「思いは現実化する」というのは、非常に希望がもてる話なのである。
しかし、「思い」だけが、結果を決定するという、現実離れした理論なので、いろいろな混乱をもたらすのである。
しかし、「思いは現実化する」といって金を儲けている人たちは、そんなことは、気にしないのである。
そして、「思いは現実化する」と思って、自分の夢を追いかけている人も、そんなことは、気にしない。
「思い」だけが、結果を決定するのだから、思っていればいいのである。しかし、外部的な要因がある。これは、「思い」とは関係がないことなのだ。「思い」というのは、「自分のなかの思い」「自分の思い」に他ならない。
自分が思っていれば、自分の思いは現実化するという、非常に自分にとって都合がいい理論なのだ。
思いの強さだけが結果を左右するということになる。
自分のなかの「思いだけ」が、実際には外界にかかわっているさまざまな出来事を決定すると言っているのだ。ようするに、自分にとって都合がいい結果を引き寄せることができるということを言っているのだ。
だから、これは、「引き寄せ理論」でもある。強く思えば、思ったことを引き寄せることができるということを言っているのとおなじだ。
外界というのは、たとえば、自然現象や他人がもたらすものなのである。
ほんとうは、どういう家に生まれたかということが、ある程度条件を決定してしまっている。どういう家族と一緒に住んでいるかということが、いろいろなことを決定する。
この自然現象や他者というのは、じつは「自分の思い通り」ではないのである。
自然現象や他者は、自分の思いとは関係がないのである。
自分が思えば、自然現象が自分の思った通りになってくれるというわけではない。自分が思えば、他人が自分の思った通りに動いてくれるというわけではない。他人は他人で、その他人の「思い」があるので、その他人の思いにしたがって生きている。
なので、これは、自分が思っただけでは、決定できないことなのだ。
けど、最初に述べた通り、「自分の思いだけが結果を決定する」ということになっているのである。もう、最初から、まちがっている。
なんで、外界が自分の思った通りになるのか?
実際には、外界は自分の思った通りにならない。そして、外界が自分の思った通りになるという理論は、最初から、でたらめだ。
「思い」というのが、言霊における、「言霊」のような役割をしているのである。だから、「思いの力」によって、そうなるのである。ところが、「思いの力」によって、外界のものが思い通りになるということ自体が、まちがった前提なのである。
そりゃ、幼児的万能感にしたがえば、外界が「自分の思いの力」によって「思い通りに動いてもいい」のだけど、そうはいかないのだ。
外界の他人は、他人の思いによってしたがって生きているわけで、自分の思い通りには生きてくれない。外界の物質は、物理法則によってしたがって、物理的な運動をしているので、自分の思い通りには運動してくれない。
人間以外の生き物も、その生き物の本能や意思にしたがって行動しているわけで、自分の思った通りの行動をしてくれない。
* * *
蚊がたくさいる竹やぶに入ったら、自分が「刺されない」と強く思っていても、ごく自然に蚊が寄ってきて、蚊が自分を刺す。蚊の行動ですら、自分の思いの力では、制御できないのだ。
地球独自の運動も、さまざまな物質の相互作用によって運動している。
じゃあ、たとえば、自分の思いの力によって、マントルの動きを制御できるのかというと、制御できないだろ。これだけ、「思い通りにはいかない」ということがわかるだろ。
地球の自転が「自分の思い通り」ではないとする。
じゃあ、自分の思いの力で、地球の自転をとめられるかといったら、とめられないだろ。海流の動きを自分の思いの力で、かえることができるかといったら、かえることはできないだろ。雲の動きを自分の力でかえることができるかといったら、かえることはできないだろ。
できない。
ところが、自分の思いの力でかえることができるという前提に立って、ものを言っているんだよ。まちがっている。
外界について勘違いしているのだ。あるいは、幼児的万能感が強すぎて、現実を受け入れることができないだけだ。
そりゃ、外界のいろいろなものや、いろいろな生き物が、自分の思いの力で、自分が思った通りに動いてくれれば、それで、いいわけだけど、自分が思った通りに動いてくれるとは限らない。
外界のいろいろなものや、いろいろな生き物が、自分の思いの力で、自分が思った通りに動くわけじゃないだろ。
* * *
だいたい、「思いが現実化する」なら、その時点で、過去の思いがすべて現実化しているので、いまさら、なにかの思いを現実化するために頑張る必要はないのだ。
希望があるとして、どうして、その希望が、すでにかなってないのか?
希望があるとして、どうして、その希望が、すぐにかなわないのか?
無条件に「思い」が現実化するなら、思っただけで、現実化しているはずだ。
思っただけでは、現実化しないから、思いを現実化するために努力するのだろ。願いをかなえるための最初の行動を起こすわけだろ。
思ったら、現実化するのであれば、思った時点で、現実化している。
思い通りになってないから、希望が生まれるんだろ。希望通りになってないのはなぜなんだよ。「思いが現実化する」のなら、いまの時点で、希望がかなっているはずだ。
* * *
個人が「思いは、いつか、現実化する」と思って、願いがかなうように努力するのは、別に否定しない。まあ、どうして、「いつか」かなうことを期待するのかという問題はあるけどな。
問題なのは、自己責任論とむすびつくことだ。
思いが現実化するわけだろ。
けど、いつか、思いが現実化するはずだと思っている時点では、思いは現実してないんだよな。
すべての条件は関係なく、「思った」のか「思わなかった」のかが、結果を決めるんだよな。だって、思ったら、現実化するわけだし、思わなかったから現実化しないわけだから。
「いつか」現実化するかもしれないことは、今は現実化してない。そうなると、どうして現実化してないのかということが問題になる。
そこで、出てくるのは「思いの強さ」だ。自分の思いが弱いとだめなのである。あるいは、思う力が弱いとだめなのである。
思う力が弱いと現実化しないのである。
なら、「思いは現実化しないこともある」ということになる。どうして、「思いは現実化する」ということになっているのか?
