簡単に書いておく。連鎖が見える人のことを賢者、連鎖が見えない人のことを愚者と呼ぶことにする。そして、賢者の割合が人口の〇・一だとする。愚者の割合は人口の九九・九%だとする。
その場合、直接民主主義の社会で、多数決をした場合、連鎖が見えない人の意見が通るということになる。賢者がどれだけ、愚者に説明をしても、愚者は愚者だから理解できない。
けど、愚者は愚者で、自分の考えに自信があるのである。
『これは絶対こうだ』と連鎖が見えないまま考えている。意見ということだけを考えると、平等なので、愚者の意見も賢者の意見もレベルにおいてかわりがないということになる。質的なレベルを判定するのは、神でしかない。
いまここで、愚者と賢者ということをわけて言っているから、愚者は愚者であり、賢者は賢者ということになっている。だから、これは、誤解しようがないことだということになっている。この話のなかではね。
けど、実際の世界では、愚者が自分のことを賢者だと思っているかもしれないし、賢者が自分の意見が理解されないことに絶望して、意見を言わないようにしているかもしれない。
現実世界では、愚者とか賢者というレッテルを神様視点ではれる人がいないということになる。なので、神様的な視点では、愚者の意見と賢者の意見にはレベルの差があるのだけど、人間界の人間の視点では、愚者の意見と賢者の意見には差がないように見える場合がある。
個人という視点でしか考えられないので、これが賢者の意見、これが愚者の意見と判定できる人が……いないのである。みんな個人として、考えているわけだから、愚者が愚者だと思わずに賢者だと思っている場合、それを否定することができない。
作者というのは、神様的な視点で、抽象的だけど、愚者と賢者をわけることができるわけ。もちろん、話の中でだけだ。
けど、現実世界においては、神の視点をもつものが原理的にいないわけだから、だれがだれをどう見るかという話になってしまう。わかるかな?
いちおう、これを、人間として平等と言っておこう。平等な人間が、おなじレベルの意見を言っているという世界になる。レベルの差がないということになる。
だって、レベルの差を判定できる神のような存在がいないのだから、しかたがない。
だから、人間として平等ということは、意見として平等ということになり、意見として平等ということは、個人の意見は、意見としては、質的なレベルの差がないものになってしまうのである。まったく平等である参加者による、質的なレベルの判断になるので、参加者の判断は、どのようなものであれ、平等だということになる。ちがう意見は存在するけど、意見のレベルは、同等だということになる。
ようするに、多数決をやれば、愚者の意見がとおる。連鎖が見えない人の意見がとおることになる。愚者の割合が、賢者の割合よりも大きければ、愚者の意見がとおるということになる。