まあ、話がずれた。「すべては思いよう」批判になってしまった。「すべては思いよう」なら、「引き寄せよう」と思う必要もないのである。「すべては、思いよう」なら、引き寄せようと思う必要がなくなる。
「引き寄せなんてできなくても、ものは思いようなので、引き寄せられない今の状態でいい」ということになる。
引き寄せが、いじめやいじりの題材になってしまうのだ。こんなもの、条件が悪い人を、いびっているようにしか思えない。条件が悪いので、よい出来事が起こる確率が低くて、悪いことが起こる確率が高いのに、その(条件が悪い人)の「思い描く力のせいだ」ということになってしまうのである。その(条件が悪い人)が、うまく引き寄せることができないから、ダメなんだということになってしまうのである。
基本的には、社会が、まず、条件の格差を縮小しなければならないのである。格差をそのままにして、個々人の自己責任だと人をせめるのはやめたほうがいい。
たとえば、レベル一からレベル一〇までの格差を考えるとする。レベル一が最低の条件で、レベル一〇が最高の条件だとする。その場合、レベル一の人は、レベル二から一〇の人に、ダメ出しをされるようになるのである。
問題は、レベル一の人が、どれだけうまく、成功したところを思い浮かべても、レベル一の確率でしか成功しないということなのだ。うまく成功したところを思い浮かべることができるようになれば、レベル二の確率で成功するようになるかというと、ならない。
どれだけ、うまく、成功したところを思い浮かべても、レベル二の成功確率にならない。
たとえば、レベル一の条件がもたらす成功確率が一〇%だとする。また、レベル二の条件がもたらす成功確率を二〇%だとする。
その場合、レベル一の人が、どれだけ、うまく、成功するところを思い浮かべても、成功確率が二〇%にならないのだ。
ほんとうは、成功確率は、思い浮かべることで制御できる確率ではない。そうではなくて、条件をかえなければならないのだ。
たとえば、社会的な努力で、レベル一からレベル一〇まである一〇段階の格差を、レベル四から、レベル一〇まである七段階の格差にすれば、そのぶんだけ、人がしあわせになれる確率があがるのである。
ところが、一〇段階の過酷な格差を是正せずに、個人のせいにして、個人に(どうせむだな)努力を求めるのが、いまの社会なのだ。
一般人が、一般人をいじめているような状態になっている。
「うまく思い浮かべればいいのだ」ということになると、「うまく思い浮かべることが、できる人」と「うまく思い浮かべることができない人」の格差になる。
けど、これは、嘘の格差だ。
現実世界に実在する条件の格差を、架空世界の「うまく思い浮かべることができるかどうかの格差」に置き換えてしまっただけなのだ。
だから、現実世界の条件が、出来事の発生率を決めるので、うまく思い浮かべても、条件が悪い人は「いい出来事」の発生率を上げることができないということになる。
けど、あたかも、現実の条件に関係なく「うまく思い浮かべることができるようになれば」いい出来事が起こる確率をあげることができるという妄想的な考え方が、社会を支配しているのである。
そうなると、「うまく思い浮かべる努力しなかったやつが悪いんだ」ということに、また、(原因を)すりかえられてしまうのである。