2025年4月4日金曜日

きちがい兄貴が、「騒音」に寛容かというと、寛容じゃないのだ

 きちがい兄貴が、「騒音」に寛容かというと、寛容じゃないのだ。自分が出してない音で、他人が出している音だと、普通の音でも、うるさいと感じるやつなのだ。

たとえば、テレビの音がうるさいと感じるやつなのだ。あるいは、ぼくが、テーブルの上でビー玉を転がしていたのだけど、そのビー玉の音がうるさいと言ってくるやつなのだ。

他人が鳴らしている音なら、「うるさい」と普通に感じる人間なのである。

兄貴は、別に、騒音というものに特別に寛容であるわけではない。これが、わかってないんだよね。

これ、本人の耳が悪くなるほどでかい音で鳴らしているのに、「こんなの普通の音だ」と感じてしまう。「普通の音で鳴らしているのだから、一日に十三時間鳴らしたって問題はない」と思ってしまうやつなのだ。

普通の音というよりも、しずかな音だと感じている部分がある。きちがいだから、現実を書き換えてしまう。そして、自分が現実を書き換えたことに気がつかない。

きちがい的にでかい音で鳴らしたいなら、それが普通の音や小さな音になってしまうのだ。

普通の音で鳴らしていたとしても、一日に一三(じゅうさん)時間鳴らすというのは、鳴らしすぎなのである。平日、学校がある日に帰ってきて、平均七時間鳴らしてしまうというのは、鳴らしすぎなのである。

一日に、二時間ぐらいまでだったら、ぼくの、睡眠回路はこわれていない。一日のなかで、宿題だってできる。

きちがい兄貴が、たとえば、午後五時から午後七時までの二時間だけ鳴らすということに、合意したかというと、合意しなかった。一秒間だって、ゆずってやりたくないのである。一分間だって、ゆずってやりくないのである。

自分が、弟のために、ヘビメタを鳴らすのをがまんして……つまり、まったく鳴らさないようにして、一秒間、がまんしてやる姿が、まったく想像できないレベルだ。そんなのは、ありえないから、考えもしないことなのだ。

一秒間、ほんとうに、がまんをさせられたら、発狂してしまうのである。

そういう意地なんだよ。

一分間でも、ヘッドホンをしてやらなければならなくなったということになれば、その一分間、腹がたって腹がたって腹がたって、「こんなこと、やってられる」「がまんできるか」という気持になって、一分間もたたないうちに、ヘッドホンのジャッキをはずしてしまうのである。ヘッドホンを頭からとってしまうのである。

こういう意地は、きちがい親父もおなじなんだよ。ここで、きちがい親父のことを書くと話が長くなるのでやめるけど、脳みその構造がまったくおなじで、「がまんさせられそうになった」ときの反応がまったくおなじなんだよ。

がまんさせられそうになったら、顔を真っ赤にして、発狂して、自分がやりたいことを、やってしまうのである。がまんなんて、一分間だってできないのである。

一分間がまんしてやったら、ものすごく、自分が損をした気持になってしまのうのである。死ぬほど腹がたつのである。きちがい的な意地がかかっているのである。たとえ、一秒だろうが、一分だろうが、自分が絶対にゆずってやらないということに、命がかかっているのだ。

きちがい兄貴のヘビメタに対する態度は、きちがい親父のカネに対する態度とおなじだ。

きちがい兄貴は、きちがい親父のカネの支配をうけていた。これ、ほんとうに、カネの支配があった。だから、きちがい兄貴は、自分でバイトをして勝ったヘビメタ道具一式だから、ほかのやつに文句を言われる筋合いがないという感情もあった。

この(兄貴の)感情の出所が、きちがい親父のカネに対する態度なのである。

カネで、いじめられる。カネのことで、意地悪なことをされる。カネのことで、ものすごく腹がたつことをされる。

もちろん、きちがい親父のほうは、そんなことをしているつもりがないんだよ。きちがい親父は、いじめているつもりなんてないんだよ。けど、親父のカネに対する態度に問題があるから、親父にかかわると、カネのことでいじめられることになるのである。

かならず!!!!かならず!!!不愉快な目にあわされる。

だから、きちがい兄貴にとっては、きちがい兄貴が高校生になってバイトをして金を稼げるようになったということは、きちがい親父のカネの支配から、自由になったということなのである。

きちがい兄貴がバイトをして、自分のカネで、ヘビメタ道具を買ったということが、めちゃくちゃに重要なんだよ。きちがい兄貴のなかで、めちゃくちゃに重要ことなんだよ。

これ、こんなことを言ってもわかってくれる人はいないと思うけど、こういうことも、関係している。自分のカネで買ったヘビメタ道具でヘビメタを鳴らしているのだから、どれだけでかい音で、どれだけ長い時間鳴らしても、まったく問題がない……という感じ方がある。

けど、こういうことを抜いたとしても、きちがい兄貴の頭の構造は、きちがい親父の頭の構造とおなじだから、やはり、自分ががまんさせられたとなったら、発狂してしまうのである。

まあ、ひらたく言うと、親父のお金支配をうけて、意地になっているところもあるのだけど、それだけではないのだ。基盤は、きちがい親父と同じタイプの脳みそを搭載しているということだ。

自分が!!がまんさせられる……となったら、一秒でもがまんしたら、死んでしまうというような危機的な気持になって、反抗をするのである。

「絶対にゆずってやらない」とがんばるのである。真っ赤な顔をして、体をこわばらせて、がんばるのである。このときは、そういう感情だけだから、相手が自分のやっていることでこまっているということは、まったく頭のなかにない。きちがい兄貴の頭のなかには、相手が(自分がやっていることで)こまっているということが、まったくない。

まったく頭のなかにないから、時間がたてば「やったってやってない」ということが、成り立ってしまう。やりきったら、「やってない」ということになってしまうのである。感情的には……。

きちがい兄貴だって、ほかの人が出す音には、わりと敏感で、この世に騒音と言える音があると言うことがわかっているのである。本人だって、わりと敏感に、自分が聞きたくない音に反応するのである。

ところが、「思いっきりでかい音で」ヘビメタを鳴らしたという気持があると、……その気持ちにあわせて、すべてが、ゆがんでしまうのだ。その無意識的な欲求にあわせて、現実認知がすべてゆがんでしまうのだ。自動的にゆがむ。

*     *     *

それから、ちょっとだけ言っておくけど、きちがい兄貴のヘビメタ騒音にさらされていれば、憂鬱になるのだけど、ぼくの認知がゆがんでいるわけではないのだ。

きちがい兄貴のヘビメタで、宿題ができず、宿題ができないということから発生するトラブルに見舞われたとする。不愉快な出来事だ。そして、きちがい兄貴のヘビメタで、眠れなくなり、どうしても、遅刻をしてしまうということが発生したとしよう。

その場合も、学校でトラブルが発生するのだけど、これは、めいる出来事なのである。頭にくる出来事なのである。

そりゃ、学校のみんなは、教師も含めて、ヘビメタで「どうしても遅刻してしまう」ということは、認めないので、ヘビメタ騒音の影響に関して認識のちがいがあり、トラブルが発生してしまうのである。

そして、学校のみんなや教師は、「家族で話し合えば、問題が解決する」と思っているので、そこでも、きちがい兄貴やきちがい親父の脳みそに関する認識のちがいがあり、トラブルが発生してしまうのである。

もちろん、不愉快な出来事だ。

これ、鳴らされて、ずっと遅刻をしないようにするということが、どうしてもできない。もう、それは、はっきりしている。

だから、実際に「ものすごい音で」鳴らされているあいだ、くるしいというのは、ほんとうのことで、ぼくのほうに認知のゆがみがあるわけではないのである。むしろ、ほかの家では絶対に鳴らさないような音で、長時間、鳴らしてしまうほうに認知のゆがみがある。あれだけでかい音で、ずっと毎日鳴らされれば、憂鬱になるのである。そして、寝不足が続いてうつ病になったとしよう。その場合、うつ病患者の認知がゆがんでいるということになってしまのである。ようするに、ぼくがうつ病になったなら、うつ病になったぼくの認知はゆがんでいると、認知療法家が解釈してしまうのである。けど、ぼくの認知はゆがんでいないのである。これ、どれだけ重要なことか、ほかの人たちはわからないと思う。認知療法家だってわかってないよ。心理学者だってわかってないよ。認知療法家の認知のゆがみに関しては、ずっと前に書いたので、ここでは省略する。ちょっとだけ書いておくと、内因性のうつ病に関しては、認知療法の理論が当てはまる場合があるのだけど、外因性のうつ病に関しては、認知療法の理論がはてはまらない場合もあるのである。


2025年4月2日水曜日

「受け止め方の問題だ」とはまったく思わずに、自分の感情がしょうじるままに、受け止めているのである

自分のなかのやりたいことを、他人のことを考えずにやってしまう人は、迷惑行為をやりやすい人なのである。家族が、自分のなかのやりたいことを、他人のことを考えずにやってしまう人だと、いやなことが発生しやすいのである。


順番ということを考えた場合、実際に、きちがい的な親が、正常な親がやらないような迷惑行為をするということが、始まりなのである。これが一番目に起こることだ。

そして、これは、やられたほうの受け止め方の問題ではなくて、やっているほうの、行為の問題なのだ。まわりの他人がこまる行為をするけど、他人がどれだけなにを言っても、迷惑行為だと認めない性格傾向が問題なのだ。

本人が、迷惑行為をやっているということを感じなければ、本人のなかでは、迷惑行為なんてやっていないということになるので、迷惑行為をやめないのである。本人にとっては迷惑行為ではないのだから、やめる必要がない。

やられたほうの受け止め方の問題ではなくて、やっているほうの迷惑行為をやっているという認識のなかさが問題なのだ。ようするに、やられたほうの問題ではなくて、やるほうの問題なのである。

これにも、受け止め方の相対主義という問題がある。精神世界の人たちが言うことには、いっぱい、罠が仕掛けられている。これらの複数の罠は、かならず、やられたほうが悪く言われるようになる複数の罠なのだ。

けど、まあ、受け止め方の相対主義という問題について語るのはやめよう。

とりあえず、ほとんどの人が不愉快だと感じるネガティブな行為を、きちがい的な家族が、実際にしたということにしておく。いちおう、ネガティブな行為を実際にやったということにしておく。つまり、固定しておく。

やはり、避けては通れない問題なので、ほんのちょっとだけ、受け止め方の相対主義について語っておく。ほんとうは、この問題に関しては、だいぶ前に書いた記憶がある。だから、ほんのちょっとだけ、書いておく。

悪い行為などは存在せず、すべては、中立的な行為なので、中立的に受け止めることが可能だというよう妄想的な理論は、人を傷つける。

精神世界の人は、「すべては受け止め方の問題だ」などと、わかったようなことを言い、きちがい的な人間に「やられたほうの人間」をせめるのである。

そして、「やられた人の性格がネガティブだからそういうふうにされる」と決めつけて、悪口を言い出すのである。

精神世界の人が、どれだけ、普段、「(出来事を)中立的に受け止めているか」というと、中立的には受け止めてないのである。

生活のなかでは、「受け止め方の問題だ」とは思わず、固定された受け止め方をするのである。まず、そういう固定された受け止め方が、それまでのメタ認知と価値観によって、しょうじるということだ。これがわかってないのである。

これは、精神世界の人が、普段は、言霊の力を使わずに……つまり、言霊の力を使えずに、現実問題に現実的に対処しているということに、まったく気がつかないのとおなじだ。

じつは、精神世界の人も固定された受け止め方を、しているのに、それに気がつかないのである。

そして、言葉を語るときだけ、「受け止め方の相対主義」を口にするのである。ようするに、「すべては、受け止め方の問題だ」と言いやがるのである。この、癖は、どうにかしたほうがいいぞ。

本人が気がついていないだけで、普段は、中立的に受け止めていないのである。それまでの価値観にしたがって、出来事を受け止めているのである。

例にあがるのは、話のなかで、「そう思いやすい出来事だけ」であり、普段は、なにも気にせず、普通に固定されたやりかたで、出来事を受け止めているのである。

つまり、「受け止め方の問題だ」とはまったく思わずに、自分の感情がしょうじるままに、受け止めているのである。

自分の感情は、たしかに、価値観や、メタ認知の影響をうけるのだけど、価値観やメタ認知を相対化すれば、それで、出来事をまったくちがうかたちで受け止めることができるかというと、そうではないのだ。

まったくちがうかたちで受け止めた場合にも……その場合は、新しい価値観が生じているのである。そして、新しい価値観をささえるメタ認知が生じているのである。新しい価値観も中立的な価値観ではないのである。メタ認知は、メタ認知として自然に発生しているのだけど、発生した時点ですでに、中立的ではないのである。

発生したときになんらかの意味が「付与」されてしまっている。だから、まったく中立的なメタ認知なんてものはないと考えるべきなのだ。

 

「鳴り終わったら関係がない」と言う人が「俺だって騒音ぐらいあった」と言ったって、それがなんなんだよ?

