気にしないようにして諦めたら、よくなった……と言う話があるとする。たとえば、ガンになったけど、将来のことを気にしないであきらめたら、ガンが治ったという話などだ。「気にしないようにして、あきらめたら、よくなった」という抽象化された話がある。とりあえず、法則性がありそうな話だ。その例として、「たとえば、ガンになった人がいて、ガンになった人が、もうガンでもいいやとあきめたら、逆に治ってしまった」という例をあげる。こういう話になる。ライフハック(あきらめればいい)という話があって、その話の例として、「ガンの例」が語られるということだ。けど、法則性はないのである。たとえば、別の人は、おなじように、「気にしないようにして、あきらめたら、そのまま悪化して、死んでしまった」ということだってあるのだ。ようするに、あきらめれば、かならず、よくなるわけではないのである。あきらめるということが、かならず、よい結果をもたらすわけではないのだけど、一度、法則性があるような抽象的な話をして、そのあと、具体例をあげるので、どんな場合にでも、成り立つような「感じ」がしてしまうのだ。けど、法則性なんてないから、ちがう結果になることだってある。あきらめる……ということをすれば、(本当は望んでいた結果)が手に入るわけではないのである。ところが、あきらめることで、ほんとうに望んでいた結果が手に入るようなことを……言う。あきらめる……という言葉も、抽象度が高い言葉なのである。あきらめて、(本当はほしい結果を)手に入れようとしている状態は、千差万別だ。ようするに、人によって、ちがうのである。具体的な場面で、具体的な条件が成り立っているのである。そのこと……「あきらめることで、本当に望んでいることが手に入るのではないか……。なら、あきらめてみようかな」と思う場面がちがうのである。その人がそれまでやってきたことや、その人がそれまで経験したことや、病気の状態だってちがうのである。けど、ちがうのだけど、あきらめることでどうにかなるような雰囲気をあたえるのである。これは、雰囲気だ。抽象化と疑似法則化(ニセ法則化)によって、あたかも、その手法が役に立つような「イメージ」をあたえるのである。けど、実際に、個人がそれを行う場面というは、個人ごとにちがう。ぜんぜんちがう。おなじ人だって、そのときの状態がちがえば、ちがうのである。なので、ほんとうは、法則化できないことについて、法則化して、言っているにすぎないのである。場面場面で、状態がちがう。場面場面で、条件がちがう。なので、抽象的な意味で「あきらめる」ということを選択しても、それぞれ、ちがったものを手に入れることになるのである。何度も言うけど、法則性なんてない。
「あきらめる」といこうとについて語ってきたけど、「てばなす」という言葉も、よく使われる言葉だ。「てばなす」というのも、おなじようなニセ法則を説明するときによく使われる言葉だということは、おぼえておいたほうがいい。
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付け足して言っておくと、うまくいかなかった場合は、「ほんとうにあきらめたわけじゃないから、だめなんだ」ということになるのである。これは、こころのブロックとおなじで、「あきらめたつもりになったのだけど、本当は、あきらめてないから、だめなんだ」というこになる。あきらめたつもりになったのだけど、あきらめてない部分が残っていたから、だめだったんだ」ということになる。これも、言ったもの勝ちなんだよね。ほんとうに、ひどい世の中だな。いい結果が出れば、ほんとうにあきらめたということになり、悪い結果が出れば「本当にはあきらめきったわけじゃなかったんだ」ということになるのである。顕在意識とか潜在意識という言葉を使うなら、「顕在意識では、あきらめたつもりになったけど、潜在意識ではあきらめてなかったから、だめだったんだ。潜在意識のレベルでもあきらめないとだめだ。潜在意識のレベルであきらめないと、ほんとうにはあ決めたとは言えない」……というようなことを言えば、ニセ法則であることがばれないですむのだ。こいつら、ほんとうに「悪」だなぁ。「ああ言えば、こう言う」タイプの詐欺師がよく使う手だよ。あとだしで、「それじゃだめだ」と言い出す。