言えば言ったことが現実化するという考え方についてちょっと考えてみよう。
「言う」という集合のなかには、「こころをこめて言う」という集合も含まれている。最初から、含まれている。
当然、「こころをこめないで言う」という集合も、「言う」という集合のなかに、最初から、含まれている。
「言えば、言ったことが現実化する」と言っているのだから、こころをこめないで言った場合も、現実化するということになる。
ところが、このことが、わかってないのである。言霊主義者は、このことがわかってないし、指摘しても、なかなか認めない。
それは、実際には、言ったのに現実化しないことがあるからなのである。
言霊主義者が、だれかに「言えば言ったことが現実化する」と言ったとしよう。その誰かが「言ったけど、現実化しなかった」と言霊主義者に言ったとする。
そのときになって、はじめて「こころをこめて言わないからダメなのだ」ということを言い出す。
最初に「こころをこめないで、言うと、現実化しない場合もあるけど、こころをこめて言えば、現実化する」と言うべきなのだ。
まあ、こころをこめて言ったって、現実化しないものは、現実化しない。
それから、言霊主義者は、言霊の力を信じているわけだけど、実際には、言霊の力なんてない。最初から、言霊の力で、現実化することはないのだから、言霊の力で現実化したと言霊主義者が思うようなことが現実化しているだけなのだ。
たとえば、言霊主義者は、「言ったあと」と「言ったから」の区別がつかないので、言ったあとに現実化した場合、言霊の力によって現実化したと思い込むことで、言霊理論を正当化している。
全部が、まちがったプロセスなのだ。
言ったあとの特殊なケースで、「言ったから」と言えるものがある。
けど、その場合も、言霊の力によって、現実化したわけではないということがはっきりと言える。
たとえば、喫茶店に行って、席にすわり、「ブレンドコーヒーをもってきて」と言ったとする。言ったあと、現実化する。
けど、注文をうけた店の人が、ブレンドコーヒーを作っているのである。言霊の力で、ブレンドコーヒーが自分のまえに出現したわけではない。
こういうことを、言霊の力によって現実化したと、無理やり誤解をするので、言霊主義者にとっては、「言霊理論は正しい」ということになっているのである。
もう、これは、さんざん、説明してきたことだけど、ぼくがリアル世界で会った範囲では、こういう説明をして、納得してくれた言霊主義者がいないのだ。たぶん、ネットで出会ったことがある言霊主義者もおなじだと思う。
言霊主義者は、ぼくの説明を聞くと、ほとんどの人が、おこる。不機嫌になるのだ。
まあ、不機嫌になったら「楽しい楽しい」と言えば、いいわけだから、問題、ないよね。「エイリさんから素敵な話を聞けて、とてもうれしい」と言えば、うれしいと思うわけだから、問題ないよね。
ところで、言霊理論が正しいということになっていると、条件が悪い人が、ぼこぼにされるということが発生する。
ようするに、攻撃をうける。
精神世界一般の人に当てはまることなんだけど、実は、精神世界一般の人は、「弱っている人」「こまっている人」を攻撃する。「のび太の思いが、ジャイアンをして、のび太をなぐらせた」と本気で思っている人たち……ばかりだ。
ジャイアンのほうをせめずに、なぐられたのび太をせめるのである。のび太の思いが、のび太がこまった状態を作り出していると、言い始めるのだ。
『こんなことをやって、なにが、スピリチュアルなんだ?』と思うけど、実際には、精神世界一般の人はこういうことを、している人たちばかりだ。
ぼくが言いたいことは……「こまっている人がいたら、悪い条件でこまっているんだな」と思ったほうがいいんじゃないかということだ。
こまっている人がいたら、「ネガティブなことを言うから、こまっているんだ」とか「ネガティブなことばかり言ってるからネガティブなことを引き寄せるんだ」と思うのは、もう、やめにしないか?