2025年2月28日金曜日

みんな、みんな、「ひきこもり」になる。

  ともかく、だれでも、あんなことをやられたら、「ひきこもり」と呼べる状態になるんだよ。

どれだけ体力がある人だって、どれだけ頭がいい人だって、どれだけコミュ力がある人だって、みんな、みんな、「ひきこもり」になる。

ひきこもり」に偏見がある人だって、あんなことをやられたら、ひきこもりになる。それがわからないのだから、たいした苦労をしてないと言える。

同質・同量・同期間の苦労をしたら、「ひきこもり」になる。これは、もちろん、照明はできない。そりゃ、実験するわけにはいかないからなぁ。だから、俺が勝手にそういうふうに言っているだけだということになるのだろう。

けど、自信をもっていうけど、だれだって「ひきこもり」になる。

どういう状態で毎日すごしているか、サル並みの頭だと、わからないだけだろ。こいつらに、俺が説明したって、理解しないんだよな。こいつらはこいつらで、「ひきこもり」に偏見があるから、エイリさんがひきこもりだから、そういうふうに言っているだけだと解釈してしまうんだよね。

そして、ひきこもりになるような人だから、コミュ障なのだろうと解釈してしまう。妄想的な解釈だ。

けど、サルのようにつたない頭だと、自分のまちがった解釈に自信をもってしまう。

そして、否定されても、受けつけない状態になる。

悪いけど、この状態も、ほんのすこし、きちがい兄貴の状態に似ているんだよな。きちがいあにきの「受けつけない状態」に似ている。

「エイリさんは、ひきこもりだからコミュ障だ。コミュ障だから、お兄さんにちゃんと言うことができなかったんだ。だから、お兄さんが気がつかずに鳴らしていたんだ」……と考えるやつらだっている。

こんなの、ほんとうにまちがいなのに、本人は、自信があるんだよな。そして、一度「エイリはコミュ障だ」と決めつけると、すべてを、「エイリはコミュ障だ」という線で?考えようとする。

さらに、たとえば、エイリが嘘を言っていると考えるやつは、ぼくが精神病か人格障害者だと思ってしまうのだ。

こうやって、ぼくのことを軽蔑して、いろいろとまちがったことを言ってくる。そういう存在になってしまう。きちがい兄貴もきちがいだけど、こいつらの思考力も思考力だ。こんなに、偏見ばかりのやつが、うようよしているのが、この世だ。

きちがい兄貴がもたらしたことを、普通の人は経験してないんだよ。けど、自分だってつらい経験をしたと言って、ぼくと同等の経験をしたということにしてしまう。

「ぼくと同等の経験したけど、自分は、通勤・通学ができる。つらいけどがんばっている」……と言うわけ。えらそうなんだよな。自分が、普通の家族と住んでいて、きちがい家族がどういう頻度で、どういう感覚で、どういう行動をするか知らないだけじゃないか。きちがい家族と一緒に住んだことがないから、わかってないだけじゃないか。きちがい家族と一緒にすんだことがないから、きちがい家族の影響を受けずに生きてきただけじゃないか。同質・同量の経験なんてしてない。ぜんぜんちがうことについて、言っている。たとえば、「朝のつらさ」はきちがいヘビメタ騒音が毎日ほんとうに続いたときの朝のつらさはちがうつらさなのである。ちがう「朝のつらさ」なのに、いかにも、自分が、同質・同量の「朝のつらさ」を経験しているように思いやがって! ほんとうに、むかつく。

こいつらに、「ぜんぜんちがうんだ」ということを、言ったって、こいつらはこいつらで、認めないのだ。

ほんとうに、通勤・通学ができなくなったのは、きちがいヘビメタ騒音のせいなのである。きちがいヘビメタ騒音が原因で、通勤・通学が「できなくなっただけ」なのである。原因について、勘違いをしているんだよな。そして、それは、とりもなおさず、ぼくと同等の経験をしてないということなんだよな。ぼくと同等の経験していたら、本人も通勤・通学ができない状態になっているし、本人が、その過程についてよく知っている状態になっている。ところが、「その状態」「その過程」について、まったく理解してないのだから、ぼくと同等の経験はしてないということになる。けど、「俺だって苦労した」「俺だって、朝はつらい」「俺だって、騒音ぐらいあった」と言う。けど、その「苦労」は、ぼくの経験した「苦労」とは全然ちがう「苦労」なんだよ。けど、その「朝のつらさ」はぼくが経験した「朝のつらさ」とは全然ちがう「朝のつらさ」なんだよ。けど、その「騒音」は、ぼくが経験した「騒音」とは全然ちがう「騒音」なんだよ。同質・同量の騒音を経験したら、ぼくとおなじ体になっているので、ぼくが言っていることがわかるはずだ。わからないのだから、ぼくとおなじ苦労をしてない。ぼくとおなじ「朝のつらさ」を経験してない。ぼくとおなじ「騒音」を経験してない。

きちがいヘビメタがはじまってから、三週間で、ひきこもりになったのと、ちがうよ。十三年後に、ひきこもりになった。だいたい、前半の七年間ですら、普通の人は耐えられない。普通の人だったら、一年で引きこもり状態になっていると思うよ。俺がどれだけ無理をして、学校に通っていたかわかってないなぁ。だから、同質・同量・同等の経験はないと言える。この、七年間の通学が、通勤・通学ができない体(からだ)を作った。七年間の通学が、通勤・通学ができない体(からだ)を作ったということが、わからないやつが、くそを言うな。わかったようなことを言うな。これがわかっていないのだから、わかっていない。実際には、「ひきこもり」状態になったのは、きちがいヘビメタがはじまってから二〇年後だ。きちがいヘビメタがはじまってから一五年間、鳴ってた。実際には、一四年と六か月間だけどな。友だちづきあいが、まだ、二〇年後あたりまではあったんだよな。

「過去は関係がない」「そんなのは関係がない」という人たちは、まったくわかってないんだよな。わかってないということが、わかる。こいつらは、ほんとうにくそ。こういう頭がわるいやつらに、バカにされるようになった。これ、ほんとうに、きちがい兄貴が、きちがい感覚で、きちがい的な騒音を毎日鳴らしたからなのである。どれだけ、つらいか、みんな、わかってない。どれだけ、体にひびくか、みんな、わかってない。

*     *     *

約七年で、通勤・通学できないからだになるわけだけど、そのときは、まだ、中学時代の友達とつながっていた。中学時代の友達というのは、近所に住んでいるわけで、予定をいれてなくても、起きているときは、あうことができた。だから、そのころは、ひきこもりの定義からは、はずれる。日時を決められてしまうと、前の日から眠れなくなり、二四時間起きっぱなしのまま行くことになる。俺だって、もとから、そういう状態ではないのである。どうしてそうなったのかというと、ヘビメタ騒音が毎日なっていたからそうなった。ここらへんのことが、わかってないやつが……体(からだ)でわかってないやつが、えらそうなことを言う。そりゃ、俺だって、ヘビメタ騒音がはじまる前の時期においても、「朝がつらい」という日はあった。けど、ヘビメタ騒音の「朝のつらさ」とは、ちがうんだよ。ひとこと、説明して、これがわからないなら、わかってないよ。ヘビメタ騒音の「朝のつらさ」とおなじレベルの「朝のつらさ」なんて経験してない。「ぜんぜん、ちがう」と言っているのに、こいつらは、こいつらで、認めない。こういうやつらになめられるようになったのも、きちがい兄貴が、関与を認めないまま、でかい音で鳴らし続けたからだ。こたえるにきまっているだろ。普通の人は、ほかの人に迷惑がかかると思って、そもそも、鳴らさないようなでかい音で鳴らして、まったくなにも感じないんだよ。俺がどれだけ「迷惑だからやめろ」と言っても、「迷惑をかけている」ということを認めない。きちがい兄貴が認めなかったら、きちがい兄貴のなかでは「迷惑をかけてない」ということになってしまうのだよ。こういうところの、都合のよさが、きちがいレベルなのである。こういうところの、つうじなさ」がきちがいレベルなのである。だから、よそのうちには、気ちがい兄貴みたいな人がいないから、きちがい兄貴みたいな人がやり続ける騒音にさらされ続けることがない。だから、「ちがう」と言っているのに、こいつらは、こいつらで、ほんとうに、わからないままだ。

 

2025年2月27日木曜日

「へっへーーん、知らないよぉーー」という態度だ

 きちがい兄貴の普段の態度なんて「へっへーーん、知らないよぉーー」という態度だ。なにも言われてないときの態度は、この、「へっへーーん、知らないよぉーー」という態度だ。「やめろ」「しずかにしろ」と言われると、腹をたてる。きちがいヘビメタを鳴らしているときは、真っ赤な顔をして、発狂する。自分がヘビメタを鳴らしているときに「しずかにしろ」という内容のことを言われたら、発狂するのだ。「しずかにしてやろう」なんて思わないよ。鳴らしているのだから、こっちが、しずかに言ったら、つたわらないだろ。どなって言うしかない。けど、武勇伝を語りだす、バカなやつらは、「どなって言うからダメなんだ」「しずかに言えばわかってくれる」と言うんだよ。ようするに、「ああ言えばこう言う」タイプの人間というのは、こっちが、兄貴に対して、やったことについて、文句をつけてくる。「それだから、ダメなんだ」「こうすればいい」ということを言ってくる。きちがいではないけど、おおバカだ。アホだ。サル以下。こいつらに、「しずかに言ってもダメなんだ」ということを言っても、こいつらが、認めることがないんだよね。バカなやつらというのは、最初の偏見を修正できない。最初に、エイリがひきこもりだから、ちゃんとものを言えないのだろう」と思ったら……あるいは、決めつけたら……こいつらは、こいつらで、修正ができないのである。

きちがい兄貴は、ともかく、一分だろうが、一秒だろうが、自分がほんとうに静かにしなければならないことを言われたら、発狂してはねのけるんだよ。そして、エレキギターやステレオから離れているときは、きちがいだから、「まったく関係がない人」のつもりでいる。これから、鳴らすつもりなら「むすーーっ」とした顔をして、二階にあがって、ヘビメタを(大音量で)鳴らしてしまう。「やめてくれ」「ヘビメタをあの音のでかさで鳴らされていると、宿題ができなくて困るんだ」ということを言われたら、むすーーっとした顔をして、二階にあがって、いつもの、きちがい的な音で、鳴らすんだよ。そして、鳴らすつもりがないとき……たとえば、きちがい兄貴が学校に行く前に、言ってもダメんだよ。 「へっへーーん、知らないよぉーー」という態度で、関与を認めない。自分が関係しているつもりがないのだ。きちがい兄貴が、きちがい的な音のでかさで、きちがいヘビメタを鳴らすから、こまっているんだよ。きちがい兄貴が、行動している。きちがい兄貴の行動について、ぼくが、「やめてくれ」と言っているんだよ。ところが、関与を認めてないから……「へっへーーん、知らないよぉーー」という態度で、まったくなにも言わず、まったく関係がない人として、さっていく。きちがい兄貴が、ヘビメタを鳴らせる状態なのに、鳴らしていないということはないんだよ。そういうレベルで、細かい時間を使って、鳴らしているんだよ。そして、やってたら、やめさせるということができない。殺さなければならない。殺すのをためらうと、きちがいヘビメタ騒音にさらされている状態のままなのである。殺すかどうかを、つねに問われている状態だ。

バカと偏見

  きちがい兄貴がやったことというのは、特殊なことなんだよ。だから、頭がわるい人は、まったくわからない。想像力がない人は、まったくわからない。想像力が低いと、まったくわからない。わからないから、アホなことを言ってくるわけ。じゃあ、どうして、アホなことを言われる状態になったかというと、ヘビメタが鳴ってたからなんだよ。これ、「ヘビメタが鳴ってた」と言っても、フォークギターぐらいの音で鳴っているわけではないのだ。三味線ぐらいの音で鳴っているわけではないのだ。頭を破壊する音で鳴っている。これが、まず、わからないのである。説明してないからわからないのではなくて、説明したあとも、わかってないのである。頭がわるいから、わからない。こいつらは、ほんとうに、サル以下。こいつらは、実際にやられたら、どういう状態になるかに関する想像力がまったくないわけ。サル以下であるわけ。もう、人間じゃないわけ。こんなアホな連中に、バカにされることになる。きちがい兄貴が、きちがい感覚で、きちがい的な騒音を毎日毎日、ずっとずっと、毎時間毎時間、出し続けると、そうなるのである。どうしてかというと、たとえば、無職に対して偏見をもっている人が多いからなのである。そりゃ、無職にたいして偏見がある人は、無職にたいして偏見があるので、たとえば、無職である俺に対して、偏見がある態度をとるわけ。無職だとみなして、頭がわるいことを言ってくるわけ。それとおなじで、「ひきこもり」に偏見がある人は、俺を「ひきこもり」だと思えば、偏見を発揮した態度をとり、偏見を発揮した行動をするわけ。サルなんだよ。いや、サル以下なんだよ。この、サル以下の存在が、めちゃくちゃに多いんだよな。これが、いやなんだよ。こいつらは、想像力がないから、自分だって同じことをされれば、外側から見てひきこもり状態になるということが、まったくわかってない。バカだから、わからないという点もある。そりゃ、もちろん、実際に経験してないからわからないのだろうけど、それにしても、バカすぎる。アホすぎる。きちがい兄貴は、きちがいだけど、こいつらは、バカなんだよ。そして、こいつらは、偏見がある状態で、俺に対して無礼なことをしてくるわけなんだけど、無礼なことをしているつもりがないんだよ。「そんなこと言われたって、ひきこもりなら当たり前だ」と思っているわけ。ようするに自分が言ったことは、正しいと思っているわけなんだよ。きちがいではないけど、バカだ。アホすぎる。ほんとう、あんなことをされたら、だれだって、行動しにくくなる。朝、起きられなくなる。無理やり起きて学校に行く期間が七年間をこえれば、七年間の積み重ねで、無職になる。当時、日本で無職期間が長いと、だんだん、それまでの交流がなくなっていく。体がなおらないので、あいかわらず、通勤通学ができない(不名誉な状態が)続く。これ、不可避なんだよ。通勤通学ができない状態が続くことは、不可避なんだよ。不可避的なことなんだよ。それは、きちがいヘビメタに(最低でも)七年間毎日、さらされたことがないと、経験してわからないわけだけど、不可避的なことなんだよ。この不可避性がわからない、アホな連中が……まーー……ぼくに対して、悪態をつくこと、つくこと……。ほんとうに、たえられない。温厚なぼくだって、ぶっ殺したくなる。これ、きちがい兄貴が、きちがいづらで、きちがい感覚で、あんなにでかい音でヘビメタを鳴らさなかったら、発生しなかったことなんだよ。あと、『武勇伝』を語りだすやつらは、けっきょく、なにもわかってない。こいつらだって、自分がきらいな音を、あの時間の長さ、あの期間の長さ、あの大音量で聞かされ続けたら、「通えなくなる」。ところが、頭がサル並みだから、あるいは、サル以下だから、まったく想像がつかないんだよな。こいつらは、無礼だ。無礼を通り越している。

この人らは、ほんとうに、どういう状態になるか、まったくわかってない。「どういう状態になるか」に関する想像力が著しく、欠落しているのである。バカなのである。アホなのである。想像力がまったくたりないのである。きちがい兄貴に鳴らされている最中もくるしいけど、こんなバカなやつらにバカにされるのも、くるしいなぁ。ほんとうに、バカいやだなという意味で、人間はいやだなと思ってしまう。

特殊なきちがい兄貴が、よそでは絶対にありえないことを、きちがい面をさげて、やりとおしてしまうから、こうなる。これ、俺が、どれだけ、言ったと思っているんだよ。きちがい兄貴、どれだけ「やめろ」と言ったと思っているんだよ。こいつらは、想像力がないから、俺が、きちがい兄貴「やめろ」と言わなかったという前提でものを言ってくる。きちがいではないけど、バカだ。そして、やられたことに関する見積もりが、できてないのである。俺が、きちがい兄貴にやられたことに関する見積もりが、できてないのである。 なんで、ぼくが、こんな、バカな連中になめられなきゃならないんだ。こんな、バカな連中。この世は、こういうバカな連中で、満ち溢れているんだよ。

「引き寄せ」という考え方をはやらせるために、嘘を言うことを考えてみよう(11) キレイゴトが世界を滅ぼす

  連鎖の過程はわからないと思うけど、実は、保護貿易主義にしたほうが、自由貿易主義よりも、格差が縮小する。連鎖の過程はわからないと思うけど、実は、地球温暖化詐欺にだまされて、グローバリストのエネルギー政策にしたがうより、地球温暖化詐欺にだまされず、グローバリストのエネルギー政策に従わないようにしたほうが、格差が縮小する。格差を縮小するべきだということを、ぼくはずっと言っているのだけど、それは、グローバリストの政策に反対することで、達成できる。達成するための土台ができあがるのだ。国というものを社会の基本単位として考えるとする。社会を一つの生態系として考えることが必要だ。国が単位なのである。地球が単位ではない。国が、国の生態系を守るようにすれば、実は、格差というのは、縮小していく。いまの格差というのは、グローバリストの政策によって無理やり作られた格差なのだ。ほんとうは、国境がある。ところが、商品は、あたかも国境がないように移動するのである。そして、ほんとうは、国境があるのに、労働資本である人間が、国境がないように移動することが正しいとされるのである。経済効率的に正しいとされる。しかし、国境があるので、じつは、労働資本である人間が、国境を越えて移動することは、社会の生態系をぐちゃぐちゃにするのだ。社会生態系がぐちゃぐちゃになると、一国、国内の格差が拡大するのだ。これが、わかってない人たちばかりなんだよな。個人の責任にするのは、やめにしよう。生まれながらの格差がある。生まれながらの格差は「現在の状態」に恐ろしいほど大きな影響をあたえる。これを、理解せずに、グローバリストの政策に従ってはいけないのである。グローバリストの政策は、実際にはある国境を無視して、国(という社会の生態系を壊すものなのである。グローバリズムにやられた社会は、もろくなるのである。森林を伐採して、はげ山を作ってしまうと、洪水が生じるようなもので、連鎖の過程はよく見えないものなのだけど、実際には、グローバリストの政策によって、「国の生態系」が破壊される。これは、経済を含んだ生態系だ。グローバリストの政策に協力してしまうと、格差が拡大して、住みにくくなるのである。これを理解しろということだ。そして、グローバリストの政策と「自己責任論」は関係があるのである。精神世界系のコンセプトや努力論、自己責任論は、社会をより悪くするために存在する。このことを、言いたかったのだけど、どれだけの人に、つたわっているかな? これ、普通の人はわからないと思う。過程がわからないからだ。あとは、グローバリストの政策と書いたけど、これは、グローバリズム政策のことだ。だから、いれかえて読んでもいい。

ぼくが言っていることを、理解できる人は少ないと思う。けど、多くの人に理解してもらわないと、ダメなのだ。だから、わざわざ、書いている。

はっきり言ってしまうと、言霊、思霊、引き寄せといった精神世界的なコンセプトや自己責任論や努力論といったビジネス精神論的なコンセプトを信じてしまうことは、グローバリストの政策に、協力してしまうことを意味している。これも、わからないと思うけど、そうなんだよ。社会をグローバリズムの方向に引っ張ると、社会は悪くなるのだけど、社会を悪くするためにグローバリズムを信じてくださいとは、言わないわけ。彼らは、そんなことはしない。社会をよくするためにグローバリズムを信じてくださいと言うわけ。そして、グローバリズムの根本には、じつは、 言霊、思霊、引き寄せといった精神世界的なコンセプトや自己責任論や努力論といったビジネス精神論的なコンセプトが横たわっているわけ。ようするに、言霊、思霊、引き寄せといった精神世界的なコンセプトや自己責任論や努力論といったビジネス精神論的なコンセプトを信じてしまうと、グローバリストの政策に賛成してしまうのである。あるいは、無防備になってしまう。政治家や官僚や企業家が、社会をぐいぐいと引っぱって、、グローバリズムの社会にしてしまうのである。民衆が、さからうには、じつは、言霊、思霊、引き寄せといった精神世界的なコンセプトや自己責任論や努力論といったビジネス精神論的なコンセプトをうたがう必要がある。逆なんだよ。全部が、逆なんだよ。きれいごとして言われていることを守ると、社会が悪くなるのだ。「環境を守ろう」と二酸化炭素排出制限に賛成すると、環境が悪くなり、社会が悪くなるのだ。太陽光パネルは、実は、環境をこわし、人体に悪影響を及ぼすのだ。とくに、メガソーラと言われているものは、ひどい効果をもたらす。太陽光パネル投資案件に投資したほうが、カネが儲かるという時代があった。いろいろなしくみで、太陽光エネルギー政策を進めてしまうわけ。これは、クリーンで、社会に役に立つという名目(キレイゴト)が成り立っているわけ。けど、正反対の効果がある。まったく、逆。真逆の効果があるのだ。たとえば、自分が金(カネ)を儲けたほうがいいと思えば、太陽光エネルギー政策に賛成することになる。けど、ほんとうは、反対しなければならなかった。じつは、太陽光エネルギーだけではなくて、電気自動車も、環境を破壊するものだ。これ、ほんとうに、すべてが逆なのである。地球温暖化詐欺に引っかかり、クリーンエネルギー政策や電気自動車政策に賛成してしまうと、自然界の環境が悪くなるのである。そして、それは、人体に影響をあたえる。けど、それよりも大事なことは、個々人が、言霊、思霊、引き寄せといった精神世界的なコンセプトや自己責任論や努力論といったビジネス精神論的なコンセプトにしたがって、補助金を求める行動をしたり、クリーンエネルギー政策に関連した経済的な行動をすると、社会が、より悪くなるということなのだ。補助金や投資に対する見返りに、税金が使われているわけなんだけど、それは、ものすごくまずいのだ。生活保護費に対する文句が多いけど、地球温暖化政策とかクリーンエネルギー政策に使われたカネのほうずっとずっとでかい金(カネ)なんだよ。金(カネ)の大きさがわかってないんだよな。社会を悪くすために、金が使われているということだ。それが、わかってない。グローバリズムの政策に賛成してしまうと、社会が悪くなるのである。そのうちのひとつ効果として、人々の格差が拡大するのである。実は、裏の意味で、生活保護自給者が増えることと、グローバリズムの政策は、関連している。グローバリズムの政策が、生活保護自給者を増やしている。それから、外国人には、生活保護を優遇してあたて、日本人には、生活保護をあたえないようにするという戦略も、グローバリズムの移民政策と関連している。

まあ、こんなことを、ここに書いても、ほとんどの人が見ないわけだし、見た人のうち、どれだけの人が、ぼくの言っていることを理解しできるか、わからない。けど、とりあえず、書いておく。

ぼくが言いたいことは、キレイゴトが世界を滅ぼすということだ。グローバリズム政策にしたがってはいけない。グローバリズム政策をかカゲでささえるようなコンセプトを信じてはいけない。 グローバリズム政策をかカゲでささえるようなコンセプトというのは、「言霊、思霊、引き寄せといった精神世界的なコンセプトや自己責任論や努力論といったビジネス精神論的なコンセプト」のことだ。そして、「言霊、思霊、引き寄せといった精神世界的なコンセプトや自己責任論や努力論といったビジネス精神論的なコンセプト」というのも、キレイゴトだ。キレイゴトが社会を破壊する。キレイゴトが格差を拡大する。いいかげん、目を覚ませ。

「引き寄せ」という考え方をはやらせるために、嘘を言うことを考えてみよう(10)

 
まあ、話がずれた。「すべては思いよう」批判になってしまった。「すべては思いよう」なら、「引き寄せよう」と思う必要もないのである。「すべては、思いよう」なら、引き寄せようと思う必要がなくなる。

「引き寄せなんてできなくても、ものは思いようなので、引き寄せられない今の状態でいい」ということになる。

引き寄せが、いじめやいじりの題材になってしまうのだ。こんなもの、条件が悪い人を、いびっているようにしか思えない。条件が悪いので、よい出来事が起こる確率が低くて、悪いことが起こる確率が高いのに、その(条件が悪い人)の「思い描く力のせいだ」ということになってしまうのである。その(条件が悪い人)が、うまく引き寄せることができないから、ダメなんだということになってしまうのである。

基本的には、社会が、まず、条件の格差を縮小しなければならないのである。格差をそのままにして、個々人の自己責任だと人をせめるのはやめたほうがいい。

たとえば、レベル一からレベル一〇までの格差を考えるとする。レベル一が最低の条件で、レベル一〇が最高の条件だとする。その場合、レベル一の人は、レベル二から一〇の人に、ダメ出しをされるようになるのである。

問題は、レベル一の人が、どれだけうまく、成功したところを思い浮かべても、レベル一の確率でしか成功しないということなのだ。うまく成功したところを思い浮かべることができるようになれば、レベル二の確率で成功するようになるかというと、ならない。

どれだけ、うまく、成功したところを思い浮かべても、レベル二の成功確率にならない。

たとえば、レベル一の条件がもたらす成功確率が一〇%だとする。また、レベル二の条件がもたらす成功確率を二〇%だとする。

その場合、レベル一の人が、どれだけ、うまく、成功するところを思い浮かべても、成功確率が二〇%にならないのだ。

ほんとうは、成功確率は、思い浮かべることで制御できる確率ではない。そうではなくて、条件をかえなければならないのだ。

たとえば、社会的な努力で、レベル一からレベル一〇まである一〇段階の格差を、レベル四から、レベル一〇まである七段階の格差にすれば、そのぶんだけ、人がしあわせになれる確率があがるのである。

ところが、一〇段階の過酷な格差を是正せずに、個人のせいにして、個人に(どうせむだな)努力を求めるのが、いまの社会なのだ。

一般人が、一般人をいじめているような状態になっている。

「うまく思い浮かべればいいのだ」ということになると、「うまく思い浮かべることが、できる人」と「うまく思い浮かべることができない人」の格差になる。

けど、これは、嘘の格差だ。

現実世界に実在する条件の格差を、架空世界の「うまく思い浮かべることができるかどうかの格差」に置き換えてしまっただけなのだ。

だから、現実世界の条件が、出来事の発生率を決めるので、うまく思い浮かべても、条件が悪い人は「いい出来事」の発生率を上げることができないということになる。

けど、あたかも、現実の条件に関係なく「うまく思い浮かべることができるようになれば」いい出来事が起こる確率をあげることができるという妄想的な考え方が、社会を支配しているのである。

そうなると、「うまく思い浮かべる努力しなかったやつが悪いんだ」ということに、また、(原因を)すりかえられてしまうのである。

2025年2月26日水曜日

これが、くるしかった。

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俺がほかの人から、なめられるように、なめられるように、 きちがい兄貴が、きちがい的な音量できちがいヘビメタを鳴らすのである。