  つまんない。ヘビメタ騒音にやられた体で、旅行に行ったって、つまらない。貧乏旅行も、豪華な旅行もつまらない。つまらない。みんな、ほんとうにわかってないんだよなぁ。あれ、どうなるかわかってない。あんな音で、きらいな音が、一日に何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴ってたら、そりゃ、おかしくなる。からだもこころもおかしくなる。あんなことを毎日、十数年間にわたってやられた人に、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」「俺だって、つらい思いをしてきた」「つらいときこそ、楽しい楽しいというべきだ」なんて、言ってしまうのは、ほんとうに、まったく、おろかなことだ。いくら「俺だってつらい思いをしてきた」と言ったって、「つらい思い」の「つらい思い」がぜんぜんちがうのである。ぜんぜんちがうということは、たとえば、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」ということを信じているということからわかる。そりゃ、そうだろ。同等のつらさを経験していたら、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」なんて信じていられなくなる。「楽しい楽しいと、どれだけ言っても、くるしくたまらない」ということがわかるようになる。自分のこころにさからって「楽しい楽しい」と言うことがどれだけ、有害なことか、わかるようになる。無害ではなくて有害なんだよ。自分の本心にさからって、正反対のことを言ったって、だめだ。これがわからないのであれば、たいして、つらい思いなんかしていない。たいして、つらい思いをしてないということが、はっきりとわかる。「楽しい楽しいといえば楽しくなる」「元気だ元気だといえば元気になる」……こんなことを、言える時点で、ぜんぜんちがう。ぜんぜんちがう「つらさ」しか経験していないということがわかる。あきらかにわかる。毎日毎日、思い知らされるのである。どれだけ言ったって、楽しくならないということが、わかる。どれだけ言ったって元気にならないということが、わかる。わかってないのだから、同等のつらさなんて、経験してない。それがはっきりとわかる。

もう、何度も言っているけど、ヘビメタ騒音のことを話した後に、ヘビメタ騒音なんて関係がないとヘビメタ騒音の影響を無視するやつの態度は、きちがい兄貴の態度と似ているのである。きちがい兄貴が、ガン無視して、やりきったのである。きちがい兄貴が、俺における、きちがい兄貴のヘビメタ騒音の影響を、無視したのである。ガン無視したのである。どれだけ、俺がこまるといっても、『影響なんてない』と考えていたのである。あるいは、きちがい兄貴はきちがいだから、『影響なんてない』と考えるところまでいかなかった。そういうレベルで無視をしていた。これ、やっていいことをやっている態度なのである。自分だって、苦手な音とは言わないまでも、普通の音を、あのでかさで鳴らされたら、おこるんだよ。きちがい兄貴だって、おこるの……。けど、それがわかってないんだよな。きちがい親父の鼻とおなじなんだよ。きちがい兄貴の耳は、きちがい親父の鼻とおなじ。

 自分の都合で、ものすごい臭いにおいを出しているときは、絶対に、におっているということを、認めないのだ。それは、におっているのがわかるけど、嘘を言っているのとはちがう。これがおかしいところなんだよ。ほんとうに、におってないと思っている状態なのである。頭がおかしいからそうなる。こういう自分にとってだけ都合がいい、頭のおかしさを発揮されると、こういう人間と一緒に暮らしたことがない人から、正常な人が、いろいろと誤解をうけるのである。正常な人というのは、こういう異常な家族と暮らしている、正常な家族だ。やっているほうが、「やったってやってない」という態度なのだ。本人は、ほんとうにやってないつもりなのである。そして、現実とは正反対のことを言って、その場を押し切るのである。あるいは、だまって、きちがい行為を続けて、その場を押し切るのである。そうすると、よその人はこういうことがまったくわかってないので、やられたほうの家族が、普通のことで、文句を言っていると思ってしまうのである。これ、じつは、異常なことなんだよ。

 だいたい、自分が異常なにおいを出しているときは、絶対の意地で、異常なにおいがするということを、(嗅覚が正常なのに)認めないのである。そして、他人が、ほんのちょっとでも、においが出ることをすると「くさいよ!!!くさいよ!!!くさいよ!!!くさいよ!!!」と怒鳴り込んでくるのである。他人は、ちょっと、事情があって、においがすることをしているのである。それは、ちょっとはにおうということがわかっているのである。ちょっとでも、匂いがすれば「くさいよ!!!くさいよ!!!くさいよ!!!くさいよ!!!」と怒鳴り込んでくるやつが、自分が出しているにおいに関しては、絶対に、どれだけくさくても、くさいということを認めないのだ。こういう態度は、相手にとって頭にくる態度なのである。他人のちょっとしたにおいは、わかるのに、きちがいだから、自分の異常なにおいはわからないのだ。こういう鼻……。便利な鼻……。しかも、他人のちょっとしたにおいというのは、ちょっとのあいだだけ、におうものなのだ。これ、事情があってやっていることなのである。ほんのちょっとの時間なのである。これ、具体的にはどういうことなのか、言いたくないから言わないのだけど、ともかく、事情があって、やっていることなんだよ。そして、時間的には短いんだよ。ところが、きちがい親父の場合は、時間が長いのである。それに、どれだけ注意をしても、毎日続いてしまう場合がある。ネズミを引き寄せた、酒糟がついた魚を一日に二十三時間出しておくことだって、毎日毎日、何か月も続いたのである。そりゃ、ネズミが突進するするようになるよなぁ。しかも、たとえば、酒糟がついた魚を一日に二十三時間出しておくことにこだわったわけだけど、これだって、他人から見て、ちゃんとした理由があることではないのである。頭がおかしい人が、突然そういうふうにし始めただけなのである。話をしても、ごく基本的なことを否定するのでそれ以上話がすすまないのである。たとえば、「におっている」のに「におっていない」と基本的なことを否定するから、話が、前に進まないのである。たとえば、そういうふうにしたい理由はなんなんだということに、話が進まない。しかたがない事情があるなら、相手だって納得をする。ところが、しかたがない事情なんてなくて、ともかく、きちがいが思いついただけなのである。そういうふうにしなければならない外的な理由が、まったくないのである。俺やおかあさんが、一時的ににおいがすることをしたのは、事情があるのである。外的な理由があるのである。そして、外的な理由について、まともに説明ができるのである。これこれ、こうだから、一時的に窓をあけることができないとか、これこれこうだから、一時的にセメダインのにおいがするという理由がある。テーブルの上に、なにもかけないで、魚がのっかっている皿をずっと出しておくということに、こだわる理由がないのだ。きちがい親父だって、ただ、自分がなんとなく、そうしたくなったという理由しかもってない。けど、理由について考えるまで、話がすすまないのである。「におわないよ!!!におわないよ!!!におわないよ!!!におわないよ!!!」と発狂しておしまいなのである。真っ赤な顔をして、絶叫しておしまいなのである。こういう態度が、どれだけこまるか、きちがい親父はわかってないのである。相手がどれだけ好意う態度でこまるか、きちがい親父はまったく気がついていないのである。そして、いつも、へんなところでスイッチが入って、きちがい的な意地をはるのである。これ、こういう人間といっしょに住んでいる人じゃないとわからない。しかも、「親」という自分より立場が上である人間が、こういうこわれた人間なのだ。これの意味がわかってない。普通の人は、こういうこわれた家族と一緒に住んでいるわけではないから、こういうこわれた家族が(きちがい的な意地で)やることで、こまったことがない。そして、常識で考えようとするから、「そんなのはおかしい」と思うのだ。そして、「あなたの父親だって、悪気があってそうしたわけではない」とか「なんか(あなたが)誤解をしているだけなのではないか(ほんとうは、あなたが気がついていない理由があるのではないか)」ということを言うのである。とくに、親父がだいの大人で、家族側の人間が子どもだと、世間の人はそういうふうに判断するのである。これだって、まったくわかってないやつが、まったくわかってないから、そういうことを言っているのだ。けど、そういう人たちだって、そりゃ、親子のトラブルはある。だから、「自分だって、親とけんかしたことことぐらいある」とか「自分だって、親とトラブルがあった」ということを言うわけ。けど、それ、ほんとうに、うちの父親タイプの狂った人間とのトラブルなのかということを、訊きたいわけ。問いただしたいわけ。たとえば、うちの父親タイプの狂った父親と、家族として、すごしたことがある人がいるとする。その人は、わかっているから「そんなのはおかしい」とは言わない。「あなたの父親だって、悪気があってそうしたわけではない」と言うかというと、言わない。だって、悪気がなくても、悪気がある以上のわるいインパクトを与えるということがわかっているからだ。そういう態度……うちのきちがい的な父親のような態度だと、悪気がないにしろ、それは、病的なしくみで悪気を無視しているだけだから、悪きがあるとき以上にこまるのだということが、わかるからだ。そんなの、説明しなくたって、自分が小さい時から、数千回、数万回とやられればわかるだろ。うちの父親のように、認知にずれがあるタイプの家族にやられたことがある人なら、わかることなんだよ。わかる人が「あなたの父親だって、悪気があってそうしたわけではない」なんて、言うわけがない。うちの父親とおなじような家族にやられたことがある人は、「なんか(あなたが)誤解をしているだけなのではないか(ほんとうは、あなたが気がついていない理由があるのではないか)」なんて、口が裂けても言わない。これ、言われたら、どれだけ不愉快な気持になか、知っているから、言わない。知らないのだから、うちのきちがい的な父親タイプの家族にやられたことがない人なんだ。うちのきちがい的な父親タイプの家族にやられたことがない人が「なんか(あなたが)誤解をしているだけなのではないか(ほんとうは、あなたが気がついていない理由があるのではないか)」と言うんだよ。しかも、この人たちは、みんなみんな、ふたこと目には「自分だって、親とトラブルがあった」と言うわけ。

おなじなんだよなぁ。けっきょく、うちのきちがい的な兄や、うちのきちがい的な父と一緒に暮らしたことがない人が、こういうしくみや、こういうときの、うちのきちがい的な兄や、うちのきちがい的な父の態度がわからないから、誤解をして、へんなことを言っているだけなんだよ。そうだ。へんなことだ。現象を救わない、勘違いだ。想定されている出来事がちがうのである。けど、想定されている出来事がちがうとは、思ってないのである。これも、ほんとうに、普通の人が、きちがい的な家族のことがわからずに、勘違いして、勘違いした発言をしているのだけど、自分が勘違いした発言をしているというつもりがないのである。認知認識がないのである。そりゃ、そうだろ。おなじような経験をしたという意味で「自分だって、親とトラブルがあった」と言うわけだから……。けど、その人たちは、きちがい家族と一緒に暮らしたことがないので、きちがい家族の態度や、きちがい家族の行動がまったくわかってないのである。きちがい家族の態度や、きちがい家族の行動を、常識をもってして理解しようとするから、ズレがしょうじるのである。何度も言うけど、ズレが生じたことには、気がついていないんだよ。だって、その人たちは、うちのきちがい親父や、うちのきちがい兄貴が、きちがいだとは思ってないからだ。普通の人のトラブルを想定して、物事を言っている。だから、ズレてしまう。普通人とのトラブルじゃないんだよ。ぜんぜん、わかってない。

