笑顔が生活水準をあげるかどうかということについて書いたけど、もうちょっと付け足しておく。
笑顔が生活水準をあげる原因ではなくて、生まれ育った家での、親の愛情や親の収入と貯蓄が、卒業をしたあとの、生活水準をあげる(ほんとうの)原因だったとする。
親の愛情と書いたけど、愛情がある行為を含んでいる。だって、愛情がある行為がなければ、愛情があるかどうかわからないでしょ。なので、愛情というと、親側の感情のことを意味しているわけだけど、実際に、愛情があらわれる行為があったとする。
その場合、心情的な愛情遺産というものがあり、物事に積極的になれるとする。そして、愛情資産の結果、笑っていたと考えることもできる。
手短に言うと、愛情のある親との生活の中で、正のストロークをうけてきたので、笑顔でいられる状態だったというわけだ。
だから、このあいだも書いたけど、笑顔自体は、単なるサインである可能性がある。
ぼくが言いたいことは、無理やりに笑顔を作れば、生活水準があがるという考え方は、まちがっているのではないかということだ。
笑顔が原因なら、笑顔を作るだけで、生活水準があがるということになる。
けど、親の愛情行為や親の収入と貯蓄が原因なら、笑顔を作ることで、生活水準はあがらないということになる。
そして、笑顔でさえいれば、生活水準があがるという常識?が正しいこととして、流通するという問題がある。
「笑顔じゃないやつが悪いんだ」ということになるからだ。あるいは、「笑顔を作らなかったやつの自己責任だ」ということになるからだ。
しかし、それは、笑顔を作れば生活水準があがるという考え方自体がまちがっているので、「笑顔じゃないやつが悪いんだ」という考え方も「笑顔を作らなかったやつの自己責任だ」という考え方も、まちがった考え方だということになる。
もうすでに書いたけど、ほんとうの笑顔も、作った笑顔も同じ効果があると考えてしまうことにも、問題がある。
ほんとうに楽しいと感じる理由がある状態で笑ったのと、ほんとうは、つらくてつらくてたまらないのに、笑顔を作る必要があると思って、笑顔を作ったのとでは、ぜんぜん、全体感情がちがうのだ。
おなじであるはずがない。
「なんでこういうことに無頓着なんだ」とぼくは、言いたい。
うんと手短に言えば、マイナスの環境で育った人間は、かりに、無理やり笑ったとしても、まったく生活水準があがらないのである。
どうしてかというと、生活水準があがった原因は、笑顔ではなくて、他のものであるからだ。無理やり笑っても、生活水準があがらないとしたら、「笑顔じゃないやつが悪いんだ」「笑顔を作らなかったやつの自己責任だ」という発言は、単なる攻撃でしかない。