きちがい的な感覚で鳴らすのである。しかも、きちが的な感覚で鳴らしてないことにしてしまうのである。

俺が、何万回、ヘビメタのことで文句を言っても、きちがい兄貴は、きちがい的な感覚で、「一回も文句を言われたことがない」と思っているのである。

しかも、「一回も文句を言われたことがないと思っている」ことについて、無自覚なのである。

こんな、しくみが成り立っているやつが、普通の人に理解されるはずがない。

だから、普通の人は、俺の兄貴が普通の人だと思って……普通の人だと想定して、さまざまな助言をすることになるのだけど、その助言がすべてまちがっているのだ。

けど、普通の人たちは普通の人たちで、自分の助言がまちがっているとは思わないのである。自分の助言の前提に、まちがった部分があるということは、これまた、俺の説明を聞いても、認めないのである。

さらに、そいつらのうち、一部の人は、腹をたてるのである。俺の説明を聞いて、腹をたてるのである。こんなの、やってられるか。

 実際に、きちがいヘビメタを鳴らされることで、俺の記憶力が落ち、俺の注意力が落ち、俺の持続力が落ちるのである。

けど、それも、事情を知らない人たちから見れば、俺の初期値(通常の値だ)と見えるのである。これが、くるしかった。これが、くるしかった。

やられてない人はわからないけど、あの態度で、ほんとうに鳴らされると……勉強することができないのである。しかも、鳴っているなかで、勉強しようとすると、学校で覚えたことも、すっとんでしまうのである。

記憶として定着していたことが、ふっとんでしまうのである。

そして、思考が必要なものに関しては、おぼつかなくなってしまうのである。この、きちがいヘビメタ騒音中の、勉強をしようという試みは、成功したことがない。

それだって、普通のやつらは、やられたことがないから、わからないのである。「どれだけヘビメタが鳴ってたって、勉強ぐらいできる」と思って、できないことを言ってくる。

これ、ほんとうは、きちがい家族に、日常的に、ずっと、俺とおなじことをやられたらできくなるのだ。それが、やられてないから、わからないだけだ。

鳴っているあいだだけではなくて、ほかの時間も……睡眠をとおして、俺の記憶力や注意力に、きちがいヘビメタ騒音が影響をあたえるのである。鳴っているあいだだけではなくて、睡眠をとおして、俺の生活体力に、きちがいヘビメタ騒音が影響をあたえるのである。

ようするに、猛烈につかれた状態で、がんばって、生活している状態になる。

これだって、注意不足や疲労で意識水準がさがるときがあるから、トラブルのもとなのである。

しかも、精神世界の人じゃなくても、言霊思考や思霊思考の影響をうけているので、言ってくることが、言霊思考や思霊思考の影響をうけたものになるのである。それも、トラブルの原因になる。

*     *     *

きちがい家族が、自分がこの世で一番嫌いな音を、四六時中、ずっと鳴らしていたら、そんなことが成り立つわけがないという状態になる。言霊思考や思霊志向というのは、人間の思考に根本的に内在するものなのである。

だれだって、幼児的万能感はもっているのだ。程度の差こそあれ、大人になっても、もっているんだよ。当然、思春期でも、もっているんだよ。幼児的万能感は、幼児期が過ぎれば、消失してしまうようなものではないのである。考え方のコアとして、生きているのである。生き残っているのである。

そうなると、きちがいヘビメタ騒音に、毎日四六時中、やられた俺は、とても、不愉快な思いをすることになるのである。ほんとうに、できないからだ。

ほんとうに、「そんな状態じゃない」のである。


けど、これだって、普通のやつらにはわからない。理論的なことですら、幼児的万能感に邪魔されて、理解することができないのである。

幼児的万能感が生き残っているために、「言ったことが現実化する」「言えば、言った通りになる」「思いは現実化する」「明るいことを思えば、明るいことが起こり、暗いことを思えば、暗いことが起こる」という思考をすてることができないのである。

こいつらにとっては、すてる必要性もないのである。

だから、自動的に、言霊思考や思霊思考をしてしまうのである。

そうなると、ヘビメタ騒音でこまっている俺に対して、因果関係の順序を逆にしたことを言ってくるのである。

これも、きちがい兄貴が、きちがい的な感覚で、きちがい的な態度で、自分が出したい音に、こだわってこだわって、どんな時間も、きちがい的な音で鳴らすということをしなければ、そんなことになってなかったのである。

*     *     *

普通は、ちゃんと推論できることが、テストなど、緊張する場面だと、ヘビメタ騒音時間の緊張が復活して、ちゃんと推論することができなくなってしまうのである。これも、きつかった。

睡眠障害にならず、生活体力をうしなわず、普通に通勤できるなんてことはない

 ほんとうに、きちがいヘビメタで、全部、うばわれた。ほんとうに、きちがいヘビメタに、全部、うばわれた。これ、きちがい兄貴がものすごく珍しい人間で、「よそ」にはいないのだから、俺だけが経験したことになる。そうなると、「俺が言っているだけ」と思う人たちが出てくるんだよなぁ。こいつらにとっては、もちろん、きちがい家族によるきちがい騒音なんてないわけだから、過小評価する。「自分だったら、だいじょうぶだ」と思う。そりゃ、実際に、経験してないのだから、そう思うだろ。実際に経験したら、ちがう感想をもつようになると思うけどね。もちろん、きちがい家族がいな状態ですごしていた人たちだって、困難はある。苦しみはある。それは、否定しない。苦労はある。ぜんぜん、否定しない。けど、毎日通勤できるぐらいの苦労だったら、それは、ぼくが経験した苦労とはちがうということが言える。普通に働くことができた……。これだけで、ぜんぜんちがう。普通に働いているやつが、「自分だって苦労した」と言ったって、そんなのは、普通に働くことができるぐらいの苦労なんだよ。まあ、専業主婦の中年女性・高齢女性も、無職の男性には、偏見があり、それが許される状態なんだよね。「自分だって、無職なのに、よく言うよ」と思うけどな。けど、まあ、そういう偏見をもって、生きていくだけの元気があるのだから、この人たちの「苦労」もたいした苦労じゃない。ほんとうに、きちがい兄貴が、きちがいなんだよ。本物のきちがいなんだよ。あの感覚は、ない。あの感覚でずっと鳴らし続けて、まったく気にしないなんて、おかしい。あんなでかい音で鳴らして、でかい音で鳴らしてないと思い続けているなんて、おかしい。おかしいんだよ。常識外なんだよ。その常識外の人に、何年間も、十何年間も、毎日やられた。だから、おかしくなった。普通に働けない状態になった。そういうふうに、ちゃんと!!言っているのに、こいつらが「そんなのはおかしい」「エイリさんが嘘を言ってる」と思うから、こいつらにとって、俺がへんな人になり、敵になるのだ。攻撃対象になる。特に、ぼくが嘘を言っていると思っていて、なおかつ、ぼくが嘘を言っているとは思ってないと思っているやつらは、ぼくを精神異常者だと思うわけだから、たちが悪い。おまえらの、そういう性格は、よくないよ。偏見に基づて、ぼくに対して行った様々な行為は、よくないよ。こいつらは、こいつらで、無職を毛嫌いして、無職はこうだと思って、ぼくの言動を解釈するから、ほんとうに、ぼくに対して失礼なことを言うことになる。もっとも、「失礼なことを言った」「失礼なことをした」とは、死ぬまで思わないわけだけどな。たぶん、死んでからも思わないんだろ。だから、誤解したまま死んで、そのままだ。きちがい兄貴が、よその人の常識を無視して、きちがい行為を、きちがい的な意地でやり続けるから、こんなことになる。この、ぼくを無職だと思って、偏見の目で見つめて、いろいろなまちがった解釈をして、ぼくに対して悪をなした人たちだけど、この人たちだって、一一歳から一八歳までの、八年間、毎日、あのきちがいヘビメタ騒音をあびせられて、生活したら、働けなくなる。これは、はっきりしている。証明はできないよ。できるわけがない。だから、ぼくが言っているだけということになる。これは、たしかに、「僕が言っているだけ」のことだ。けど、あの毎日を経験して、睡眠障害にならず、生活体力をうしなわず、普通に通勤できるなんてことはない。断言する。まあ、ぼくが断言しただけだけどね。おまえらの想像力がないから、「お兄さんはほんとうはそんなことをしてない」と思うだけだろ。おまえらの想像力がないから、「たとえ、毎日そういうレベルで騒音が鳴っていても、通勤ぐらいできる」と思っているだけだろ。

「引き寄せ」という考え方をはやらせるために、嘘を言うことを考えてみよう(9)

 「引き寄せ」を信じていて、なおかつ「すべては思いようだ」と思っている人は、たとえば、「引き寄せ理論はまちがっている」という話を聞いた場合、「思いよう」だから、「引き寄せ理論はまちがっている」と思ったりしないのだ。

まあ、ぼくの経験の範囲で言うと、そういう人はゼロ人だ。

あれ? 「思いよう」なんでしょ。

だったら、自分がいままで、引き寄せは正しいと思っていたけど、(目の前にいる)ぼくが、じつは、引き寄せ(理論)はまちがっているという話をしたら、思いようをかえて、引き寄せ理論はまちがっていると思えばいいじゃないか。

けど、「引き寄せ理論は正しい」という考えにしがみつくのである。

これは、「すべては思いようではない」ということをしめしているのである。

「その時」どのようなメタ認知が成り立っているかは、重要だ。

しかし、どのようなメタ認知が成り立っているかに関係なく「すべては、思いよう」なら、そのつど、自分の意見を、「すべては、思いようなのだから……」と、かえるべきなのだ。

かえる必要がないと思っているなら……その人のなかでは、「すべては、思いようではない」ということになっているのである。

相手?がなにかを言ったら、すべては思いようだからと、相手の意見にあわせるということをしてないのにもかかわらず、「すべては、思いよう」だという意見を繰り返して言うのである。

たとえば、ぼくは、きちがい兄貴のヘビメタ騒音がきらいだ。「思いようをかえればいいのか」。

思いようをかえようと思えば、かわるのか?

ほんとうにこいつらは、失礼なやつらだ。鳴らしている人の耳が悪くなるほどでかい音で鳴らすという行為は、やってはいけない行為なのである。

横の部屋に俺がいるのだからやってはいけない行為だろ。

横の部屋にいた俺が「しずかにしてくれ」と言ったら、たとえば、フォークギターぐらいの音に落とすべきだろ。あるいは、ヘッドホンをするべきだろ。

ところが、そのままで、自分(きちがい兄貴)の耳が悪くなるようなでかい音で鳴らし続けるのである。きちがい兄貴が、「思い」をかえるべきだという意見ならわかるけど、どうして、ぼくが、思いをかえなければならないのか。

どうして、こいつらは、悪をはびこらせるようにふるまうのだ。どうしてこいつらは、悪いものの味方をするのだ。

そして、こいつらは、相手である俺を侮辱したということがわかってないのである。

それから、精神世界の人たちは、「思いをかえるべきだ」ということを言うのだけど、実際に、自分が思いをかえるのかというと、かえないのだ。思いをかえて、ヘビメタ騒音を、ものすごくでかい音で鳴らすべきではないと思えばいいじゃないか。

そして、引き寄せは正しい」と思っているとしても、ぼくが、「引き寄せはまちがっている」と言ったら、ぼくの意見にあわせて、思いをかえればいいのだ。けど、精神世界の人は「引き寄せは、ある」「引き寄せ(理論)は正しい」と言いはって、「思い」をかえない。

そんなことはしない。

精神世界の人は、自分でなにを言っているのかわかっているのか?

*     *     *(9)

2025年2月25日火曜日

やってられない。そんなんじゃないから、こまっているんだろ。

 いやーー。ほんとう、つまんない。ヘビメタ騒音でズタボロだった。毎日毎日、ズタボロだった。一分間だって、ほんとうにゆずってくれたことがないのだ。毎日、はりだして、鳴らしていた。はりだして……。そりゃ、やられてない人間にとっては、どうでもいいことで、どうってこと、ないことだ。けど、四六時中たたられていると、ほんとうに、くるしいのである。ダメなのである。鳴らされて、ヘビメタ騒音を浴びているのに、影響をうけないということができないのである。これを、鳴らされてないやつが……同等の騒音を毎日経験してないやつが、……自分なら影響をうけないことが可能だという前提で……ものを言ってくる。それ自体が不愉快なことだ。そりゃ、どうしたって影響をうけて、どうしようもない状態でくらしているのだから……。本人の意思では、どうしようもない状態でくらしているのに……簡単に影響をうけずに暮らせるという前提で……ものを言ってくる。そんなやつばかりだ。だから、ヘビメタ騒音が鳴っていると、相手に対して「よわくなる」のである。突っ込みどころ、満載になるのである。しかも、「そんなのは、自己責任だ」という考え方がある。当時、自己責任という言葉はそれほどはやっていなかったけど……「ともかく、そんなのは、本人の責任だ」……「自分の身に起こったことは、すべて自分の責任だ」という考え方は、日常生活に浸透していた。ようするに、きちがい兄貴をしずかにさせることができないのは、エイリの責任だということになる。そいつらにとってはそうだ。けど、こいつは、きちがい家族が、うちでやることについてまったくわかってないのだ。どうしてなら、きちがい家族と一緒に住んだことがないからだ。きちがい兄貴の脳みそなんてかえられるわけがないだろ。「ちゃんと言えばわかってくれる」……こんなレベルで思考しているやつらが、わかったようなことを言ってくる。けど、ぜんぜんわかってない発言だ。どれだけちゃんと言っても、きちがい感覚で無視してやりきる。きちがい感覚が成り立っている。兄貴のきちがい感覚は、俺にはどうすることもできないんだよ。脳みその改造手術をするわけにはいかないのだから……。これ、そういうレベルのことなんだぞ。「ちゃんと言えばわかってくれる」という……妄想的にあまい設定でものを言うな! それこそ、現実に対応してない発言なのである。空想の、妄想発言なのである。脳みそがくるっているから、ほんとうに、そうしちゃうんだよ。きちがい兄貴は、きちがい兄貴がやっていることについて、客観的に正しい認識をもってないんだよ。きちがい頭の中で、「こんなのはたいした音じゃない」「これは、普通の音だ」と書き換えて、猛烈にでかい音で鳴らしているのであり、どれだけこっちが「迷惑だ」と説明しても、「迷惑行為をしている」とは全然考えることができない状態で、やっているのである。そして、自分が頑固にやったことは、「やったってやってない」の境地に立って「やってない」と思ってしまうようなきちがい人間なのだ。これが、よその人にはわからない。「言えばわかってくれる」という妄想的な前提に立てば「言わないエイリが悪い」ということになってしまうのである。さらに、「ちゃんと」というわけのかわからないことばをつけると、「ちゃんと言えばわかってくれるはずだ」ということになってしまうのでる。「わかってくれないなら、ちゃんと言ってない」ということになってしまうのである。日本語がわからない人のために説明しておくと、エイリさんがちゃんと言わないから、お兄さんがわかってくれないという意味だ。ここでも、精神世界的な「アトダシじゃんけん思考」が成り立っている。これだと、わかってくれない以上、ちゃんと言ってないということになってしまうのである。こんなでたらめなこと、ない。こんなでたらめな思考を普通にするやつが、俺のことを「ちゃんと言うことができない人」としてバカにしてくる。ほんとうは、きちがい兄貴に問題があるのだけど、エイリがチャン説明できないという、エイリの問題にすり替えしてしまうのである。「の」の重複を避けるために『きちがい兄貴の脳みその問題』とは書かかなったけど、きちがい兄貴における脳みその問題なのに、俺の能力の問題にされてしまうのである。能力の問題と書いたけど、ある意味、言語能力の問題だと言っているのだから、脳みその問題にされてしまうのである。兄貴の脳みその問題なのに、妄想的なことを考える人は、俺の脳みその問題だと思ってしまうのである。ちゃんと説明すれば、きちがい兄貴はわかってくれるのに、ちゃんと説明しないから、わかってくれないと考えているのだから、そうなる。こういうやつも、実は、自分の家に(兄貴とおなじようなタイプの)きちがい家族がひとりもいないから、そういうふうに考えてしまう。まあ、想像力や思考力もないのだろう。脳みそに問題があるんじゃないか。ともかく、「ちゃんと言えばわかってくれるのに、ちゃんと言わないからダメなんだ」と考えるやつは、兄貴の脳みその問題を、ぼくの言語能力的な問題に置き換えてしまう。そして、そういうまちがいをしておきながら、ぼくがちゃんと説明をしても、理解しないということをやってのけるのだ。これ、俺が、今ここで説明したことを、説明しても、「ちゃんと言わないからダメなんだ」といったやつが、理解してくれたことはないのである。現実の場面で、ぼくの経験の範囲で言うと、こういうやつが、ここに書いたことを理解してくれたことはない。だから、きちがい兄貴が、きちがい的な脳みその構造をもっていて、きちがい的な感覚で、きちがい行為を押し通してしまうと、ぼくが、バカにされるということになる。バカにバカにされるのだ。こんなの、ない。

これは、きちがい兄貴が鳴らしているきちがいヘビメタ騒音……によって発生する出来事なのだ。

やってられない。

いまでも、日曜日や祝日は、一日中、明るい時からずっとずっと、ヘビメタ騒音の感じがある。日中の感じとか、全部ヘビメタ騒音だ。夜の感じとか、全部ヘビメタ騒音だ。ヘビメタ騒音が、雰囲気に浸透して、雰囲気に「くっついて」いる。

これだって、「そんなのは異常だ」と、やられてないバカが思うわけだよ。けど、そのばかだって同じレベルのことを、同じ期間の長さ、毎日やられたら、やっぱり、自分のきらいな音が鳴っていた雰囲気というのが、今認知している雰囲気にくっついてしまうんだよ。ようするに、異常な刺激に対する正常な反応なのだ。人間は、そういうふうにできているんだよ。きちがい的な意地で無視して、普通の家では絶対にやらないことをやってしまう、きちがい兄貴の問題なのに、俺のほうの問題になってしまう。これは、実際に俺が、そうなっている。ようするに、問題をかかえてしまっている。毎日の繰り返しにより、「現実が暗いものになってしまった」のである。たしかに、生きている以上、俺の問題として、ある。くるしいのは、俺だからな。けど、他人の身の上には、生じなかったことだから、他人が俺のようになってないだけなんだよ。これ、走れば息があがるのと同じような反応なんだよ。ところが、やられたことがないやつは、これも、「軽く見て」……自分ならやられたってそんなことにならない……と思って、そういう前提でものを言ってくるようになる。どんなことがあったって、憂鬱なやつは、憂鬱なやつが悪いということを言ったりする。自分で自分のご機嫌をとればいいのにとらないからダメなんだと言ってくる。楽しい楽しいと言えば楽しくなるのに、楽しい楽しいと言わないからダメなんだと言ってくる。こいつらは、みんな、ぼくと同質・同量の、同室の騒音を経験したわけじゃない。人生のなかでぼくと同質・同量の経験をしたわけじゃない。それは、俺のような現実かかえてないという点でわかる。そして、「る。楽しい楽しいと言えば楽しくなるのに、楽しい楽しいと言わないからダメなんだ」と言っている点でわかる。ところが、こいつらがみんな……ほんとうにみんな……「自分だって苦労した」と、自分も同質・同量の経験をしたという前提で、「そんなのは、エイリさんの責任だ」ことを言ってくる。これも、楽しくなろうと思えば楽しくなれるのに、楽しくなろうとしないエイリさんの問題なんだということにしたいのである。こいつらの思考は、どこまでもどこまでも、きちがい家族に毎日、何年間も、十数年間もやられたやつを、追い込む思考だ。

そんなんじゃないから、こまっているんだろ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025年2月24日月曜日

ほんとうは、書く気がなかったけど、ちょっとだけ書いておく。

 ぼくはもう関係ないけど、動画を見たときに感じたことを言っておく。問題は、「無職」「ニート」「ひきこもり」というレッテルに関することだ。「無職」といっても、みんな、おなじ無職じゃないのである。人により条件がちがう。人により、事情がちがう。だから、みんな、ちがうのである。おなじじゃない。ところが、「無職」というレッテルをはって、人を判断する人は、「無職」というレッテルをはったら、「無職」という「自分のなかの無職のイメージにそって」人を判断するのである。しかも、自分が定年退職で無職だとしても、そういう判断のしかたが、おなじなのである。自分だけ例外なのである。ほかのやつらのことは「無職」でひとくくりなのである。そして、自分だって無職なのに、自分は働いてきたから無職でもいいという個人的な理由で、ほかの無職を、断罪するのである。悪口を言って、いい気になる。自分だって、ほかのやつらか見れば「無職」とカテゴライズされる立場の人間だということがわかってない。自分のことだけは、例外で、ほかの人間には「無職」というレッテルをはって判断するのだ。「自分は働いてきたから、今は働かなくてもいい」というのは、そいつの価値感なんだよ。そいつの判断基準なんだよ。だから、「自分は働いてきたから、今は働かなくてもいい」という判断基準をもたない人間であり、なおかつ、無職に偏見がある人間にとっては、そいつも、ほかの無職と変わらない無職なんだよ。

ニートについても、おなじだ。ひとくちに、ニートといっても、いろいろな事情をかかえているやつらがいるんだよ。だから、人それぞれに、ちがう事情をかかえているんだよ。だから、ニートと簡単にカテゴライズできるのではない。ニートの性格はなんだとかかんだとか言えるものではないのだ。けど、考えが浅いので「ニートはこうだ」と言いきってしまう。そいつが単に、ニートに対して、偏見をもっているだけなのだ。人がちがえは、条件がちがう。歴史がちがうのだ。条件や歴史を考えないで、「ニート」というカテゴリーでひとくくりにくくって、それで、ニートをバカにしたようなことを言う。条件が、ひどければ、自分だって、ニートになっていたかもも知れないということを考えることができないほど、単純なのだ。 

「ニートは幼稚」と言っているやつが、幼稚な人間なんだよ。ニートというカテゴリーで考えて、ひとりひとりの条件について考えないのだから、幼稚だろ。ちがうか?

やられてないやつらは、やられてないやつらで、きちがい家族による騒音に対する理解力がゼロなんだよ

 きちがい兄貴やられて、通勤して働くことができなくなったら、ほかの人から、ほんとうに、ひどいことを言われた。ほかの人だって……無理解ぶりを発揮したほかの人だって、自分がほんとうに、きちがい家族による騒音を経験すれば、働けなくなるのに、「自分だったら、おなじことがあっても働ける」という前提で、アホなことばかり言ってくる。じゃあ、「アホなことを言うな」と俺が言ったら、どうなるか? そいつは「アホなことじゃないだろ。大事なことだろ。人間働くべきだ。働いてないのに、威張るな」と言ってくる。どんだけ、自分があほなことを言っているかわかってない。きちがいがいなかった。だから、きちがい家族による騒音を経験してない。だから、働ける……。これがわかってないのである。アホでなくてなんだ。

どんだけ長いあいだ、きちがいヘビメタが鳴っていたと思っているんだ? 過去は関係がない? これ、「過去は関係がない」といったやつらを、殺してやりたいような気持になる。ほんとうに、きちがいヘビメタ騒音の日々がどういう日々なのかわかってない。こういうやつらが、なめてくる。なめてかかってくる。それも、こいつらは、俺が舐められるようなことをしたからダメなんだ」と、また、なめて行ってくるわけだ。こいらは、こいつらで、「働いている自分」は「働いていない」エイリより、えらいという考えがあって、自分のほうが上だという考え方から抜けられない。なめてんじゃないか。こいつらは、ゆるせん。きちがい家族のもとに生まれなかったから、またまた、きちがい家族にやられなかっただけなのに、自分のほうが「エイリより」ずっと優れていると思っている。ずっとすぐれていると思っている根拠は、エイリは働いていないけど、自分は働いているというものだ。こんな、うすらバカに、バカにされるようになる。きちがい兄貴の騒音で、こういうことになる。やられてないやつらは、やられてないやつらで、きちがい家族による騒音に対する理解力がゼロなんだよ。きちがい家族がいないから、まったくわかってない。実際に経験したことがないから、どういう(影響があるか)まったくわかってない。想像力が、とてつもなく低いので、わかってない。経験しなくても、想像力がある人は、ちゃんと、想像できる。こういうなめくさった態度をとるやつは、みんな、想像力が低い。 

連日連夜、ずっとやられていると、想像力が低いアホに、なめられるようになる。ほんとうに、頭にくる。だから、やめろとあれほど言ったのに……。ほんとうに、きちがい兄貴が、きちがい脳みそで、理解しなかった。きちがい兄貴が、特殊な人間だから、普通の人は、きちがい兄貴にやられたことがないのである。普通の人のところには、普通の人がいるのである。普通の人のところには、普通の家族がいるのである。普通の家族が騒音を出しても、それは、普通の家族がやる方法で、騒音を出しているだけなんだよ。普通の家族が出すレベルの騒音なんだよ。普通の家族が、普通の人の感覚で出す騒音なんだよ。あんなにきちがい的なレベルで自分の音(自分が鳴らしたい音にこだわって)すべてのことを無視して、どれだけなにを言われても、ずっと鳴らし続けるなんて、ありえないんだよ。普通の家じゃありえないんだよ。だったら、普通の人が、経験しないことなのである。だったら、経験してないのだから、なめたことを言ってくるな!

