たとえばの話なんだけど……たとえば、三メートル先に落とし穴が見えたらどうする?
落とし穴があるということを認識したということだ。
落とし穴があることを認識したら、避けるだろ。
どうして、落とし穴を避けるのか?
落とし穴の上を歩こうとしたら、落とし穴に落ちるということが、想像できるからだろ。落とし穴の上を歩こうとしたら、落とし穴に落ちるという考え方は、ネガティブな考え方なんだよ。落とし穴に落ちると、こまると心配するのは、当然のことだ。落とし穴に落ちるとこまるので、落とし穴を回避しようとするわけだ。
ちがうか?
落とし穴が見えているけど、落とし穴がないと思って、前に進むとどうなるか?
落とし穴に落ちてしまう。からだが物理法則にしたがって、落とし穴に落ちてしまう。
自分が落とし穴を気にしていなければ、落ちなのか?
いや、自分が落とし穴を、気にしていなくても、落ちる。
精神世界の人は、すべては自分の受け止め方の問題だと言い出して、あたかも、落とし穴を無視すれば……つまり、落とし穴を落とし穴だと認識しないようすれば……落とし穴に落ちないということを主張する。
さらに、受け止め方の問題ならば、落ちたところで、落ちたということを(そのまま)受け止めればいいということになる。
しかし、落ちたことで、足の骨をおっていたら、足がいたくなる。
これも、人間の身体をもっていれば当然のことだ。もちろん、足がおれていても、痛さを感じない人はいる。なら、痛さを感じるか、感じないかの問題かというと、そうではない。
どうしてかというと、足がおれてしまったら、穴から出ることが容易ではなくなるからだ。現実世界で、足をおってしまったら、歩きにくくなるのだ。ジャンプもしにくくなる。
『影響をうけないぞ』と思ったって、影響がある。
『受け止め方の問題だから、こまる必要はない。ネガティブな受け止め方をかえればいいんだ』と思ったって、実際に、穴から脱出できなければ、こまるだろ。
いつまで、その穴に入っているんだ?
腹が減ったり、体が衰弱したりする。その他の生理現象がしょうじる。
たとえ、『出来事は、中立的に生起しているだけだから、こまっているという受け止め方をかえればいいんだ』と思ったって、こまるだろ。
『出来事は、中立的に生起しているだけだから、こまると思わなければ、こまらない』と思ったって、こまるだろ。
こういうことを、無視して、出来事は中立的に生起しているだけなんだと言い張るのである。
「本来、中立的な出来事に、ネガティブな意味をあたえているのは本人自身なんだ」と言ったところで、人間の身体をもって生まれてきて、人間の身体をもって生きているということを考えれば、痛いものは、痛いし、かゆいものはかゆいのだ。
自分の意思で動く手足があったほうが、自分の意思で動かせない手足があるよりも、行動の範囲が広がる。
穴から抜け出す場合だって、身体的な条件が、穴から抜け出せるかどうかに影響をあたえる。
そういう現実は、身体をもつ人間にとってみれば、中立的に生起しているわけではないのである。
* * *
きちがい的なヘビメタ騒音にたたられたら、不愉快なのである。俺は、ヘビメタという音楽がきらいなので……もう、ほんとうに、めちゃくちゃにきらいなので、ヘビメタを大音響で聞かされるのはいやなのである。
けど、きちがい兄貴は、おなじヘビメタを、大音響で鳴らしたいのである。大音響で聴くことに快感を覚えているのである。だから、人間は、ひとつの刺激に対して、ちがう反応があるということは、認める。
けど、それは、すでに、ヘビメタの音がきらいな俺が、きちがい兄貴の感覚にあわせて、好きになればいいという問題ではないのだ。
ともかく、人間の身体をもっている以上、本来中立的な出来事に意味合いをあたえているのは本人だから、本人が、意味合いをかえればいいという話ではない。
どうしてかというと、この話は、条件を無視した話とおなじで、本人が、自由に意味合いをかえることができるということになっているからだ。
トリック好きな詐欺師の世界では、本人が自由に意味合いをかえることができるということが、前提になっているのだけど、実際はそうじゃない。
ようするに、もう、前提の段階で、詐欺的なだまし要素がある。ほんとうは、本人が自由に出来事を意味合いをかえることができるわけではないのに、本人が自由に出来事の意味をかえられるということが、話の前提にある。
前提自体がまちがっているので、まちがった結論を導き出してしまうことになる。
まちがっている。
本人が自由に出来事の意味合いをかえることができるわけではないのだ。人間の身体をもっているということからしょうじる条件がある。それまでの過去の歴史によってしょうじる条件もある。
身体をもっている条件や過去の歴史によってしょうじる条件によってしょうじる……『現在の認識』……が成り立っているのだから、いやなものはいやなんだよ!
