条件を無視することがはやっているのである。条件は、最初から、かならず、無視しなければならないことなのである。条件が影響をあたえているという考え方は、まちがっていると思い込んでいるのである。ところが、実際には、数々の条件が、影響をあたえている。他人の条件は、かならず無視して、妄想的なことを言うというのが、はやっているのである。
悪い条件をかかえている人の場合、条件を無視されると、不愉快な気持になるのである。いっぽう、よい条件をかかえている人の場合、条件を無視されると、いい気持になるのである。どうしてかというと、条件ではなくて、その人の才能や努力が評価されることになるからだ。ほんとうは、条件がいいから、うまくいっただけなのに、才能があると評価され、努力をしたのだと思われるのである。
悪い条件を無視して、悪い条件の影響を無視するように、洗脳されているのである。こいつらがやっていることは、よくないことだ。けど、あまりにもあたりまえに行われているものなので、うたがうことができないのである。そして、自分もその色に染まるのである。他人を見るときは、条件に関係なく、その人の才能や努力が、その人の「地位」に反映していると思い込むようにしているのだ。だから、ろくでもない人を尊敬するようになる。
しかも、気がつかない。本人は、気がつかないのだ。ほんとうに、ろくでもない人間ばかり、尊敬している人間がいる。こいつは、完全に思考力を奪われている。本人は、自分で考えていると思っているけど、社会が供給した価値観をうたがいなく信じている。自分自身の考え方というのが、実は、社会が供給した考え方だということに気がついていない。
社会と書いたけど、悪い人たちが、悪い人たちにとって都合がいい価値観を供給しているということだ。悪い人たちが供給する「きれいごと」には、かならず、副作用があるのである。その副作用で、「きれいごと」を信じている人のこころも、きたくなるし、社会もきたくなるのである。「きれいごと」なので、一見「よさそうにみえる」のである。「よさそうにみえる」のだけど、緩慢で持続的な副作用がある。その副作用で、人も、社会も、より悪くなっていくのである。