自分が猛烈にくさいにおいを出すときは、くさいということを、一切合切認めないのに、ひとが、ちょっと一時的に、たいしてくさくないことをすると、「くさいよ!!くさいよ!!くさいよ!!くさいよ!!」と発狂して怒鳴り込んでくるやつなんて、いやなやつだろ。嗅覚は正常なのに、自分が猛烈に臭いにおいを出すときは「くさくないよ!!くさくないよ!!くさくないよ!!くさくないよ!!」とまかっな顔をして、基本的なことを否定するのに、相手……他人がちょっとだけ、においがする行為をしたときは、「くさいよ!!くさいよ!!くさいよ!!くさいよ!!」と発狂してせめるやつなのだ。嗅覚が正常なのに、性格がおかしいから、そういうことになってしまう。これ、そのときだけなんだよ。けど、そのときだけなら、それで済むかというと、済まない。だって、そうだろ。けっきょく、ネズミがきてしまったのだから。

きちがい兄貴のヘビメタ騒音に対する態度も、これとまったく、おなじなのである。もう、こころがかきむしられる。きちがい的な家族と一緒に住んだことがない他人が、普通に誤解をして、普通に誤解をしたことを言ってくるということになる。これ、きちがい兄貴は、「でかい音じゃないよ!!でかい音じゃないよ!!でかい音じゃないよ!!でかい音じゃないよ!!」絶叫したわけじゃないけど、頭の中で起こっていることはおなじなのだ。叫ぶか叫ばないかの違いはあるけど、頭の中でおこっていることは、まったく同じなのである。実際、きちがい兄貴は、聴覚が正常なのに、でかい音で鳴らしているということを、頑として、認めなかった。きちがい親父の態度で、きちがい兄貴が「でかい音で鳴らしている」という基本的なことを、認めなかった。これが、でかいのである。きちがい兄貴が、こういうところでズレているから、ぼくがこまることになるのである。ヨソの人は、常識的な思考をするから、ぼくにズレたことを言ってくるようになるのである。ヨソの人が、きちがい兄貴のズレをちゃんと理解してくれるなんてことはないのだ。いままで一度もないよ。だいたい、ここに書いてあることを、口頭で説明しようとすると、相当に長い時間が必要なのである。ほかの人と、きちがいヘビメタ騒音について話す時間は短いので、ぼくが説明する機会がほとんどないのである。かりに、ぼくが説明しても、ほかの人には、あんまりわからないことだろうなとは思う。ほかの人は、ズレがわからないから、おなじような苦労だと想定して「俺だって苦労した」と言うのである。けど、騒音を出している人が、自分の家族で、その自分の家族が、うちのきちがい兄貴のような心的な構造をもっている人である場合は、ほとんどないのである。だから、ちがう苦労について、誤解をして、いろいろと言っているということになる。

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ぼくと同等の騒音を経験した人が「鳴り終わったら関係がない」なんて言うわけがないのである。「鳴り終わったら関係がない」と言う人が「俺だって騒音ぐらいあった」と言ったって、それがなんなんだよ? ちがうじゃないか。

わかっていないから、「鳴り終わったら関係がない」なんて言っているんだよ。

 

2025年4月1日火曜日

ヘビメタが鳴っていたことは、鳴り終わったあとのすべてに、影響がある

 ヘビメタが鳴っていたことは、鳴り終わったあとのすべてに、影響がある。影響がないと思っているやつらが、ほざく、苦労なんて、たいした苦労じゃない。全部に影響をあたえている。それがわからないのであれば、たいした苦労じゃない。アホなことを言うな。


2025年3月30日日曜日

おなじ状態ではないのに、おなじ状態だとみなしていること自体が問題なのである

オギャーと生まれてから……ひょっとしたらそれ以前から……出来事に対応して感情が発生しているのである。言葉と感情の「連携」ができあがったのは、言葉を学習したあとなのである。

言葉を学習しているさいちゅうも、なんらかの不愉快な出来事が発生して、こういう感情になることを「不愉快になる」と表現するのだということを、学んだのである。

これは、学習したということだ。

どうして、「不愉快になる」と言うと、「不愉快な気持になったような感じがする」場合もあるかというと、学習の結果、言葉と感情の「連携」ができたからだ。

しかし、まったく、不愉快になる出来事が発生してないのに、突然、「不愉快になる」と言って、「なんとなく不愉快な気持になったのかもしれない」と思った場合の「不愉快な気持ち」と、ちゃんと理由がある「不愉快な気持ち」はちがうのである。

質も量もちがうのである。

理由がないと書いたけど、たとえば、「不愉快だと言うと、不愉快な気持になるかどうか調べる」という理由以外の理由がないときということだ。「不愉快だと言うと、不愉快な気持になるかどうか調べる」という欲求が発生したのは、「言霊の効果を調べよう」と思ったからだ。言霊に効果があるほうがいいと思っている人は、その思いに引きずられて、「不愉快になっていないのに、不愉快かもしれない」と思うかもしれない。ここらへんは、たしかに「思いよう」なので、願望が反映するかしれない。

ともかく、 「不愉快だと言うと、不愉快な気持になるかどうか調べる」という理由以外の理由がないときと、不愉快になる具体的出来事が発生したので、不愉快になっているときは、ぜんぜん、状態がちがうのである。両者を「おなじように不愉快になっている」とか「不愉快になっている」と考えること自体に、むりがあるのである。おなじ状態ではないのに、おなじ状態だとみなしていること自体が問題なのである。

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いつもかならず、「不愉快になる」と言ったら「不愉快な気持になる」わけではないのである。楽しい時に「不愉快になる」と言ったって、自分のこころは、「不愉快にならない」のである。

だから、一〇〇%の確率で、そうなっているわけではないということを、忘れてはならないのである。

ところが、言霊主義者は、一〇〇%の確率でそうなっているわけではないということを忘れて「言ったことが現実化する」「言った通りになる」と声高に主張するのである。

ところが、その言霊主義者だって、たいていの場合は、実際に不愉快な出来事が発生したから、不愉快になっているのである。

もちろん、不愉快な出来事というのが、だれにとっても不愉快な出来事かというと、そうではない場合もある。しかし、たいていの人にとって不愉快な出来事だと感じられる出来事があるのである。

もちろん、厳密なことを言うのであれば、おなじ出来事は存在しないということも言える。二度、おなじ川に入ることができないように、まったくおなじ出来事は存在しないのである。

だいたい、似たような出来事だと、(普通の人に)認知されるような出来事のことを、同じ出来事と、かりそめに言っているだけなのである。厳密なことを言うなら、おなじ出来事なんて、存在しない。こっちが正しい。

しかし、とりあえず、似たような出来事を考えると、例外的な人は除いて、ほとんどの人が、「不愉快だ」と感じるような出来事がある。

その場合、実際に、不愉快だと感じることが起こったのである。不愉快だと感じることが、人生のなかで何回も何回もあると、こういうときの感情をあらわす言葉として「不愉快になった」とか「不愉快だ」とかという言い方があるということを、学ぶのである。

ようするに、出来事が起こった「あと」に、言葉と感情の対応を学ぶのである。

一度、学んで、こういう感情のことを「不愉快な感情」だというのだということがわかると、「不愉快な感情」というものについて、想起できるようになるのである。これは、抽象的な「不愉快な感情」だ。

その感情は、さまざまな実際に発生した不愉快な出来事をあわせたような総合的な感情なのである。

だから、この段階で「不愉快になる」と言うと、「不愉快になったような感じがする」ということが、しょうじる場合があるのである。

言霊主義者は、すっかり、この反応回路ができあがったあとに、「言ったことが現実化する」と言っているのだ。これは、反応回路ができあがったあとに言っていることなのである。なので、厳密なことを言うなら、まさに、出来事が先なのである。言葉で表す前に、感情があるのである。言葉を学習する前に感情があるのである。言葉と感情の連携ができるまえに、感情があるのである。

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もう一つ、付け加えておくと、「不愉快になる」と言ったあと、なんとなく不愉快になる場合があるのは、言霊の力によって、なんとなく不愉快になるのではなくて、言葉の力によって、なんとなく不愉快になるのである。

けど、楽しい時に「不愉快になる」と言って、ほんとうに不愉快になるかな?

「不愉快になる」と言ったあと、なんとなく不愉快になる場合は、じつは、かぎられているような感じがする。

ようするに、あるとしても、毎回ではなくて、相当に少ない回、そういうことがあるという感じだ。

基本的には、ぼくは、楽しいとき「不愉快になる」と言っても、ぜんぜん不愉快にならない。なんの理由もないのに、不愉快になると言ったって、不愉快になるわけではないのだ。「なんの理由もない」と書いたけど、「不愉快になるような理由がない」ということだ。

いちおう、言霊主義者に配慮して、中立的な状態で、「不愉快になる」と言った場合、「不愉快になったような感じがする場合もある」という内容のことを書いたけど、毎回そうなるわけではないのだ。そして、繰り返しになるけど、「不愉快になったような感じがするかもしれない」というような、ものすごく微弱な「不愉快な感じ」なのである。

そして、中立的な状態で「自分は不愉快になる」と言った場合、「不愉快な気持になった感じがする」ということが、「毎回毎回」発生するかというと、そうではないのである。

回数を問題にするなら、言霊主義者だって、「不愉快になる」と言っても、不愉快にならない場合のほうが多いのだ。

ほんとうは……言霊主義者も……普段、ちゃんと、理由があることで不愉快になっている。

回数を問題にするなら、言霊主義者だって、実際にしょうじた出来事に応じて、不愉快になっている場合のほうが多いのである。

「不愉快になる」と言って不愉快になった場合は、言葉と感情の連合ができあがっているので、「そんなふうな感じもするかもしれない」という意味で「不愉快になる」だけなのである。

これは、言葉の力で不愉快になっているだけで、超自然的な力である言霊の力で不愉快になったのではない。勝手に、「言霊」なるものを想定して、そう思っているだけなのである。

言霊主義者が、勝手にそう思っているだけなのである。

法則性なんてもちろんない。言霊の法則なんて、そんなもの、もちろん、ない。

言霊というコンセプト自体が、妄想を土台にしたコンセプトなのである。

「不愉快になると言うと不愉快になる」「これは、言霊の法則が成り立っているからだ」と、言霊主義者が勝手に妄想しているだけなのである。

妄想を土台にしたコンセプトを使って、人のことを悪く言うのは、やめろ。

ようするに、妄想的な理論をふりまわして、人を不幸にするのはやめろ。

嘘が前提として成り立っている理論で、人を不愉快な気持にさせるな。

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ちなみに、実生活のなかでは、言霊主義者だって、「直前の」出来事に対応して、不愉快になっているのである。これは、現在進行形の場合もある。というか、ほとんどの場合が現在進行形なのである。感情が生じたということを考えると「直前」ということになる。出来事が変化するので、感情もそれに合わせて、変化しているのである。感情は流動的に発生しているのである。

しかし、「不愉快になった」という表現を使う場合は、不愉快になった出来事がすでに発生しているのである。出来事を時間的にどのように区切るかによるけど、明確に「自分が不愉快になった」と表現しているのであれば、不愉快になる出来事が、不愉快になるまえに発生したと考えるのが、まあまあ、妥当なのである。

ともかく、直前の過去か、あるいは、現在進行形かと言うことは、別にして、言霊主義者だって、現実の出来事に対応して、不愉快になったり、愉快になったりしているのである。どうして、それを無視してしまうのか。

なにも理由がないのに、突然「愉快だ」と言って愉快になるのわけではないのである。なにも理由がないというのは、対応する出来事が発生しなかったのにと言うことだ。「愉快だといえば愉快になるかどうか」ということを調べるために、「愉快だ」という場合は、たしかに、「愉快だと言えば、愉快になるかどうかを調べる」という理由があるのである。

