きちがい兄貴がやったことは、ほんとうにひどいことで、どれだけがんばっても頑張っても、生活がめちゃくちゃになる。人生がめちゃくちゃになる。ほかの人には、うちの兄貴のような気ちがいはいない。だから、基本的には、わからない。やられたことがないという意味で、わからないし、想像しようにも、きちがい兄貴がいないのだから、想像できない部分がある。まあ、ともかく、けた外れに非常識なやつだから……きちがい兄貴は、けた外れに非常識なやつだから、……ほんとうにほかの人が、ごく自然に、誤解をするのである。きちがいヘビメタの効果に関しても、やられたことがない人は……つまり、ぼくとおなじように、自分がこの世で一番嫌いな音を、至近距離で、一日に何時間も何時間も……やられたことがない人は、それが、持つ意味がわからない。「鳴り終わったら眠れるだろ」と言ってしまうあたり、無理解ぶりがよくわかる。一日に何時間も何時間もと書いたけど、きちがい兄貴が休みの日は、一日に十数時間になってしまうのだ。ほんとうなら、平日の(きちがいヘビメタによる)勉強の遅れを取り戻したい、休日に、逆に、きちがいヘビメタ騒音・持続時間が増えてしまうというのは、いただけない。これも、けっこう、生活の中で、影響を与えることなんだよ。一年、二年と、年数が増えれば増えるほど、ほかの人には、絶対にわからない、いろいろなところに、いろいろな影響が出る。ところが、「騒音なんて、自分だってあった」と言っている人は、理解してないんだよ。おなじようなレベルの騒音で、おなじような量を浴びているわけではないということがわかってない。ぼくと、おなじ騒音を浴びた人が、言わないことを言っているのだから、理解してないのがわかる。こういう、くそばかが、どれだけぼくムカつかせるかと言うことも、こういう、くそばかは理解しない。ほんとうにまったく、くそばかだと思うよ。きちがい兄貴にやられて、くそばかにばかにされる人生だった。ほんとうに、全部が全部、そういうことになってしまう。きちがい兄貴のやり方と言うのは、そういうやり方なんだよ。みんなが誤解するやり方なんだよ。まあ、他の部分ではばかではない人も、普通に、誤解をする。普通の人が、みんなみんな、普通に誤解する騒音が、きちがい家族による、きちがい騒音だ。やり方がちがうからね。そして、ほんとうに、やったと思ってないのだ。あれだけこだわって、こっちがどれだけ、言っても、頑固に鳴らしたのに、本人は、「鳴らしたつもりがない」のだ。これが、きちがいでなくてなんだ?
たとえば、「騒音なんて、自分だってあった」と言っている人は、俺のことを、せめる立場でその言葉を発しているのである。同質、同量の騒音を浴びた人は……同質、同量、同期間のきちがい生活騒音を浴びた人は、そんなことを言える立場にはいないのである。そんなことを言えるわけがないのである。 同質、同量、同期間のきちがい生活騒音を浴びた人は、ぼくとおなじ立場になっている。そんなことが、言えるわけがないだろ。俺と同じ立場になってない人なら、俺と同質、同量、同期間のきちがい生活騒音を浴びたことがない人なんだよ。
「そんなのは関係、ない」「そんなのは、影響、ない」「鳴り終わったら影響はない」「過去は関係がない」「こだわっているからダメなんだ」と言っているやつらは、同様の理由で、まちがっている。 こいつらは、きちがいではないけど、ばかなんだよ。おおばかだ。こいつらも、自分が言っていることが正しくないということが、わからないやつらだ。説明したってわからないのである。たぶん、経験がないからわからないのだろう。そして、常識的黄な人たちなのだろう。常識的な人たちだから、常識的な騒音しか、経験したことがないのである。常識的な人たちだから、常識的な家族に囲まれて生活してきたのである。非常識な家族がやることについて、まったく、まったく無知なのである。実際にやられたことがないから、まったくまったくわからないのである。実際に、一緒に、ずっとずっと、成人するまで、すごしたことがないから、まったく、まったくわかってないのである。わかってないから言えることだということも、わかってないのである。こいつらは、すでにヘビメタ騒音にやられたぼくよりも、優位な立場に立っていることが多い。「立場に立つ」は二重表現なので、避けてきたけど、一般的に使われるので、使うことにする。まあ、優位な側に立っているのである。どうして、すでにやられたぼくより優位な側に立っているかと言うと、きちがい家族に、十数年間にわたってやられるということがなかったから、普通に生活ができて、普通の睡眠力と、普通の体力を維持できたのだ。普通の睡眠力と、普通の体力を維持できる状態で生活していたので、その時点で、ぼくよりも、優位な側に立っていたのだ。優位な側に立てば、まちがったことを言っても、ゆるされると思うな!
「立場に立つ」は「電流を流す」のように、二重表現ではないという意見もある。「立場に立つ」のほうが「側に立つ」や「立場になる」よりも、使いやすいときがある。