があるのだけど、エイリがチャン説明できないという、エイリの問題にすり替えしてしまうのである。「の」の重複を避けるために『きちがい兄貴の脳みその問題』とは書かかなったけど、きちがい兄貴における脳みその問題なのに、俺の能力の問題にされてしまうのである。能力の問題と書いたけど、ある意味、言語能力の問題だと言っているのだから、脳みその問題にされてしまうのである。兄貴の脳みその問題なのに、妄想的なことを考える人は、俺の脳みその問題だと思ってしまうのである。ちゃんと説明すれば、きちがい兄貴はわかってくれるのに、ちゃんと説明しないから、わかってくれないと考えているのだから、そうなる。こういうやつも、実は、自分の家に(兄貴とおなじようなタイプの)きちがい家族がひとりもいないから、そういうふうに考えてしまう。まあ、想像力や思考力もないのだろう。脳みそに問題があるんじゃないか。ともかく、「ちゃんと言えばわかってくれるのに、ちゃんと言わないからダメなんだ」と考えるやつは、兄貴の脳みその問題を、ぼくの言語能力的な問題に置き換えてしまう。そして、そういうまちがいをしておきながら、ぼくがちゃんと説明をしても、理解しないということをやってのけるのだ。これ、俺が、今ここで説明したことを、説明しても、「ちゃんと言わないからダメなんだ」といったやつが、理解してくれたことはないのである。現実の場面で、ぼくの経験の範囲で言うと、こういうやつが、ここに書いたことを理解してくれたことはない。だから、きちがい兄貴が、きちがい的な脳みその構造をもっていて、きちがい的な感覚で、きちがい行為を押し通してしまうと、ぼくが、バカにされるということになる。バカにバカにされるのだ。こんなの、ない。
これは、きちがい兄貴が鳴らしているきちがいヘビメタ騒音……によって発生する出来事なのだ。
やってられない。
いまでも、日曜日や祝日は、一日中、明るい時からずっとずっと、ヘビメタ騒音の感じがある。日中の感じとか、全部ヘビメタ騒音だ。夜の感じとか、全部ヘビメタ騒音だ。ヘビメタ騒音が、雰囲気に浸透して、雰囲気に「くっついて」いる。
これだって、「そんなのは異常だ」と、やられてないバカが思うわけだよ。けど、そのばかだって同じレベルのことを、同じ期間の長さ、毎日やられたら、やっぱり、自分のきらいな音が鳴っていた雰囲気というのが、今認知している雰囲気にくっついてしまうんだよ。ようするに、異常な刺激に対する正常な反応なのだ。人間は、そういうふうにできているんだよ。きちがい的な意地で無視して、普通の家では絶対にやらないことをやってしまう、きちがい兄貴の問題なのに、俺のほうの問題になってしまう。これは、実際に俺が、そうなっている。ようするに、問題をかかえてしまっている。毎日の繰り返しにより、「現実が暗いものになってしまった」のである。たしかに、生きている以上、俺の問題として、ある。くるしいのは、俺だからな。けど、他人の身の上には、生じなかったことだから、他人が俺のようになってないだけなんだよ。これ、走れば息があがるのと同じような反応なんだよ。ところが、やられたことがないやつは、これも、「軽く見て」……自分ならやられたってそんなことにならない……と思って、そういう前提でものを言ってくるようになる。どんなことがあったって、憂鬱なやつは、憂鬱なやつが悪いということを言ったりする。自分で自分のご機嫌をとればいいのにとらないからダメなんだと言ってくる。楽しい楽しいと言えば楽しくなるのに、楽しい楽しいと言わないからダメなんだと言ってくる。こいつらは、みんな、ぼくと同質・同量の、同室の騒音を経験したわけじゃない。人生のなかでぼくと同質・同量の経験をしたわけじゃない。それは、俺のような現実かかえてないという点でわかる。そして、「る。楽しい楽しいと言えば楽しくなるのに、楽しい楽しいと言わないからダメなんだ」と言っている点でわかる。ところが、こいつらがみんな……ほんとうにみんな……「自分だって苦労した」と、自分も同質・同量の経験をしたという前提で、「そんなのは、エイリさんの責任だ」ことを言ってくる。これも、楽しくなろうと思えば楽しくなれるのに、楽しくなろうとしないエイリさんの問題なんだということにしたいのである。こいつらの思考は、どこまでもどこまでも、きちがい家族に毎日、何年間も、十数年間もやられたやつを、追い込む思考だ。
そんなんじゃないから、こまっているんだろ。