おぎゃーと、生まれた時から、人によって、条件がちがう。
当然、生まれながらに、ネガティブな条件をかかえてしまう人がいる。
多くのネガティブな条件というのは、その人の思いとは、関係なく発生したネガティブな条件なのである。
ところが、精神世界の人は「ネガティブな思いがネガティブな出来事を発生させる」と思っているので、実際に、だれかが、ネガティブなことを経験したら、その人は、その経験のまえに、ネガティブなことを考えいる「はずだ」と思ってしまう。
「はずだ」というのが、とれて「ネガティブなことを考えた」と断定してしまうことが、多い。
そして、精神世界の人たちというのは、一般論として、精神世界の理論を主張するので、当然、対象は、自分だけではなくて他人を含んでいる。
最初から、(条件が悪い)他人の人生に対して、たいへんネガティブな見解をもっているのである。
他人の人生について、自分のつたない考えで「これはこうだ」と断定的に決めつけてしまう。もともと、そういう性格の人たちだ。
そして、この人たちは、条件を徹底的に無視する。
思いのほうが「さき」で、条件が「あと」なのだ。思いのほうが「さき」で、出来事のほうが「あと」なのだ。この順番が、くつがえることがないのである。
ところが、実際には、ネガティブな条件があり、ネガティブな条件のもとに、ネガティブな出来事が発生するのである。
もちろん、ネガティブな条件と言っても、さまざまな条件があるので、かならず、ネガティブな条件が、ネガティブな出来事を引き起こすわけではない。
しかし、ネガティブな条件が成り立っていると、ネガティブな条件が成り立っているので、ネガティブなことが発生しやすくなるのである。
あきらかに、確率があがる。
たとえば、きちがい的な親のもとに生まれた子どもは、不幸な出来事を体験する確率が非常に高いのである。
その子どもが、言葉を学習する前から、「自分の親はきちがいなので、自分を攻撃してくる」と思ったわけではない。
きちがい的な親が、きちがい的な攻撃をしたので、「自分の親はきちがいなので、自分を攻撃してくる」と思うようになったのだ。これも、思いが「あと」なのだ。
けど、精神世界の人は、思いが「さき」だと思っているので、思いが「あと」だということを認めない。
きちがい的な親というのは、きちがい的な理由で、怒り狂うのである。そのひとつに、「思い通りではない」というのがある。自分の不満があるのである。自分のなかにストスレが発生しているのである。
そうなると、まわりの人に当たり散らすようになる。会社で押さえつけられている人も、家に帰れば、一家の大黒柱なので、たいへん相対的な地位が高い。ようするに、自分の怒りをまわりに発散できる自由があるのである。
たいへん、やりやすい状態なのである。
* * *
いっぱいいっぱいにストスレをためている人間は、ものすごく小さなことでも怒り狂うようになる。こどもが、座っていいところに座っていても「なんだ!そんなところに座って!!」と発狂する。
コタツの前に座っていたって、テーブルの前に座っていたって、そのとき、怒り狂いたいストレスがある人間は、それを理由にして、怒り狂うのである。座っていたって、立っていたって、横になっていたって、そのとき、ストレスを発散したければ、座っているいるということに文句をつけ、立っているということこ文句をつけ、横になっているということに文句をつけるのだ。
子どもが病気で横になっていても、「なんだ、そんなところで横になって!」と怒り狂うことが可能なのである。布団のなかで横になっているのだから、まったく問題がないことなのだ。
これは、子どもが横になっているということが、自分の思い通りではないことだから、怒り狂ったということだ。
子どもが風邪をひいて、横になっていたとする。妻が子どもの看病をしていたとする。そうなると、自分の思い通りではないのだ。妻は、自分のために、てきぱきと動いてくれなければならないのだ。それが、子どもの横にいて、子どもの看病をしているというところを、見ただけで、発狂してしまう。
ほんとうは、自分の世話をするべき妻が……そのとき、てきぱきと自分の世話をするべき妻が、自分の世話をしていないのだから、発狂するのだ。妻が自分の世話をしてくれないのは、熱を出して横になっている子どものせいだから、子どもに向かって「なんだ!!そんなところに寝て!!」と発狂するのだ。子どもを対象にして、怒り狂う。
これは、まだ、理由がわかるレベルの話だ。理由なんてなく、ともかく、自分の思い通りではないから、発狂するのだ。ある種のきちがい的な親というのは、ただをこねる子どものようなところがある。
自分の内部の世界と、自分の外部の世界が一致していないと感じた瞬間に、怒り狂う。自分の内部の世界が、自分の外部の世界と、詳細な部分まで、気分的に一致していなければ、発狂する。瞬間的に、怒り狂って、だだをこねる。
この場合、子どもの思いが先で、きちがい的な親が怒り狂うのが後だと考えるのは、これまた、妄想的な考え方なのである。しかし、精神世界の人は、「子どもの思いが、きちがい的な親をして、子どもにむかって、怒りを爆発させる」ということになってしまう。
「子どもが、『きちがい的な親がおこる』と思ったから、思ったことが現実化したのだ」と思うのだ。精神世界の人は、そのように現実を解釈する。
けど、この現実解釈が、まちがっている。
* * *
子どもの思いとは関係なく、きちがい的な親が、きちがい的な親の内部にある理由で、怒り狂ったのだ。
子どもが「ここに寝ていると、きちがい的な親が、ここに寝ているということについて、怒り狂う」と「さき」に思ったから、その思いに「つられて」きちがい的な親が、「子どもが、そこに寝ているということ」について、怒り狂ったわけではないのだ。
「思い」についても、一〇〇%詐欺が成り立っている。そして、思霊の力によって、そうなったわけではないのに、思霊の力によってそうなったと考えてしまうのだ……。
精神世界の人は、そのように考えてしまう。
精神世界の人は「思ったあと」と「思ったから」の区別をしていない。「思ったあと」になにかが、発生したら、それは、「思う」ことによって生じた思霊の力によって、発生したのだと思ってしまう。「思ったから、そうなった」と精神世界の人は考えてしまう。
思霊の力というのは、思ったことによってしょうじる、なにか神秘的な力のことだ。思うことによって、なにか神秘的な力が、その思った内容を現実化してしまうのだという考え方にとりつかれている。
そのわりには、普段の生活のなかでは、現実的な問題に関しては、思霊の力に頼らず、行動して現実的な問題を解決しようとするのだ。これも、言霊とおなじで矛盾した態度だ。