ほんとうに、ヘビメタ騒音でしょうじた不利な状態というものは、ほかの人には、絶対にわからないことなんだよなぁ。
経験がない人にはわからない。
不可避的に、猛烈に、不利な状態になるのに、不利な状態になるということを、普通の人が認めない。
そりゃ、十数年間も毎日やられたら、通勤できないからだになるでしょ。なって当然だ。けど、これも、ほかの人には、まったくわからないことだ。だから、彼らは必然的に、ぼくのことを、あまく見る。
十数年間どころか、七年間でも……六年と半年間でも……よく耐えたと思うよ。
この、六年と半年間で、ぼくは、通勤する能力をうしなった。普通の時間に起きて行動する能力をうしなった。これ、不可避だ。やられちゃったら不可避だ。みんな、あまく見ている。この状態をあまく見ている。
どれだけの症状が不可避的に生じるか、まったくわかってない。
けど、この世は、基本的につらい世の中なのである。だから、みんな、「つらさ」は経験している。けど、このつらさは経験してない。
つらさには、グレードがある。けど、「俺だってつらい」「私だってつらい」と言えば、グレードの部分<<
グレードのちがいが、ふっとぶ。
おなじつらさということになってしまうのだ。
質のちがいはでかいのに、無視される。そのひとことで、おなじ分量のおなじつらさを経験したことになってしまう。
もちろん、これは、まちがいだ。きちがい兄貴……という特殊な条件。きちがいが鳴らす騒音という特殊な条件……。この条件がないなら、それはちがうことが発生したということだ。
そして、ちがうことは質のちがうつらさをもたらすのである。
当然、からだに与える影響だってちがう。
けど、ほかの人は、「自分だってつらいことがあった」という言葉で、きちがい家族による騒音から発生するつらさを、おなじつらさだと「仮定」してしまう。これは、仮定なんだけど、本人が仮定だと気がつかないレベルの無意識的な仮定だ。
本人のなかでは、仮定だと思われてないのである。真実だとか、事実だと思われているのである。
けど、その人たちは、きちがい家族と一緒に暮らしたことがない。きちがい家族がどういう、理屈で、どういう感覚で、どういう認識で、きちがい的な騒音をおしつけてくるか、まったく理解してない。
わかってない。
きちがい的な騒音というのは、よそのうちでは、絶対にありえないような騒音だ。よそのうちにも、家族がいる場合が多いけど、よそのうちの家族は、そんな音で鳴らさないのである。
普通の人は「そういう音で鳴らすと迷惑だ」ということがわかっているから、最初から、そういう音で鳴らさないのである。
これが、すっぽぬけているから、うちの兄貴は、きちがいなのである。
すっぽぬけているきちがいが鳴らす音が、どれだけ迷惑か、普通の人はわかってない。やられることがないからだ。そして、その鳴らす人が家族であるということがどれだけ影響を及ぼすか、普通の人は、まったくわかってない。その人たちの家族が、きちがい家族ではないからだ。
これ、盲点なんだよ。その騒音を鳴らす人間が家族の一員だということが、盲点になっている。
きちがい親父は親権者なんだけど、親権者の協力がないと、「うったえる」ということも事実上できない。子供だったからな。
俺が小学六年生のとき、きちがい親父に、法的に(兄貴を)うったえるということを言ったら、「そんなこと、できるわけないだろ」と言って、相手にしてくれなかった。じゃあ、親父が、兄貴に注意するかというと、そうではないんだよ。
当時、きちがい親父は、無意識的に、きちがい兄貴に文句を言えない状態になってたんだよな。これも、盲点なんだよな。
『そんなに、子どもを虐待していたような親なら、子どもに文句を言って当然だ。そんなのは、おかしい。嘘だ』と普通の人は考えてしまう。まあ、普通の人と言っても、俺が書いたことを読んで……親父が……兄貴と俺を虐待していたということを知っている人たちが、そのように考えてしまうということだけどな。
ようするに、「お父さんが、お兄さんに注意をしないのはおかしい。だから、エイリさんが言っていることは嘘だ」と考えてしまう。
こういうところにも、ズレがあるんだよな。
普通の人は、きちがい家族がどういうふうにくるっているのか、まったくわかってないのだ。
きちがい兄貴やきちがい親父は、普通の人をだますつもりなんてないんだよ。
けど、きちがい兄貴やきちがい親父が普通に、行動すると、普通の人がだまされてしまう。「そんなのはないから……ない」と考えてしまう。
あまりにも大きなズレがあるので他の人が、嘘だと思ってしまうのだ。
これが、どれだけ迷惑なことか、ほかの人は、まったくわかってない。
みんな、まるで、わかってないんだよな。