「ちゃんと言えばわかってくれる」「お兄さんにちゃんと言えば、お兄さんだって、わかってくれるはずだ」と言ってくるやつだって、おなじことが成り立っている。そいつの家族は、騒音を一時的に出すようなことをしても、普通の人なんだよ。普通の家族なんだよ。だから、「ちゃんと言えばわかってくれる」と思っているんだよ。それは、ちがうと言っているのに、こいつらも、こいつらで、いつまでたっても、俺が言っていることを理解しないんだよな。 

きちがい兄貴が、きちがい感覚で鳴らすから、俺がほかのやつらから、なめられる。

ほかのやつは、けっきょく、俺とおなじことを経験してない。けど、「俺だって、苦労した」と言えば、俺とおなじ苦労をしたということになってしまうのである。「自分だって困難はあった」と言えば、俺とおなじレベルの困難を経験したということになってしまうのである。ぜんぜんちがうのに、ぜんぜんちがうということを認めない。そいつらは、俺と同レベルの困難を経験してないから、通勤して働けるだけなのに、なにもわかってないな。自分だったら(おなじことをされても)通勤して働けると思っている時点で、ズレているんだよ。まちがっているんだよ。まちがった考えの上に、(常識的な)考えを重ねているんだよ。くそえらそうだな。

「引き寄せ」という考え方をはやらせるために、嘘を言うことを考えてみよう(8)

精神世界の人は、引き寄せ思考のほかに、「すべては、思いよう」とか「すべては、受け止め方の問題だ」とかという考え方をもっている場合が多い。

「すべては思いよう」なら、すべては確信できないことになるのである。

ようするに、「今このように受け止めよう」と思えば、「このように受け止めることができる」のだから、「今これは単なる偶然だ」と思うようにすれば、引き寄せはなくなって、ただ単に偶然に発生しただけのことになる。

ようするに、「引き寄せることができたのだ」という考え方(確信)は、実は、どうとでも思えることの一つでしかないのである。「引き寄せることができたのだ」と考えるのをやめて「これは、絶対に偶然だ」と考えることもできるのである。

「すべては、思いよう」なので、そう考えることもできる。

だから、じつは、「すべては、思いようだ」というのは、価値観をなくす思想なのである。

それだけが残って、あとは、すべて、平等な地平にならされて、自分の「そのときの意思」で、どうにでも思えることだということになっているのである。

けど、これは、へんな考え方だ。

なら、どうして、そのとき自分がそう思おうと思っているのかということが問題になる。

メタ認知で、「こういうふうに思ったほうが都合がいい」と思っているから、都合がいいほうにあわせるだけなのである。

けど、それは、そのつど発生することなのである。

精神世界の人は、中途半端だから、「すべては、思いよう」というような考え方で、精神がくずれることはない。

けど、「すべては、思いよう」という考え方は、そのときのメタ認知に都合がいい考えた以外の考え方は、すべて、入れ替え可能なものになってしまうのだ。

すべてが同格で、自分の気分に合わせて、自由に、配置することができる考え方なのだ。そして、そういうことが可能だということは、実は、すでにある価値観を無視しているということになる。

だから「確信」なんてしないはずなのである。

「すべては思いよう」という考え方は……確信した内容と、確信した内容の反対の内容を、いつでも、自由に入れ替えることができるのだということを言っているのである。

これ、わかってないだろ。
 

*     *     *(8)

2025年2月23日日曜日

ヘビメタ騒音なしで、ぼくの才能を発揮できるところで、働きたかったなぁ

 ヘビメタ騒音なしで、ぼくの才能を発揮できるところで、働きたかったなぁ。

それなら、ぼくは、働き者なんだけどなぁ。

ヘビメタ騒音に汚染された体(からだ)で、動くこと自体が、くるしくてくるしくて、くるしくて、くるしいことだ。

そのほかにも、実際にやられないとわからないことが、いっぱい、いっぱい、いっぱい、ある。

みんな、やられてないから、軽く考えて「こうすればいい」「ああすればいい」と言う。自分だったら影響をうけないという前提で「過去は現在に影響しない」とか「ヘビメタ騒音なんて、そんなのは、関係ない」と言う。

いやーー。実際にやられたら、ちがうんだよ。

毎日続いたら、ちがう。

どれだけがんばっても、毎日続いたらダメだ。影響をゼロにすることなんてできない。

あんだけ、きちがい的な音で、やられているのに、やられてないのとおなじ状態で暮らすなんてことは、できない。

ぼくだけではなくて、ヘビメタがきらいな人は、みんなそうだ。そして、ヘビメタが好きな人だって、別の音でやられたら、おなじ状態になる。

*     *     *

きちがい兄貴も、きちがい親父も、自分(たち)の行為が相手に与える影響なんていうのは、考えない。言われないからわからないのではなくて、言われたってわからない。

何万回、何十万回言われたって、わからない。これ、ほんとうに、頭がおかしいからそうなってるんだよな。自分にとって不都合なことは、絶対に認めないのである。

これ、じつは、重度の認知症より、ひどい症状なのだ。

けど、「よそ」だと、おさえつけられるから、ある程度、無意識的にがまんするところがある。だから、ある程度がまんしている状態を知っている人は、「そんなわけがない」と思うわけ。

けど、場所場所で……おさえつけられる状態であっても、頑固に意地をはるところがあるんだよ。これ、本人は、嘘をついているつもりがないから、きらわれるわけだけどね……。

きらわれたって、そんなの気にしないよ。だって、きらわれたことに、まったく気がつかないもん。

ともかく、無意識的な命令で、認めないことは、絶対に認めないのだ。認めないことに命がかかっている状態で、認めない。けど、やりたいことはやってしまう。

だから、きちがい的な意地でやったことを、きちがい的な意地で認めないということになる。

これは、ほんとうに、やったつもりがなくて、やったことを知らない状態なのである。重度の認知症より、ひどい状態なのである。本人は、自分の都合を(本人の感覚としてはのーだーじで)押し通すことができるので、なんともないことなのだけど、「まわりいる人」にとっては、ものすごくこまることなのである。重度の認知症患者を家族として抱えている人よりも、こういうタイプのほうが、こまるのである。

ともかく、無意識的に、感覚器を書き換えて、やったってやってない状態にしてしまう。

でかい音で鳴らしたって、でかい音で鳴らしてないと、つねに、頑固に、認識しているのだ。くさいにおいをだしたって、くさいにおいをだしてないと、つねに、頑固に、認識している。

これ、においはわかるけど、わからないふりをしているのとは、ちがうのだ。そのときだけ、においに鈍感になる。無感覚になる。

においのことは、親父の話だけど、兄貴の場合は、音でそうなる。

きちがい的にでかい音で鳴らしているのに……そして、聴力は正常だから(だったから)でかい音で鳴らしているということが、普通の状態なら、わかるはずなのに、わからないのだ。

自分が鳴らしたい音だと、ごく自然に無意識的な妨害がはいって、でかい音で鳴らしているということ自体が、わからないということになる。「うち」では、つねにそうなんだよ。「よそ」だと、どうだか知らないけど、「うち」だと、つねにそうなんだよ。

もし、自分が、でかい音で鳴らしているということを認めてしまったら、それ以降、(ほんとうに鳴らしたい)でかい音で鳴らせなくなってしまう。常識的な範囲で、音を落とさなければならなくなる。

それは、命にかけて、死んでも、いやなのである。

だから、聴覚のほうを無意識的にだます。

これ、だまそうと、意識的に思ってやっているのとはちがうのだ。

*     *     *

ともかく、話の通じなさがおなじなんだよ。親父と兄貴でおなじだ。親父は、当時、高校生になった兄貴のことがこわくて、注意できなくなっていたのだ。これも、親父は、(自分では)意識してないことだ。

だから、めちゃくちゃな理由をつけて、絶対の意地で注意しないのである。

けど、十数年たって、「注意しなかった」ということを認めるのが、いやな状態になると、「注意した!!注意した!!注意した!!」とわめきはじめる。

これも、全部、おなじなんだよ。当時から、おなじしくみが、脳みそのなかに成り立っている。

この、やらなかったのに、やったと言い張るのは、やらなかったのに、やったと言いはるのとおなじなんだよ。そのとき、不都合なことは、口先の嘘で、認めないようにする。

口先のうそと書いたけど、普通なら、口先の嘘だと認識できることなのに、きちがいだから、(自分がやっていることなのに)口先の嘘だと認識できないんだよ。言っているあいだは、ほんとうにそう思っている。

これが、こまるんだよ。

この「嘘つき構造」は、親父にも成り立っているし、兄貴にも成り立っている。だから、そういう「嘘つき構造」をとおして、自分がやりたいことを押し通してしまう。

そして、こんなのは、普通の家ではありえないことなので……普通の家では、こんなことをする人間がいないので、ぼくが嘘を言っているということになってしまう。よその人の認知が、これまた、現実的な認知じゃないのである。

ぼく、認知が現実的な認知なんだよ。

よその人は、そんな人と一緒に住んでいるわけではないので、ぼくの言っていることがわからない。「そんなのは、嘘だ」と思うわけだ。

「そんな音で、長男が鳴らしているのに、無視して注意しないなんてことはありえない。(だから、エイリさんが嘘を言っている)」と思うのだ。

こういう誤解が、幾重にも積み重なっている。

普通の人は、ごく普通に、誤解をする。「うち」のことを誤解する。「うち」の真実を誤解する。「うち」の現実を誤解する。

みんな、自分のことではないので、そもそも、あんまり関心がないことなのだけど、自分の常識とは、相反することなので「不愉快」なのである。認知的不協和がしょうじるのである。

「家族というものはこういうものだ」「人間というものはこういうものだ」と思って自我が安定しているのに、それを打ち壊す、情報が(ぼくから)送り込まれるのである。それは、自我を不安定にするものなのだ。

だから、「不愉快さ」を感じる。

「そんなこと、あるわけないだろ」とおこったように言うやつがいるけど、ほんとうにおこっているのだ。

家族が気ちがいだと、家族が普通人のやつからか、おこられるのだ。まったく、わりにあわない。こんなのは、ない。「うちの現実」について、ほんとうの話をしたのに、よそのやつが常識的に判断して「そんなのは嘘だ」と言ってくるのである。この場合、まちがっているのは、「よそ」の人たちなんだよ。「うちの現実」について「よそ」の人がまちがった判断をする。これがデフォルトだ。ほんとうにやってられない。

そして、よその人は、実際にこういうタイプからやられたことがないので、やられたことの「総重量」について、誤解をしているのだ。これもわかってない。

だから、「俺だって苦労した」と言えば、きちがい家族と一緒に住んでいるわけではない人が、きちがい家族からもたらせられる……つまり、きちがい家族がもたらす……苦労を経験したということになってしまう。

「経験したからそんなのは、知っているけど、そんなのは、関係がない」……という文脈で「関係がない」と言ってしまうことになる。ほんとうに、迷惑な話だ。 

ほんとうに「総重量」がちがうのである。苦労の質がちがうし、きちがい家族がもたらす、きちがい的な困難の数がちがうのである。数というのは、発生回数だ。おなじであるはずがないだろ。

無理して、動いていたんだよ

  そりゃ、前の日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、きちがいヘビメタ騒音にやられて、ほとんど眠れないまま、次の日になれば、憂鬱になるでしょ。無理して、動いていたんだよ。何千日も。

2025年2月22日土曜日

「引き寄せ」という考え方をはやらせるために、嘘を言うことを考えてみよう(7)


わからない人たちに、さらに、もう一度、説明しておこう。

いいことが発生する頻度(現実)、いいことが発生する条件(現実)、いいことを引き寄せる能力(架空)というものについて考えよう。

実際には、いいことが発生する条件がある。

その条件は、たいていの場合、あたえられた条件なんだよ。

才能は、まあ、あたえられた条件なのだけど、環境という条件によって、伸びしろがあるものなんだよ。だから、才能のタネと、才能の伸びしろを問題にしなければならない。

けど、まあ、ここでは、個々人の才能というものを、遺伝子的な才能だととえらえることにする。

今現在の身体に関しても、今現在、身長が一五〇センチだとか、一六〇センチだとか一七〇センチだというようなちがいがある。これは、条件のちがいなのである。

身長は、努力により、かえにくい値なんだよ。どうしてかというと、遺伝子が影響しているからだ。人間は、身体にも、条件がある。

そして、実際に一緒に暮らしている、親や兄弟といった条件もある。これらの条件というのは、生まれたときに、あたえられた条件であり、かえにくい条件なんだよ。

だから、これも、どういう家族のもとに生まれるかということは、固定的な条件だとする。

そして、家族というのは、個人において、最も身近な「外部環境」になるのである。外部環境は、かられるものとかえられないものにわかれる。

さらに、時間の経過によってかえられない条件がかえられる条件になったりする。たとえば、成人するまでは、生まれながらの家族と一緒に住んでいなければならなかったけど、成人したあとは、生まれながらの家族と一緒に住まずに、ひとりで暮らすとか、自分で新しい家族を作って暮らすということが考えられる。

けど、幼児が、成人したもののように、自分家族をかえられるかというと、かられないのである。だから、その時々によって、固定的な条件というのがある。

これは、「思いよう」ではないのである。

実際には……いいことが発生する条件(現実)が、いいことが発生する頻度(現実)を決めているのである。

しかし、引き寄せを信じた状態で、意識の集中があると、自分にとって都合がいい出来事を引き寄せることができたと思うようになる。

引き寄せパラダイムのなかで、すごしていると、現実を引き寄せパラダイムに即した形で認識するようになるのである。

引き寄せパラダイムのなかでは、引き寄せ能力(架空)が、いいことが発生する頻度(現実)を決めているということになるのである。けど、引き寄せパラダイムがまちがっているので、その認識はまちがっているということになる。

「引き寄せようと思ったら、引き寄せることができた」と言う人たちがいる。

その人たちは、自分には引き寄せ能力があり、引き寄せ能力を使って、そのものを引き寄せたと主張するのだ。

けど、それは、嘘だ。

自分で信じ込んでいるから、嘘を言っているつもりがないのだけど、嘘を言っている。嘘を言っていることにはかわりがないのだ。あるいは、まちがったことを真実だと思って、言っていることにはかわりがない。

「引き寄せができた」と思うことが起こる確率というのは、条件によって決まっているわけ。引き寄せ能力の有無とか、引き寄せ能力の程度で決まるわけじゃないんだよ。

どれだけ思い浮かべることがうまい人でも、条件が悪ければ、「それ」が起こる確率が低いわけ。いっぽう、どれだけ思い浮かべることがへたくそな人だって、条件がよければ、「それ」が起こる確率が高いわけ。

引き寄せ思考がすでに成り立っている人は、自分で引き寄せたと思っているけど、それも、ちがうんだよ。

「引き寄せたができた」と思うことが起こっただけなんだよ。それは、引き寄せ思考……事前に行った引き寄せ思考とは、まったく関係なしに生起しているんだよ。

引き寄せるために、思い浮かべる以外のなんらかの行動をしてしまった場合は、そのなんらかの行動が、新しい条件を作るので、結果に影響をあたえる場合はある。

けど、それは、普通に、「行動」が影響をあたえただけなんだよ。だから、「成功したところを強く思い浮かべること」が影響をあたえたわけじゃないんだよ。

「思うだけで現実化する」と考えるのと、「思っただけでは現実化しないので、行動する必要がある」と考えるのは、ちがうことなんだよ。

影響力の弱い条件なら、行動でかえることができる場合がある。けど、影響力が強い条件は、なかなか、行動ではえかられないのだ。

レベル一から、レベル一〇まで、ランクわけをしたけど、レベル一の人が、行動して「条件をかえようとしても」レベル一〇の条件になるわけじゃないわけ。個人の「条件をかえる能力」をこえる力が働いているのだ。

それが条件の力だ。

微細な条件をかえることができるけど、中ぐらい以上の条件は、なかなかかえられない。それが現実だ。

ところが、引き寄せ思考というのは、条件を無視しているので、思っただけで、「それ」を引き寄せることができると主張するわけ。

ようするに、条件を考えて説明すると、思って行動すれば、微細な条件はかわる場合もあるけど、思って行動しても、中ぐらいの条件や、でかい条件はかわらない(場合が)多い。ほとんどの場合、かえられない。

思っただけだと、微細な条件もかわらない。

これが、現実だ。

中ぐらいの条件どころか、小さな条件でも、かえようとすると、詐欺的なことをしなければならなくなる。これが、現実だ。

*     *     *(7)


「引き寄せ」という考え方をはやらせるために、嘘を言うことを考えてみよう(6)

もう一度だけ言っておこう。

条件を無視してしまうので、条件が悪い人が取り残されることになるのである。

「引き寄せ」というコンセプトを導入したとき、個々人がかかえる「条件」を無視してしまう。

そうなると、引き寄せることがうまい人は、うまく引き寄せることができる……ということになってしまのである。ほんとうは、条件がいい人が、引き寄せたいと思ったもの?……ほしいものを、手に入れる確率が高いだけなのだ。

ほんとうは、条件が悪い人は、引き寄せたいとおもっょたもの?……ほしいものを手に入れる確率が低いだけなのだ。

この確率は、条件によって、決まる確率なんだよ。

ところが、「引き寄せ」というコンセプトを利用すると、あたかも、みんながもっている引き寄せ能力の差が、結果の差をうみだしているということになってしまうのである。

こういうトリックなんだよ。

実際には、「うまく思い浮かべている人が、うまく物事を引き寄せているわけではないのだ。実際には、うまく思い浮かべることができない人が、うまく物事を引き寄せることができないのではないのだ。

だから、条件が悪い人は、どれだけうまく思い浮かべても、引き寄せる?ことができない。

そうなると、引き寄せ能力が低いから、うまく引き寄せることができないとか、うまく思い浮かべることができないから、引き寄せることができないということになってしまう。

これは、嘘だ。トリックがあるから……トリックがわからない人には……説得力をもってしまう。

たとえば、うまく思い浮かべる段階を、一から一〇まで考えたとする。一〇のほうがうまいとする。

その場合、うまく浮かべる度合いが一の人は、引き寄せ能力が低いということになる。「うまく、思い浮かべることができない」ということになる。

ほんとうは、うまく思い浮かべることができても、条件が悪いので引き寄せられない人は、自動的に、うまく思い浮かべる度合いが一だと評価されるようになるのである。わかるかな?

実際の、うまく思い浮かべる力なんていうのは、関係がないんだよ。

ほんとうは、うまく思い浮かべる度合いが一〇の人を考えてみよう。ほんとうに、リアルに、うまく思い浮かべることができるのだ。そういう能力がある。

ところが、その人の条件が悪いと、実際には引き寄せることができないということになる。条件が確率を決めているからだ。

うまく思う浮かべる度合い(うまさの度合い)が、結果を発生させているのではないのだ。

どれだけうまく思い浮かべても、(条件が悪い人は)引き寄せられないということになる。

けど、条件が悪い人が、引き寄せられたと考えることが発生する場合がある。これは、要するに、その悪い条件でも、起こりえることが起こっただけだ。

別に、引き寄せとは関係がないのである。わからないかな?

たとえば、条件と言っても、ほんとうに無数の条件が存在するんだよ。その人をつつみこんでいる?無数の条件がある。そのうち、意識がとどく条件……意識に浮かぶ条件というのは、特にフォーカスされた条件なんだよ。その条件を切り出して、言うしかないわけ。

で、条件を考えると(大まかにいえば)悪い条件の人は、あることAが起こる確率が少ないわけ。けど、確率が少ないとはいえ、「偶然に」起こることがあるんだよ。一%の確率で起こることだって、一%の確率で起こるんだよ。

一%の低さでも、一%確率で発生するので、それを、引き寄せ能力だと確信してしまう、条件が悪い人も出てくるわけ。意識が集中していれば(引き寄せに意識がフォーカスされていれば)一%の確率で起こることが、一%の確率で起こったとしても、「引き寄せは正しい」と思ってしまうわけ。

この「引き寄せは正しい」と思った人が、引き寄せのことを一切合切考えなかったとしても、一%の確率では、それは、発生するわけ。その場合は、引き寄せだとは考えないわけ。

*     *     *(6)

「引き寄せ」という考え方をはやらせるために、嘘を言うことを考えてみよう(5)

 現実世界は、引き寄せとはまったく関係がないんだよ。

だれも、ほんとうは「引き寄せ能力」なんてもってないんだよ。引き寄せ能力だと思っているものは、条件の写し絵なんだよ。

これは、「引き寄せに対する意識の集中」と「条件によって、よいことが発生する確率がちがう」ということから、しょうじる。

ようするに、ほんとうは、条件しか存在してないんだよ。こういう言い方で言うとそうなる。引き寄せを信じている人が、勝手に、引き寄せがあると思っているだけなんだよ。自分には引き寄せ能力があると思っているだけなんだよ。

そして、ネガティブなことを言う人には、引き寄せ能力がないと思っているし、引き寄せ能力がない人は、ダメな人間だと思っているんだよ。

最終的には、たとえば、引き寄せを信じていない人や引き寄せについてネガティブなことを言う人を、見下すようになるわけ。

けど、条件は条件として存在しているんだよ。何度も言うけど、個人に特有の引き寄せ能力なるものはないんだよ。勝手に、「自分には引き寄せ能力がある」と誤解をしているだけなんだよ。

通常、いいように誤解をしているのだから、それでいいだろ」ということになる。たしかに、個人が思っている分には、それほど問題にはならない。

まあ、その個人が、条件が悪い人に「圧」をかけなければ、たいした問題じゃない。

けど、妄想でしかないものを、真実だと信じている人がいると、条件が悪い人が、追い込まれることになるんだよ。

多数の凡人によって、条件が悪い人が、追い込まれる。ごく普通の場面で、ごく普通に追い込まれることになる。

条件の格差があるのだけど、引き寄せというコンセプトを導入するときに、条件の格差は、無視することにするんだよ。

そして、実際に「手に入れることができるか」とか「願望がかなうか」とかということは、条件の差によって引き起こされていることなんだよ。けど、条件の差は、完全に無視される。

現実的な条件の差を完全に無視して、「思っただけで、手に入れることができる」と言ってしまうのが、精神世界の方法なんだよ。

だから、必然的に「うまく思えなかった人がダメだからダメなんだ」ということになる。だから、必然的に「精神世界の方法を信じない人がダメなんだ」ということになる。

精神世界の方法を信じないダメな人が「くるしい思い」をしていても、それは、自業自得だと考えるようになってしまうのである。

これが、他人に対するつめたい感情を、醸成するのである。最初に「現実的な格差」「条件の格差」を無視してしまうから、こういうことが起こる。

たとえば、思っただけで、思い通りの自分になれるのだから、思わない人が悪いということになる。できるのにやらない人が、悪いということになる。

けど、できないことなんだよ。条件が決めている。

基本的には、引き寄せ能力なんて、だれにもないんだよ。

けど、引き寄せを素直に信じる人にはいいことがたくさんあり、否定する人には悪いことがたくさんおこるというような、まちがったイメージを作り出すことに成功するんだよ。

引き寄せなんてない。

あると思っている人は、説明によって幻覚を見せられているのとおなじなんだよ。

本人が、ランダムに起こっていることを、あるいは、条件によって、起こる確率が高いことを経験すると、引き寄せに意識が集中している場合は、引き寄せることができたと感じるようになっているだけなんだよ。

ほんとうは、個人に固有の「引き寄せ能力」なんてものはないのだけど、あることにしてしまう。

そうなると、「引き寄せ能力の格差」がしょうじるのである。

そして、引き寄せに対するネガティブな態度や、ポジティブな態度が、結果の差を作っていると思うようになってしまう。現実の条件を(精神世界の人)は無視するのだけど、現実の条件は、ある。

そして、現実の条件が結果の差を作っている。

だから、現実の条件の差を、引き寄せ能力の差に変換して考えるように「されてしまう」のである。

意識の集中によって、引き寄せがあると思っている人たちは、必然的に、現実の条件が悪い人たちを、見下すようになるのである。

そして、これこそが、引き寄せ理論を配布して、はやらせている根源的な理由なのである。

引き寄せをはやらせているやつら……実働部隊の人ではなくて、実働部隊の上にいる人は、引き寄せを信じた人が、条件が悪い人のことをボコるところを見ると、わくわくするんだよ。楽しいわけ。

それだけではなくて、引き寄せを信じる人が多くなると、ようするに、(支配者層)にもおカネがはいるようになっているのである。実働部隊の人だけではなくて、その上にいる支配者層に、おカネがはいるんだよ。

そのぶん、社会が「より悪く」なるんだよ。わからないかな?

効率を求める社会ができあがると、上の人たち(支配者層)が儲かるようになるんだよ。そうでない時よりも、ずっと儲かるんだよ。それとおなじことが、「引き寄せ思考」にも成り立っている。

*     *     *(5)

 

「引き寄せ」という考え方をはやらせるために、嘘を言うことを考えてみよう(4)

 しかも、意識の集中(フォーカス)があると、引き寄せたと感じることがあるのだ。意識の集中がなくても、実は、それ自体は手に入る。

けど、意識が集中しているので、幼児的万能感によって、自分が引き寄せの力を使って、引き寄せたのだと認識してしまうのだ。

これは、まちがった認識なのだけど、引き寄せ信者は、まったく気がつかない。「自分が引き寄せの力をかつって、引き寄せたのだ」と確信してしまう。

何度も言うけど、まちがった確信だ。

最初に、引き寄せ思考がセットされ、意識の集中があるから、「引き寄せることはできるんだ」と感じてしまうだけだ。

ようするに、誤認識によって、「引き寄せることができる」「引き寄せ理論は正しい」と認識してしまう。

ほんとうは、ランダムに発生していることですら、意識の集中があると、「自分が引き寄せた」と本気で思いこむことができるのだ。

そして、その人が、そのように認識したなら、その人のなかでは、その認識が正しいということになる。

けど、現実世界には、条件において『下の下』の人もいる。

一時的に、引き寄せがあるという前提で表現するしかないのだけど、現実世界において、その『下の下』の人は、いいことを引き寄せることができないのである。

いいことというのがなんのことなのかということについて考えなければならない。また、いいことが起こる確率を考えなければならないのだけど、引き寄せを信じている人に、このことを引き寄せがないという前提で言っても、引き寄せを信じしている人は、まったくなにを言っているのかわからないと思う。

本人が引き寄せを信じて、しあわせならそれでいいじゃないかと思うかもしれないけど、それはちがう。

引き寄せ理論が(正しいと)信じられていることで、現実的な不幸が発生するのである。

現実的なトラブルが発生するのである。

そして、社会が、より悪くなっていくのである。

引き寄せ理論を信じる人が多くなればなるほど、社会が悪くなる。

ところが、引き寄せ理論を信じている人は、引き寄せ理論を信じている人が多くなれば、そのぶん、社会がよくなると思ってしまうのである。

これ、ほんとうによくできた洗脳用のコンセプトだ。

気がつかないからなぁ。

自分が「引き寄せは正しい」と言うことで、社会に悪影響を与えているということに、気がつかない。気がつくわけがない。

2025年2月20日木曜日

鳴っていたのだから、こんな勘違い、侮辱だ。

  そりゃ、前の日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、きちがいヘビメタ騒音にやられて、ほとんど眠れないまま、次の日になれば、憂鬱になるでしょ。無理して、動いていたんだよ。何千日も。

みんな、きちがい家族がいないから、ほんとうは、きちがい家族がやる騒音なんて経験してない。みんな、俺だってくるしかった」と言うけど、ヘビメタ騒音と同等のくるしさが、同等の期間の長さ、続いたわけじゃない。けど、「俺だってくるしかった」と言えば、同等のくるしさが、同等の期間の長さ続いたということになってしまうのだ。

憂鬱になるだろ。きちがいヘビメタで、身体がこわれているのである。憂鬱になるだろ。「元気だ元気だと言えば元気になる」……そんなことを言ってられる状態じゃないんだよ。 

俺が、こういう期間の長さ、こういう音のでかさで鳴っていたと言ったら、実際そういう期間の長さ、そう言う音で鳴ってたんだよ。勝手に、うたがって、勝手に俺を嘘つきにしたてあげて、勝手に俺を、なんらかの人格的な障害者だと思って、勝手に、悪口を言いやがって。

「過去は関係がない」と言うやつや、「影響なんてない」と言うやつや、「そんなのは関係がない」と言うやつや、「そんなのはへんだ」と言うやつばかりだったよ。まあ、最後の「そんなのはへんだ」というのは、「そんなのへんだから、鳴ってなかったんじゃないか」と思っているんだよ。鳴っていたのだから、こんな勘違い、侮辱だ。

ともかく、ほんとうに、どれだけ元気を出そうとしても、実際のヘビメタ騒音で、体の状態として、へんな状態になるのに、それがまったくわかってない。わかってないやつが「自分だって苦労した」「自分だって困難があった」と言って、同質化・同量化してしまう。『影響』を無視している時点で、同質の、同量の苦労なんてしてないよ。もし、同質の、同量の苦労をしていたら、ぼくが言っていることがわかる。体でわかる。どうしても、そうなるということが、わかる。「過去は関係がない」「影響なんてない」「そんなのは関係がない」「そんなのはへんだ」と言うわけがないだろ。

たとえば、ヘビメタ騒音でどうしても憂鬱になると言った場合の憂鬱というのは、感情だけのものじゃない。精神だけのものじゃない。「どうしようもない状態」がある。「どうしようもないからだの状態」がある。

わかってないだけじゃないか。そういう状態があるということがわかってないだけじゃないか。

だから、 「過去は関係がない」「影響なんてない」「そんなのは関係がない」と言って、さらに、「元気だ元気だと言えば元気になる」と無理解ぶりを発揮した、妄想発言をするのではないか。

いま、午前八時三八分なんだけど、この朝の雰囲気は、悪い意味で、なんとも言えない者がある。朝の雰囲気は、ほんとうに、きちがいヘビメタにやられていたのに、無理やり体を動かしているときの雰囲気だ。まあ、ありていな表現を使うと「憂鬱だ」とか「つかれた」ということになる。けど、それだけじゃないんだよね。どんだけ、繰り返したか?