実際には、それ以外の理由がないのである。それは、特別に不愉快なことが発生した直後に、「愉快だ」と言っている状態とはちがうのである。まあ、何回言っても、言霊を信じている人は、わかってくれないと思うけど、言っておく。

たとえば、ぼくが言霊理論を批判すると、言霊主義者はおこる。怒りという感情がわきあがるのだ。これは、自分が信じていることを批判されたから不愉快だと思ったということなのである。あるいは、自分が正しいと思っていることを正しくないと言われて怒りの感情がわきあがったということなのである。

ちゃんと、理由がある。

ちゃんと、現実の出来事に対応して感情がわきあがっている。

まったく、おこる理由がないのに、「おこった」と言って、怒りという感情がわきあがったわけではないのである。

ぜんぜんわかってないなぁ。精神世界の人は、まったくわかってない。

言霊の法則が成り立っているのであれば、病気で苦しんでいるやつなんていないよ。みんな「この病気は治る」と言って、治している。治らずに死んでしまうなんてことはない。「言霊理論は正しい」「言霊の法則は宇宙をつらぬく絶対法則だ」と言っている人たちは、「治る」と言って、(ほかの人の病気を)治してやればよいのである。「一秒以内に治る」と言えば、一秒以内に治るのである。もし、一秒以内に治らないなら、言霊理論が正しくないということなのである。言霊の法則なんて成り立っていないということなのである。だって、そうだろ。言えば言った通りになるのに、どうして、治らないんだよ。一秒以内に治るといったら、治るんだよ。治らなかったら、言霊理論がまちがっていたということだ。言霊の法則なんて成り立っていないということだ。だいたい、「受け止め方をかえればいい」と言うことを言う人たちがいるけど、その人たちが、同時に言霊の法則が成り立っていると思っているのであれば、かなり矛盾している。言霊の法則が成り立っているのなら、言うことで、現実をかえればよいのである。受け止め方をかえるのではなく、言霊で現実をかえればよいのである。精神世界の人は、「言霊は絶対だ」と言ったあとに「受け止め方をかえればいい」なんてことを平気で言うけど、それは、おかしなことなんだぞ。矛盾しているんだぞ。精神世界の人たちだけではなくて、言霊的な考え方というのは、一般人ももっているものなのである。だから、実際に弱い立場の人に、攻撃をするようになるのである。実際にこまっている人を、もっと困らせるようになるのである。ほんとうは、法則性なんて成り立っていないのに、あたかも、法則性が成り立っているようなことを言う。そうなると、弱い立場の人がこまるのである。やられている人間が、さらにこまるのである。なんでこれがわからないのか? たとえば、家族内で、悪いことをやる人と、悪いことをされてこまっている人がいるとする。そうなると、精神世界の人は、悪いことをやられて、こまっている人に「受け止め方をかえればいい」と言うのだ。そして、「言えば言ったことが現実化するので、悪いことをやっている人を思い浮かべて、そいつが悪いことをやめると言えばいい」と言うのである。「悪いことをやっているやつ」を兄だとする。「兄が悪いことをやめる」と言えば、言った通りになり、兄が悪いことをやめるということになるのである。ところが、ならない。ならなければ、「言い方が悪い」と精神世界の人たちは言い出すのだ。いやーー。もうこれ、説明したから説明しない。こんなの、まったくやられているほうの人の役に立たないことなんだよ。むしろ、こまった状態をさらにこまった状態にしている。これ、家族内のこまった人間にやられ続けて、余裕がないときに言われたら、どれだけ、不愉快な気持になるか、ぜんぜんわかってないなぁ。精神世界の人は、まったくわかってない。

「3秒以内に、この病気は治る」と言って、治らなかったとする。その場合は、言っても言った通りにならない場合があるということなのである。だから、言霊の法則なんて成り立っていないということを認めなければならないのである。それを、言った通りにならなかった場合は、言った通りにならなかったことを、無視してしまうのである。言った通りにならなかった場合を無視してしまうのである。こんなのない。「言えば言った通りになる」のに言った通りにならない場合もあるなんておかしいだ。言えば言った通りになる場合もあるし、言っても言った通りにならない場合もあるという意味で「言えば言った通りになる」と言っているのであれば、法則性なんてないだろ。ともかく、「言えば、言った通りになる」と言っている人は、まず、この世の人を全員しあわせにしてから、そういうことを言ってくれ。この世の、病人の病気をすべて治してから、そういうことを言ってくれ。

言霊主義者は他人に「言えば、言った通りになる」と言う場合、相手が失敗したら「(相手の)言い方が悪かったのだ」と言う。けど、自分が相手の病気を治すために、「相手の病気が治る」と言ったのに、相手の病気が治らなかった場合は、自分の言い方が悪かったから、そうならなかったとは思わずに、「相手の病気が治らなかった」という事実を無視してしまうのである。あるいは、自分が「相手の病気が治る」と言ったという過去の事実を無視してしまうのである。

まあ、自分の言い方が悪かったから、自分が言った通りにならなかったと認識したとする。その場合は、言い方が悪ければ、言った通りにならないということを認めるべきなのである。これは、まちがってるけど、ひとまず、言った通りにならなかったということを認めるべきなのである。実際には、言い方に関係なく、「言えば、言ったことが現実化する」という考え方自体がまちがっている。

ほんとうは「自分は言霊(の力)を使える」という、自己イメージがまちがっているのに、「自分は言霊(の力)を使える」という自己イメージを傷つけたくないので、「言っても言った通りにならない場合がある」ということは認めないのだ。ともかく、だれが言うにしろ、「言い方が悪かったから、現実化しない」というのは、まちがの上に、まちがいを重ねた言い方なんだよ。言い方が悪かった「から」とまちがった原因を真実の原因だと決めつけているので、まちがっている。そして、「言い方がよい場合は、言ったことが現実化する」とい考えもまちがっている。

2025年3月29日土曜日

まあ、正直、とてつもなく、むなしい。

  まあ、正直、とてつもなく、むなしい。

ほんとうは、眠るべき時間なんだけどなぁ。今日は、大丈夫かな?

行った先で、生きていても、特に人生はかわらない。けど、ネズミとダニから解放されれば、それでいいかな。

ほんとう、ひとりで、自転車をこいでいたときの気持ちがよみがえる。あのとき気分がよみがえる。けっきょく、これかぁ。ヘビメタ騒音にやられて、むなしい気持ちで、自転車をこいでいたなぁ。それが、青春か? ああーー。ほんとうにつらかった。きちがいヘビメタにたたられて、めちゃくちゃにくるしかった。どこまで行ってもかわらないなぁ。

*     *     *

俺がどれだけ不安になっても、きちがい兄貴がまったく気にしないで鳴らしてたんだよな。どうして不安になっているかというと、きちがいヘビメタ騒音で、不安になっていたのである。遅刻も、宿題ができないというとも、テストのこと、恋愛もなにもかも、ヘビメタ騒音でずたぼろで、先が見えなくなって、不安になっていたのである。不安の根源はきちがい兄貴なんだよ。その不安の根源が、まったく気にしないでずっと鳴らしてやがる。〇・一デシベルでも静かにしたら、ものすごくでかい音で鳴らしているのに「ゆずったゆずった」と「ゆずってやった」気分になる。きちがい兄貴ゆずってやったと思っている時間も、きちがいヘビメタで、めちゃくちゃだったよ。これ、鳴らされている最中だけめちゃくちゃだと思ってる人がいるけど、鳴り終わったあとも、めちゃくちゃなんだよ。どうして、それがわからないのか? 経験がないからわからないのだと思う。きちがい兄貴みたいな家族がいないから……その人にはいないから、実際に経験してない。実際に経験してないから、鳴り終わったあと、どういう気持になるかわかってない。だから、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」などと言う。こんなの、おかしいよ。「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」なんて言っている人は、まったくなにもわかってない。どれだけ「自分だって苦労した」と言ったって、ぜんぜん「苦労」の「苦労」がわかってない。毎日、この世で一番きらいな音が数時間から十数時間鳴っているということが……爆音で鳴っているということが、どういうことなのか、まったくわかってない。わかってないのに、ふたこと目には「自分だって苦労した」だ。ぜんぜんちがう苦労なんだよ。ぼくと同等の苦労をした人が「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」なんて、絶対に言えない。そんなことを信じていられる状態であるはずがないのだ。こいつらみんな、まちがっている。

2025年3月28日金曜日

普通の人が、やらないのは、普通の人は、「そんなことをしてはいけない」ということがわかっているからだ

 家庭生活という一番基本的なところで、一番身近な他者である家族が、「こっちの都合」を一切合切考えないで、ものすごい迷惑行為を、一日に何時間も何時間もやっているのだから、そりゃ、落ち込むだろう。そして、「そんなの、関係、ない」と言う、他者が、何人も何人も、あらわれるのだから、そりゃ、不愉快になるだろう。これ、他者とのトラブルが、避けられないことなのである。「そんなの、関係ない」「鳴り終わったら、関係、ない」と言われていいわけがないのに、それがまったくわかってない他者があらわれてしまうから、不愉快なのである。そういうやつにかぎって、無限のゆるしを、強要するというか……。できないことを、言ってくるのである。そいつだって、実際に、実生活でやられたら、「できないこと」なのに、やられてないから、わかっていないというタイプだ。ともかく、きちがい兄貴が、ガン無視なのである。そして、普通の人がやらないことを、毎日、きちがい的な意地で、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間もやっているのである。やったのである。普通の人が、やらないのは、普通の人は、「そんなことをしてはいけない」ということがわかっているからだ。そういうことを、毎日、まったく気にしないで、すべての使える時間を使って、やってしまって、何も感じないというのがおかしいことなのである。けど、きちがい頭を搭載しているので、どれだけ、言われても、本当に何も感じないのだ。もちろん、自分がやりたいことを、じゃまされるようなことを言われれば、それには反応する。けど、これが、きちがいだから、うまく自分で認識できないのだ。ともかく、非常にすさまじい迷惑行為を夢中になってやっているのだけど、非常にすさまじい迷惑行為とは、認識しない。ガン無視して、やり続ける。相手がこまっているということがまったくほんとうに、わからない。じゃあ、自分が、自分の苦手な音をあの音量で、鳴らされたら、おこるかおこらないかというと、おこるのである。きちがい兄貴はおこる。発狂する。そして、ぼくにむりなことを言っている人たちだって、おこるのである。ぼくに、無限の許しを強要する人たちだって、発狂して、おこるのである。それは、あの音量だったら、そして、あの至近距離であったら、一分間で「やめろ!やめろ!やめろ!」と怒鳴りこみたくなるような気持ちになるのである。一分間だって、一分間が、あしなのである。ともかく、影響をうけるわけだけど、影響をうけないでかんばればいいのだと考える人たちがほとんどなのだ。その人たちだって、実際に、家族におなじことをやられたら、影響をうけるのだ。どれだけ影響をうけないように、がんばっても、がんばっても、ちからだが、不可避的に影響をうける。影響をうけて、失敗をしたり、不具合がしょうじるのである。これが、不可避的にしょうじることなのである。実際、からたがだるくなるのである。どれだけ、だるくならないようにしても、だるくなるのである。「元気だ元気だといえば下金になる」と言っている人たちは、実際に、おなじことを、家庭生活でやられたら、どれだけがんばっても、だるくなるということを、認めていない。そんなのは、「元気だ元気だ」といえば、解決できることなのである。だから、こいつらも、「どうしても、だるくなる」ということを、ガン無視しているやつらなのである。だから、その点で、きちがい兄貴と、こいつらは、多少似ているのである。あんな音を、至近距離で何時間も何時間も、きかされ続けたら、どれだけ気にしないようにしても、からだが影響をうけて、眠るべき時間に眠れなくなってしまうのである。何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も眠れなくなってしまうのである。眠るべき時間に眠るということは、きちがい兄貴が、きちがいヘビメタをやるまでは、普通にぼくだってできたことなのである。ところが、それが、きちがい蛇目騒音にさらされると、どうしてもできなくなってしまうのである。ところが、そういう切羽詰まった状態が「そんなの、関係ない」と言うやつらにはわからないのである。これだって、ほんとうに、自分がやられたらそういう状態になるのに……やられてないからわかってないだけなのに、「自分なら、おなじことをやられても、眠れるし、影響はない」と簡単に考えてしまうのである。けど、ヘビメタ騒音ではなくて、そいつが苦手な音が鳴っていたら、そいつだって、どうしたって、夜、眠るべき時間に眠れなくなってしまうのである。人間のからだというのは、そういうふうにできているのである。「ヘビメタ」というと「ヘビメタ」が好きなやつは「そんなことはないだろう」と簡単に考えてしまうけど、そういうふうに、簡単に考えてしまうやつだって、自分がこの世で一番きらいな音を、九〇デシベルから一〇〇デシベルで聞かされ続けたら、夜、眠れくなるのだ。音のでかさというのは、距離の二乗に反比例しているんだよ。距離がものすごく重要なんだよ。実際に、鳴らされてないから、日中や夕方や夜の時間帯に、聞かされ続けると、午後一一時とか、午後一一時一一分とか、眠るべき時間になっても、まったく眠れな状態になっているということが、普通の人には、わからないのである。実際に、毎日毎日、やられたことがないから、わからないだけだろ。きちがい家族がないから、そういうことがしょうじてしまうということが、わからないだけだろ。ともかく、夜、眠るべき時間に眠るということは、ぼくは、ヘビメタ騒音がはじまるまで、特に、がんばらなくても、普通に、毎日できていたことなのである。これが、わかってないやつが、ヘビメタ騒音の影響を無視して、むりなことを言ってくるのだ。

