害虫の攻撃を、わらってうけながすと、こころがどんどん、不健康になるのである。なんとも言えない憂鬱な感情が、こころの奥底につもっていく。
なにも感じないふりをして、害虫の攻撃をうけながしているときも、害虫が言うことについて、反論をするときも、なんとも言えない憂鬱な感情が、こころの奥底につもっていく。帰れば、きちがいが鳴らしている。どうして、ぼくが自分の兄のことを、きちがいだと言うかというと、普通の人が気にしてやらないことを、まったく気にしないでやりきるからだ。普通の人なら、ほかの人に配慮して、ああいう音で鳴らそうと、そもそも、思わない。
ところが、きちがい兄貴はきちがいだから、ほかの人に迷惑がかかるから、こういうでかい音で鳴らすのは、やめようとは思わずに、ガンガン鳴らす。きちがい親父もきちがい兄貴もおなじで、自分がやっていることに、ちょっとでも、文句を言われたら、発狂する。
発狂して、はねのけたら、「ない」ことになってしまう。
「言われなかった」ということになってしまう。「相手が言っている内容」をやってないと思ってしまう。きちがい的な意地で、その迷惑行為を続行して、「相手が、自分の行為でこまっている」ということを、完全に忘れてしまう。
これ、いちおう、文章として、忘れてしまうと書いたけど、そもそも、認識してないのである。
これ、自分が、意地になって、相手の言っていることを否定して、そのあともやりきったという、認識がないのである。
しかも、そのあと、やり続けているわけだけど、やり続けているときも、相手がこまっているということは、まったく、言われなかったからわからない状態に、復帰しいるのである。
どれだけ、何回言っても、言われるたびに「まったく、言われなかったからわからない状態に、復帰」してしまうのだから、何回言われても、ゼロ回しか言われなかったということになってしまうのである。
だから、外側から見ると「しらばっくれて」鳴らしているということになる。
実際、普通の人のようには、相手が言ったことを認識してないのである。
こういう、認識のズレがある。