あの繰り返しがない人間が……あの繰り返しを経験してない人間が……わかったようなことを言うな。「過去は関係がない」「影響なんてない」「そんなのは関係がない」と言うな。わかってないから、「過去は関係がない」「影響なんてない」「そんなのは関係がない」と言えるんだよ。

こういう誤解が、最初から、横たわっているんだよ。 (後で、移動する)

 まあ、せっかく、プログラム業界について話そうと思ったのに、そっけなく「そうですか」と言われて、腹をたてたというのはわかるのだけど……。それにしても、腹をたてすぎなのである。相手の立場に立ってた考えれば、わかる。話そうと思っていた……。盛り上がろうと思っていた……。けど、そっけなく「そうですか」と言われた。けど、それだけで、カッとなって、以降、ずっと、無視し続けるというのは、おかしい。急にカッとならないで、「どうして、無視するんですか」と普通の調子で言ってくれれば、こっちだって、「無視してはいない。無職なのでそういう話をふられるのがいやだった」とこたえることができた。で、『あいからはじまるローマ字入力』だって、通勤することができないからどうにかしようと思ってやったことだ。そして、プログラムにも見えたし、プログラム部分もあったので、誤解をした人のまちがいを訂正する気持ちになれなかった。ほんのちょっとでも、まちがっていたら訂正しなければならないということはない。ちなみに、相手が勝手に誤解をした場合は、誤解を訂正する義務はないんだぞ。俺が、「プログラマーをやってました」とか「SEをやってました」とかということを言ってないんだぞ。ひとことも言ってない。しかも、俺は、そのメーリングリストで、何回も、「ヘビメタ騒音で通勤できなくなって、無職だ」ということを書いている。相手……プログラム業界のことについて、ツーカーで、細かい話をしたかったと思った人が、勝手に、誤解をしたげなのである。なんていうのかな? そんなに、いきなり腹をたてなくたっていいだろ。これ、何回か書いているけど、当初は、そんなに気にしてなかったことだ。俺のことをおもしろく思ってない人がいて、そいつも、プログラマーなんだけど、メーリングリストに「無職だ」と何回も書いたのに、それを読んでないやつなんだよな。俺は、自分が無職だという……書きにくいことを、当時、ちゃんと書いてたんだぞ。おまえらが、見逃しただけではないか。ほかにも、いろいろと、俺が「無色だ」と書いたことで、いろいろな人が、俺に対して「おもしろくない感情」をもったのである。こんなの、きちがい兄貴が、夢中になって、きちがいヘビメタを弾かなかったら、そもそも、発生しなかったことなんだよ。ヘビメタ騒音をことを書いて無職だと書いたわけだから、理由はわかっているはずなのだ。ともかく、なんていうのかな? 当時の日本の社会で、「無職だ」と言ってしまうと、非常に人間関係が悪くなるのだ。けど、十数年働いていたけど、三ケ月前から無職だというような無職の場合は、そんなに問題にならないのである。ヘビメタ騒音で、ずっと無職だというのが問題になっていたのである。ヘビメタ騒音で、通勤して働くことができなくなったということは、「言っても」「言わなくても」問題になる。これが、当事者じゃないとわからないような、ことなのだ。どういう気分を味わうか、まったくわかってないやつらばかりだ。それから、もと医者が、リタイアして無職になったという場合とはちがうからね。これ、ヘビメタ騒音ということが、まったく理解されないのである。約六割が「そんなの理由にならない」と感じて約四割が「そんなことはない。エイリさんが嘘を言っている」と思うことなのだ。きちがい兄貴という、普通ではない人間がやったこと……が、原因になっていると、ものすごく、不愉快な立場になるのだ。ほかの人のみのうえには、起こらないことなのだ。約六割の「自分なら平気だと考えるやつ」と、約四割の「損なのはうそだ」と考えるやつの身の上には起こらなかったことなんだよ。そのくらいに珍しいことなんだよ。なのであれば、そのくらいに珍しい困難であるということなんだよ。みんな、「自分だって困難はあった」と言う。もちろん、働いている身分でそのようなことを言うのだ。一部、専業主婦は働いていない状態でそのように、言うこともある。ともかく、「自分だって苦労した」と言うやつは、自分の苦労と、俺の苦労が同レベルの苦労だと思っているのだけど、実際には、その人たちの身の上にはまったく発生しなかった苦労なのである。けど、「相手が無職なら」……無職だと思って、めちゃくちゃなことを考えるのがこいつらなんだよ。ほんとうに、きちがい兄貴が、よそのうちでは絶対にありえないことをずっとやり続けて、こまった立場になったよ。

ともかく、無職に偏見をもっているやつは、妄想的にいろいろなことを考えてしまうのである。無職に対する嫌悪感でいっぱいになる。俺の発言や俺の行動に関して、いちいち、色眼鏡で見るようになるのだ。恥じるべきはそういう偏見だろ。こいつらは、「たとえ鳴っていたって、働けなくなることはない」と思っているやつらだし、「嘘だから、ない(そういうことは起こらなかった)」と思っているやつらなのだ。そういう間違った思い込み自体が、俺とその人たちの人間関係を悪くする「もとの要素」なのである。「ツーカーで業界のことを話せると思ったのに……なんだ!」というような気持もわかるけど、ほかの人が普通に思う、俺に対する気持ちのほうが、ずっとショックだよ。

家族によるヘビメタ騒音という普通の人が経験しない理由で、だめになった場合、立つ瀬がないのである。家族によるヘビメタ騒音という理由で、無職になった場合は、立つ瀬がないのである。ごくわずかな例外をのぞいて、みんなに、誤解される。半分のみんなは「たいした理由だと」思わない。「そんなので、働けなくなるわけがない」と思っている。そして、もう半分のみんなは「そんなのはへんだから、嘘を言っているんだ」と思っている。俺が嘘を言っていると思っている場合は、そもそも、ヘビメタ騒音が鳴ってなかったと思っているわけだから、影響をうけているわけがないと思っているのだ。だって、鳴ってなかったと考えるなら、鳴ってない騒音の影響をうけると思うわけがないだろ。どっちも、ヘビメタ騒音が原因で無職になることはないと思っているのだ。そんなのは、たいしたことじゃないと思っているのだ。こういう誤解が、最初から、横たわっているんだよ。

2025年2月19日水曜日

「引き寄せ」という考え方をはやらせるために、嘘を言うことを考えてみよう(3)

以降『上の人』というのは、条件がいい人のことだとする。『下の人』というのは、条件が悪い人のことだとする。

ちょっと前に述べたように、物事が起こりやすい確率がちがう。

そして、『上の人』は、いいことが起こりやすい状態でくらしているのである。そして、『下の人』は、いいことが起こりにくい状態でくらしているのである。

ところが、そういう格差を無視して、「こころに描いたイメージを引き寄せることができるかどうかのちがい」にしてしまうわけだ。

そして、引き寄せ理論を信じないのであれば、『下の人』の現実はわからないのである。彼らの言い分だとそうなる……。

しかし、見逃されることが多いけど、実は、引き寄せ理論を信じても、どれだけうまく、引き寄せ行為を実行しても『下の人』の現実は、まったく、かわらないのである。

しかし、『下の人』が現実をかえられないのは、引き寄せ理論を信じないから、現実をかえられないということになってしまうのだ。あるいは、引き寄せ行為を「うまく」実行できないから、『下の人』は現実をかえられないということになってしまうのだ……。

ほんとうは『下の人』の現実は、『下の人』がもっている条件によって作り出されているのだけど、引き寄せ理論を信じないから、現実をかえられないとか、引き寄せ行為をうまく実行できないから、現実をかえられないと……思う人が出てくる。

引き寄せ理論を信じてしまうと、信じてしまった人には、現実がそのように映るのである。ようするに、引き寄せ理論を信じる人が増えれば増えるほど、『下の人』の現実は、「置いてきぼり」にされるのである。

だって、現実にはなにもしなくてもいいということになる。社会的には、『下の人』の条件をかえるようなことは、しなくていいということになってしまう。

『下の人』が、引き寄せ理論を信じないからだめなんだということになってしまう。『下の人』がうまく引き寄せ行為を実行できないからダメなんだということになってしまう。

『下の人』がうまく引き寄せ行為を実行できないのは、その『下の人』の自己責任だということになってしまう。

また、これは、「教える側」のキャッシュポイントを増やすことになる。「だから、うまくできるコツを教えてあげると言っているでしょ」……ということになる。

引き寄せ理論を信じる「精神世界の人」たちは、『下の人』に「引き寄せを信じないからダメなんだ」「引き寄せ行為をうまくやらないからダメなんだ」と言うわけ。

これは、ひどい言葉なんだよ。

けど、精神世界の人たちは、ひどい言葉を『下の人』に投げかけているとは、まったく思わない。

「いいことを教えてあげている」と精神世界の人は思っているのだ。

「引き寄せを信じない『下の人』はネガティブだからダメなんだ」と言いきってしまう。

「引き寄せ行為をうまくできない人は、潜在意識で否定しているからダメなんだ」と言いきってしまう。

こんなの、まちがった理由で、人にマウントをとって、悦に浸るような行為なのだけど、やっている本人は、ほんとうに「人のために」言っていると思っているのだ。

あるいは、「本当に、下の人によくなってもらいたいと思って、引き寄せ行為のコツについて語っているのだ」と思っているだ。

この人たちは、自分が『下の人』たちに、ひどい言葉を投げかけているつもりがないのである。

精神世界の人たちは「事実だ」「真実だ」「真理だ」「宇宙法則だ」と言って、じつは、詐欺的な理論だということを認めない。「引き寄せ理論」が詐欺的な理論だということを認めない。そして、自分が、『下の人』の現実的な条件を無視しているということを認めない。

『下の人』は、引き寄せ理論を信じても、現実がかわらないのに、あたかも、さぼっているような言い方をされて、傷つくのである。

だから、引き寄せ教祖が「信じるのも信じないのもあなたの自由」と言っておくことは、意味がある。重要な意味がある。この言葉がセットされているので、「下の人は、信じないからダメなんだ」と……引き寄せ信者が軽く思うようになるのである。

こう思うように仕向けられている。引き寄せ信者は、洗脳されている。


2025年2月18日火曜日

「引き寄せ」という考え方をはやらせるために、嘘を言うことを考えてみよう(2)

 
今回、言いたいことは、「条件に目を向けさせたくない勢力がある」ということだ。その勢力が「引き寄せ」という考え方をはやらすと、実際に、人々が引き寄せ思考をして条件に目を向けなくなるということだ。

やり方としては、人を雇って、嘘話の動画を作ればよいのである。そして、人を雇って、サクラを配置すればよいのである。

サクラというのは、「動画の主が言ったように、リアルに思い浮かべたら、引き寄せることができた」という内容のコメントを書く人たちのことだ。

サクラの人たちが、ほんとうにこういうことがあったということを書くと、サクラではない人も、こういうことがあったということを書きやすくなるのである。

さくらではない人が信じていることも、ほんとうは、事実ではない。ここには、確率詐欺があるんだよ。 

たとえば、母親がミカンを送ってくれる確率と、母親が一億円を送ってくれる確率を比べた場合、母親がミカンを送ってくれる確率のほうが高い。日常生活の中で、わりと頻繁にあることは、考えたあと、わりと頻繁に発生する。

あたりまえのことだけど、そうだ。けど、日常生活の中で、めったにないことは、考えたあとも、めったに発生しない。

ミカンの場合だと、ミカンに意識がフォーカスされた場合、ミカンが送ってこられることがある。これは、確率の問題だ。

はっきり言えば、ミカンがほしいなら、ミカンを本人が買えばいいだけの話なのである。

けど、本人は買わなかったけど、だれかが送ってきたということが、「引き寄せの話」として重要なのだ。

あたりまえだと思っていることに関しては、引き寄せたとは感じないのである。

たとえば、スーパーに行って、おカネで、ミカンを買った場合は、「ミカンを引き寄せることができた」とあんまり感じないようになっているのである。

なにか、偶然に、手に入れたというようなストーリが必要なのだ。

けど、店でミカンを買う場合だって、ミカンの供給が限られれば、普段はないミカンが、自分が行ったときだけあったということに、偶然の出会いを感じるようにできているのである。人間は、そういうところがある。

いまは、普通に売っているミカンが、手に入りにくいものになったとする。

その場合、たまたま、店に入って、たまたまミカンを見つけたといういうことが、引き寄せストーリーになるのである。

ようするに、偶然性がないものに関しては、引き寄せだとは思わないのである。そして、偶然性がないものというのは、たいてい、条件によって決まっているのである。偶然性がないものと書いたけど、本当は、偶然性は、わずかにある。

あたりまえだと思っているから、偶然性がないと認識しているだけなのだ。

そりゃ、今自分が生きていることだって、よくいく店の棚にミカンがあることだって、偶然性は成り立っている。

ともかく、思い浮かべる以外、それを手に入れる努力をしなかった……行動をしなかったということが、引き寄せストーリの「かなめ」なのである。

「思っていただけで」……「偶然、手に入れることができた」……「だから、引き寄せの法則は成り立っている」……と思うことができる。

「思っていただけで」……「偶然、手に入れることができた」……だから、引き寄せはある」……と確信することができる。

まあ、勘違いの確信なんだけど。確信した人は、確信してしまうわけ。

だから、サクラではなくても、確率が高いものに関しては、「思っていただけで、ほんとうに引き寄せることができた」ということを書く人がいるわけ。

「サクラ」と「確率の低いことを偶然に引き寄せることができた」と感じる人がいると、「引き寄せ」が正しい考えであるように思えるのである。

あくまで、そう思ってしまうだけなのだけど……。

「引き寄せ」という考え方をはやらせるために、嘘を言うことを考えてみよう(1)

  たとえば、「引き寄せ」という考え方をはやらせるために、嘘を言うことを考えてみよう。ほんとうは、カネ持ちになっていないけど、カネ持ちになったという話をすることで、おカネを儲けるということだ。

カネ持ちのカネは、だいたい、一〇億円ぐらいだとしておく。もっと高くてもいい。

しかし、現実世界には条件がある。個々人が抱えている条件がある。その条件は、実際には、結果に、ものすごい影響をあたえる。

けど、条件だけは、絶対に、認識させてはならないというルールがあるとする。

どうして、そういうルールがあるのかというと、引き寄せという考え方をはやらせる、もとの目的が、条件に目を向けさせないようにするという目的だからだ。

条件に目を向けさせないようにするために、「引き寄せ」という考え方をはやらせるのである。

Aさんは、引き寄せという考えたをはやらせて、現実の格差に目を向けさせないようにしたい人だとする。Bさんは、YouTube動画を作っている人だとする。Bさんが、ほかの人にシナリオを書かせるという場合もあるけど、今回は、Bさんが自分でシナリオを書くとする。

Bさんに実際に入ってくるおカネは、一万円ぐらいだとする。Bさんは、何本も動画作成を請け負っていて、月に二〇万円ぐらいかせげるとする。実際には、月収で考えると、だいたい、二〇万円ぐらいしか稼げないBさんが、「一〇億円引き寄せた」という話を、でっちあげるのだ。

依頼された一万円というカネのために、「一〇億円引き寄せた」という動画を作る。

だから、Bさんは、実は、一〇億円稼いだような人じゃない。

そういう資産家ではないわけだ。

話の設定としては、ぜんぜん稼げないサラリーマンの自分が、引き寄せを実践したら、一〇億円稼げるようになったという設定だ。

ただ単に、「すでに、一〇億円ある自分を、リアルに想像すること」が実践する内容だ。

だから、すでに、一〇億円引き寄せた自分を想像することで、ほんとうに一〇億円を引き寄せることができたという話の内容になる。

そして、肝心なのは、「信じるか信じないかはあなた次第だ」というスタンスをとることだ。

これは、けっこう重要だ。

たとえば、Cさんという人がいたとする。この人は、高卒で働いていたこともあるけど、今は無職の人間だとする。Cさんは、就職氷河期世代で、最初から非正規労働者だった人だ。

そのCさんが、一〇億円を引き寄せる話を聴いたとする。やることは「すでに、一〇億円ある自分を、リアルに想像すること」だけなので、自分でもできそうだと思う。

いっぽう、「そんなことをしても、一〇億円を引き寄せることができないのではないか」という疑いがあったとする。Cさんの胸のうちに、そういう疑いがあったとする。

その場合、その疑いが、実際に一〇億円を引き寄せられない原因だと、言われてしまうのだ。

もちろん、Cさんが「すでに、一〇億円ある自分を、リアルに想像すること」で、一〇億円を手に入れることができるのであれば、問題はない。

けど、「すでに、一〇億円ある自分を、リアルに想像すること」で、一〇億円を手に入れることができなかったとする。その場合、「自分には無理だと、どこかで思っているから、ダメなんだ」と言われるスキができてしまう。

「不安」があると、「引き寄せることができない」ということになると、最初に言っていた、「リアルに想像するだけで、引き寄せることができる」ということは、なんなんだということになる。

意識にのぼった「不安」だけではなくて、「潜在意識で拒否している」ということが問題になる。

これは、一〇億円を引き寄せることができなかった理由として考えられることだ。……その人たちの話のなかでは、理由として考えられることだ。「無意識で拒否しているので、一〇億円を引き寄せることができなかった」というとになる。

けど、これも、「リアルに想像するだけで、引き寄せることができる」という話は、どうなっているんだということになる。

ようするに、条件を無視して、確率が低いことを思い浮かべると、どれだけうまく思い浮かべても、思い浮かべるだけでは、引き寄せることができないという現実がある。

けど、「引き寄せができなかった理由は、潜在意識で拒否しているからなんだ」ということになってしまう。わかるかな?

ぼくの言い方だと、「あとだし詐欺」なのだ。

「リアルに想像すれば、引き寄せることができる」という作り話をした場合、(その作り話のなかでは)リアルに想像をすれば、引き寄せることができることになるのである。

けど、現実世界では、条件が悪いと、引き寄せることができない。

まあ、この言い方には、いろいろと問題があるのだけど、いろいろな問題はスルーする。ともかく、現実世界には条件があるので、確率の低いことは起こりにくい。

だから、「どれだけリアルに想像しても、リアルに想像した内容が現実化しない」場合がある。ようするに、リアルに想像しても、引き寄せることができない場合がある。

けど、「リアルに想像すれば、引き寄せることかできる」という話のなかでは、リアルに想像すれば一〇〇%の確率で、引き寄せることができるということになっているのである。

ここでも、「一〇〇%詐欺」が成り立っている。一〇〇%詐欺については、言霊のところで説明したので省略する。

そして、実際に、「リアルに想像しても、引き寄せることができない場合がある」のだけど、そういうことが発生した場合、引き寄せ詐欺師は「潜在意識で否定しているから引き寄せることができなかったんだ」と言うわけ。

けど、潜在意識なんて関係なく「リアルに想像すれば、一〇〇%の確率で引き寄せることができる」というのがもともとの話だったんだよ。

だから、言っていることが、ちがうということになる。

最初に言っていることと、潜在意識なるものについて語りだしたときは、言っていることの内容がちがうのである。

だから、潜在意識なるものが関係しているなら、最初から「潜在意識が否定していないのなら、リアルに想像すれば一〇〇%の確率で引き寄せることができる」と言ういうべきなんだよ。

けど、潜在意識が肯定しているとか、潜在意識が否定しているということは、「潜在意識が肯定しているか肯定してないか」ということについて、最初から言うことになる。

これは、条件が付いてしまうということだ。潜在意識という条件が付いてしまうので、一〇〇%詐欺がしにくくなってしまうのである。

そして、あとで、あとだし詐欺をするので最初に……あとだしの話をすることは、詐欺を働くうえで非常にまずいことなのである。

だから、最初は「XをすればYになる」という文型におさまる言い方になる。

これは、一〇〇%確率でそうなるということを言っているのだけど、実際には、一〇〇%の確率でそうなるわけではないので、最初から嘘を言っている。

けど、一〇〇%詐欺には気がつきにくいのである。「Xをすれば、Yになる」という文と、「Xをすれば、一〇〇%の確率でYになる」という文は、意味的に等価なのだけど、意味的に等価であるということに、気がつく人がすくない。説明しても、わからないやつまでいる。

ちなみに、「リアルに想像すれば、引き寄せができる」という文は、「一〇〇%のリアルに想像したことを、一〇〇%の確率で、引き寄せることができる」という文と意味的に等価なのである。想像するという全体集合を考えた場合、ある想像は引き寄せることができないけど、ある想像は引き寄せることができるということを言ってないのである。

「一〇〇%のリアルに想像したことを、引き寄せることができる」という文と「想像したことのうち、あるものは引き寄せることができるけど、あるものは引き寄せることができない」という文は、意味的に等価ではないのである。

想像するとする……。

一〇個のことを想像したとする。その場合、五個のことは非寄せることができるけど、五個のことは引き寄せることができないということはないんだよ。

文字通りに理解すれば、一〇のことを想像したら、一〇個のことが引き寄せられるのである。想像してしまったら、想像した内容は、どんな内容でも、引き寄せることができるのである。

あることは引き寄せられないけど、別のあることは引き寄せられるということではないんだよ。

最初は……一〇個のことを想像してしまったら、その一〇個のことが引き寄せられてしまうということを言っているんだよ。一〇〇%なんだよ。想像した内容をすべて引き寄せることができるという意味で「一〇〇%詐欺」が成り立っている。

つまり、一〇〇%の想像した内容を、一〇〇%の確率で引き寄せることかできるという意味になる。

けど、まあ、これは、さんざん説明してきたことだから、このくらいにする。読んでない人もいるかと思って、いちおう、説明しておいた。

まず、「XをすればYになる」という文型で、「一〇〇%の想像した内容」が「一〇〇%の確率」で発生するという、二重の一〇〇%詐欺をおこなっている。

そして、実際には、一〇〇%の内容が一〇〇%の確率で発生することがないので……後出しで「潜在意識」が出てくることになる。

この……「潜在意識でほんとうに思ってないとだめだ」……というのは、「あとだし詐欺」の部分なのである。

「リアルに一〇個のことを思い浮かべたら」思い浮かべただけで、すべて引き寄せることができるのである。そのように言っているのである。

けど、実際には、そうならない場合があるので、そのときに「潜在意識」ということを言って、話をそらす。ようするに、詐欺的な行為をおこなう。

「不安」というのもおなじだ。「不安があるからダメなんだ」というこことをあとだしで言うわけ。けど、最初は……「不安があろうとリアルに一〇個のことを思い浮かべたら、思い浮かべただけで、一〇個すべてを引き寄せることができる」ということを言っているのである。

*     *     *

2025年2月17日月曜日

きちがい親父ときちがい兄貴は、頭の構造がおなじなんだよ

 ネズミのことだって、俺がやったことじゃないのに、家にきた人には、俺がやったように思われる。

俺は、親父に反対してたんだ。

親父が、一日に二三時間ぐらい、ものすごく、くさい、粕漬の魚を、テーブルの上に出しておくということに、こだわって、どれだけ俺が「やめろ」と言っても、やめなかったのが原因だ。

ネズミがくるようになった原因だ。

俺がやったことじゃなくて、きちがい親父が意地になってやったことなんだよ。

竹だってそうだ。親父が植えたんだよ。俺とおかあさんは反対してたんだよ。けど、親父がいないときに、玄関の前で、蚊に刺された人は、俺に文句を言ってくる。「どうにかしたほうがいいですよ」と言ってくる。

しかも、一六万円もかけて、竹を切ったあとなのだ。竹なんて、三ケ月もすれば、猛烈な勢いではえてくる。

ぼくは、第二形態と言っているのだけど、背が低い割には、枝と葉っぱが多い状態になっていた。竹を地面の高さで切ったあと、三ケ月でそうなった。対処はしていたのである。だから、竹のことで文句を言われるとは思わなかった。

竹を植えたのはおやじなんだよ。

そして、竹やその他の植物が多いから、蚊に刺されるということで、親父に文句を言っていたのは俺なんだよ。だから、玄関の前でまっているときに、蚊に刺されたということを言ってくる人の……気持ちはわかる。