きちがい兄貴が、迷惑行為をしているのに、影響をうけている俺が悪いということになってしまうのだ。けど、そういうことを言っている人だって、実際に、やられたら、影響をうけると思うよ。俺とおなじような影響をうけると思うよ。

実際に、その人たちの家族は、きちがい家族とちがって、きちがい行為をしていないのである。きちがい兄貴のように夢中になって、ほかの人だったら鳴らせない音で、ガンガン鳴らし続けるということは、できないのである。だから、逸脱行為をしているのは、きちがい兄貴なんだよ。ところが、きちがい兄貴の逸脱行為の結果、こっちが、宿題をもっていかなかったり、遅刻をしたり、通勤通学ができなくなったりすると、こっちが、逸脱行為をしているということになってしまうのである。どうしたって、そうなるという必然性がわかってない人間には、ぼくが、さぼっているように見えるのである。どうしたって、そうなるという必然性がわかってない人間は、「鳴らされたってそうならない」と考えているわけだから、エイリの逸脱行為に目が向いて、兄貴の逸脱行為には目が向かないのである。

「自分なら鳴らされたって平気だ」「自分なら鳴らされたって影響をうけずに暮らすことができる」と思っているやつは、実際にやられてないから、そう思っているだけなのだ。実際煮られてないからそう思っているやつは、「必然性」を無視するのである。「どうしてもそうなる」という状態を無視するのである。そして、人間のからだを使って生きているということを無視しやがるのである。やられないから、普通に、夜、眠れるだけなのに、やられた俺に「むりなこと」を言ってくるのである。しかも、「それがわからないのは、エイリが未熟だからだ」とかそれがわからないのはエイリがあまえているからだ」と考えているのである。

 

2025年3月27日木曜日

「俺だって苦労した」「体が慣れてくる」と、きちがい家族によるきちがい騒音を正当化するのは、やめろ

 人間にはストレス対抗の力がある。だから、ずっと、たえられるかというとそうではないのだ。これは、説明した。

今度は、ストレスのほうを説明する。

サービス残業をさせようとしている経営者が「元気だ元気だと言えば元気になる」と言ってつかれている従業員にサービス残業をおしつけようしている場合、そのサービス残業のストレスは、悪いストレスなのである。

報酬があるという前提で、適切な時間だけ働いている場合は、よいストレスなのである。また、適度なトレーニングをしている場合は、よいストレスなのである。

ストレス刺激が善玉か悪玉かで、長期間、そのストレス刺激にさらされた場合の効果がちがうのである。効果というのは、体にあらわれる影響のことだ。

きちがいヘビメタ騒音のなかで、パズルを解こうとする場合、ヘビメタ騒音が悪玉ストレス刺激だから、長期間続けば、負の効果があらわれるのである。

いっぽう、騒音がない、しずかな環境で、パズルを解く場合は、パズルを解いたことによって、ちょっとずつパズルに強くなっていくのである。この場合、「パズルを解く」ということは、善玉のストレス刺激なのである。

ちなみに、騒音という悪玉条件下で、パズルを解こうとすると、パズルが解けないので、負の経験が積み重なるということになる。パズルを解くということ自体が、どんな場合でも、善玉ストレスだとは限らないのである。騒音下で、パズルを解こうとするのは、悪玉ストレスになる場合がある。

普通に働くのと、サービス残業をするのとでは、背景になる文脈がちがうのである。サービス残業の場合は、おカネが発生しないので、おカネが発生しないということが、わかっているということになる。なので、仕事自体のストレスと、おカネが発生しない仕事をするということのストレスは、ちがうのである。

こういうことを、無視して、「体が慣れてくる」とか「俺だって、苦労した」とかと言って、ストレス刺激をいいことのように言うのはよくないことなのである。

これがわかってないやつが、どれだけいるか?

努力の努力がちがうとずっと言っているだろ。苦労の苦労がちがうとずっと言っているだろ。適切なストレスがかかっている場合と、不適切なストレスがかかっている場合はちがうのである。あとは、時間の長さ、期間の長さは、重要だ。

時間の長さも、期間の長さも、ストレス刺激の質も無視して、「俺だって苦労した」「体が慣れてくる」と、きちがい家族によるきちがい騒音を正当化するのは、やめろ。 

頭が悪いやつばかりだな。傲慢なやつばかりだな。ヘビメタ騒音の影響を無視する発言は、ゆるせない。

どうして、ストレスの質を無視するんだ?

どうして、背後の文脈を無視するんだ?

どうして、ストスレ刺激の持続時間を無視するんだ?

どうして、ストレス刺激の持続期間を無視するんだ?

ちがうじゃないか。

*     *     *

まあ、区別しないでひとまとめにして考えているか、あるいは、ほんとうに、区別する能力がないのだろうけど、もうちょっと、区別して考えたほうがいいよ。


「鳴り終わったら関係がない」

 「鳴り終わったら関係がない」とか言っているやつが、「自分だって苦労した」と言ったって……意味がないんだよ。ちゃんちゃらおかしい。「鳴り終わったら関係がない」といっている時点で、まったくわかってないやつなんだよ。経験がないから、わかってないんだよ。「鳴り終わったら関係がない」なんて、ぼくとおなじ経験をした人なら、絶対に言わない。口が裂けたって言わない。ところが、軽く「鳴り終わったら関係がない」といってしまう。これは、おなじような苦労をしてないということなのである。

「鳴り終わったら関係がない」……これが正しいと思えるやつら。そんなやつらが「自分だって騒音ぐらいあった」と言ったって……意味がないんだよ。同等の騒音経験がないことが、丸見えなんだよ。バレバレなんだよ。絶対に、おなじレベルの騒音を経験したらそんなことは、言わない。言えるわけがない。まったくわかってないから「鳴り終わったら関係がない」「自分だって騒音ぐらいあった」と言えるだけなんだよ。

だから、こういう人は、普通の騒音しか経験してないんだよ。ぼくだって、きちがい兄貴の騒音が鳴るまえ、横が幼稚園だから、普通の騒音は経験してたんだよ。きちがい兄貴が、フォークギターを弾いているときも、普通の騒音は経験してたんだよ。「そんなのじゃない」と言っているだろ。これも、こういうやつらは、どれだけ「そんなのじゃない」と言っても、認めないんだよな。きちがい兄貴とおなじような態度で、騒音の影響を否定する。きちがい家族による騒音の影響を否定する。

たしかに、こいつらは、俺の横で、きちがいヘビメタを鳴らしたやつじゃない。けど、きちがい兄貴の騒音について、まちがった考え方をもっている。そして、ぼくがどれだけ言っても、まちがっているということにを認めない。「ちがう」と言っているだろ。「そういうレベルの騒音じゃない」と言っているだろ。

「鳴り終わったら関係がない」なんて、どれだけ、しあわせなやつが言ってるか、よくわかるよ。ぜんぜんちがうんだよ。こいつらは、普通の家族のもとで育ったから、きちがい家族が意地をはったときの状態というのがわからない。きちがい家族と一緒に住んだことがないから、きちがい家族と一緒に住んでいるとどんなことになるか、まったくわかってない。

ただ単に、恵まれていたから……ぼくよりも恵まれていたから、ぼくとおなじような家族が鳴らす騒音を経験しなかっただけなのである。ところが、「鳴り終わったら関係がない」なんてえらそうなことを言う。自分なら、平気だという前提に立って、えらそうなことを言う。こんなやつらに、こんなことを言われるすじあいはなかった。

これ、きちがい兄貴が、きちがい兄貴ではなくて、普通の兄貴だったら、そもそも、あんな音で鳴らそうと思わないし、「うるさい」と言われたら、うるさい音で鳴らしているということがわかるから、やめるんだよ。ところが、きちがい兄貴がきちがい兄貴だから、きちがい的な意地で否定して……でかい音で鳴らしているということを否定して、きちがい的な意地で鳴らし続けてしまう。

よその人には、そういうきちがい家族がいないのである。だから、やられずに、済んだだけなのである。あーー。それなのに、それなのに……。こいつらときたら、えらそうなんだよ。ほんとうに、きちがい兄貴がやらなかったら、こんなやつらに、えらそうなことを言われないですんだ。

そりゃ「鳴り終わったら関係がない」と思えるような騒音しか経験しないわけだから、言われるわけがないのだ。まず、きちがい兄貴のヘビメタ騒音で、こっちに不調がしょうじるのである。けど、その不調について、普通の人たち、よその人たちは知らないのである。だから、「兄のヘビメタ騒音で不調が生じた」という内容のことを(ぼくが)言うわけである。そりゃ、説明するだろ。それに対する、こいつらのこたえが「鳴り終わったら関係がない」「自分だって騒音ぐらいあった」なのである。こいつらの理解力が低すぎる。頭が悪すぎる。傲慢、高慢。ほんとうに、ふざけるな。

こんなやつらばかりだ。 

きちがい兄貴のヘビメタ騒音は、音のでかさと、音源からの距離から言って、すべてに影響をあたえる。これ、たしかに、うるさい音が鳴っているけど、勉強はできるというのがある。工事の音などだ。けど、俺にとって、ヘビメタの音はそういう音じゃないのである。しかも、きちがい兄貴が、よその家では一分だって鳴らせないようなでかい音で鳴らすから、やられているあいだじゅう、ずっと、発狂しているような状態なのである。頭がこんがらがって、頭にくる……きちがいの出す音で腹がたつということ以外は、まったくなにも考えられない状態になってしまうのである。音が、持続的に、あとからあとから入ってくる。これがわからないのであれば、ぼくと同等の騒音は、経験してないということになる。

これが、何千日も続いて、いいわけがないだろ。一日のなかでも、六時間以上、鳴らされたあとは、みもこころもめちゃくちゃで、なにもできない状態になってしまうのである。

鳴り終わったら関係がないどころか、鳴り終わったあとのことすべてに関係があるのである。これがわからないのであれば、それは、そういうレベルの困難だ。ぜんぜんちがうことを言っているのがわからないのかな? ぜんぜんちがうことについて言っているということぐらい、理解したらどうなんだ。

これ、ほんとうに腹がたつ。なぐらないけど、なぐりたくなるほど頭にくる。頭煮るということがわからずに、「鳴り終わったら関係がない」と言っているのだから、同等の苦労なんてしているわけがないだろ。ふざけるな。

