ここにずっと書いてきたけど……そして、ものすごく「うけ」が悪いわけだけど……世の中ではやっている考え方というのは、特殊な条件をもつ人を死に追いやるような考え方なのである。そのうちのひとつが、「言霊」だ。もう、ほんとうに、いっぱい、いっぱい、あるんだよなぁ。「言霊」理論は、理論として破綻している。理論としてまちがっているのである。そして、理論としてまちがっていることは、証明できるし、検証することができることなのである。けど、「言霊(理論)は正しい」と思っている人は、言ってみれば「ばかなので」わからない。これ、本人が、矛盾したことを言っているということがわかってないのである。ほんとうは、日常生活で、「言霊理論にしたがって」行動しているわけではないのである。日常生活においては、現実的な「物理理論にしたがって」行動をしているのである。けど、本人の認識力が弱いか、あるいは、おなじことなのだけど……幼児的万能感によって(認識が)阻害されて、矛盾に気がつかないことになっているのである。
おなじことが、「思いは現実化する」という思霊理論にも成り立っている。
そして、いちおう、精神世界系のこととは区別できる「努力論」なのだけど、これも、妄想的な前提があるのだ。そのことについては、以前、ここに書いた。妄想的な前提なのだけど、「努力をすれば成功する」と思っている人は、妄想的な前提があるということに、気がついていない。
とてつもなく、やっかいだ。どうしてかというと、ヘビメタ騒音が鳴っていなければ、きちがい親父に虐待された幼児期以降も、対応できていたからだ。これらの妄想的な考え方に対応できた。「言霊理論」「思霊理論」「努力論」をふりまわす人がいたとしても、「そうですね」と対応すれば、それですんだ。きちがい兄貴のヘビメタ騒音で「そうですね」とは言えない状態になったのだ。やり過ごすことができない状態になったのだ。そして、ほんとうに、きちがい兄貴のきちがい騒音で、「できなくなった」のだ。これが、真実だ。これも、ほかの人は、きちがい騒音がどれだけうるさくても、できなくなるということはない」という、経験に基づかない理論をふりまわすわけだ。これ、こまるんだよな。ほんとうは、自分だって、自分がこの世で一番きらいな音を、あの頻度で、あの長さで、あの期間の長さ、聞かされ続ければ、「できなくなる」のに、それがわからない。これだって、経験的にわかってないのだけど、この世で生きていれば、だれだって、困難にぶつかったりするので、「自分だって困難があった」と言える状態ではあるのだ。だから、なかば、腹をたててそのように言う。これ、相手は相手で、自分が真実だと信じていることについて批判されたので、腹をたてているのである。ぼくの経験の範囲で言えば、一〇〇%の人が、なかば、腹をたてた状態になる。なかば、腹をたてた状態で言う。
彼らにとっては、自分が信じている「真実」なので、ゆずるわけにはいかないという気持になるのだろう。「正しいものは正しい」と、なかば、おこった気持ちになるのだろう。
不可避的に、対立するようになる。彼らとぼくは、不可避的に対立するようになるのである。きちがい家族によるきちがい騒音を一一歳から経験したことがあるぼくと、きちがい家族によるきちがい騒音を一一歳から経験したことがない彼らのあいだに、対立がしょうじるのである。もちろん、きちがい兄貴は、そんなことは、知らないで、鳴らしていた。説明すればわかるのかというと、わからない。そりゃ、無意識的なレベルで、感覚器を書き換えて、しずかな音で鳴らしているつもりで鳴らしているのだから、どれだけ言ったって、わからない。そういうレベルでわからない仕組みが一つあるのだから、どれだけ(わかるように)説明したって、わからないのである。説明されてわかってしまったら、自分が鳴らしたい音で鳴らせなくなってしまのだ。それだけは、きちがい的なレベルで、阻止しなければならないことなのだ。だから、無意識も意識も、全力で否定する。全力で、拒否する。
こういう構造が、きちがい兄貴の側に成り立っているのに、よその人は、こういう構造が、きちがい兄貴の側に成り立っているということが、わかってないので、「自分なら、お兄さんを説得できる」という前提で、俺にむりなことを言うのである。これだって、本人は「無理なことを言っている」とは思ってないわけだし、経験がないのだから、俺がどれだけ説明をしても、認めないということになる。
普通の人は、普通の人だから、普通の人の認知がある。そして、きちがい兄貴の『感覚と行動」は、普通の人における認知の……範囲内にはない『感覚と行動」なのである。「の」の重複は指摘しなくてもいい。