自転車を出すだけで、蚊に四か所食い刺されるのは当たり前だった。きちがい親父に言ったって、きちがい親父は、「なんだよぉ」と言って、なにもわからないままだ。

「そんなの気にしなくていい」という態度なのだ。この態度は、きちがい兄貴の態度とおなじだ。これ、ほんとうに、相手がこまっているということがわからないのである。

やっているときだと、真っ赤な顔をして、発狂して、相手の言い分を、はねのけるわけ。けど、竹を植えちゃったあとは、竹を植えるという行為をしているわけではないので……文句を言われると、真っ赤な顔をしておこるということはないのだけど、不機嫌そうな顔をして、無視をするのである。

相手が言っていることがわからないままなのだ。まあ、「そんなことを言ってきて」と不愉快な気持にはなるんだよな。だから、「そんなのなんだ!」とおこる場合もある。けど、やっているときの怒りとは、ちょっと程度が低い。

作業のさいちゅうだと、発狂するけど、やり終わっているわけだから、なんていうのかな、爆発度はそんなに高くない。

けど、相手がこまっているということは、認めないんだよ。

自分が不愉快な気持になったということだけがわかっている状態なんだよ。自分がやったことで、相手がこまっているということが、もう、まったくわからない状態なんだよ。猿よりもわからない状態なんだよ。

これは兄貴もおなじだ。兄貴がエレキギターを弾いて、ヘビメタを鳴らしているときに……「やめろ」と言われると、真っ赤な顔をして発狂して、やりとおしてしまうわけだけど、ヘビメタを鳴らしていないときに、「しずかにしてくれ」ということを言われると、不愉快そうな顔をして、黙りこくる。

親父とおなじで、相手がこまっているということが、まったくわかってないのだ。

いやなことを言われて自分が不愉快になったということしか、わからない。

だから、言うかどうかは別にして「なんだ!そんなの!」と思っている状態なのだ。

きちがい親父ときちがい兄貴は、頭の構造がおなじなんだよ。

どれだけ、俺がこまるか……。

ほかの人に文句を言われるのは俺なんだぞ。

きちがいヘビメタで、どうしても、遅刻してしまう……。

けど、他人は、きちがい兄貴といっしょに住んでいるわけではないので、実際にやられていない。だから、どうしても遅刻してしまうということの必然性がわからない。

なんか、きちがい親父やきちがい兄貴が日常的にやっていることで、ぼくが悪く言われるということが、あるんだよ。

繰り返されすぎた。ネズミだって、また、入ってきた。これ、一度、ネズミのにおいがつくと、どれだけやってもダメなんだね。狙われている状態にはかわりがない。風呂場の、せっけんを食べられたよ。

2025年2月16日日曜日

こんなのない。

 ヘビメタで、くるしい。ヘビメタ騒音でくるしい。ほんとうに、できなくなるのに、できなくなるということを認めずに、自分なら平気だと、くそを言うやつばかりだったなぁ。なめやがって。俺だから一五年間もったけど、人並み凡人だったら、三ケ月でシュウリョーー。自殺。おしまい。殺人で少年院に行って、おしまい。

きちがい兄貴が、きちがいなんだよ。おまえら、きちがいがどういう行動をするかわかってないだろ。おまえら、きちがいがどういうつもりで、どういう感覚で、どういう行動をするかわかってないだろ。自分の行動に対して、どういう認知をもつかわかってないだろ。わかってないのに、がたがた、言うな。ほんとうに、人並み凡人は、えらそうなんだよ。

ほんとうに、きちがい兄貴は、人並み凡人が、ごく普通に、誤解するようなことを、舞地に毎日、絶対の意地でやりやがって。きちがいだから、まったくやったつもりがないまますごしている。こんなの、きちがい家族と一緒に住んでない、きちがい家族にやられたことがないやつがわかるわけがない。

きちがい的なこだわりで、毎日頑固にやったことを、きちがい感覚で忘れてしまう。きちがい感覚で、まったくやったないと思って生きている。こんなのない。 

あれだけ長い時間、自分のうちで、自分がこの世で、一番、きらいな音にさらされ続けるということが、どういうことなのか、まったくわかってない連中が、俺のことを、不当に悪く言う。こんな世界でいいわけがない。どういうからだの状態になるか、まったくわかってないんだよな。こいつらは、こいつらで、どういうからだの状態になるか、まったくわかってない。

2025年2月15日土曜日

あーーあ。ほんとうに、いやなことばかり、思い出す

 あーーあ。ほんとうに、いやなことばかり、思い出す。ヘビメタ騒音以降、人付き合いがつらかったなぁ。それに、人とかかわると、俺のときだけ「へま」をするやつが出てくる。しかも、ヘマをしたのに、ヘマをしたという自覚がないやつがいるんだよな。これ、親父のことや兄貴のことが(先立つ経験として)あると、ほんとうにむかつくんだよな。

2025年2月14日金曜日

勘違い、するな。

 たとえば、おなじことをされれば、だれだって、俺とおなじ反応があらわれるとする。たとえば、長期間さらされると、「楽しく感じる」こころをうしなうとする。そうなると、俺が、劣ったポジションに陥るのである。ようするに、おなじことをされてないやつが、えらそうなことを言ってくるということになる。おなじことをされれば、おなじ反応があらわれるやつが、「楽しく感じる」こころをうしなった俺を、見下してくるようになるのである。そして、「自分は平気だ」という立場から、助言をするようになるのだけど、その助言が、まちがった助言なのだ。けど、まちがった助言だということを認めることがない。つまらないと言うから、つまらない。楽しいと言えば楽しくなる」……。いやーー、ちがうんだわ。「本当につまらないやつは、つまらないと言っているやつだ(自分は、おもしろく感じることができるし、つまらないと言わないので、こいつより、優れている」……。いやーー、ちがうんだわ。経験がちがうだけだよ。人間として当然の反応なんだよ。きちがい家族がいなかったから、当然の反応を引き起こす「刺激」がなかっただけだろ。ようするに、能力の問題ではなくて、たまたま、運よく、きちがい家族がいないところに生まれてきただけなんだよ。おまえだって、俺とおなじことを経験すれば、「楽しく感じる」こころをうしなう。「楽しく感じる」こころをうしなうような経験がなかっただけじゃないか。それを、えらそうに……。しかも、無理解ぶりを発揮している部分は、スルーだ。無視している。この虫は、きちがい兄貴が、ヘビメタ騒音を鳴らしたときの無視とおなじなのである。おまえらがわかってないだけだろ。もっとも、えらそうなことを言うやつらは、別に俺を、突き落としたわけではない。きちがい刺激をずっと与え続けて無視したわけではない。なので、もとの理由を作ったわけではない連中だ。それは、理解している。けど、ほんとうに、そんなふうに言う権利があるのかな? 「刺激」の程度について勘違いをしている。経験がないからわからないというのもあるのだけど、想像力がないからわからないんじゃないかな。夜郎自大な性格だからわからないんじゃないかな。夜郎自大な性格って劣っている性格だよな。想像力がないのって、劣っているということだよな。劣っているから、(相手を)見下しているだけなのである。ともかく、まちがったことを言うな。勘違い、するな。

「ほんとうにつまらないやつは、つまらないと言うやつだ」と言うやつが、人間としてほんとうにつまらないやつだ。

「ほんとうにつまらないやつは、つまらないと言うやつだ」と言うやつは、他人のことがうまく理解できないという意味で、頭がわるい。

「ほんとうにつまらないやつは、つまらないと言うやつだ」と言うやつが、夜郎自大で性格が悪いやつだ。

*     *     *

俺も、むかしは、よくわらっていた。子どものころは、きちがい親父がいないところでは、普通の子どもだった。ほんとうに、きちがいヘビメタ騒音がはじまるまえは、よく、わらっていた。

あーー。なんなんだよ。きちがい兄貴のきちがい感覚が問題なんだよ。みんな、俺がフォークギターや三味線ぐらいの音で、ぎゃーぎゃー言っていると思っているんだよな。そんな音じゃないから、問題なんだろ。そんな音じゃないから、宿題ですらできなくなってしまうんだろ。宿題ができない時間、楽しいゲームをやって楽しんでいるのかというと、そうではない。きちがいヘビメタ騒音なかで、憤懣やるかたない気持ちで、すわっていたり、たっていたり、横になっていたりする。ようするに、猛烈にくるしい状態で起きている。そりゃ、楽しくない。とてつもなく、くるしい。きちがい兄貴が、認めない。こっちが、きちがい兄貴の騒音でくるしいということを、絶対の意地で認めない。何万回言っても、きちがい兄貴は、理解しない。きちがいだから、理解しない。自分がやっている音で、ほかの人が鳴らしたら、きちがい兄貴だって、発狂するんだよ。一秒で発狂するようなでかい音で鳴らしているんだよ。自分が、思いっきりヘビメタを鳴らしたいという気持で鳴らしているから、気持ちいい音であるわけで、おなじ音のでかさで、自分が聞きたくない音を聞かされたら、きちがい兄貴だって、一秒で発狂するんだよ。腹をたてるんだよ。一時間、一時間ずっと、腹がたっている状態ですごすことになるんだよ。きちがい兄貴だって、耳は正常だし、ほかの人が出す音には正常な反応をするので、腹をたてるんだよ。けど、自分がやりたいと、自分はでかい音で鳴らしてないということになってしまう。それが、無意識的な過程だから、気がつかないのだ。これは、親父もおなじで、親父は、ヘビメタ騒音を鳴らさなかったけど、すべてのことで、こういう感覚が成り立っている。自分が認めてしまったら、自分がやりたいことをやれなくなってしまう場合は、自分が認めないのだけど、そのやり方が、無意識的なやり方なのだ。だから、本人は、何万回言われても気がつかない。けど、絶対の意地でやってしまう。ほかの人たちは、こういう家族と一緒に住んでいないから、こういう家族の行動に悩まされることがないだけなのだ。ほかの人たちは、こういう家族と一緒に住んでいないから、こういう『家族の行動』の影響をうけないだけなのだ。それなのに、みんな、「自分は優れているから、そんなことにはならない」と思って、好き勝手なことを言いやがる。これも、別に、好き勝手なことを言っている……という自覚はないんだよね。

2025年2月12日水曜日

ほんとうに、つまらない。正直な感想だ

  書いては、いけないのだろうけど……。ほんとうに、つまらない。正直な感想だ。つまらない。だいぶ、感情が死んだ部分があり、なかなか復活しない。再生すればいいのだけど、再生しないんだよね。だから、ぶっ壊れた状態で行くしかない。楽しくないんだよねーー。楽しくない。きちがいヘビメタが、でかすぎる。きちがい家族が、きちがい的な感覚で、ずっと鳴らし続けた。それだけのことなんだけど、毎日が地獄で、人生が地獄だ。

きちがい兄貴が、ヘビメタに興味をもたなければ、ぼくの人生は、まったくちがったものになっただろう。ずっと書いているけど、「エイリさんがヘビメタ騒音のことについて、嘘を言っている」と思うやつらの、言うことがひどい。態度がひどい。きちがい兄貴の感覚がわかってないだけじゃないか。きちがい親父の感覚がわかってないだけじゃないか。「そんなに鳴らしていて、家族がしずかにさせようとしないのはおかしい。だから、嘘だ」……。こういうことを考えるやつが、俺を嘘つきとみなして、まるで人格障害者に対する態度をとってくる。こんなの、ない。きちがい兄貴の「脳みその癖」なんだよ。きちがい親父の「脳みその癖」なんだよ。「の」の重複は指摘しなくていい。それから、「そんなの言えばいいだろ」と俺のことを見下してくるやつもおなじだ。言えば、解決すると思っているのだ。しかも、こいつらは、俺のことをバカにして、さらに、腹をたてているのだ。これ、バカなやつに対するイラつきのようなものなんだよね。こんな、猿みたいなきちがい。俺が、「言ってやめく照れなかった」ということを言っても、こいつらはこいつらで、俺の言っていることを認めないのである。基本「そんなの、言えばいいだろ」と言うやつらは、「なんか不愉快な話を聞いた」と思って、おこるようなやらなんだよ。 こいつらが、きちがい兄貴の感覚を理解してないだけ。こいつらが、きちがい親父の感覚を理解してないだけ。しかも、きちがい兄貴は、こいつらと俺のやり取りを知らないわけ。きちがい親父も、こいつらと俺のやり取りを知らないわけ。きちがい親父は、親として、兄貴の行為に関する監督責任があるなんてことは、まったく理解してないんだよ。兄貴に、言いにくくなっていたので、絶対の意地で、兄貴に注意しなかった。注意しないほうに、スイッチが入ると、梃子でも、注意をしないということになって、俺と親父の間で、「注意するかどうかで、もめることになる。もちろん、きちがい兄貴は、俺と親父の間で、兄貴に注意するかどうかで、けんかになっているということなんて、知らないわけだよ。言ったって、まったく関係がないと思っているからな。きちがい兄貴は、そもそも、でかい音で鳴らしていると思ってないんだよ。これがきちがいなんだよ。「でかい音で鳴らしている」ということを言ったって、きちがい親父のように、認めないのだ。自分が少しでも、ほんとうに静かにしなければならなくなったら、それは、発狂して、はねのけるのである。けど、発狂してはねのけたという認知・認識がないんだよ。だから、ずっと、注意されないまま、お東塔に迷惑をかけないまま、ずっと、小さな音で、ヘビメタを鳴らしていると思っているんだよ。きちがい兄貴の態度というのは、そういう態度なんだよ。だったら、「しずかにしてくれ」と言われたら、「そうか」と言って、しずかにしてくれるかというと、それは絶対にないんだよ。日本語がわからない人に説明しておくと、「しずかにしてくれ」と言うのは、俺だ。「しずかにしてくれ」と俺に言われるのが兄貴だ。そして、兄貴が「そうか」と言わずに、ずっと、本人の耳が悪くなるようなでかい音で鳴らし続けたということだ。やめてくれないのである。どれだけ、言ったってやめてくれない。こっちが、現実だ。けど、「注意すればいいだろ(なんだ、こいつは、そんなこともわからないのか)(ばかなんじゃないか」と思うやつは、俺がひとこと、「しずかにしてくれ」と言ったら、兄貴がしずかにしてくれると思っているんだよ。そして、俺が「どれだけ言ってもしずかにしてくれなかった」ということを言っても、こいつらはこいつらで、きちがい兄貴のように、頑固に、それを認めないんだよ。こいつらと、兄貴の構造はちがうけど、こういう態度は、なんとなく、きちがい兄貴に似ているのである。こんなアホなやつに「注意すればいいのに(なんだこいつは)」とバカにされるんだよ。バカにバカにされるんだよ。こいつらは、俺じゃなくて、きちがい兄貴のほうに「ずれ」があるということを、最後まで認めないんだよ。ほんとうに、バカなやつらだな。

すべてのつきあいが、こんなふうなつきあいになってしまうのである。それから、こいつらは、無視しているけど、「居づらさ」というのがあるんだよ。きちがい兄貴のきちがいヘビメタ騒音で、面目が、まるつぶれで、人のいる場所に、いにくくなる。こういうのがある。他人は、きちがい兄貴の構造も、きちがい親父の構造も理解しない。理解せずに、「常識」で考える。そうすると、きちがい兄貴やきちがい親父は、常識的な人ではないので、俺が、常識を疑われるということになるのである。俺が嘘をついていると思われることになるのである。こういうしくみが成り立っているんだよ。 こんなことが成り立っていて、実際に、きちがい兄貴のヘビメタ騒音で、さまざまな能力をうしなっているのに、ほかの人といっしょにいて、おもしろいわけがないんだよ。

きちがいヘビメタ騒音は、他人をして、俺をバカにさせる装置なんだよ。

 ほんとうにきちがいヘビメタ騒音というのは、「他人にバカにさせる装置」みたいなものなんだよ。他人にとっては、きちがい兄貴によるヘビメタ騒音というのは、ブラックホールみたいなものだ。自分のうちまで聞こえてくるわけでないから、影響をうけない。実際に影響をうけないので、実際にどういう影響をうけるのかということが、自分のからだでわかってない。だから、「自分なら(鳴っていても)だいじょうぶだ」という前提でものを言ってくる。そういう前提的な意識がある。そういう前提的な無意識もある。ただ単に、「鳴っている」と俺から聞いただけなので、自分が「本当の被害」をうけているわけではない。自分が、実際に、ヘビメタ騒音のなかでくらしているわけではない。自分が実際に、ヘビメタ騒音にさらされるわけではない。だから、どれだけ、マイナスの影響をうけるか、わからないのである。これ、ほんとうに、やられた場合の「マイナスの影響」がものすごいのである。ものすごいものがあるのである。けど、他人にとっては、ゼロなんだよ。実際に「そんなの関係がない」わけ。けど、他人にとってはそうなのだけど、毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間もやられているぼくにとっては、関係があることなんだよ。その時間……何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、ヘビメタ騒音のことを「無視して暮らそう」としても、気になって無視できないんだよ。「無視して、影響をうけないようにすごそう」と思っても、鳴っているので、現在進行形で影響をうけてしまうんだよ。もともとの音がでかいから、耳栓をしてもむだなんだよ。耳栓で削減できる音のでかさというのは、そんなにでかくない。当時持ってなかったけど、イヤーマフをつけてもおなじなんだよ。「がんがん鳴っている状態」がかわらないんだよ。手を伸ばせば、「そこにでかいスピーカーがある」ような状態なんだよ。透明な壁なら、そこで鳴っているスピーカー……でかいでかいスピーカーが見える状態なんだよ。きちがい兄貴がきちがいだから、普通の人なら、鳴らせないようなでかい音で鳴らすんだよ。普通の人なら鳴らせないようなでかい音で鳴らして、まったく、気にしないんだよ。普通の人なら、鳴らせないようなでかい音で鳴らして、普通の音で鳴らしていると、きちがいだから、きちがい感覚で思っているんだよ。その思い込みを、修正できないんだよ。こっちがどれだけ説明しても、きちがいがきちがいセンスでのりこえて、おなじように行動してしまうんだよ。

けど、そういうことがわかってないやつが、俺が言っていることを嘘だと思って、俺を、嘘つき人格障害者にしたてあげけてしまうのだ。それから、ヘビメタ騒音で、実際に睡眠が足りなくなると、普段ぼーっとしてしまうようなことがおおくなる。それから、実際に(前日)何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、ヘビメタ騒音を浴びているのだから、その影響が、次の日の日中に出るのである。これも、睡眠不足と重なって出るのである。だから、ただ単に睡眠不足でぼーっとしているよりも、チカラがはいらない状態でぼーっとしているのである。ようするに、ぼーっとしている状態が、単なる睡眠不足とはちがった、ぼーっとしている状態なのである。で、それを意識の力でのりこえようとすると、今度は、はりつめた状態になるのである。けど、はりつめた状態でも、前の比に何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、ヘビメタ騒音を浴びているわけだから、ほんとうは、普通の体力で、はりつめた状態になっているわけではないということになる。普通のからだで、気をはりつめた状態になっているわけではないのだ。すでに、弱ったからだで、気をはりつめた状態になっているのだ。だから、はりつめた状態でも、はりつめてない状態でも、ダメなのである。実際に、身体がくるしい。そして、鳴ってない状態を普通の状態だとすると、鳴ってない状態で普通にできることが、どれだけ気をはってもできないということになってしまうのである。注意不足でヘマをしがちになるのである。そういう状態を作るマシーンなのである。きちがい家族によるきちがい騒音というのは、俺をして、注意不足にさせるのだ。俺をして、ヘマをさせるんだよ。きちがいヘビメタ騒音は、他人をして、俺をバカにさせる装置なんだよ。

ヘビメタが好きな人は、ヘビメタのところを、自分がこの世で一番きらいな音に置き換えて、読んでほしい。

刺激に対する身体の反応というものを認めいないやつが、くるしい状態の人間に、ダメ出しをする

 あっ、それから、気をはった状態というのは、不自然な状態だから、「なにかいやだ」と思われることがおおくなる。あるいは、突っ込まれることがおおくなる。

これ、たとえば、きちがい家族によるヘビメタ騒音が続いて、「元気だ元気だ」と自分を言い聞かせて、元気になろうとする状態が続くと、「なんか不自然な人間」になってしまうのである。

「なんか不自然だ」とほかの人から「思われる」人間になってしまうのである。

言霊主義者は、ほんとうに元気な状態と、ほんとうは元気じゃないから、「元気だ元気だ」と言わなければならない状態がおなじだと思っている。

そりゃ、「元気だ元気だ」と言えば、ほんとうに元気な状態の元気な状態になると思っているのだから、言ったとたんに元気になる……はずなのである。

もともとの元気な状態を「元気な状態A」とする。元気だ元気だと言ったあとの元気な状態を「元気な状態B」だとする。言霊主義者は「元気な状態A」と「元気な状態B」のちがいがわからない。あるいは、別の言い方をすると、言霊主義者は「元気な状態A」と「元気な状態B」がまったくおなじものだと考えているのである。

ある理由で元気な状態ではない人が、「元気だ元気だ」と言えば、「元気な状態A」になれると思っているので、言っただけで、「元気な状態Aになる」と「仮定」してしまう。

けど、言霊主義者の頭のなかでは、「仮定」ではなくて「事実」なのだ。

言霊主義者は「現実の無視」を無視している。

手短に言うと、元気Aと元気Bはちがうので、きちがいヘビメタ騒音などで、つかれる理由がある場合は、「元気だ元気だ」と言ったあとも、元気ではない状態が続くのである。

ようするに、元気ではない状態で「元気だ元気だ」と言っても、元気ではない状態が続くのである。

けど、「元気だ元気だ」と言ったあとに、元気ではない状態が続くとは思ってない妄想的な人たちが、現実を無視するのである。

そうすると、きちがいヘビメタが毎日続くと、元気だ元気だと言っているにもかかわらず、つかれている状態が続くということになるのである。

実際の身体はもともとの原因に対応して、もともとの原因に対応した身体反応をしているので、元気ではないわけだし、それが毎日続けば、恒常的に元気ではない状態が続くということになる。

もともとの原因というのは、ヘビメタ騒音のことだ。ヘビメタ騒音が続くので、元気がなくなり、疲れた状態になっているのだ。

ようするに、毎日、元気にならない原因が発生していて、その原因によって、元気ではないにもかかわらず……言霊主義者の助言にしたがって……毎日、「元気だ元気だ」と言って、毎日はりつめた状態でくらす人間になってしまうのである。

言霊主義者の助言にしたがって、ぼくが、もし、毎日「元気だ元気だ」といって暮らした場合、ヘビメタ騒音が毎日、ひどい音で長時間鳴っているのだから、元気にならず、ただ、「元気だ元気だと言って元気にならなければならない」という考えし縛られた状態になってしまうのである。

これは、実際に、元気ではないのだから、はりつめた状態になるだけだ。

実際に、きちがいヘビメタが、ガンガンガンガン鳴って、どれだけやめるように(兄貴に言っても)兄貴がやめない状態なので、(実際に鳴っている)ヘビメタ騒音によって、精神がはりつめた状態になるのだ。

精神がはりつめた状態で暮らすということになる。

そういう毎日、はりつめた状態でくらす人間に、言霊主義者たちは、「元気だ元気だと言えば元気になる」と言ってしまう。わかるかな?

言霊主義者たちは、「元気だ元気だと言えば」ほんとうに、元気にならない原因がふっとんで、ほんとうに元気になると思っているのだ。

ようするに、「元気だ元気だ」と言ったあとの「元気さ」というものは、もともとの原因がない場合の「元気さ」とおなじなのだと……言霊主義者は……仮定しているのだ。

ちゃんと仮定しているわけではなくて、「そういうものだ」と妄想的に断定しているのだ。

妄想的な言霊主義者は、妄想のなかで話をでっちあげてしまうので、現実にこまっている人がいるということには、無関心なのだ。わかるかな?

言ったあとはおなじになると思っているので、おなじにならないとしたら、そいつの言い方が悪いと思ってしまう。

こういうレベルのやつらだ。

そして、こういう、妄想的な言論が世にはびこっているために、「元気だ元気だと言って」自分のからだの不調を解決しようとする人たちが出てくるのである。

しかし、そんな方法では、もともとの原因がある限り、解決なんてしないのである!!