きちがい的にでかい音で鳴らしているのに、フォークギターぐらいの音で鳴らしているつもりなのだ

「俺がこまっている」ということが、兄貴にはわからないんだよなぁ。どれだけ言っても、わからない。

普通の人だったら、あれだけでかい音で鳴らせば、横の部屋の人がこまるということは、言われなくてもわかることなんだよ。

けど、何万回、十何万回言われても、わからないままなんだよ。だから、「俺がまったく気にしていない」と思って、ずっと、鳴らしている状態なんだよな。こっちがどれだけ、地獄かわかってない。

どれだけ言っても、きちがい兄貴が、わからない。

この「わからなさ」というのが、異常なんだよ。だから、兄貴がわからないと言うことが、「よその人」にはわからない。だから、俺が誤解をうける。


そして、よその人は、けっきょく、兄貴みたいな家族に、騒音でたたられていないんだよ。だから、どういう状態になるのか、わかってない。

だから、自分なら影響をうけないという前提で「そんなの、関係がない」「影響なんてない」と言いやがる。これがどれだけ腹立たしいことか、これまた、よその人にはわからない。

きちがい兄貴の「わからなさ」というのは、きちがい親父の「わからなさ」とおなじなんだよ。きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で、きちがいヘビメタを、思いっきりでかい音で鳴らす。

スピーカーの位置から考えれば、きちがい兄貴の立ち位置よりも、ぼくの部屋の壁のほうがスピーカーに近いのである。

このスピーカーも、きちがい兄貴が鬼のようにバイトをして買った、ものすごく高いスピーカーなんだよ。「自分でバイトをして買ったスピーカーだから、一切合切、文句を言われる筋合いがない」という思考になってしまう。

実際、きちがい親父は、兄貴がバイトをして買ったスピーカーだから文句を言えなかった。

自分がバイトをして買ったスピーカーだから、どれだけ鳴らしても問題ないと考えしまう、きちがいなのである。だれのカネで買ったかなんて関係がないんだよ。でかい音で鳴らしているということが、問題なんだよ。

けど、親父とおなじタイプの気ちがいだから……兄貴は、親父とおなじタイプの気ちがいだから、それがわからない。

ほんとうに、自分がガンマしなければならないことを言われたら、きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で、発狂して、黙りこくって認めない。

けど、これが、「言われた」ということも、わかってないような状態なのである。なにか、不愉快なことを言われたという感じがして、それに猛烈に反応しているだけだか、「言われたことの正確な意味」がわかってない状態なのだ。

だから、何万回言われてもそうやって、きちがいモードではねのけてしまえば、本人は「なにも言われなかった」という設定で、なんの気兼ねもなく、鳴らしてしまう。

だから、鳴らしているあいだじゅう、弟であるぼくに悪いと思ってないのだ。でかすぎる音だと思ってないのだ。

きちがい兄貴が音をゆずるときは、自分がゆずってやりたい分だけ、ゆずってやるということになる。

〇・〇〇〇一デシベルでもゆずってやったら、ゆずってやったということになってしまう。定期テストのときも、本人が七時間鳴らせるなら、七時間鳴らして、一〇時間鳴らせるのであれば一〇時間鳴らして、日曜祭日で一三時間鳴らせるなら、一三時間鳴らしていたのだ。

定期テストというのは、ぼくがうける定期テストね。中間テストとか期末テストとか……。普通、試験の前に(あれだけでかい音で鳴らされたら)こまるというのが、言われなくてもわかるはずなのに、きちがい兄貴はきちがいだから、その日に何十回言われても、わからないんだよ。わからないまま、やり続ける。

ほんとうに、「まったく鳴らしてない」ときとおなじ気分なんだよ。全部の時間、がめてがめてがめて、全部の時間鳴らしたときの俺に対する気持ちと、ヘビメタを鳴らそうと思ってなくて、全部の時間鳴らさなかった時の俺に対する気持ちがおなじなんだよ。

この全部の時間鳴らさなかったときというのは、仮定の話だ。

きちがい兄貴が、ヘビメタに興味をもたず、おもっきり鳴らしたいと思わなかったときの話だ。仮定の話。鳴らしてないのだから、気にしないだろ。別世界の話なのだけど……。その鳴らしてないときの気持ちと、全部の時間、がめて、鳴らしたときの気持ちがおなじなんだよ。……仮定の話なんだけどさ。……仮定の話。

別世界のきちがい兄貴を想定して、別世界のきちがい兄貴が、ヘビメタに興味をもたなかった場合の話だ。

これでなにを言いたいのかというと、ほんとうに、鳴らさなかった場合の気持ちと、全部の時間、自分の意地をとおして、俺がやめろやめろと言っているのに、鳴らしきったときの気持ちがまったくおなじだということを言いたいのだ。そのくらい、気にしてないのである。

たとえば、ほんとうに、なにも鳴らしてなかった場合のことを考えてみよう。なにも鳴らしてないのに、横の部屋の弟が「うるさい音で鳴らすな」と言ってきた場合のことを、仮に考えてみよう。実際にはなにも鳴らしてないのだから、おかしいのは弟だということになる。きちがい兄貴は、実際に鳴らしていないときのように、自分は悪くないと考えているのだ。

ここらへんが、ずれているのである。ここらへんが、きちがい的にずれているのである。普通の人だったら、絶対に、あんな音で鳴らそうと思わない音で鳴らしているのである。普通の人だったら、普通に遠慮して、「でかい音で鳴らすのはやめよう」と思うような音で鳴らしている。

まったく鳴らしてなかった場合ではなくて、たとえば、きちがい兄貴が、フォークギターを鳴らしていた場合について考えてみよう。

フォークギターの音は、まあ、普通の音だ。この場合、鳴らす時間の長さにもよるけど、「そんなにでかい音で鳴らしていないのに、なんなんだ」と思う場合もあるだろう。

きちがい兄貴は、きちがい的にでかい音で鳴らしているのに、フォークギターぐらいの音で鳴らしているつもりなのだ。あるいは、まったく鳴らしていないつもりなのだ。

だから、弟がなにを言ったって、聞いてやる必要はないと考えているわけ。

もっとも、この表現は、きちがい兄貴の無意識的な行動を、かなり意識的な行動に変換して考えた場合の話だ。

*     *     *

きちがい兄貴のなかでは、思考が成り立っていないのである。ようするに、ほんとうのことを言えば、「フォークギターぐらいの音で鳴らしているのに、なんだ」とさえ思っていない状態なのである。

だけど、態度としては、そういう態度で、自分がやっていることが、非常識な悪いことだとは、まったくまったくまったく、思ってないのだ。そこが、異常なのである。そこが、きちがいなのである。聴力が弱い高齢者が、テレビの音を比較的に言って、うるさい音で鳴らしているというようなものではないのだ。

最初のうちは、きちがい兄貴は、ヘビメタで耳が悪くなっていないので、耳は正常だった。ところが、その正常なときから、ものすごくでかい音で鳴らして、まったくでかい音ではないと考えていたのだ。

思いっきり、どでかい音で鳴らしたかったので、無意識的なレベルで、どでかい音だと認知しないようにしたのだ。だから、どれだけ「でかい音だ」ということを(こっちが)言っても、きちがい認知バリアーによって、(兄貴は)認めないのである。

さっきも書いたけど、きちがい親父のはんだ小手事件のときも、きちがい認知バリアーによって認めないと言うことが発生している。これ、本人にとっては、いいことなのだ。

怒り狂ってはねのけて、自分がやりたいことを押し通すことが手きるので、本人にとっはいいことなのだ。けど、こういう家族と一緒に住んでいる人がすくないので、ぼくが言っていることが、普通の人にはまったく伝わらないのである。

でかい音で鳴らしていれば、でかい音だと認知できるはずだということになる。聴力が正常なのに、どれだけでかい音で鳴らしているかわからなくなるということはないという、前提で、ぼくの話をきくのである。

だから、ほかの人は、「たいした音で鳴ってなかったのだろう」と思ってしまう。そして、「ヘビメタ騒音だとかなんだとか言って、言い話を消している」と考えてしまうのだ。

けど、その人たちが想定している音より……つまり、その人たちが想像している音より、ずっとずっとずっとずっと、でかい音で、きちがい兄貴が鳴らしていた。あの音のでかさで、自分が苦手な音を、ずっと鳴らされていたら、夜、眠れなくなる。

たとえば、午後一一時一一分には鳴りやんでいるとする。じゃあ、午後一一時一一分には、普通に眠れるのかといったら眠れないのである。

けど、「俺だって騒音ぐらいある」と言っている人が、経験している騒音とはちがうので、夜、適切な時間に眠れなくなるという効果があるのである。それがわかってないということは、「俺だってそうぐらいはある」とといっている人の騒音が、たいした騒音じゃないというとがわかる。逆にわかる。

だってそうだろ。おなじように眠れくなるような騒音にさらされた経験がある人は、「ねむれなくなる」ということに、賛成する。

2025年3月26日水曜日

「全部がめてゆずってやらなかった」という気持がないのだ。認識がまったくない。

ヘビメタ騒音で、人生ないわぁ。ヘビメタ騒音で、人生ない。きちがい兄貴が、まったくなにもしてないつもりで、すべての時間鳴らしたということが、気に食わない。ほんとうに、一秒もゆずってくれなかった。ヘッドホンで鳴らしてもいいはずなのに、俺がどれだけ困っていても、絶対にヘッドホンは使わず、スピーカで鳴らすことにこだわってこだわってこだわって、スピーカーで鳴らした。だから、こだわっているんだよ。ところが、本人は、こだわっているつもりがまったくないのである。きちがい兄貴のなかでは、俺がどれだけこまっていたってかまわないのだ。弟がどれだけ、自分のヘビメタの音でこまっていたって、気にしない。気にならない。どれだけ言われても、理解しない。まったくまったく、気にならない。これ、きちがい兄貴が、親父にやられたら、きちがい兄貴は、わかるんだよ。きちがい親父が、自分(きちがい兄貴)の都合を無視して、頑固にやりきっているということが(きちがい兄貴には)わかる。きちがい親父が、普通なら、絶対にわかることを、わからないまくやりきっているということが、きちがい兄貴にもわかる。きちがい親父が、きちがい兄貴にやる場合も、きちがい親父はまったく理解してないのである。どれだけ言われても(きちがい親父は)まったくわからないのである。けど、きちがい兄貴は、自分がやられれば、(親父がきちがい的な意地で迷惑行為をしているということが)わかるんだよ。きちがい親父のような他人がきちがいモードでおなじことをやれば、きちがい兄貴は、腹がたつわけ。どうして、自分がおこっているかわかるわけ。きちがい親父の態度が異常だとわかるわけ。けど、自分がやる番になったら、絶対にわからない。親父とおなじでわからない状態に鳴ってしまうのである。ちょっとでも、ほんとうに我慢しなければならないことを言われたら、発狂して、はねのけておしまいだ。親父は、絶叫バージョンと寡黙バージョンがあるけど、きちがい兄貴の場合、寡黙バージョンしかない。むすーーーっとした、真っ赤な顔をして、(殺されないので)やりきる。やりきっているんだよ。ところが、全部……一〇〇%やりきっても、まったくまったく、やってないのとおなじ気分なんだよ。これが、きちがい兄貴と、わざわざ、きちがいをつけて呼ぶことの理由だ。こんなの、ない。きちがい兄貴は、きちがい親父とおなじように、悪いことをしているつもりがないのである。どれだけ言われたって、本人のなかでは、やっていいことをやっているような気持ちしかないのである。ぜんぜんこだわってないような気持ちしかないのだけど、それは、一〇〇%全部、自分がゆずらずにやりきることができるから、こだわってないだけなのだ。一秒間でも、ほんとうに自分がゆずらなくなったら、発狂する。発狂して、絶対の意地でやろうとする。だから、殺さなければならなくなる。これ、殺さないとやめさせることができないんだよ。何度も言うけど、悪いことをやっているつもりがない。迷惑行為をやっているつもりがない。どれだけ言っても、弟が自分の音でこまっているということが、発狂的に、わからない。わからないのであれば、どれだけやっても、やったことにならないのである。悪いことをしているつもりが、どこまでも、まったくない。だから、全部がめてしまうのだけど、全部がめて、相手にすべての時間迷惑をかけているということが、わからない。きちがい兄貴は、まったくわからない。この状態が、ほんとうに、きちがい的な状態なのだ。これ、言いようがないよ。結果、ぼくが、ほかの人から、嫌われるのである。プレゼントをかえすことができなくなってしまう。きちがい兄貴のきちがい騒音でそれどころじゃないのだ。そして、高校を落ちまくって、それどころじゃないという状態になる。けど、高校を落ちまくってこまっているときも、きちがい兄貴は、七時間鳴らせるなら、七時間鳴らして、一三時間二〇分慣らせるなら、きっかり一三時間二〇分、鳴らして、ゆずらなかった。けど、ゆずってやらなかった」という気持かない。「全部がめてゆずってやらなかった」のに「全部がめてゆずってやらなかった」という気持がないのだ。認識がまったくない。