おかしいだろ。
まあ、いいや。
ともかく、ほんとうは、条件がいい人は、希望をかなえやすいし、条件が悪い人は、希望をかなえにくいのだ。
ところが、条件を無視したので、「思いの強さ」「思う力の度合い」が問題になる。かなわなかったのであれば、「思う力の度合い」が弱かったから、現実化しなかったということになる。
だれの思いかというと、本人の思いのなのだから、本人が悪いということになる。
弱い力でしか思わなかったから、だめなのだということになる。本人が、弱い力でしか思わなかったから、現実化しなかったということになる。弱い力でしか思わなかった本人の自己責任だということになる。
本人が強く思わなかったから、現実化しなかった。だから、本人の自己責任だということになのである。
しかし、「思いは現実化する」のだから、弱く思っても、現実化してしまうのである。「思いは現実化する」ということが正しいなら……。
実際には、正しくないので、弱く思っただけでは現実化しないことが多い。思う内容によるけど、どれだけ強く、強く思っても、現実化しないものは現実化しない。
思いは現実化するというのは、間違っていて、どれだけ強く思っても、現実化しないものは現実化しないということが、正しいということになる。
ところが、思いは現実化するということになっているので、そんなのは、思わなかったやつが悪いんだということになってしまうのである。そして、思ったのに現実化しなかったなら、強く思わなかったやつが悪いんだということになってしまうのである。
「そんなのは、自己責任だ」ということになる。
条件を無視して考えたから、こんなおかしなことが成り立つ。
「思い」というひとつの要因が、現実化するか現実化しないかということを決めてしまうという理論がおかしい。
最初から、「思い」というひとつの要因がすべての結果を決めてしまうという理論がおかしい。
* * *
所持金が一〇〇円の人と、所持金が一〇万円の人がいるとする。秋葉原で五万円のパソコンを買うとする。どっちのほうが、「パソコンを買う」という夢をかなえやすいか?
当然、所持金が一〇万円の人のほうが、「パソコンを買う」という夢をかなえやすい。「所持金が一〇〇円の人は五万円稼いでから、秋葉原にくればいいじゃないか」と思うかもしれない。いやいや。
「思い」というひとつの要因が結果を決めるのだから、所持金が一〇〇円の人も、その場で、五万円のパソコンを買えるべきなんだよ。
もし、「思いが現実化する」というのであれば……。
もしかりに、五万円を稼ぐ努力をすればいいというのであれば、五万円を稼ぐ努力をするかどうかが、「パソコンを買えるかどうか」に影響をあたえる。
なら、五万円を用意できたかどうかという条件が五万円のパソコンを買えるかどうかに影響をあたえるということだ。
これは、条件が買いやすさを決めているということだ。
「思いが現実化する」という話のなかには、おカネの条件なんて出てこない。「思いが現実化する」という話のなかには、努力をどれだけするかということは、出てこない。
「思い」という要因が、現実化するかどうかを決めるのだ。
ほかのことは、関係がない。
どうしてなら、最初から、条件をガン無視しているからだ。パソコンを買うというようなことですら、所持金がいくらかという条件が、影響をあたえる。現実の場面では、さまざまな条件が、「思い」を現実化できるかどうかを決定している。
どうして、さまざまなな条件は、ガン無視して、「思い」があるかどうかだけを問題にするのだ?
そして、思いが現実化しない場合は、「思いの強さがたりない」ということになるのだ?
思いというひとつの要因だけが、結果に影響をあたえるということになっているのだ。
トリックがある。だましポイントがある。
「思う」ことなら、だれだってできる。
「思う」だけで、現実的な結果に影響をあたえることができるという理論だから、言われたほうは、ここちがいい。
もっとも、思っても現実化しなかった場合には、「思いの強さがたりない」と言われることになるのだけど……。
思いの強さが影響をあたえるなら、思うだけじゃダメなんじゃないか。こいつら、ほんとうに、悪党だな。
* * *
思ったことが現実化するなら、思った時点で現実化していなければおかしいのである。
それから、もし「今、思ったことが一秒以内に現実化する」と思ったら、一秒以内に現実化しなければおかしいのである。現実化してなければ、おかしいのである。
「このヤカンの水が一秒以内に一〇〇度のお湯になる」と思ったら、一秒以内に一〇〇度のお湯になっているはずなのである。
もし、ならないのであれば、「思いが現実化するわけではない」ということになる。
思ったことが現実化するなら、努力なんて必要がない。現実化させようとして努力する必要なんてない。「思えば」現実化するからだ。
思ったことが現実化するなら、現実的な行為は一切合切必要がない。現実化させようとして行動をおこす必要がない。 「思えば」現実化するからだ。
「思えば、思っただけで、思ったことが現実化する」……これが、「思いは現実化する」ということのほんとうの中身だ。
ところが、夢はいつかかなうと努力しなければならないのである。夢をかなえるような行動を起こさなければならないのである。
思っただけで、現実化するわけではないのである。
いや、思っただけでは現実化しない。
思ったあと、現実化するということはある。「明日、雨がふる」と思ったら、雨がふった。思ったから、思いの力によって雨がふったのか?
ちがう。ちがう。ちがう。
思ったあと、ほかの理由で雨がふった。個人の「思い」とはまったく関係がない。詐欺的な説明をする人は、まったく関係がないことを例として使うことがあるんだよなぁ。
思えば、思ったから、思いの力によって、思ったことが現実化するなら、努力なんて必要がない。行動する必要もない。
思った時点で、「思いの力」によって、「それ」は、現実化されている。