けど、解決しないと、これまた、自己責任だと言われるのである。

刺激に対する身体の反応というものを認めいないやつが、くるしい状態の人間に、ダメ出しをするのである。

そういう社会になっている。

そうなると、原因があってこまっている人間は、ほんとうは、つかれはてているのに「元気だ元気だ」と言って、見せかけの元気さを出して暮らさなければならなくなるのである。

ところが、「はりつめた見せかけの元気さ」と、「普通の元気さ」はちがうので、普通の人間も、そういうことを、敏感に感じ取ってしまうのだ。ようするに、普通の人間が、はりつめてがんばっている人を「不自然な人間だ」と感じてしまう。

そして、妄想のなかで満足している人間……言霊主義者は、「はりつめて」元気だ元気だと言っている人間が不自然な人間だと言われることは、ガン無視してしまう。

言霊主義者にしてみれば「元気だ元気だ」と言えば元気になるのは自明の原理なので、はりつめている人の不具合なんて、まったく無視する。

*     *     *

ところで、言霊主義者というのは、自分の現実的な問題に関しては、現実的に対処している。そして、自分が、自分の現実的な問題に関しては、現実的に対処しているということを、ガン無視している。

矛盾だとは思わないのである。

ようするに、コーヒーを飲みたいと思ったら、普通にコーヒー飲むための行動をする。コーヒーを飲みたいと思ったら、「コーヒーが出てくる」と言ってコーヒーが目の前に出てくることを期待しない。

期待しないし、言って、コーヒーを出して、コーヒーを飲もうとしない。

言霊主義者だって、急いでいるときは、普通に、走るなどの行動をする。「あそこに瞬間移動する」と言って、瞬間移動しようとしない。

言霊主義者の世界では、言えば言った通りになるので、ほんとうは、コーヒーを飲もうと思ったら「コーヒーが出てくる」と言って、コーヒーを出さなければならない。

急いでいるときは、「あそこに瞬間移動する」と言って瞬間移動しなければならない。

ところが、そんなことはしないのだ。

言霊主義者といえども、言霊の力をまったく信用してないので、「言ったって言った通りにならない」と思っているのだ。「言ったって、言った通りにならない」と思っているから、言霊的な解決方法は採用せず、現実的な解決方法を採用するのである。

ようするに、言霊主義者は、自分の「矛盾」に気がついていないのだ。

人に「元気だ元気だと言えば元気になる」と言う場合も、相手が元気にならないとしても、矛盾を感じない。

また、はりつめて動いている状態でも、はりつめてむりに動いているということを、察知しない。「元気だ元気だ」と言ったので、ほんとうに元気になったと思ってしまうのだ。

これは、言霊が、話の焦点になっているときの言霊主義者の感じ方だ。

言霊が話の焦点になってないときは、言霊主義者も、はりつめて行動している人のことを、「なにか」不自然な人だと思うときがある。

しかし、言霊主義が話の焦点になっている場合は、「元気だ元気だと言えば元気になる」とまちがった前提で説教をし始めるのである。

言霊が話の焦点になっているときは、言霊主義者は、元気にしなければならないと思って、無理やり元気にしているときの「不自然さ」には気がつかない。

言霊主義者ではない人は、無理やりがんばっている人の不自然さに気がつくことが、言霊主義者よりも多い。

けど、じゃあ、同情するのかというとそうではない。

「不自然だ」と言ってバカにして、ダメ出しをするのである。あるいは、「不自然だ」と思って、なるべくかかわりをもたないようにするのだ。あるいは、裏にまわって「あの人、不自然だよね」と言って、悪口を言うのだ。

*     *     *  

継続的な原因というものについて考えなければならないのである。毎日、きちがい家族による、きちがい的な騒音が続くのであれば、きちがい的な騒音で「つかれる」のである。

継続的に続くというのが問題なのだ。

ある期間、ずっと続く。

そうなると、ある期間ずっと毎日つつかれている状態で暮らすということになる。それが何十年と続く場合だってある。それは、(現実的な問題をかかえている)本人にとっては深刻な問題なのである。

けど、他人にとっては深刻な問題ではない。

他人は、「本人」の体(からだ)をつかって暮らしているわけではないので、「本人が不調」でも、別にこまらない。

そうすると、「元気だ元気だと言えば元気になる」というような妄想的な助言をしたくなる人たちがいる。

生粋の言霊主義者じゃなくても、普通の人でも、「元気だ元気だと言えば元気になる」というような妄想的な助言をしたくなる場合がある。言霊的な感覚は、幼児的万能感から生じるものであるから、幼児期を経験して行きぬいているものは、程度のちがいはあるものの、言霊的な感覚がある。

言霊理論というのは、社会に組み込まれている。

努力論も社会に組み込まれている。

言霊理論と努力論は、社会に組み込まれている。洗脳されて、多くの人が信じていることだ。言霊理論と努力論は、社会のなかで「正しいこと」として流通しているものだ。

言霊理論にしたがったことを言ったり、努力論にしたがったを言っても、普通の人は「へんなことを言った」と思わないのである。

逆に、言霊理論に歯向かう人や、努力論に歯向かう人を、「へんな人だ」と思って排斥しようとする。

けど、そういうレベルの「思考」のほかに「不自然だ」と感じる部分があるのである。

ようするに、普通の人には……言霊理論や努力論が正しいと思う妄想的な思考と、むりをしている人を「不自然な人だ」と思う肌感覚がある。

そのつど、どっちが優勢になるのかが、決まる。場面場面で、矛盾を含みつつ、判断される。場面場面の判断が、相互に矛盾していたとしても、矛盾は感じないことになっている。ようするに、一般人においても、言霊が話の焦点になっているときと、言霊が話の焦点になっていないときは、状態がちがうのである。おのおの生活の中で、言霊を信じたい状態になるときがあるのである。そして、特に言霊のことを気にしてないときもある。

 *     *     *

ちょっとわかりにくい部分があったと思う。たとえば、ブラック社長と、名前だけ店長のことを考えたとする。ブラック社長が、「できると言えばできる」と言ったとする。

そして、名前だけ店長は、もう、10年間も無理をして働き続けたから、つかれはてているとする。だから、「残業はむりだ」と言ったとする。

けど、ブラック社長が「できると言えばできる」と言ったあと、名前だけ店長が、しかたがなく「できるできる」と言って1時間、動いたとする。

ブラック社長は、名前だけ店長が、はりつめて動いている状態にまったく気がつかない。

『できると言えばできるというのは、ほんとうのことじゃないか。実際、できるできると言ったあと動いただろ』と思うだけなのだ。

相手の状態を無視する傾向がある人が強い人が、この世のなかには、いる。

言霊主義者は、言霊に焦点があっている場合は、相手の状態を無視する傾向がとてつもなく強いのだ。

けど、言霊主義者だって、現実モードで動いているときはある。自分の現実的な問題に関しては、現実的な問題解決方法が優先するのである。

そういうときは、他人がはりつめて(無理をして動いていることに)普通の人のように、気がつく場合もあるのだ。言霊主義者といえども、気がつく場合がある。

けど、それは、言霊が焦点になっていない場合の話なのである。言霊が焦点になっていれば、ブラック社長とおなじように、相手の状態を無視して、言霊理論が正しいということを言う。

言霊的な問題解決法方法は、現実的な解決方法だということを、言霊主義者は、強く主張する。

けど、本人が、本人の問題について、現実的に問題を解決しようとするときは、言霊主義者といえども、言霊的な問題解決方法で問題を解決しようとないのだ。

試みようともしない。

*     *     *

今回、言ったことは、ちょっと、自分のなかでもまとまってない部分がある。言霊主義者は、「言い方が悪いから現実化しなかった」と主張する。

けど、言い方が悪くても、言ったことは、現実するのである。言霊主義者は、他人に対して100%詐欺をしているのだけど、自分に対しても100%詐欺をしている。

「言ったことが現実化する」というのは、「100%の言ったことが、100%の確率で現実化するということなのである。

「言ったことが現実化する場合もあるし、現実化しない場合もある」ということは、言ってないのである。

「言えば、言ったことが現実化する」という文字列のなかに「言えば、100%の言ったことが、100%の確率で現実化する」という意味と、「言ったことが現実化する場合もあるし、現実化しない場合もある」という意味を両方とも、含めて、「言えば、言ったことが現実化する」と言っているのだ。

そして、矛盾を指摘されれば、「言い方が悪かったから、現実しかなかったのだ」ということを言い出すのである。

けど、それは、言っても、現実化しないことがあるということを意味している。手短に言うと、矛盾している。ここまでは、ずっと、指摘しているとおりである。

今回は、言霊主義者が、だれか相手に言霊主義的な問題解決方法をすすめた場合、相手の状態に無関心であるということを言いたかったのだ。

たとえば「元気だ元気だ」と相手が言ったあと、相手がほんとうに元気なのかどうかということについて、無関心なのだ。

特に、相手がほんとうは元気になってない場合について、観察力がさがる感じがする。ようするに、相手がほんとうに元気になったのか、元気なふりをしているのか、まったく元気じゃないのか、言霊主義者は、気にしない。関心がない。

けど、言霊主義者のなかでは……「言霊は絶対だ」ということになっているのである。

ようするに、「言霊理論は絶対的に正しい」ということになっているのである。言霊主義者のなかで……。

言霊主義者は、幼稚で、いろいろな矛盾に気がつかない。そして、相手の状態に関しても、実は、幼稚な感覚で気にしない。相手がどういう状態なのか、気がつかないのである。

言霊主義者は、相手がほんとうはどういう状態なのかということに注意を向けない。相手の状態を識別する能力が、あまりないのである。言霊主義者は、相手の状態に関する認識があまいのである。

ところが、言霊主義者といえども……言霊理論とは関係がない部分では、ときどき、識別能力があがる。普通の人並みに、相手の状態を識別することができる場合がある。

できない場合もあるのだけど、できる場合もある。「無理をして、がんばっている状態」というのが、言霊とは関係がない場合は、識別できる場合がある。

そういう場合もあるのだけど、そういう場合は、言霊思考が焦点になっていないときなのだ。……言霊主義者のなかで焦点になっていないときなのだ。

*     *     *

手短に言うと、言霊主義者は、普段、自分の矛盾に気がついていない。 言霊理論が正しいと言っているにもかかわらず、普段、現実的な問題については、現実的な解決方法で対処しようとするのである。だから、そういう、矛盾した部分が、実は、相手に対する認識についても、反映しているのではないかということだ。言霊主義者が言霊理論から離れている場合は、相手の状態に対する識別能力があがるのである。言霊主義者が言霊理論にフォーカスしている時よりも、フォーカスしてないときのほうが、相手の状態に対する識別能力があがる。これは、矛盾に気がついていないのと同じ仕組みが成り立っているのではないかと思えるのである。

2025年2月11日火曜日

経営者がコスパを重視すると、ダメ人間が増えるのである

経営者がコスパを重視すると、ダメ人間が増えるのである。ようするに、普通にできない人が多くなる。

それに、努力論や言霊理論が付け加わってしまうのである。

努力論や言霊理論というのは、精神論的なものだ。ようするに、「がんばればどうにかなる」というような考えに結び付きやすい理論だ。「がんばればできる」というような考えに結び付きやすい理論だ。

たとえば、ある作業をうまくできるか、うまくできないかということを考えてみよう。これは、長期間の身体的なつかれなども、実は、含んでいる。実験的に一回、はかれば、その結果がずっと持続するわけではないのである。

けど、結果が、一人歩きしてしまうところがある。

ようするに、継続的な期間というものについて考えないと、まちがった結論にいきつく可能性があるのである。ある日に、おこなった一回の作業テストは、ある日の一回の作業テストなのである。その結果が、三年間毎日続くことの結果をしめしているわけではないのである。

たとえば、きちがいヘビメタ騒音に毎日、一〇年間さらされた人は、その日の作業テストでがんばっていい点数をとったとしても、そのレベルで三年間続けることはできないのだ。どうしてかというと、ヘビメタ騒音で睡眠回路を破壊されているからだ。そして、生活体力を破壊されているからだ。

一日だけがんばるのと、三年間毎日がんばり続けるのは、ちがうのである。はっきり言えば、ちがう能力が必要なのである。たとえば、一〇年間の持続力は、一日の持続力テストではかることはできないのである。

まあ、いいや。

ともかく、あることについて、できる度合いについて、正規分布したとする。これが、圧力がかかってない状態での正規分布だ。その場合、平均というのが、中央にできることになる。平均より上なら、できる人で、平均よりなら、できない人だ。

ところが、経営者がコスパを求めると、中央よりも高いところに「足きり判断線」が設定されることになる。たとえば、七五%の人と二五%の人に分かれるところに「足きり判断線」が設定されると、七五%の人が、できない人になってしまう。

コスパを考える経営者は、頭の中で、ノーマルカーブをノーマルカーブではないものにしてしまうのである。理想のカーブを頭の中で作ってしまう。「山」が最高にできる側にシフトしたカーブを頭の中で作ってしまう。だから、できない人が多くなってしまうのである。まあ、これ、こういう言い方じゃないほうがいいか?

ともかく、経営者の理想と、言霊理論や努力論によって、「普通」のレベルがあがってしまうのである。だから、不適応な人が増えるのである。

通常、経営者のコスパ思考だけが考えられる場面なのだけど、実は、経営者のコスパ思考だけではなくて、世にはびこっている言霊理論や努力論が、影響をあたえている。

なにに影響をあたえているかというと、基準線に影響をあたえているのである。その基準線より下なら、「できない人」であり、基準線より上なら「できる人」だ。基準線上の人は、普通の人だ。経営者が頭の中で、カーブをかえてしまうのだけど、実際のカーブはかわらないので、基準線が(最高にできる側)にシフトしてしまうと、できない人が増えるのである。

できない人というのを、社会不適合者と考えた場合は、社会不適合者が増えるのである。経営者のコスパ思考を、かげから支えるのが、「言霊理論」であり「努力論」なのだ。

 

2025年2月10日月曜日

こんな状態が、普通の元気な状態とおなじであるはずがない。

 あっ、そうだ。ほんとうに元気なのと、ほんとうは、つかれはてているのに「元気だ元気」だと言って、元気になろうとしている状態はちがうということは、言っておきたい。「元気だ元気だ」と言えば、元気になると言っている人たちは、ほんとうに元気な状態と「元気だ元気だ」と言って元気になろうとして気をはっている状態のちがいがわからない。ぜんぜん、ちがうのだ。言霊主義者は「元気だ元気だと言えば元気になる」と言う。ほんとうは、「元気だ元気だと言えば、言わないよりは、元気になったような気がする」というレベルのことのだけど、もともとの言わなくても元気な状態の元気になると信じている。ようするに、ほんとうは、ちがうのだけど、言霊主義者のなかでは、もともとの元気な状態と元気だ元気だと言って元気になった状態は、おなじものだと想定されているのである。けど、ちがうんだよね。理由がある場合の元気な状態を元気Aだとする。「元気だ元気だ」と言って元気になったような気がする場合の元気を元気Bだとする。元気Aと元気Bは、まったくちがうのである。けど、元気Aのイメージと、元気Bのイメージを作り出して、元気Aと元気Bは、おなじだと思っているのである。これ、大きな間違いなんだよね。けど、これまた、どれだけ、言霊主義者に説明しても、わかってくれない。「元気になると言えば元気になる。これが正しい。おまえは、なにを言っているんだ。単純なのが正しい」と言って認めない。認めないんだよなぁーー。ある種の頑固さはある。


あと、これは、重要なことなんだけど、……そして、これを(言霊主義者は無視しているのだけど)条件がそもそもちがうのだ。ほんとうに、元気な状態でくらしているときの条件と、「元気だ元気だ」と言わなければならなくなったときの条件はちがう。「元気だ元気だ」と言って元気になろうとしている状態なのだから、元気じゃないのである。そして、それには、物理的な理由があるのである。たとえば、きちがい家族が、きちがい的な感覚で、きちがい的な騒音を鳴らし続けるので、夜、眠るべき時間に眠れなくなって、一日中眠れずに、行動しているときの条件と、普通にご飯を食べて、普通に眠りたくなったから、夜、眠るべき時間に眠って、元気な状態は、ぜんぜんちがう。ちがうのだ。そして、一日中眠れなかった場合は、眠れずに元気ではないから、「元気だ元気だ」と言って、元気になる必要性が生じてしまうのである。こんな状態が、普通の元気な状態とおなじであるはずがない。「元気だ元気だ」と言って、元気になろうとする状態というのは、すでに、「元気さ」に疑問を感じ、つかれている状態なのだ。ぜんぜんちがうので、ぜんぜんちがう。

2025年2月9日日曜日

対象がちがっていた

 ちょっとだけ、無駄話。俺はむかし……あんまりにも働いている底辺層が、無職をバカにするので……「どうして、ヘビメタ騒音がないのに底辺なんだよ? 理由はなんだ?」というようなことを書いたことがあるんだけど、ものすごく失敗したと思う。無職をバカにしている人はどうでもいい。働いていない底辺層にも、刺さってしまったのである。これは、想定していなかった。働いていない人や、働いている人でも、無職をバカにしない人は、いいんだよ。対象ではなかった。そういう人たちのことは、せめるつもりがなかった。俺がせめたかったのは、無職者をせめまくっている働いている人間だった。対象となる人たちは、そういう人たちだったのである。けど、いろいろな理由があって、働いていない人も、「自分が言われた」と思ったみたいなんだよな。あれ、ちがうから……。あくまでも、無職をバカにする働いている人が対象だった。これ、底辺労働者のほうが、言葉がきつかったのである。こいつら、自分が働いていると思って、ものすごくひどいことを、無職者に言っていたのである。だから、こういう人たちが対象だったのだ。ぼくの発言の……。底辺労働者は、無職になりやすいわけだから、無職のことをどうこう言うのは、さけたほうがいいと思う。これは、いまでも、かわらない。あとは、生活保護自給者を悪く言うのは、やめたほうがいいと思う。これも、底辺労働者は、(将来)生活保護をもらう確率が高いからだ。そして、生活保護制度をたたくのは、自分の首をしめているような愚かな行為だからやめろと言いたかったのだ。まあ、もらいにくさをたたくのはいいけど、こいつらが言っていることは、「もっともらいにくくしろ」ということだからな。あるいは、「もっと、金額をさげろ」と言うことだからなぁ。財務省うんぬんを言うまでもなく、ものすごいレベルの無駄遣いがあるのだから、まず、そこをせめるべきだ。外国人には生活保護を受給させないようにする法案はとおしたほうがいいと思うけどな。

ともかく、あの発言の対象になる人は、すでに無職者に対してひどいことを言っている人たち……だったのだ。

一か月間、続いたら、それ以降、ヘビメタ騒音のことで自殺を考えるような日々になる

 「業界のことについて、話したかったのに、そっけない対応をされた」ということで、おこるのは、わからない話ではない。気持ちはわかる。けど、どうしようもないのだ。きちがいヘビメタがなければ、無職であるというようなコンプレックスはないから、いろいろと反応ができた。けど、俺だって別に、無職であるということを、言いたいわけではない。そして、俺は、メーリングリストで、ヘビメタ騒音のことを説明して、だから、無職だということを、何回も書いたのだ。Nさんが、それを、無視していただけでしょ。たぶん、読んでなかったんじゃいかな。俺は、Nさんが参加しているメーリングリストで(ちゃんと)説明をした。(俺が)無職だということを知らずに、「業界のことが話せる」と思ったのは、Nさんの勝手な誤解だ。そして、Hさんが、俺がプログラマーだと思っているメールを(メーリングリストに)送信したしたのだど、Hさんが、勘違いをするのもわかるので、Hさんの細かいまちがいをわざわざ指摘するのは、いやだった。「間違いを指摘」されると、いやだろ。しかも、細かい部分なんだから……。ともかく、こういうことで、不愉快な思いをするのが、一度や二度ではないのである。基本的には、たとえば、無職に偏見をもっている人は、俺が無職だと思えば、偏見全開で、攻撃的な態度で、攻撃的なことを言ってくるのである。これは、ぼくのコミュニケーション能力の問題じゃないんだよ。ところが、無職は、人格障害者で、発達障碍者で、正確に問題があり、考え方に問題があると思っているやつは、ぼくのことを、そういう人間だと思って、攻撃してくる。そして、僕がなにをこたえても、「その線」でとらえるのだ。ヘビメタ騒音のことを説明しても、ヘビメタ騒音の影響で「不可避的に無職になる」ということは認めないのだ。そして、無職なら、コミュ障だと考えて、コミュ障だから、お兄さんに注意することができなかったのだと勝手に考えて、「なに言ってんだ!この野郎」「なにがヘビメタ騒音だ!この野郎」という態度で、「コミュ障だから、お兄さんにちゃんと言えなかったんだろ」と言ってくるのだ。こんなやつばかりだ。あるいは、「そんなハシナはおかしい」と思って、「ヘビメタ騒音なんて鳴ってなかったのに、エイリさんが、勝手に、ヘビメタ騒音が鳴っていると言って、ヘビメタ騒音が鳴っているから無職なのだと言い訳をしているだけなんだ」と思うやつだって出てくる。あるいは、「そんな、呪いの漫画に出てくるような不幸な人とつきあいたくない」と思う人だっている。けど、きちがい兄貴がきちがい行為をした。よそのうちでは、発生しないことを、発生させた。それは、きちがい兄貴のほうの問題なのである。そして、きちがい親父も、かげから、きちがい兄貴のヘビメタ騒音活動を支持していたのだ。これだって、「そんなことはない」と思うやつがいるんだよ。ヘビメタ騒音があったのだろうと思うやつは、ヘビメタ騒音の影響を無視したり、過小評価する。ヘビメタ騒音はなかったのだと思うやつは、エイリが言うような音で、ヘビメタ騒音はなってないのだから、エイリさんが妄想的な人なんだと思うわけだ。あるいは、ヘビメタ騒音は鳴っていなかったのだから、鳴っていたと言っているエイリさんは、うそを言うような人間だと思うわけだ。「そんな音で鳴っているはずがない」「そんな音で鳴っていたら、親がどうにかしようと思って注意するはずだ」と思って、俺の説明を受け付けない状態になってしまう。こんなやつばかりだ。そして、ヘビメタ騒音の影響を無視するやつが、「できると言えばできる」などと言い出す。これ、どれだけ、こっちの気持ちをへし折ることかわかっているのか? ほんとうに、きちがいヘビメタ騒音が、俺の言っているレベルで鳴ってたんだぞ。それを、家族がいわば……見殺しにしてきたんだぞ。へんなのは、きちがい兄貴や、きちがい兄貴がやっていることをほったらかしにして、俺のことを見殺しにしてきた家族だ。一日だって、死ぬか生きるかの問題だよ。一か月間、続いたら、それ以降、ヘビメタ騒音のことで自殺を考えるような日々になる。

*     *     *

「すべては受け止め方の問題だ」……なんて、どれだけ、こまるかわかってないだけだろ。

2025年2月8日土曜日

どうでもいいことなので、不可避的な影響をうけるということを、認めない

 ほんとうに、なんだったんだろうな? この一生……。ほんとうに、きちがい兄貴のきちがいヘビメタ騒音にやられて、くるしかった。ほかの人が、「落ちた?俺」を普通に、誤解する。ほんとうに、どれだけがんばっても、きちがいヘビメタが続くと、症状があらわれるのに、きちがいヘビメタを経験してない人が……きちがい家族による、最悪の騒音を経験してない人が、ごく、ごく、普通に誤解する。普通の人にとっては、「不可避的にそうなる」という、過程が、まったくわからない。わからないから、ごく、ごく、普通に誤解する。ほんとうは、普通の人だって、自分がこの世で一番嫌いな音を、あのしつこさで、あの時間の長さ、鳴らされたら、一日のなかでも、影響をうけるのに……不可避的な影響をうけるのに……やられてない人にとっては、どうでもいいことなので、不可避的な影響をうけるということを、認めない。認めなければ、俺が勝手にそうなっているということになってしまう。普通は……影響をうけななくてもすむのに、俺が勝手に影響をうけているということになってしまう。影響をうけてない人……実際に、きちがい家族による、きちがい的にしつこい騒音が鳴ってない人……にとってみれば……「どうでもいいこと」であり「工夫をすれば影響をうけないですむこと」なのに、(エイリがおとっているから)影響をうけているということになってしまう。ほんとうは、影響をうけなくてもすむことなのに、影響をけたと、いいわけをしているということになってしまう。その人たちの頭のなかでは、自動的にそうなってしまう。けど、それが……そう思われることがどれだけいやでも……実際に鳴らされていると、不可避的に影響をうけてしまう。この不可避的な影響について、普通の人は、無視してしまう。あるいは、過小評価してしまう。その人たちは、実際に、きちがい家族と一緒に住んでいない。実際にきちがい家族と一緒すんでいないので、きちがい家族の感覚がわからない。きちがい家族の行動がわからない。きちがい家族の「いいぶん」がわからない。これ、どれだけズレているか、関係がないから、肌でわからない。まったくわからない。わからないから、「ない」のとおなじなのである。けど、きちがい家族の影響をうける。きちがい家族が、きちがい感覚でやることの影響をうける。どうしても、うける。不可避的にうける。

できているのに、ある日、突然「できない」と言って

 できているのに、ある日、突然……なんの理由もなく……「できない」と言って、それ以降できなくなったわけじゃないのである。

「できないと言う『から』できない」なんて、おかしいだろ。

できなくなったあと、……ヘビメタ騒音でできない状態を経験して、ヘビメタ騒音が鳴っているとできないということがわかったので「できない」と言った。「できない」と言った「から」できなくなったわけじゃないのである。

ヘビメタ騒音がものすごい音で鳴っていた「から」できなくなったのである。

「できないと言うからできない」なんておかしいだろ。

できないことを、「できない」と言っているだけだろ。バカ野郎。そういう妄想的なことを断定的に言って、人をこまらせるのは、やめろ。

できるのに、どうして、突然「できない」と言うのか? 認知・認識はどうなる?

できないことは、できないと言うだろ。「できない状態」というのは、「できない」と言う前に発生していたんだよ。順番をまちがえるな!!