だいたい、人間といったって、個人によって脳みそがちがう。シナプスのネットワークがちがう。
だから、ちがう。
認識や、認識から発生する感情が、ちがって当然だ。
* * *
足がおれていたいとする。もうすでに、『痛い』と感じてしまっている。
「痛いと感じたあとに、痛いと感じるのはまずいことだから、意識を書き換えて、痛いと感じないようにすればいいんだ」と言っているようなものなんだよ。
「穴に落ちて、足をおったということは、中立的な出来事で、自分自身が、その中立的な出来事に『痛い』という解釈をあたえているだけなんだ」と言って、中立的な解釈をしようとしても、無駄なのだ。
「穴に落ちて、足をおったということは、中立的な出来事で、自分自身が、その中立的な出来事に『痛い』という解釈をあたえているだけなんだ。だから、出来事が中立的に発生しているということを理解して、意味合いを自分に都合がいいように書き換えれば、それでいいのだ」と言っている人たちだって、実際に、足をおったら、神経や脳が正常であれば、痛いと感じるのだ。
そして、日常生活なかでは、そういう出来事が連続して発生している。すでに条件が成立している出来事が、日常的に、発生している。そういう出来事のなかで生きている。
『出来事は中立的だから、このように感じる必要はない』と思って生きているわけではないのだ。
「出来事は中立的に生起しているだけだから、中立的に発生しているということを理解して、意味合いを自分に都合がいいように書き換えればいいのだ」と言っているときは、そういうことを言えるだけの余裕がある状態なんだよ。
そして、言霊主義者のように、普段、自分が出来事に対して、どういうふうに反応しているかというとについて、無頓着だから、『出来事は中立的に生起しているだけだから、中立的に発生しているということを理解して、意味合いを自分に都合がいいように書き換えればいいのだ』と思っているだけなんだよ。
実際には、そういうことを主張する人だって、そんなことは、実践してないよ。
特別に意識が……『それ向きのこと』……を考えたときだけ、実践しているように思っているだけだ。
完全に、誤解をしている。
普段は、「出来事は中立的に生起しているだけで、意味合いは、その本人が与えているだけなんだ」なんて思わずに、痛かったら、痛いと思っているのだ。
かゆかったら、かゆいと感じて生きているんだよ。
そして、本人が侮辱されたと思ったら、おこるんんだよ。そして、自分の思い通りにならなかったら、不機嫌になるんだよ。「中立的なことが発生しただけだ」とは思ってないんだよ。
けど、日常生活における自分の行為について、よく考えることができない人なので、日常生活における自分の行為にかんしては、リコールできないのだ。
ようするに、思い出すことができない。
日常生活における自分の行為に注意が向かず、日常生活における自分の行為に注意を向けることができないのだ。
ようするに、「出来事は中立的に生起しているだけで、意味合いは、その本人が与えているだけなんだ」と思っているときは……日常生活における自分の行為を……想起することに失敗しているのだ。
普段の自分は自分の理論通りに反応しているわけではないということに、気がつかないだけだ。
* * *
ともかく、三メール先に落とし穴があるということがわかっているのに、そのまま、進むということは、悪い結果をもたらすのでよくない。
ところが、精神世界の人は、気にせずに進むということをすすめるのである。
そして、落ちたら落ちたで、「落ちると思ったから落ちたんだ」「落ちるという思いが現実化したんだ」と言いやがるのである。
「落ちないと思えば、落ちない」「落ちると思うから落ちる」と自信満々に言う。
けど、そういっている精神世界の人が、ほんとうに、落とし穴の上を歩こうとした場合、物理法則にしたがって、落ちるのである。
現実生活において、精神世界の人である本人が、「あそこに落とし穴がある」と認識した場合は、「落ちないと思えば、落ちない」「落ちると思うから落ちる」なんて、思わずに、ちゃんと、落とし穴を回避しようとする。
回避行動をとるのだ。
しかし、普段、自分が、そういう回避行動をしているということは、「落ちないと思えば、落ちない」「落ちると思うから落ちる」ということを言っているときには、まったく思い浮かばないのだ。
* * *
三メートル先に落とし穴があるという条件と、三メートル先に落とし穴がないという条件は、ちがうんだよ。
条件がちがう。
三メール先に落とし穴がない条件で、「落ちない」と思って歩いた。そうしたら、落ちなかった。それだけだ。
ところが、「落ちないと思って歩けば、落ちない」と一般化してしまう。「落ちると思って歩いているから、落ちるんだ」と落とし穴に落ちた人を、せめる。