本人の意思とは関係がない「外部環境」が存在しているのである。きちがい的な家族と言うのも、本人の意思とは(本当は)関係がない外部環境だ。
そして、きちがいはきちがい的な脳みそを搭載して、行動しているので……実際に現実世界で行動しているので……いっしょに住んでいれば、当然、影響をうける。
ところが、「影響なんてない」と言うのだ。くそ凡人たちが、「影響ない」「関係ない」と言う。くそ凡人は、きちがい的な家族といっしょに暮らしたことがない凡人なのである。
だから、どういうふうに影響をうけるかということが、根本的なところでわかってない。自分の経験のなかにないことだからだ。
自分の経験のなかにないことであれば、想像するしかないのだけど、想像力がめちゃくちゃに限られているので(低いので)実体とあうぶんだけのことを想像することができないのである。
だから、無視する。「関係がない」「影響がない」「いいわけだ」「あまい」と言う。
ところが、きちがい家族といっしょに住んでいないという『あまえた環境』のなかで生活しているのは、こいつら、くそ凡人なのだ。
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それから、「言ったことが現実化する」と思っている普通の人について考えてみよう。「楽しい楽しい」と言えば楽しくなる……これが、こいつらが主張していることだ。真実だと言い切ることだ。
こいつらが「俺だって苦労した」と言ったしよう。
「えっ? どうして、苦労したと言えるんだ?」と思う。
苦労だと思った瞬間に、「楽しい楽しい」と言えば楽しくなるんだろ。それなら、一日に一秒以内の苦労ですむ。なんといっても、「楽しい楽しい」と言えば楽しくなるのだから……。
ちょっでも、不愉快になったら、その瞬間に、「楽しい楽しい」と言えばいいのである。瞬間だから、実際には、〇・一秒以内のできごとだ。不愉快になった時間の長さは〇・一秒以内の時間の長さだ。
さらに、楽しい楽しいと言って、楽しくなった場合は、その〇・一秒以内の不愉快な時間も、完全に忘れ去ることができるだろう。つまり、次の瞬間には楽しくなっているのだから、〇・一秒以前に、ちょっと不愉快に感じたとしても、「楽しい楽しい」と言ったあとは、もう、まったく、不愉快さなんて感じない状態になっている。
楽しい楽しいと言ったあと、楽しくなった場合には、〇・一秒でも不愉快に感じたという記憶は、自分にとって意味がないことになっているのである。だってもう、楽しくなっているのだから、関係ないだろ。
それなのに、「俺だって苦労した」と言うのだ。
えー?
どのくちで言っているんだ?
「楽しい楽しい」と言えば、楽しくなってしまって、そのあとは、苦労なんて感じないような苦労なんだろ。
もし、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」ということと「俺だって苦労した」ということを、両方とも、言っているとしたら、矛盾しているぞ。
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まあ、「苦労していたころは、『楽しい楽しい』と言ってたのしくなる方法を知らなかったんだと言うかもしれない。けど、その苦労というのは「楽しい楽しい」と言えば、吹き飛んでしまうような苦労なんだよ。たいした苦労じゃない。現実に発生したことが、重要だ。現実に発生したことに対する受け止め方のちがいというのは、個人にとってある。あるように、見える。しかし、その個人がその時点で持っている個人の受け止め方というのは、それなりに、文脈があることなのである。そして、人間という種によって、ある程度は、(受け止め方が)決まってしまっているものも含んでいるのである。ようするに、「不都合だから」といって、自由に書き換えられるようなものではないのだ。ようするに、「くるしい」という受け止め方をしたばあい、「くるしい」という受け止め方を(した)ということに、意味があるのだ。その人にとって、いかようにでも書き換え可能などうでもいいことではないのだ。ちゃんと、その文脈の中で、意味がある。
他人の文脈について、まったく考えないやつが、つたない考え方で「いかようにでも、受け止め方を書き換えることができる」と思っているだけだ。
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実際の世界では、言霊主義者の多くは、言霊理論を否定されたら、おこる。不機嫌になるのだ。不機嫌になったと感じた瞬間に「楽しい楽しい」と言えばいいじゃないか。そうすれば、言霊理論を否定されたことなんて、わすれて……楽しくなれる。実際の出来事とは、関係なく自分が意図していった「感情にかかわる言葉」の通りに感じることができる。だったらそうすればいいじゃないか。けど、実際には、できないのである。言霊理論を否定されて頭にきているときは、頭にきている状態になってしまって、「楽しい楽しい」と言ってもなかなか楽しくならないのである。実際は、そうなのに、そういう出来事を全部、無視して、「楽しいと言えば楽しくなる」とほざていいるのが、言霊主義者だ。あるいは、多くの言霊主義者だ。
言霊主義者に、ぼくが「楽しい楽しい」と言っても、楽しくならない場合だってあるということを言ったとしよう。その言霊主義者が「すべては受け止め方の問題だ」と考えているのであれば、「楽しい楽しい」と言っても、楽しくならない場合があるのだから、言霊理論は間違っていると、受け止め方をかえればいいじゃないか。どうして、自分の場合は、受け止め方をかえないのだ? 受け止め方をかえずに、他人をかえようとするのだ? 全部、相手の意見にあわせて、受け止め方をかえればいいだろ。自分がこれが正しいと思っていたことを否定された……。だったら、相手の意見にあわせて、自分の受け止め方をかえればいいのである。ところが、普段「自分の受け止め方をかえればいい」「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言っているような人は、自分の考え方にこだわって、意見をかえないのである。そして、そういうときに「楽しい楽しいと言って楽しくなるのだから、楽しい楽しいと言おう」と思って、「楽しい楽しい」と言うことで、気分をかえることができるかというと、できないのだ。こいつらは、自分の考えにこだわって、不愉快な気持になり、「楽しい楽しい」と言うことで、自分の気持ちをかえようとしない。あるいは、「楽しい楽しい」と言っても、楽しい気分にならない。相手がまちがっているということを考えて、不愉快な気持になっている。現実の出来事があり……この場合は自分が正しいと思っている理論を否定されたという現実の出来事があり……「楽しい楽しい」と言っても、楽しくならない時間をしばらくすごすということになる。
ちゃんと実際の出来事に対応した気分になっている。実際の出来事が発生して、実際にそういう気分になっているときは「楽しい」と言っても、楽しくならない。現実世界の生活というのは、そういうものだ。それから、繰り返しになるけど、たとえば、自分が正しいと思っていることを否定されて、不愉快な気持になるということは、それまでの文脈でそういう感じ方ができあがっているということだ。これも、本人の文脈があることなのである。ようするに、自分が正しいと思っていることを否定されると不愉快な気持になるということも、「受け止め方」のひとつだ。なら、この「受け止め方」を文脈に関係なく、書き換えられるというと、そうではないのだ。だから、そうではないと、言っているでしょ。ところが、こいつらは「受け止め方は意識にあわせて、意図的に書き換えられる」「自分はそういうことができる」と主張しているのだ。受け止め方を書き換えるなら、新しい受け止め方が自我に再統合されないとだめなのだ。なんで、こんな簡単なことがわからないのか? どうして、「自分は、いかようにでも受け止め方をかえることができる」と思っているのだ?
ことた
ほうほうをしへ