できている状態で、できるという認識があるのに、突然、「できない」と言って、「できない」と言ったから、「できなくなった」ということではないんだよ。

認識のほうが、さきなんだよ。

順番をひっくり返して、わかったようなことを言うのは、やめろ。

自己催眠や自己暗示はあるけど、それは、「そういう自己暗示をしよう」と思って、自己暗示をしたのである。そして、すべての現象において、自己催眠や自己暗示の効果が成り立っているわけではないのである。

できることはできるんだよ。できないことはできないんだよ。その認知が、さきである場合のほうがおおいいんだよ。

これも、「自己暗示には効果がある」ということが、すべての「できる・できない問題」に成り立っているという考え方がまちがっているのである。こういう人たちは、単純だから「自己暗示」の例をひとつ、あげられると、すべて、その例の通りだと思ってしまう。

「できる」と自己暗示をかければ、できるようになるし、「できない」と自己暗示をかければ、できないようになる……と思い込んでしまう。

けど、それでは、「できる・できない」ということに関する「すべての現象」を説明できない。 

「できないと言うからできない」というのは、理論的ではない考え方なんだよ。理由が、まちがっているんだよ。

「から」のまえにある「できないと言う」ということが、「できない」ことの(あるいは、できないという状態の)原因ではないんだよ。原因について、まちがった認識をしているんだよ。

自己暗示の例をあげられてから、「できると言えばできる」と思い込んでしまうわけだけど、本人が、「できる」と言ったって、できないことはあるんだよ。

だから、「できると言えばできる」のかどうか、自分で確かめてみることができるんだよ。

「瞬間移動できる」と言ったあと、瞬間移動できるようになるかどうか確かめてみれば、「できると言えばできる」という命題が『真』であるのか『偽』であるのか、確かめることができるんだよ。 

瞬間移動ではなくても、普段、自分ができないことは、できないと認識しているのである。そして、できないことに関して、「できる」と言っても、できないことを知っているのである。……実は知っている。

だいたい、「できる」と言っただけで「できる」ようになるのであれば、その人は、普通に生活してない。魔法を使って生活している。いろいろなことを普通の方法でやっているということは、「できない」ということを認めていることなのである。いいかげん、気がつけ。 

できないと言っても、できることはあるし、できると言ってもできないことがある。それは、「できると言えばできる」「できないと言うからできない」などと「ほかの人」に言っている「本人」だって、知っていることなんだよ。経験していることなんだよ。経験したことがあることなんだよ。

ところが、「自己暗示」の説明を聞くと、「すべて」において「できると言えばできる」ということが成り立つと思ってしまう。だまされたんだよ。

 「できると言えばできる」と言っている人は、「エイリさんの言っていることが理解できる」と言って、理解してくれ。理解できると言えば、理解できるんだろ。

 



2025年2月7日金曜日

ぼくは、ヘビメタ騒音が鳴るまえは、できていたんだよ。ヘビメタ騒音が鳴り続けて、できなくなった

 きちがい兄貴が、あんなに意地になって、きちがいヘビメタを鳴らさなかったら、こんなことになってない。あの人たちとの人間関係だって、こわれていない。そもそも、働いていたはずだから、無職についてもめるはずがない。これ、「どうしたってむりだ」という状態になる。きちがいヘビメタが一一歳のときからはじまって、ずっと、中学校、高校と、日曜日まで含めて毎日続けば、どうしたって、むりだという状態になる。けど、実際には、ほかの人には、きちがい兄貴のような家族がいないから、おなじことを経験するわけではない。だから、経験的には、わからない。俺がただ言っているだけで、実際に、僕と同じ時期に、僕と同等の、家族による騒音を経験したわけではない。家族による騒音というのが、超・重要なことなのだけど、ほかの人は、これが重要なことだとは思ってない。さらに、一一歳からはじまってしまったということも、重要なことなのだけど、ほかの人は、これも、重要なことだと思っていない。働いてから、となりの人がうるさいという状態ではないのだ。自分だけ引っ越しができる状態ではない。きちがい家族が鳴らしていたら、どうしたって、影響をうける。自分だけ引っ越して、騒音問題を解決するわけにはいかない。そして、おかあさんも、親父とはちがった意味で普通の人ではないし、おかあさんが、どれだけ兄貴に言っても、兄貴は、聞かなかった。けっきょく、自分がやりたいぶんは、絶対にやりきった。遠慮して、がまんして、鳴らさないですご時間というのは、一日で、〇秒だ。これが、十数年間、毎日、ずっと続いたのである。融通が利かない。「今日は、特別にこまるからやめてくれ」と言ったって、〇秒しかゆずらないのだ。「願書を書くから、一時間やめてくれ」と言ったって、ずっと、鳴らし続ける。ヘッドホンをするつもりもない。この態度が、どれだけ頭にくる態度か、わかるか? やられてない人には、根本的にはわからないと思う。そして、たとえば、願書を書くときに、きちがいヘビメタが鳴っていると、ミスを犯してしまう。そうすると、ミスをカバーしなければならなくなるのだけど、きちがいヘビメタが鳴っている状況で、新しく願書を取り寄せてカバーしなければならなくなるのだ。そして、それができない場合は、そのまま出すということになる。たとえば、ハンコが斜めに押された状態で出すということになる。ボールペンで二重線を引き、修正して、ハンコを押して出すということになる。見栄えが悪い願書になるのである。切羽詰まって、願書の修正をしているときも、きちがいヘビメタが、容赦なく、きちがい的な音量で鳴っているのだ。きちがい的な音量で鳴っていると、ほんとうに頭がこんががるんだよ。きちがいヘビメタが鳴っていると、学校の授業で覚えたことも、忘れてしまう状態になる。新しい問題に関しては、まったく考えられないという状態になる。家で勉強しようとすると、マイナスになってしまうのだ。頭がこんがらがって、できた問題もできなくなってしまう。そして、それは、自信を失わせることだ。だって、できなかったことを経験するということになってしまう。ヘビメタ騒音が鳴ってなければ簡単にできる問題なのに、できなくなってしまうのだ。おぼつかなくなってしまう。こんな状態で、入学試験を受けるということがどういうことなのか、みんなわかってない。中学時代全部、高校時代全部という人間にとって大切な時期を、こんな騒音で、汚されて、その後の人生に影響がないわけがないだろ。「過去は関係がない」と言ったやつがいっぱいいる。みんな、ぶっ殺してやりたいほど腹がたつやつらだ。ほんとうに、その言葉を言ったとたんに、そいつを、ぶんなぐってぶんなぐって、ぶっ殺してやりたい気持ちになる。けど、もちろん、殺したりしないし、ぶったりもしない。おさえる。けど、それがまた、ストレスになるのだ。きちがい家族によるきちがい騒音を、人生のなかで、経験しなかっただけなのに、えらそうなんだよ。これ、僕と彼らのちがいは、きちがい兄貴にやられたかやられなかったのちがいでしかない。けど、彼らは、「自分なら大丈夫だ」「自分なら影響をうけないことが可能だ」という前提でものを言ってくる。しかも、これが、僕にとって腹がたつことだということを、まったく、認めない。認めるわけがないだろ。きちがいヘビメタをやられたので、できない状態になっている。そのとき、きちがいヘビメタにやられてないやつが、「自分なら影響をうけない」という前提で「過去は関係がない」などと言うのだ。あるいは、「できないと言うから、できない」「できると言えばできる」などと言うのだ。こんなことを、言われて、腹がたたないわけがないのに、こいつらは、腹がたつということがわかってない。ここで、ぼくが反論をすれば、こいつらは、こいつらで、腹をたてるのだ。「過去は関係がない」ということは正しいということを言ってくるし、「できると言えばできる」ということは、正しいということを言ってくる。むきになっていってくる。けど、ここに書いたように、それは、正しくない。まちがっている。こういう、まちがったことを言うやつに、なめられるようになる。きちがいヘビメタ騒音でできなくなると、そうなる。しかも、こいつらは「人のせいにしている」と言い出すのだ。「自己責任だ」と言い出すのだ。こいつら、ほんとうに、ぶっ殺してやりたくなるなぁ。けど、どうして、ぼくが、ぶっ殺してやりたくなるほど、腹をたてるのかということが、わからない。わかるわけがない。こいつらは、想像力がないから、きちがいヘビメタ騒音の影響について、うまく想像することができない。理論的な思考力がないから、妄想的な前提があるということに気がつかない。たとえば、ぼくは、ヘビメタ騒音が鳴るまえは、できていたんだよ。ヘビメタ騒音が鳴り続けて、できなくなった。そりゃ、睡眠だってそうなんだよ。体力不足だってそうなんだよ。勉強だってそうなんだよ。ヘビメタ騒音が鳴るまえは、「できるできる」なんて言わなくてもできていたんだよ。ヘビメタ騒音が鳴るまえに、「できない」と言ったから、できなくなったわけじゃないんだよ。ヘビメタ騒音が毎日続くから、その影響でできなくなったんだよ。ヘビメタ騒音でできなくなったから、できなくなったと言ったんだよ。できないと言ったから、できなくなったわけじゃないんだよ。ヘビメタ騒音が毎日続くからできなくなったんだ。こいつ、ほんとうに頭がわるいなぁ。頭が悪すぎて話にならない。こういうやつらに、バカにされるようになる。きちがい家族よる、きちがい騒音が鳴っていると、こういうやつらにバカにされるようになる。

*     *     *

「当時」と言っても、いろいろな「当時」があるのだけど、「人間は働くべきだ」と言ったやつが、無職になっていたら、承知しないからな。ぼくが、無職のとき、ヘビメタ騒音で通勤ができなくなったということを言ったのに、ヘビメタ騒音の影響は、無視して、「人間は働くべきだ」と言ったやつが、どんな理由であれ、無職だったら、俺はゆるさない。そいつは、どんなことがあっても、一生、死ぬ直前まで、働くべきだ。だって、そうだろ。そうしないのであれば、ぶん殴る。ぶん殴る。ぶん殴ってやる。けど、まあ、実際には、ぶん殴ったりしないのだろうけどな。そいつがどこにいるか、まったくわからないしな。けど、ヘビメタ騒音の影響を説明したのに、ヘビメタ騒音の影響をガン無視て「人間は働くべきだ」と言ったやつは、働くべきなんだよ。絶対に、無職になるな! 定年退職していたら、承知しないからな!

しかたがない理由

  しかたがない理由で、無職だったのに、しかたがない理由だと「認めないやつら」がくそを言ってきて、ほんとうに、生きているのがつらかったよ!! つらかったよ!!!

虐待されていたのに、きちがい親父がかわいそうだと思っていた。

 俺は、当時、親父が「かかなしご」だったことが、かわいそうだったんだよ。(俺がきちがい親父から)虐待されていたのに、きちがい親父がかわいそうだと思っていた。

「よそのうち」で、一歳のときから虐待され続けたきちがい親父が、かわいそうだと思っている部分があった。

だから、親父とおかあさんと兄貴と俺であるときは、「(自分は)おかあさんから離れて歩いたほうがいいかな」などと思っていたのだ。

まあ、六歳ぐらいのときだ。

「六歳の子供に気を使わせてどうするんだよ」といまなら思うけど、「かかなしご」の親父が、ぼくをせめているような感じがしたのだ。「かかなしご」というのは、「母親なしご」のことだ。

ともかく、ちいさいころの親父には、母親がいなかったわけだよ。そして、ぼくのところには、母親がいる。だから、親父に気を使って、おかあさんとは、ちょっと離れて歩くようにしていたときがある。

まあ、家族で出かけるときというのは、非常に限られている。正月のあいさつのために、親戚のうちに行くようなときしか、家族で出かけるということはなかった。

きちがい親父は、あんまり家にいなかったわけだけど、家にいるときは、家にいるあいだじゅう、妻と子供に、あたりちらしていた。

ともかく、へんな理由で怒り狂うのである。つったらつったら、怒り狂う。

ひとつの理由で、怒り狂ったら、〇・一秒後には、別の理由で怒り狂っているような状態だ。そして、それが、きちがい親父にとって当たり前のことだった。そして、「やったってやってない」つもりのことだった。

このきちがい親父のきちがい的な態度というのは、きちがい兄貴のヘビメタに対する態度とおなじなんだよ。ちょっとでも「おさえられたら」発狂してやるくせに、やり終わったら、まったくやってないと思っているような状態になってしまう。

「やったってやってない」の境地なんだよ。

狂気の境地なんだよ。

認知・認識がおかしいんだよ。

けど、日常茶飯事だ。

そうじゃないときがないという状態で、きちがい親父ときちがい兄貴はそうなっている。自分がきちがい的な意地でやっていることなのに、「つもりがない」なんておかしいだろ。

けど、そうなんだよ。

だから、「やった」とせめられたら、真っ赤な顔をして、怒り狂うんだよ。その場合、親父は、否定語を絶叫するバージョンと、沈黙バージョンがあるのだけど、兄貴は沈黙バージョンだけだ。これ、頭の中で起こっていることは、否定語を絶叫するバージンも沈黙バージョンもおなじなのである。そういうレベルで、自分がやったことを認めない。

きちがい兄貴は、自分が(きちがい兄貴が)一秒もゆずらずに、全部自分が思った通りの音で鳴らしきるということにこだわっているんだよ。

だから、きちがい兄貴が満足しない音で鳴らすということはないんだよ。きちがい兄貴が最大限にゆずった音も、きちがい兄貴が満足できる音なんだよ。

だから、きちがい兄貴が最大限にゆずった音も、実は、きちがい兄貴の耳がおかしくなるぐらいの大音響だ。

けど、これが、また、きちがい親父とおなじで、「自分がゆずってやったら、全部ゆずってやった」と思っているところがある。

嘘なんだよ。ぜんぜんゆずってないのに、「ゆずってやった。ゆずってやった」と思っている。思っているだけ。きちがい兄貴がゆずったつもりで鳴らしている時間、こっちは、最大の音で鳴らされているときとおなじように、こまっているんだよ。

けど、きちがい兄貴は、きちがい親父とおなじだから、「相手がこまっている」ということは、きちがい的なレベルで認めない。きちがい的なレベルでわからない。

これ、まさしく、わからないのだ。

だから、どれだけ注意したっておなじなんだよ。

けど、そういうしくみが、また、よその人にはわからないから、よその人は「そんな音で鳴っているはずがない」と思ってしまうわけ。

そうなると、兄貴のほうがゆがんでいるのに、俺が嘘を言うゆがんだ性格の人間だと、その人たちは思うわけ。

もう、全部、こういうふうにできあがっているんだよ。

俺が嘘を言っていると思っている人たち態度というのは、ひどい……。ひどいものだ。俺が嘘だと知っていて、嘘を言っていると「思う」場合は、俺は(その人にとって)人格障害者になってしまうし、嘘を言っているのに嘘を言っているということに(俺が)気がついてないと、その人が思う場合は、俺が妄想系の精神病だと思うことになる。

こいつらは、まちがっているけど、こいつらはこいつらで、「そんな音で鳴らせるわけがない」「そんな音で鳴らしているのに、家族が注意しないのはおかしい」と思っているので、俺が説明しても、受け付けない状態?になっている。

俺の説明を受け入れない状態になっている。

けっきょく、徒党を組んで、俺からは見えないところで、俺の悪口を言うのだ。

まあ、どうして、徒党を組んで、俺から見えないところで悪口を言っているのに、俺が知っているかというと、教えてくれる人がいるから、知っている。「あの人たちが(エイリさんのことを)どう思っているのか」ということについて、教えてくれる人が、少数だけどいる。その教えてくれる人と、その人たちのやり取りで、その人たちが、どういうふうに(俺のことを)思っているのか、わかる。

きちがい兄貴の感覚やきちがい親父の感覚がおかしいから、俺がいろいろとうたがわれることになるのだ。

そして、きちがい親父がやったことはともかくとして、きちがい兄貴がやったことは、俺の能力や俺の体調にものすごい、影響をあたえるのである。

けど、これも、「自分なら平気だ」と思うやつが「過去は関係がない」とか「ヘビメタ騒音なんて、そんなのは関係がない」とかと言いやがるんだよ。

*     *     *

「そんなに、(お兄さんが子どものころ)怒り狂っていたのに、どうして、お兄さんのことを注意しないんだ? おかしいじゃないか」と言って、ぼくの話を信じなかった人もいる。

「そんなのはへんだ」と思って信じないやつがいるんだよなぁ。

こいつらのなかでは、俺が、嘘を言う人だということになっている。あるいは、こいつらのなかでは、嘘をついているつもりがなく、本気で言っているなら、(俺が)妄想的な人だということになっている。

けど、これがちがうんだなぁ。

親父が、規格外で、ほかの人のうちには、いない人だと、「そんな人、いない」とほかの人は思ってしまうところがある。

だいたい、約四割だな。

きちがい兄貴がやったことも、信じないのだ。俺が、大げさに言っていると思っている人がいるんだよなぁ。その人たちから見れば、異常なのは、兄貴ではなくて、俺なのだ。

そのひとたちのなかで、俺は、悪い意味で、嘘をつくような人だということになってしまう。

これ、一度そういうふうに思うと、俺の言動について、いちいち、まちがった解釈をしやがるのである。こいつらが、考えちがいをしているんだよ。

そして、それは、たとえば、きちがい兄貴のような家族に毎日騒音を鳴らされなかったということを意味しているんだよ。

だから、そいつらが「俺だって騒音ぐらいあった」と言っても、それは、レベルがちがう騒音について言っているだけなんだよ。

そいつらが「自分だって苦労した」と言ったって、俺の苦労について「誤解できるようなレベルの苦労」しかしてないんだよ。

俺の言っていることが、「嘘」だと思うなら、それは、現実世界で、俺とおなじようなことを「経験」してないということを意味しているんだよ。

ちがうじゃないか。ところが、「おなじレベルの苦労をした」と思っているんだよ! こいつらは!! こいつらは、無能でバカなうえに、経験がないので、考えちがいをしている。考えちがいをしているのは、こいつらなんだよ。俺は、嘘をついてないんだよ!!

無理もない。

 ”Not you but him”と書こうとして、「きみじゃない」と言われた相手が、傷つくかなと思っ、そくざに反応できなかったということがあった。で、けっきょく、ぼくは、すごいレイシストだと数人の人に思われたみたいなんだけど、レイシストだと思われたことじゃなくて、数人の人を傷つけたというのが、気になるんだよな。たとえば、いまさっき、アメリカの現在という感じの動画を見ていたんだけど、そのことを思い出した。アニメでもこういうことがありすぎて、あんまり、視たあとおもしろくないんだよな。あとは、ある人が短編小説を書いたんだけど、ぼくに感想を求めてきたわけ。でっ、「なかなかおもしろい」と書こうと思ったのだけど、「なかなか」という言葉をどういうふうに解釈するか気になったことがあるんだよ。あとは、ここには書けないいろいろなことがあって、感想を書くことができなかった。気にしすぎなんだよなぁ。”Not you but him”と書けばよかった。「なかなかおもしろい」と書けばよかったと思う。けど、このレベルで気にしてしまうのは、しかたがないことなんだよなぁ。気にしないで書いた場合だって、別の問題がしょうじるかもしれない。まあ、きちがい的な親にやられたことと、きちがい的な騒音にさらされ続けたことで、なんか、いろいろと、スムーズにいかない。きちがい親父が、きちがい的な理由で怒り狂っていたことが、相手の気持ちを気にすることの原因なんだよなぁ。そりゃ、あんなきちがい的な理由で、いつも怒り狂われていたら、傷つけないように、気を遣う。これ、みんなわかってないかもしれないけど、きちがい的な親というのは、ほんとうに、子どもがまわりにいるだけで、はげしく傷ついているのである。子どもがまわりにいなくたって、はげしく傷ついているのである。子供に対して……幼児に対して怒り狂っているとき、ほんとうに、自分が幼児に傷つけられたと思って、怒り狂っているのである。自分の怒りに対応した理由があると思っているのである。けど、子どもが、今にすわっていただけだったりするのだ。子どもが普通に歩いていただけだったりするのだ。けど、見かけたら、「傷ついて」怒り狂う。けど、そういう状態で、自分がおかしいとは、思わないんだよ。「だれだって、怒る!!だれだって、怒る!!」と発狂して、わめいていたからなぁ。自分が「なんでもない理由で」……普通の人なら絶対に怒らない理由で、発狂したということについては、なにも感じてないのだ。ほんとうに、こころがこわれている。精神がいかれている。いつも、「すったもんだ」だよ。きちがいが、きちがい的な理由で、三〇秒おきに、爆発するような状態だ。しかも、きちがいだから、そういうことをしたということについて、まったくなにも気にしないのである。「そんなの、あたりまえだ」と発狂した気持ちで、思っている。「自分はもっとやられた」「自分は、ぶん殴られた」と(幼児に対して)怒り狂っているのである。なにもわるいことをしていない幼児に、精神的におかしな理由をつけて、怒り狂っていたのが、うちの父親だ。 


2025年2月6日木曜日

矛盾

 きちがいヘビメタ騒音にたたられているときは、たたられているときの「気分」がある。「気分」と書いたけど、体全体の反応なのである。意識的で、意志的な脳みそが感じている部分は、一部分にすぎない。そして、ヘビメタ騒音にずっと、さらされ続けたので、副交感神経が優位にならず、疲れはてているのに、どうしても眠れないという状態も、体全体が引き起こしている状態なのである。意識的で、意志的な脳みそが、「眠れ」と命じても、その前の時間に、七時間なり、一三時間の間、自分がこの世で、一番嫌いな音に、さらされ続けたという……いまにいたる過去の状態があるのだから、いまにいたる過去の状態の影響をうけて、眠れないのである。いまにいたる過去の状態というのは、言ってみれば、走ることをやめたあとも、息があがっている状態とおなじなのである。走ることをやめたのだから、今は走ってない。いま、現在、止まっているのであれば、走ったということの影響をうけないということではないのだ。影響は受けている。さらに、こいつらは、継続が重要などということを言う。継続が重要だということは、その日、一日のなかでの過去の出来事だけではなくて、数年間という、継続的な出来事が、(現在の状態に)影響をあたえるということを、認めているのである。一日だけ、ポテチを食べただけでは、生活習慣病になれないのである。また、一回だけアルコールを、飲んだだけでは、慢性アルコール中毒にはなれないのである。アルコールの場合は、急性アルコール中毒というのがあり、時間的に近い過去の行為が影響をあたえているということができる。ようするに、「過去は関係がない」といっているやつも、実は、「昨日飲みすぎたから、体調が悪い」とか「ずっと、長時間通勤をしてきたから、たいちょうがわるい」とかと言っていることからわかるように、過去の出来事が、現在の状態に影響をあたえるということは認めているのである。ところが、弱った他人を見かけると、自分は、影響をうけないという前提で、「過去は関係がない」と言い出すやつらがいる。精神世界の人たちは、特にその傾向が強い。どうして、精神世界の人たちが、過去のことを無視することを言うかというと、「いまここ」とか「いま、現在に集中すればいい」というようなことが言われているからなのである。ところが、彼らが、そういうことを言うことに関しても、過去のある時点で、そういう考えについて述べられた本を読んだとか、そういう考えをもっている人の話を聞いたということが、重要なのである。ようするに、過去の出来事の影響をうけている。「の」の二重表現は指摘しなくてもいい。

こまっている他人を見かければ……「自分は、そのことについてはこまってない」と、横柄な気持になり、こまっている他人の状態を全否定するようなことを言うのである。こまっている他人の状態というのは、じつは、こまっている他人の条件と言い換えることもできる。体の状態だって、過去の出来事の影響をうけている。生活習慣病になった人は、過去の生活において、何回も繰り返したことの影響を、受けているのである。生活習慣病は認めるけど、「過去は関係がない」「過去の出来事は現在の状態に影響をあたえない」と考えるということ自体が、おろかなことなのだ。けど、普通に、そのおろかなことをやって、本人が気つがかない。


ああ言えばこう言うタイプの人は、走ったあと、止まっていても、息があがるということについて、「そりゃ、そうだけど、それは、短い時間の話でしょ」と言うかもしれない。けど、毎日、繰り返しやってきたこと、あるいは、毎日繰り返しられたことは、影響をあたえる。あたえないと考えている場合は、影響が小さなことについて考えているのだと思う。毎日、繰り返しやってきたことが、今現在に影響をあたえないわけがないだろ。実際に、精神世界の人は、「毎日の繰り返しが重要」と言っている。さらに、言霊主義者なら「口癖が重要」と言うことになる。「毎日の口癖が人生を作る」などという。たいていの精神世界人は、「毎日の口癖が人生を作る」と言われたときは、「その通りだ」とひざを打って思うのである。ところが、「過去は関係がない」と言ってしまう。「過去は現在に影響をあたえない」と言ってしまう。矛盾していることに、気がついてない。自分にとって不都合なことは、「いまここ」と考えて否定して、自分にとって都合がいいことは「口癖が重要」と言って、完全に肯定してしまう。「自分にとって都合がいい」ということ「自分にとって都合が悪い」ということがメタ認知となって、判断に影響をあたえるのだ。ようするに、ほぼ無意識的な前提として、「自分にとって不都合かどうか」ということが、全体の認知に影響をあたえているのである。言っておくけど、「ほぼ無意識的な前提」の「無意識」というのは、強迫性障害を引き起こすような無意識とは、まったく関係がない。種類がちがう。

口癖が人生を作るのであれば、もちろん、過去において、自分が(口癖として)言ってきたことが、人生に影響をあたえるということなのである。だから、「過去は関係がない」「過去は現在に影響をあたえない」ということにはならない。ところで、口癖については、依然述べたように、これまた、問題がある考え方なのである。口癖が人生を作るのだから、口癖を無理やり変えれば、口癖通りの人生になるという考え方が横たわっているのだけど、この考え方は、完全にまちがいだ。これまた、条件を無視した考え方なのである。ずっと続いている条件というのはある。もちろん、時間がちがえば、ちがうということも言える。つまり、おなじ川にのどはいることはできないのだ。けど、生活の中で、だいたいおなじことというのはある。きちがい的な親は、頻繁にきちがい的な理由で怒り狂うのである。正常な親は、頻繁に、きちがい的な理由では、怒り狂うことがないのである。傾向というのがある。きちがい的な親がいるうちに生まれたら、きちがい的な親と一緒に住むことになるので、きちがい的な親が頻繁にすることの影響をうけることになる。けど、これだって、精神世界の人は「過去は関係がない」「過去は現在に影響をあたえない」と言って、くそくだらないアドバイスをしてしまうのだ。これは、精神世界の人本人にとって都合が悪いことではないけど、対象となる人にとって都合が悪いことだ。ともかく、精神世界の人にとっては、相手の条件は無視できることなのである。相手の条件を無視することで、本人は、こまらないのである。だから、勝手に無視するのである。

*     *     *

なんで、ヘビメタ騒音の影響だけ「そんなの関係、ない」ということになってしまんだよ。負の影響をうけるに決まっているだろ。食生活だって影響をあたえる。何年間も、体に悪いものを食べていたら、影響が出るだろ。何年間も食べすぎなら、影響が出るだろ。何年間も、不適切なほど食べてなかったら、影響が出るだろ。それとおなじなんだよ。

それを、勝手に無視するな。おまえらには……その人たちには、きちがい家族がいなかった。きちがい家族が、きちがい的な意地で、ものすごくでかい音で、あなたたち?が、この世で一番きらいな音を、ずっと毎日、鳴らさなかった。だから、きちがい家族による騒音の影響がないだけだろ。これは、うけたけど、影響がないのとはちがうんだよ。うけてないから、影響がないだけだ。実際に、自分のきらいな音が、でかい音でずっと何時間も鳴っている毎日が、何年間も十数年間も続かなかったから、影響をうけてないだけだ。実際に、おなじことをされたのに、影響をけてないわけではない。ところが、「自分だって騒音ぐらいあった」と言えば、騒音の質と騒音のでかさと、騒音の持続時間と、騒音の持続期間を、無視できる。無視してもいいという気持になってしまう。おなじ質の、おなじ量の騒音をにさらされたわけではないのに、「そんなの関係がない」「俺だって騒音ぐらいあった」と言う。「受け止め方の問題だ」とあたかも、俺に非があるような言い方をする。きちがい兄貴に非があるのに、俺に非があるような言い方をする。しかも、そういうことをしておいて、いい助言をしたつもりなのである。こいつら、ほんとうにゆるせない。こういうことになるから、きちがい兄貴に、何度も何度も、何万回も何毎回も、ずっとずっと、「鳴らさないでくれ」「しずかにしてくれ」「こまるからやめてくれ」と言ってきたのに、きちがいがきちがい感覚で乗り越えて、きちがいが好きなように行動してしまう。きちがい家族と一緒にすんだことがない人は、実際に、きちがい家族がどういう感覚で鳴らしているかわからないから、俺の話に疑問をもつ。それが、また、「たいした音じゃないのだろう」とか「ほんとうは鳴ってなかったんじゃないか」というような思いに影響をあたえる。きちがい兄貴のきちがい感覚が、出所なんだよ。俺のほうの問題じゃないんだよ。ところが、こいつらは、みんな、よってたかって、俺のせいにする。

2025年2月4日火曜日

妄想的な前提があるということに、気がついていない。

 ここにずっと書いてきたけど……そして、ものすごく「うけ」が悪いわけだけど……世の中ではやっている考え方というのは、特殊な条件をもつ人を死に追いやるような考え方なのである。そのうちのひとつが、「言霊」だ。もう、ほんとうに、いっぱい、いっぱい、あるんだよなぁ。「言霊」理論は、理論として破綻している。理論としてまちがっているのである。そして、理論としてまちがっていることは、証明できるし、検証することができることなのである。けど、「言霊(理論)は正しい」と思っている人は、言ってみれば「ばかなので」わからない。これ、本人が、矛盾したことを言っているということがわかってないのである。ほんとうは、日常生活で、「言霊理論にしたがって」行動しているわけではないのである。日常生活においては、現実的な「物理理論にしたがって」行動をしているのである。けど、本人の認識力が弱いか、あるいは、おなじことなのだけど……幼児的万能感によって(認識が)阻害されて、矛盾に気がつかないことになっているのである。