ほんとうに、人生のなかで、一日だけのぞいて、すべての日、まったくゆずってくれなかった。きちがい兄貴はゆずってくれなかった。自分が一三時間二〇分鳴らせるのに、二時間がまんして、一一時間二〇分にしてやるということが、本番の試験前だろうがなんだろうが、ないのである。もちろん、二時間ゆずってくれても、本番の試験前に一一時間二〇分やられたら、こまるのである。本番の試験の前には、本番の試験の前の期間がある。本番の試験二週間前なら、二週間前だ。人生のなかで一日だけのぞいて、すべての日、全部の時間やられた。これが事実だ。もちろんゆずってない。そして、仮に、二時間ゆずってくれたとしても、フルの時間から二時間引いた時間、鳴っていれば、それで、気分がぐちゃぐちゃになる。なんてたって、高校受験の時ですら、三年以上、日曜・祭日も含めて、毎日、鳴っていた音だからだ。その音で、勉強ができなかった。こういう音が、受験前の期間に鳴っていれば、それは、もちろん、尋常じゃない気分になる。言っておくけど、普通の家だったら、一分間だって鳴らせないようなでかい音で鳴らしているのである。

 

 

2025年3月25日火曜日

「明るいことが起こる」と思ったかどうかということは、関係がないことなのである(2)

「明るいことを言えば、明るいことが起こる」というのも、家族や友人に恵まれて、明るいことが、頻繁に起こっている人が考えると、あたかも、その言葉が正しい言葉のように思えるのである。

ところが、一〇〇%詐欺が成り立っているので、「真」ではないのである。一〇〇%詐欺に引っかかっていなければ、「偽」だということが、わかるのである。

ようするに、命題として考えれば、「明るいことを言えば、明るいことが起こる」という命題は「偽」なのである。

*     *     *

「明るいことを言えば、明るいことが起こる」ということを信じられる人は、幼児的万能感に支配されている人なのだけど、それとは別に、実際に条件に恵まれた人なのである。

だから、別に「明るいことを言わなくても」頻繁に明るいことが起こる状態でくらしていたのである。それは、さまざまな条件が影響をあたえている。

ようするに、実際に、明るいことを言わなくても、頻繁に明るいことが起こっている場合、「明るいことを言えば、明るいことが起こる」と思って、明るいことを言ったら……言った「あとに」明るいことが起こるということがある。

なので、実際には、「言ったあと」なのだけど、「言ったから」だと誤解をすることができるのである。誤解だけど、本人は誤解だと思ってないので、「明るいことを思えば明るいことが起こるというのは、真実だ」と思ってしまう。

そういう人も、人間として暮らしていれば、「苦労をする」ので、「自分だって苦労した」と本気で言えるのである。

しかし、「明るいことを言えば、明るいことが起こる」ということを信じられる人の条件と、ぼくの条件はちがうのである。

まあ、悪い条件をかかえた人は、悪い条件によって、明るいことを言っても、暗いことが起こるようになっているのである。

しかし、「明るいことを言えば、明るいことが起こる」ということを信じられる人や、一般人は、条件を最初から、ガン無視するので、条件にかかわることを一切合切考えないのである。

ただ、自分が言ったかどうかということが重要だということになるのである。

「明るいことが起こると言ったか」「明るいことが起こると言わなかったか」という条件だけが、結果を決めると考えているのである。もちろん、まちがいだ。これ、まちがいなのである。ほかの条件を、ガン無視しているから、正しいように思えるだけなのである。

条件が悪い人がこまっているのは、条件が悪いからなのだけど、言霊的なことを言う人たちは、みんな、条件が悪い人の条件を無視するのである。

これは、失礼なことなんだよ。まったく、失礼なことだと感じていないみたいなんだけど、失礼なことなんだよ。

そして、言霊的な解決策の提示は、有害なんだよ。最悪の条件をかかえている人に、最悪の条件をかかえていない人が、有害なことを言って、ダメ出しをする。

そういうことがまかりとおっている。これは、いいことじゃなくて、悪いことなんだよ。

最悪の条件をかかえている人が条件について、言及すれば、言霊信者や一般的な人は「自分だって苦労した」と言って、最悪の条件をかかえている人の条件を無視するのである。

そりゃ、苦労したのはほんとうだろうけど、最悪の条件をかかえているわけではないということも、ほんとうのことなのだ。おなじではない。条件がちがう。

条件を無視して、ストレスをかけるめちゃくちゃなことを言い、そして、「自分だって苦労した」と言って、自分の意見を正当化するのである。相当にいろいろなポイントでまちがっている。

*     *     *

外部条件によって、頻繁に、明るいことが起こるなら、「明るいことを思っていると明るいことが起こる」と思うことができるだけなのである。精神世界の人は、因果を逆転させて考えているのだけど、もうひとつ、無視しているものがある。それが、繰り返しだ。繰り返し起こることに関しては、たしかに、暗いことが起こった場合、暗い気持ちになるので、暗いことが起こるのではないかという気持になる。また、実際に、暗いことが、「繰り返し」起こっているのだから、精神世界の人が、その人はネガティブな性格だと考えることができるような性格になるのである。外部条件によって、「繰り返し」暗いことが起これば、そりゃ、物事に対して暗い見方をするようになる。それを、性格だというのであれば、性格なのだろう。しかし、精神世界の人は「外部条件」を無視しているので、その人……たとえば、繰り返し暗いことが発生しているので、暗い性格だと思われる人の性格の問題だと思ってしまうのである。なので、外部条件が悪い人は、精神世界の人から、暗い人間だと思われるようになるのである。精神世界の人は、暗いことを言っているから暗い性格だ」とか「暗い見通しをもっているので暗い性格だ」と思ってしまう。精神世界の人と書いたけど、精神世界に凝ってない「他人」も、「外部条件」を無視して、「繰り返し起こること」を無視して、「その人」の性格について考えるということは、おなじだ。実際には、正確ではなくて、外部条件がもたらす「人間としてあたりまえの反応」をしめしているだけなのに、外部条件が悪いので、外部条件を無視する人にとっては、「その人」が暗い性格の人間だと思えるようになるのである。そうなると、条件を無視して考える人は、「その人」が暗い人間だから、暗いことが起こると思って敷くおのである。「その人」が暗い見通しをもっているから、暗いことが起こると思ってしまうのである。外部のものによって、発生する暗い出来事を、「その人」の性格のせいにしてしまうのだ。

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何回も書いていることだから、軽く説明するけど、繰り返し悪いことが起こっているのであれば、その悪いことがまた起こるようになるのではないかと思うのは、当然のことだ。どうしてかというと、その悪いことをもたらす「外部条件」がかわっていないし、人間は、そのことを認知し(外部条件がかわっていないということを認知して)予想をたてるからだ。人間は学習するのである。

だから、当然なんだよ。

手短に言えば、人間なら、暗い性格ではなくても、学習するから、予想をたてることができる。予想は、暗いことがこれからも起こるのではないかという予想だ。

それを、因果関係や出来事の順番を無視する精神世界の人が、誤解をしているだけなのである。精神世界の人が勝手に誤解をして、「暗いことを考えるから暗いことが起こる」と断言しているだけなのだ。完全にまちがっている。

そして、これは、じつは、悪いことなのである。精神世界の人は、いいことをしていると思っているけど、じつは、悪いことをしている。

けど、そういうことを言ってやられる人がいないのだ。

みんな、子どもだから……つまり、幼児的万能感に支配されているので、因果関係や出来事の順番を考えない。

言えば、言いがちの世界だから、言っていい気分になったやつが「かち」で、言われて不愉快な気分になったやつが「まけ」だということになる。

これが、明るい世界を求めている人たちが、やっていることなのである。外部条件によって、繰り返し起こっているということに目を向ける人は、ほとんど、いない。「そいつの性格が暗いからダメなんだ」とダメ出しをして、満足してしまう。

2025年3月24日月曜日

「明るいことが起こる」と思ったかどうかということは、関係がないことなのである(1)

「明るいことを思えば、明るいことが起こる」ということについて考えてみよう。

たとえば、明るいことを、一日のなかで、一回、一個、思った場合、一日のなかで、一個の明るいことが実際に起こる条件の人と、明るいことを、一回、一個、思った場合、一日のなかで、ゼロ個の明るいことが実際に起こる条件の人を考えてみよう。

ようするに、明るいことを発生させる条件というものについて考えてみるのである。条件がいい人のうちでは、子ども側の人間が、明るいことを思うと、親によって明るいことが一つ発生するのである。

しかし、条件が悪い人のうちでは、子ども側の人間が、明るいことを思っても、親によって、暗いことが一〇個発生するのである。明るいことは一個も発生しない。

いまは、かりに、「明るいことを思うと」と書いたけど、明るいことを思うかどうかは関係なく、実際には、条件によって、明るいことが起こる回数や、暗いことが起こる回数が決まっているのである。

だから、ほんとうは、「思ったかどうか」というのは、出来事にまったく影響をあたえない。「明るいこと」の定義によるけど、「明るいこと」の発生頻度が、外界の条件によって決まることなのであれば、「明るいことが起こる」と思ったかどうかということは、関係がないことなのである。

「空想のなかでは、明るいことが起こったということにする」ということについても、実際には、現実の世界のなかで、「その明るいこと」が起こらなかったら、起こらなかったのである。

自分の内部環境というものを考えて、自分の内部環境で、完結するものであるならば、そりゃ、「これこれこういう明るいことが起こる」と思って、「思ったことが実際に起こったと空想する」ことはできる。あくまでも、空想だ。

だから、自分の内部世界で完結しているのであれば、現実には、明るいことが起こらなかったとしても、自分のなかでは明るいことが起こったのだと言うことはできる。

しかし、それは、空想のなかのことだから、実際には、思ったことが発生しなかったのであれば、発生しなかったとみなすべきなのである。ようするに、実際に発生するということが必要なのである。

人間は、想像の中でだけで生きているわけではなくて、物理的な存在としての「人間のからだ」を、外界に対して保持しているので、必然的に、外界の刺激をうけることになるのである。

*     *     *

なにを言っているか、あんまり、よくわからないかと思うけど、「自分のなかで、いいことが起こると想像して、いいことが起こることを想像すれば、それで、思ったことが実現化したということになる」というようなことを言う人がいる。そういう、空想内のことで完結することについては、排除して扱わないようにするということだ。

むかしは、風呂に入るのが好きだったのに、いまは、めんどうだ

風呂に入った。むかしは、風呂に入るのが好きだったのに、いまは、めんどうだ。あんまり、気持ちよくない。どうしてかというと、親父・ネズミ・ダニ事件で、肌がかゆいからだ。そして、ひっかき傷があるからだ。風呂に入ると、熱で、体がかゆくなるのである。ひっかき傷のところを、かきたくなる。ともかく、かゆくて、気持ちが悪い。親父・ネズミ・ダニ事件がおこなかったら、こんなことになってないと思う。俺はもう、八年以上、毎日、ダニにやられっぱなしだから、ダニ経由の病気にかかっていてもおかしくはない。