おなじことが、「思いは現実化する」という思霊理論にも成り立っている。

そして、いちおう、精神世界系のこととは区別できる「努力論」なのだけど、これも、妄想的な前提があるのだ。そのことについては、以前、ここに書いた。妄想的な前提なのだけど、「努力をすれば成功する」と思っている人は、妄想的な前提があるということに、気がついていない。 

とてつもなく、やっかいだ。どうしてかというと、ヘビメタ騒音が鳴っていなければ、きちがい親父に虐待された幼児期以降も、対応できていたからだ。これらの妄想的な考え方に対応できた。「言霊理論」「思霊理論」「努力論」をふりまわす人がいたとしても、「そうですね」と対応すれば、それですんだ。きちがい兄貴のヘビメタ騒音で「そうですね」とは言えない状態になったのだ。やり過ごすことができない状態になったのだ。そして、ほんとうに、きちがい兄貴のきちがい騒音で、「できなくなった」のだ。これが、真実だ。これも、ほかの人は、きちがい騒音がどれだけうるさくても、できなくなるということはない」という、経験に基づかない理論をふりまわすわけだ。これ、こまるんだよな。ほんとうは、自分だって、自分がこの世で一番きらいな音を、あの頻度で、あの長さで、あの期間の長さ、聞かされ続ければ、「できなくなる」のに、それがわからない。これだって、経験的にわかってないのだけど、この世で生きていれば、だれだって、困難にぶつかったりするので、「自分だって困難があった」と言える状態ではあるのだ。だから、なかば、腹をたててそのように言う。これ、相手は相手で、自分が真実だと信じていることについて批判されたので、腹をたてているのである。ぼくの経験の範囲で言えば、一〇〇%の人が、なかば、腹をたてた状態になる。なかば、腹をたてた状態で言う。

彼らにとっては、自分が信じている「真実」なので、ゆずるわけにはいかないという気持になるのだろう。「正しいものは正しい」と、なかば、おこった気持ちになるのだろう。

不可避的に、対立するようになる。彼らとぼくは、不可避的に対立するようになるのである。きちがい家族によるきちがい騒音を一一歳から経験したことがあるぼくと、きちがい家族によるきちがい騒音を一一歳から経験したことがない彼らのあいだに、対立がしょうじるのである。もちろん、きちがい兄貴は、そんなことは、知らないで、鳴らしていた。説明すればわかるのかというと、わからない。そりゃ、無意識的なレベルで、感覚器を書き換えて、しずかな音で鳴らしているつもりで鳴らしているのだから、どれだけ言ったって、わからない。そういうレベルでわからない仕組みが一つあるのだから、どれだけ(わかるように)説明したって、わからないのである。説明されてわかってしまったら、自分が鳴らしたい音で鳴らせなくなってしまのだ。それだけは、きちがい的なレベルで、阻止しなければならないことなのだ。だから、無意識も意識も、全力で否定する。全力で、拒否する。

こういう構造が、きちがい兄貴の側に成り立っているのに、よその人は、こういう構造が、きちがい兄貴の側に成り立っているということが、わかってないので、「自分なら、お兄さんを説得できる」という前提で、俺にむりなことを言うのである。これだって、本人は「無理なことを言っている」とは思ってないわけだし、経験がないのだから、俺がどれだけ説明をしても、認めないということになる。

普通の人は、普通の人だから、普通の人の認知がある。そして、きちがい兄貴の『感覚と行動」は、普通の人における認知の……範囲内にはない『感覚と行動」なのである。「の」の重複は指摘しなくてもいい。

ヘビメタ騒音の効果は、ものすごくある

 ヘビメタ騒音の効果は、ものすごくある。そのうちのひとつが、ぼくがほかの人からバカにされるようになるという効果だ。これがひどいのである。そもそも、ほかの人は、きちがい家族による、しつこいしつこいしつこい、病的な騒音を経験したことがない。ないから、ない。ないから、わからない。ないから、実際に「被害を受ける」ということがない。経験がない。そりゃ、だれだって、騒音の経験はあるけど、その騒音の経験は、一般的な騒音の経験で、特殊な……特殊すぎる……家族による……騒音じゃないのである。これ、きちがいだから、「いきすぎ」というのが、わからない。きちがいだから「やりすぎ」というのが、わからない。きちがいだから、「家で鳴らすには、でかすぎる音で鳴らしている」ということが、ほんとうに、ほんとうに、ほんとうに、わからない。これ、芝居をしているわけではないのである。わからない芝居」をしているわけではないのである。これ、きちがいだから、無意識的なレベルで書き換えることができる。きちがい親父の「におわないよ!!におわないよ!!」とおなじなのだ。感覚器を書き換えてしまう。自分が都合がいいように、感覚器を書き換えてしまう。しかも、感覚器を書き換えたつもりがない。ほんとうにまったくない。耳が正常だと、音のでかさがわかってしまう。耳が正常なので……ほんとうは、家では鳴らしてはいけない音だ……というのが、きちがい兄貴本人にもわかる。わからるからこそ、書き換える。どうしてかというと、「家では鳴らしてはいけない音」で鳴らしたいからだ。どうしても、「家では鳴らしてはいけないでかい音」で鳴らしたいので、「家で鳴らしていい普通の音だ」ということに、してしまうのである。この命令が絶対的で、本人が気がつかないことだから、ずっとほんとうに、「家で鳴らして いい音だ」と思って鳴らしているのである。それから、きちがい兄貴タイプのきちがいに共通することなのだけど、限度というものをほんとうに知らないのである。ヘビメタを鳴らしたいということになると、ほんとうにずっとずっとずっと、鳴らせる限り鳴らしてしまうのである。しかも、いま、さっき、説明したように、自分が鳴らしたい音で鳴らすというのが、至上命令だから、どんなときも、絶対にゆずらずに、自分が鳴らしたい音で鳴らすのである。自分が鳴らしたい音ではない音で鳴らすというのは、きちがい兄貴にとって、発狂するほど頭にくることなので……殺人をするほど頭にくることなので。絶対に、一秒間だろうが、自分が満足できない音で鳴らすということをしない。つまり、普通の音で鳴らすということをしないのだ。そうすると、ぼくの生活が破壊され、ぼくの精神が破壊されることになる。ところが、よその人たちが、「自分だったら平気だ」という前提で「そんなのは自己責任」と言ってくることが、発生する。

不可避的に、だめになるのだけど……どれだけがんばってもがんばっても、だめになるのだけど、ほかの人には、だめになるということが、まったくわからないので、俺に文句を言ってくるということになるのである。そのうち、「たしかにぼくが、その人に迷惑をかけた」という場合は、相手の気持ちがわかるので、ものすごく「悪いことをしたなぁ」という気分になるのである。けど、鳴っているから、改善するのがむりなのである。これも、「改善するのが無理」という部分を相手が認めなかったら、「なにいってんだ」と相手が思うことになる。で、その気持ちもわかるのだ。けど、無理なものはむりなのだ。

あの音で、一日中鳴っているのに、影響をうけないで普通に暮らすということは……これまた……絶対無理なことなのだ。どれだけ俺が、この、板挟みになって、不愉快な思いをしてきたか。そして、精神が破壊されると書いたけど、 「意欲がなくなる」とか「楽しめなくなる」というような意識的な対処では、対処できない問題が、いろいろとしょうじるようになるのである。これもまた、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と普通に思っている人には、わからないことだ。どうしてわからないかと言えば、経験がないからだ。その人が、「俺だって騒音ぐらいあった」とか「俺だって苦労した」とか「俺だって困難があった」と言ったって、それは、……「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」……ような騒音であり、苦労であり、困難なのだ。「楽しい楽しいと言ったって、楽しくならない」状態をずっとずっとずっと、毎日毎日毎日、経験した人が、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」なんていうと思うか? 「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言えるぐらいの、精神状態ですごしているわけだろ。「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言えるぐらいの、精神状態ですごしてきたわけだろ。だから、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」というのは正しいとこころから思えるわけだろ。あるいは、気楽に思えるわけだろ。だから、ほかの人に「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と助言しても問題はないと思っているレベルなんだろ。「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と助言をしても問題がないと思っている人は、たいした困難を経験してないのである。ずっとやられ続けると、「楽しい楽しいと言っても楽しくならない」状態になるということが、わかってないだけなのである。「俺だってやられた」「俺だって、いじめられた」と言うかもしれないけど、わかってない時点で、たいした困難じゃないんだよ。一定のレベルというのがあって、一定のレベルを超えてやられ続けると、精神を病む。「楽しい」と感じられなくなる。基本的には、これは、能力じゃない。そして、能力だというのであれば、ぼくは、ヘビメタ騒音が鳴るまえは、きちがい親父に虐待されても、「楽しい」と感じる精神をもっていたのである。持続的に持っていたのである。ヘビメタ騒音なんだよ。きちがい兄貴によるヘビメタ騒音連続が問題なんだよ。うちの兄貴が、しつこく鳴らしたレベルでの騒音を経験してない人は、わかったようなことを、俺に言うな!!!

2025年2月2日日曜日

こっちの感じとしては不意打ちみたいな感じなんだよ

 ほんとうにヘビメタ騒音で、こっちが、相手に迷惑をかけてしまうことがしょうじる。これも、どれだけ気をつけていても、避けようがないのだ。きちがいヘビメタ騒音が続いていて、前の日、二時間ぐらいしか眠れないと、どうしても、どうしても、不注意になるときがあり、問題がしょうじる。放送委員会のときもそうだ。あれは、斎藤君に、迷惑をかけたと思う。すまん。どーーしても、ヘビメタ騒音で「へんなちょうし」になる。これが、へんな調子とか、不注意とかというような表現になるのだけど、対処できないことがある。迷惑をかけてしまうときがある。どーーしても、ヘビメタ騒音でしょうじる。ずっと、帰ってから鳴っているというのが、いろいろな意味で、精神を乱してしまうのだ。けど、ほかの人……迷惑をかけられる人にとってみれば、そんなことは関係がないことなんだよ。だから、きちがい兄貴が、ほんとうはでかい音で鳴らしているのに、普通の音で鳴らしていると思って、きちがい的な音を鳴らし続けると、いろいろな人間関係がダメになる。きちがい兄貴は、もちろん、自分がでかい音で鳴らしたいから、よそのうちでは絶対になってないようなでかい音で鳴らすだけなんだけど、その影響をうけてしまう。学校にいるときに、どうしても、ヘビメタ騒音の影響が出てしまう。そりゃ、ぼくから迷惑をかけられて、腹をたてている人にとっては、どうでもいいことだ。けど、ほんとうに、どーーしても、毎日ずっとやられていると、そうなってしまうのである。なんか、ミスに対して無防備になってしまうのだ。ヘビメタ騒音……自分がこの世で一番嫌いな音を、毎日毎日、あびせられていると、そうなる。どれだけそうならないようにしようと思っていても、そうなってしまうんだよな。こっちの感じとしては不意打ちみたいな感じなんだよ。ヘビメタ騒音で、ヘビメタ騒音中にものすごい気分になっているわけだし、ヘビメタ騒音が鳴り終わってからも、六時間ぐらいは眠れないから、こまるんだよ。どうしても、日中、無防備になってしまう時間がある。というか、はりつめて、なんとかやっているような状態なんだよ。眠たいのに、がまんして、はりつめてやっている状態なんだよ。ともかく、斎藤君には迷惑をかけた。ヘビメタ騒音が鳴っていなければ、普通に、放送機器の使い方を覚えて、普通にやっていたと思うんだよな。ともかく、日中つらかった。日中、気が抜ける状態になるときがあって、そのときは、ミスをした。そうすると、かかわっている人たちが迷惑をこうむるということになる。だから、そういう日は、帰ったあと、きちがい兄貴に、「鳴らすな」と、どなりこんで言うわけだけど、きちがいがきちがいの感覚で無視して鳴らす。俺が家のドアを開けるまえから、きちがい騒音が、最大限のボリュームで鳴っている。もう、空間自体が異常。普通の思考力がない状態なんだよな。パニック。それがずっと続くわけだから、やっぱり、日中……どれだけ気をつけていても、気が抜ける状態になるときがある。日中は、学校にいるわけだからヘビメタが鳴っているわけではない。けど、当時、もう、数百日はつもっていたのだから、くるしいんだよ。そして、斎藤君に迷惑をかけるまえの日も、がんがん鳴っていたので、くるしかったんだよ。前日に鳴っていたし、前日の数百日まえも鳴っていた。ともかく、つもってくるしい。一日のなかで、鳴っていない時間も、つらい。

毎日さらされて、不可避的にできなくなるということがわかっているこっち……の気分を害している

 きちがい兄貴が、どれだけ(こっちが)言っても、きちがい的な頻度で、きちがい的な時間の長さ、きちがい的な感覚で、きちがい騒音を鳴らし続けるので、俺が、ほかのやつらから、不可避的に誤解をされるのである。きちがいのことがわかってないやつらが、「エイリがちゃんと(お兄さんに)言わないのが悪い」と誤解する。しかも、こいつらは、実際にきちがい家族の騒音にやられたことがないから、きちがい家族の騒音についても、誤解をしているのである。実際にやられたら、こいつらだって、勉強することができなくなり、宿題を忘れることになるし、眠れなくなって遅刻することになる。それが、わからない。実際に、きちがい家族がいて、きちがい家族がきちがい感覚で鳴らしてしまう騒音に、ずっと毎日、さらされたことがないから、どれだけその騒音が「一日に」影響をあたえるかわからない。実際に、きちがい家族がいて、きちがい家族がきちがい感覚で鳴らしてしまう騒音に、ずっと毎日、さらされたことがないから、どれだけその騒音が「次の日に」影響をあたえるかわからない。わからないんだよね。そいつのうちには、きちがい家族がいないから、わからない。そいつのうちには、騒音タイプのきちがい家族がいて、実際に騒音タイプのきちがい家族が、きちがい的な騒音を、きちがい的なこだわりで鳴らしまくるということがないので、わからない。経験したことがないので、どれだけ、体(からだ)にひびくかわからない。経験したことがないので、どれだけ、こころに影響をあたえるかわからない。実際に、自分が毎日毎日、ずっとずっと、何年間も十数年間も、経験したことがないので、影響のでかさがわからない。影響のでかさがわからないから「そんなの関係、ない」と言う。影響のでかさがわからないから「そんなの影響、ない」と言う。影響のでかさがわからないから「過去は関係がない」と言う。そうやって、事情を知っているこっち……毎日さらされて、不可避的にできなくなるということがわかっているこっち……の気分を害していることに、気がつかない。これも、きちがい兄貴とおなじで、言ったって理解しないのである。くそ凡人の理解力は高くないので、理解しない。くそ凡人が、普通に……ごく普通に……侮辱してくる。それが毎日のことになる。きちがいヘビメタ騒音で、成績が悪くなり、できないことが増えると、くそ凡人の俺に対する態度が悪くなるのである。

きちがい兄貴が、毎日「俺がつぶれるようなこと」をしているのに、それに気がつかないのである。きちがい兄貴が気がつかない。そして、ほかの人も気がつかない。ほかの人は、きちがいヘビメタ騒音を鳴らして、ぼくに迷惑をかけているわけではない。それは、わかる。けど、ほかの人は、無理解ぶりを発揮して、ぼくが、ものすごく腹がたつことを言うのである。普通に言うのである。不可避的にできなくなるということがわかってない。きちがい兄貴のやり方が特殊だということがわかってない。普通の人は、あんなことはやらない。やろうと思ったって、できない。ところが、きちがい兄貴は、「すべての時間、自分が思った通りに鳴らすのに、すべての時間、自分が逸脱行為をしている気持ちがない」のである。きちがい兄貴にとって、普通の時間なのである。やっていいことをやっている時間のつもりなのである。これ、ほんとうは、一分だって、やっちゃいけないことなんだよ。

ともかく、普通の人は、自分が実際に経験したことがないので、不可避的にできなくなる」と言う部分がまったくわかってない。実際に、自分の人生のなかで、経験したことがないことなのだ。そりゃ、普通の人のまわりには、きちがい家族がいない。うちのきちがい兄貴とおなじタイプのきちがい兄貴がいない。そうなると、ほんとうに、自分は経験したことがないのである。けど、 うちのきちがい兄貴とおなじタイプのきちがい兄貴がいなくても、騒音ぐらいは、経験したことがある。だから、「自分だって騒音ぐらいあった」「自分だって、騒音ぐらい、経験した」ということを言うのである。けど、その騒音というのは、うちのきちがい兄貴とおなじタイプのきちがい家族による騒音ではないのである。だから、まったくの別物なのである。けど、普通の人は、騒音と、きちがい家族による騒音の区別がつかないので、まったく別物だとは認識しないのである。おなじものだと認識しているのである。あるいは、似たようなものだと認識しているのである。おなじようなものだ、あるいは、似たようなものだと思っている以上、自分が言っていることがまちがっているということに気がつかない。こいつら、猿並みの知能で、決めつけをして、俺をばかにしてくる。きちがいヘビメタが鳴っているから、そうなる。ほんとうに、きちがい兄貴のやり方が、普通じゃないのである。だから、普通の人は、わからない。普通の人は、信じない。普通の人にどれだけ俺が説明しても、普通の人は、普通の騒音が鳴っているのと変わらないと思って、俺の説明を聞くのだから、ズレがある。けど、ズレがあったとしても、それは、普通の人たちにとっては、関係がないことなのである。一生涯、きちがい兄貴タイプのきちがい家族による騒音を経験したことがないので、あるいは、経験することがないので、ちがいは、一生涯、わからないのである。一生涯、きちがい兄貴タイプのきちがい家族による騒音と、普通の騒音の区別がつかないまま、暮らすのである。だから、俺が言っていることを、一生涯理解しないのである。実際に自分が経験してないので、当然、きちがい兄貴タイプのきちがい家族による騒音が自分の人生に影響をあたえることがないのである。自分の人生に(多少の)影響をあたえたのは、普通の騒音なのである。きちがい兄貴の騒音は、普通の騒音とは、ぜんぜんちがうのである。ところが、普通の人は、俺が、フォークギターぐらいの騒音、三味線ぐらいの騒音で、がたがた、言っていると思っているのである。「できなくなる」と言っていると思っているのである。「できなくなる」と言っているのは俺で、できなくなるわけがないのに、できなくなると(俺が)言い訳をしていると思っているのが、普通の人だ。

2025年2月1日土曜日

他人は、理解しない。これ、もう、判で押したように理解しない

いやー。たとえば、自分が、相手に好意を持っていて、話したいことがあり、そのことについて話そうとしたら、相手が、そっけない反応をした場合、腹がたつという気持はわからないではない。けど、俺は、プログラムのことについてはともかく、プログラマー・SE業界のことなんて知らないよ。『●●●●●●●●●●●』は買ったことがあるし、『●●●●●●●●●●●●●●●●』はおもしろなと思ったけど、業界のことなんか話されたって、わかるわけがないだろ。そして、たとえば、ぼくは、何度も何度も、メーリングリストのメールに、「ヘビメタ騒音で働けなくなった」と書いたことがあるんだぞ。読んでないほうがおかしい。Hさんは、『あいからはじまるローマ字入力』のサイトを、ウエブサイトではなくて、プログラムだと思っていたふしがあるし、ぼくが、実際にプログラムを書いたところもある。ようするに、わりとめんどうな思い込みが、Hさん側にあり、職業的なプログラマーではないということを、伝えにくかった。そして、当時、『あいからはじまるローマ字入力』を作ってみたものの、販売スタンドがなく、どうやって売ろうか迷っていた時期なのである。なので、売るつもりで作ったけど、この時点で、例えば販売実績がないのだから、プロではなかったのである。そして、わざわざ、相手(Hさん)の間違いを指摘するのは、気がひけるし、わざわざ、自分が無職であると上書きするのがいやだったのである。ともかく、「せっかく、業界のことについて話そう思っていたのに、そうですかとそっけない返事を食らって、あたまにきた」という気持はわかるけど、「(職業的に)なにをしていたのか」ということについて話したくないんだよ。おまえが、勝手に勘違いをしただけだろ。俺が、プロのプログラマーをやっていたことがあるとうそをついたわけじゃなくて、プロのプログラマーだと思った人(Hさん)の誤認を訂正しなかっただけなんだよ。俺が言ったわけじゃないんだよ。訂正する義務はないんだぞ。間違いを指摘するのは、かどがたつし、わざわさ訂正するために、その当時も無職であるということを、書くのは、いやだったのである。

ともかく、こんなことは、きちがい兄貴が、きちがい的な感覚で、ずっとずっと毎日毎日、『よそのうちでは絶対にありえない音』でヘビメタを鳴らさなければなかったことなんだよ。きちがい兄貴に成り立っている、きちがい感覚なんて、ほかの人に言ったって、わかるわけがないだろ。それは、きちがい兄貴だって、『親父のハンダゴテ事件』で経験しているはずだ。兄貴にわかるように、わざわざ、俺と親父の間にあった事件ではなくて、兄貴と親父の間にあった事件を説明しているんだよ。兄貴は、親父の態度で、非常にいやな思いをしたんだよ。おやじの感覚をほかの人に説明しても、ほかの人が理解してくれないということを、経験したんだよ。俺は、親父にもやられているけど、きちがい兄貴も、やられている。きちがい兄貴のほうが、回数は多いのである。うちのなかの人の『きちがい感覚』がほかの人には、わからないのである。ちゃんと説明したって、つたわらないのである。きちがい家族がもたらすことというのは、きちがい家族がもたらことだけで、終わるわけじゃないのである。他人が理解しないということがついてまわるのである。きちがい兄貴はきちがい親父と同様の頭をもつ人間なので、どれだけ言ったってわからないと思うけど、いちおう書いておく。きちがい兄貴のヘビメタ騒音は、きちがい親父のハンダゴテとおなじなんだよ。きちがいヘビメタ騒音事件は、きちがいハンダゴテ事件とおなじなんだよ。おなじ構造が成り立っているんだよ。他人は、理解しない。これ、もう、判で押したように理解しない。そうすると、きちがい家族にやられた人間が、よその人からも、やられるようになるのである。きらわれ、だらしない人間だと思われ、説明力がない人間だと思われるのである。よその人は、誤解をしているのだけど、きちがい家族側の人間があまりにも、へんなので、よその人は、自分が誤解をしているとは思わないのである。そして、実際に、きちがい家族にやられたことがないので、影響のでかさがわからない。きちがい家族にやられるということは、たまたまあった人にやられるのとはちがうんだよ。ともかく、きちがい家族と一緒にすんだことがない人は、きちがい家族の影響について、かならず、誤解をするのである。きちがい家族と一緒に住んだことがない人は、きちがい家族の行動について、かならず、誤解をするのである。しかも、訂正されることがないのである。ほんとうに、それこそ、一生涯、自分が(それについて)誤解をしたとは思わないで、暮らすことになる。ようするに、誤解をしたとは思ってない状態で生きて、死ぬ。その場合、その人にとっては、きちがい家族がへんな人ではなくて、きちがい家族にやられた人が、へんな人だということになってしまう。「ちゃんと説明をすれば(お兄さんやお父さんは)わかってくれるのに、(エイリの)説明がへたくそだから、家族の人(お兄さんやお父さんは)がわかってくれなかった」という解釈のままなんだよ。「ちゃんと説明をすればわかってくれる」という前提がまちがっているのに、一生涯、その前提のまちがい気がつくことがない。そして、その人……きちがい家族について誤解をする人にとってみれば、そんなことはどうでもいいことなのである。きちがい家族にやられた人は、一生涯、誤解されたままだ。

ぜーーんぜん、ちがうんだよ。ぜーーんぜん、ちがうの。

 ともかく、ヘビメタ騒音で働けない状態になったのだけど、ヘビメタ騒音で働けない状態になるということについて、無理解な人……ヘビメタ騒音が鳴ってたって働けるだろうと思うようなバカなやつ……には、ヘビメタ騒音で働けなくなったということを言っても、認めないのである。働けなくなるということを認めない。「働けるんじゃないか」と思っているわけ。ぜーーんぜん、ちがうんだよ。ぜーーんぜん、ちがうの。六年以上、あの状態が、毎日続いたら、だれだって働けなくなるんだよ。必然的に働けなくなるんだよ。それが、わからない。俺は、ちゃんと説明したぞ。おまえら(くそ凡人)の理解力がないから、わからないだけだろ。おまえら(くそ凡人)の想像力がないからわからないだけだろ。おまえら(くそ凡人)がバカだから、「自分だったら、働ける」「自分だったら、騒音の影響をうけない」と思っただけだろ。ちがうんだよ。おまえら(くそ凡人)がバカだから「そんなのたいした、こと、ない」「自分だって騒音ぐらいあった」と思っただけだろ。ちがうんだよ!!! ちがうんだよ!!! おまえら、ほんとうにゆるさない。ゆるさんぞ!!!!

バカなのか、経験がないからなのかは、よくわからないけど、あるいは両方なのかもしれないけど、ともかく、働けなくなる。普通に生活できなくなる。仕事なんて無理な状態になる。それがわかってないだけの話なんだよ。えらそうにするな。

 

きちがい兄貴が、普通の人間が考えられないことをするから……俺が誤解をされる。普通の人間から誤解をされる。これ、ほんとうに、どれだけの溝があるか……。

あの頻度

 これ、ほんとうに、きちがいヘビメタで働けなくなったのに、俺が、きちがいヘビメタで働けなくなったということを、認めないやつらがいたんだよなぁ。まあ、当時は、働くと言えば、通勤して働かなければならなかったので、通勤して働けなくなるという意味だ。けど、これ、みんな、だれだって、小学六年生のころから、高校3年生まで、ずっと毎日、同じ量の騒音にさらされたら、働けなくなるのに、それがわかってないんだよな。どれだけの意地で、俺が、小学六年生から、高校三年生まで、通学してきたか、わかってないなぁ。わかってない。働けなくなる必然性が、わかってない。おまえらだって、みんなみんな、自分のきらいな音があのレベルで、あの頻度で鳴っていたら、睡眠回路を破壊されて、働けなくなる。通勤通学できなくなる。みんな、できなくなる。

そして、たとえば、働けないとか、働いていないということは、言いにくいことなんだよな。これも、きちがいヘビメタみたいな「ほかの人が理解できない理由で」働けなくなった人じゃないとわからないんだよな。まあ、ほかの人が理解できる理由で働けなくなった人も、自分が無職だとは、言いにくいだろう。


毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。