けっきょく、親父のきちがい行為でやられるのか? 普通の親だったらなぁ……。普通の親だったら……。きちがいポイントが、ほかの人にはわからないのである。わかるわけがない。そして、ああいう状態で、頑固に問題を起こされると、ほんとうに、いやなのである。もう、むかし、説明したから、詳しくは書かないけど、まず、ものすごく、くさい、魚の切り身を一日に二十三時間、テーブルの上に出しておくということに、こだわるのがおかしいのである。もう、認知症になっていたけど、これ、認知症じゃないんだよ。親父のもともとの性格が影響している。これで、ネズミをおびき寄せたのに、親父が入院しているときに、魚の切り身をだしっばなにしたから、ネズミがきた」と俺が言ったら、親父が「だしてないよぉ!!だしてないよぉ!!だしてないよぉ!!」と真っ赤な顔をして言うのである。これも、認知症じゃないんだよ。認知症の「健忘」だと思うだろ。けど、ちがうんだよ。きちがい親父のもともとの性格なんだよ。これ、俺が幼稚園の頃から、かたちはちがうけど、ずっと、親父がやってきたことなんだよ。ぼくの記憶だとそうなんだけど、おかあさんの記憶なら、俺が生まれるまえから、親父はこういうことをやってきたということになる。ともかく、親父の場合、こういう反応をするのは、むかしからなのである。認知症になって、こういう症状が出たわけじゃないのである。これだって、「そんなのはおかしい」と、ほかの人が言うところだ。「もし、それがほんとうなら、おまえが子どものころ、おまえの父親を精神病院に連れて行くべきだった。精神病院に連れて行かなかったのは、おまえの責任。自己責任。自己責任」と言うかもしれないけど、連れていけるわけがないだろ。このきちがい親父の態度と、きちがい兄貴のヘビメタ騒音に対する態度がおなじなんだよ。


それは、理解している。

 つまんない。きちがいヘビメタ騒音なしで、生きたかった。もう、それだけなんだよな。どれだけ、つらいか、みんなわからないわけだし、わかってくれたところで、きちがい兄貴がやったことはかわらないし、きちがい兄貴がやったことの効果・影響がかわらないわけだから、まあ、無意味といえば、無意味だ。しかし、侮辱なんだよ。「自分なら影響をうけない」という前提で、「人は働くべきだから、エイリさんも働くべきだ」と言ったやつが、ゆるせないんだよね。ゆるせない。こいつらは、ゆるせない。ゆるせない。「自分なら、お兄さんをしずかにさせることができる」という前提で「ちゃんと言えば、わかってくれるだろ」と言ったやつも、ゆるせないなぁ。こいつらは、ぼくのことをバカにしていることに気がついているのだろうか。けっきょく、きちがい兄貴が、こいつらの思考の範囲外の存在なので、こいつらにはわからないだけじゃないか。そして、こいつらには、実際に、きちがい兄貴のような、きちがい家族がいなかったのである。だから、きちがい家族が、きちがい的な意地で、毎日毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間もやったことの影響をうけてない。影響をうけてないから、普通に、通勤・通学できるだけなのに、えらそうなんだよ。こいつらは、どんな理由であれ、「無職より自分のほうが上だ」と思っているし、どんな理由があるにしろ、「ひきこもりより、自分のほうが上だ」と思っているんだよ。さらに、こんなあほなやつらが、言霊や思霊、引き寄せみたいなことを考えていたらどうなるか? 侮辱しやがるんだよ。侮辱する。妄想は、やめろと言いたくなる。しかし、俺が、「妄想はやめろ」と言ったって、こいつらは、「エイリさんは社会経験が乏しいからそんなことを言っている」「エイリさんはひきこもりだから、そういうことを言っている」と思うわけだよ。どっちが幼稚な人間か、わからないのかな? ともかく、きちがい兄貴が、よその人が理解できないような意地で、よその人がわからないような影響をあたえたので、俺がよその人から、なめられるのだ。なめてかかってくるやつは、なにも(俺に対して)悪いことをしていないつもりなんだろうけど、相当に、わいことをしているね。ほんとうに、バカだから、わからない。そして、経験がないからわからない。経験がないだけなんだよな。きちがい的な家族と一緒に住んでいたことがないから、きちがい家族がどういう意地で、どういう感覚で、きちがい行為をするのか、まったくわかってない。きちがい家族がきちがい行為を、きちがい的な意地で毎日やったから、こっちが、通勤・通学できなくなり、社会不適応?になっているだけなのに、きちがい家族がきちがい行為を、きちがい的な意地で毎日やらなくても、エイリさんは、通学・通勤できなくなり、社会不適応になったという前提で、バカなことを言う。ほんとうに、バカなことなのに、バカだから、自分がバカなことを言っているということに、気がつかない。ほんとうに、バカだな。こいつらは、偏見にしたがって、妄想的なことを言っているだけなのに、自分がいいことを言っているつもりなんだよな。ただ単に、想像力がないから、俺の説明を聞いても、わからないだけだろ。ああっ、これは言ってしまってはいけないことだけど、言霊主義者が普段、自分の主張とは違っていることをしているということに、気がかつないのは、なんか、きちがい兄貴が、「ものすごくでかい音で」きちがい的なヘビメタ騒音を鳴らしているのに、それに気がつかないと言うことと、ちょっとだけ似ているんだよな。どうして、盲点になってしまうのか? なんで、気がつかないんだ? どうして、「おかしい」と思わないのか? けど、言霊主義者が、きちがい兄貴とおなじことをぼくにしたわけではないということは、理解しているよ。きちがい兄貴とおなじことを、言霊主義者は、ぼくにしていないわけだから、その点では、言霊主義者ときちがい兄貴は似ていない。おなじゃない。まったく、おなじじゃない。それは、理解している。

2025年3月22日土曜日

きちがい兄貴のことを言っても、普通の人にはわからないということになる。

 ほんとうにヘビメタ騒音がひどかった。

みんな、ほんとうに、わかってない。ぜーーんぜん、わかってない。あの音は、ぼくのこころを、きざむ。ぎちゃぎちゃにきざむ。

あの音のなかにいて、正常な状態を保てるわけがないだろ。ホシオメタシス、大崩壊だよ。

けど、ほかの人は、「うち」で起こっていることがわからないから、過小評価をする。

「自分だって苦労した」「自分だって、朝は眠たい」「自分だって困難を経験した」と言えば、それで、ぼくと同等、同質、同量の騒音を経験したことになってしまう。

睡眠に影響をあたえるわけだけど「鳴り終わったら関係がない」と言って、ヘビメタ騒音を浴び続けると、ヘビメタ騒音が鳴り終わったあと、眠れなくなるということを、認めない。認めなければ、エイリがおかしなことを言っていると思うわけだ。

認めなければ、「そんなのは、あまえだ」と思うわけだ。「できないわけがない」と思うわけだ。ところが、できないんだよ。どうしても、眠れない。

きちがいヘビメタ騒音が持続している時間だけで、精神がきざまれて、体も自律神経がめちゃくちゃにされる。こころと脳みそが、ヘビメタ騒音できりきざまれてしまうのである。

どれだけ、影響をうけないようにしようと思っても、不可避的に影響をうけるのである。

けど、やられていないとは、「そんなことはない」と思うわけ。

そして、常識的に考える人たちは、もっとひどいことを思うわけだ。「そんなのは、へんだから、エイリが嘘を言っている」と思うわけ。

そうなると、そもそもヘビメタ騒音の話が嘘なのだから、ヘビメタ騒音とやらの影響をうけているわけがないと思うわけ。だから、嘘を言ってごまかそうとしていると思うわけ。『エイリが、ヘビメタ騒音という嘘を考えて、自分のいたらない点をそのせいにして、ごまかそうとしている』と思うわけ。こんなの、ない。

きちがい兄貴が、きちがい感覚で、ほかの人が絶対にやらないことを、毎日やり続けただけで、俺がほぼ九九%の人から誤解をされる状態ができあがってしまう。そして、きちがいヘビメタの影響は、悪い影響なのである。

これもわからないだろうけど、勉強ということだけを考えても、計り知れない影響をあたえるのだ。もちろん、悪影響だ。

けど、きちがい兄貴は、なにもしてないつもりなんだよ。でかい音で鳴らしてないつもりなんだよ。一分間だけだって、ヘッドホンをしてくれなかった。

兄貴にとって、音がどうでもいいものであれば、ヘッドホンをして、耳が悪くなるほど、でかい音で聴けばいいんだよ。兄貴の脳みそだけにでかい音で響くように鳴らすべきなんだよ。

ところが、スピーカーで鳴らすことにこだわって、「感じがでない」という理由で、ヘッドホンをすることをこばんだ。

しかも、それが俺にとってどうでもいいことだと思っているのだ。これ、あんな音で鳴らしたら、鳴らされているあいだ勉強ができなくなるということは、きちがい兄貴にだってわかることなんだよ。

自分が「思った通りの音で鳴らしたい」という無意識的な気持がなければ、きちがい兄貴にだってわかることなんだよ。

きちがい親父ときちがい兄貴の間で発生した、ハンダゴテ事件について、ぼくは、何度も言及しているけど、ハンダゴテ事件のとき、きちがい親父が、自分のカネで、兄貴のハンダゴテを買ってやるのでなければ、自分がもってきたハンダゴテが『電子工作には』使えないハンダゴテだということを認めないということもなかったのではないかと思う。

親父の場合は、カネを出したくないという「うら」の気持ちが、スイッチになって、全否定しているのである。無意識的に、理解するのをこばむということだ。

一度、無意識的に、理解するのをこばむスイッチが入ると、ずっと、そのままなのである。だから、どれだけ、普通に言えばわかることも、ものすごく深い催眠術にかかったようにわからなくなる。

兄貴の場合は、「思いっきり鳴らしたい」という欲求があるんだよ。それがスイッチになって、「でかい音で鳴らしている」ということや「でかい音で鳴らすと、弟がこまる」というとが、理解できなくなる。

無意識的な命令で、そのあとずっと、認めない状態になる。

はなから、ないのとおなじなんだよ。

どれだけ言われても……普通ならわかることが……ぜんぜんわからなくなる。これが、強烈なんだよ。その部分だけ、わかる脳みそが、まったくないということになる。だから、どれだけ、「迷惑だからやめてくれ」「これこれこういう理由でやめてくれ」と言っても、一切合切、受け付けないのだ。

何十万回説明されても、一回も説明されていない状態で「知らないまま」鳴らす。こっちがこまっているということが、何十万回説明されても、まったくわかってないまま、鳴らす。

そして、こういこうとは、ほかの「うち」では、ありえない出来事なので、ほかの人は、これまた、理解しないのである。きちがい兄貴が、意識的にそうしている場合は、きちがい兄貴が、意識的にそうしているということが、きちがい兄貴にはわかることになる。

けど、きちがい兄貴が無意識的にそうしているので、頑固に頑固にやっていながら、きちがい兄貴自身が、そうしているというつもりがないまま、何万時間もやり続けることになる。

もちろん、何万時間というのは、一日のなかで、きれている。兄貴が寝ている時間や兄貴が学校にいる時間は、うちで鳴らしていない。トータルで何万時間ということだ。

ともかく、普通なら、説明しなくてもわかることことが、わからなくなってしまうのである。そして、わからないまま、毎日、頑固にそうするのである。

で、そういう人間が、家族にいる人は、ごくごくまれだから、きちがい兄貴のことを言っても、普通の人にはわからないということになる。

そして、これがまた、重要なことなのだけど、親父が、兄貴と同じタイプの人間だということが、カゲから、いろいろな影響をあたえているのである。

ヘビメタ騒音は兄貴がやったことだけど、ヘビメタ騒音に、いろいろな影響をあたえているのである。

親父が、兄貴とおなじタイプの人間だということが、ヘビメタ騒音が持続したことに、いろいろな影響をあたえているのである。ふたり、いるのである。普通の家族には、いないタイプの人が、ふたり、いるのである。これが、ものすごい、影響をあたえる。

2025年3月21日金曜日

言霊主義者が言っていることが正しいなら、介護生活なんてするわけがない

  だいたい、言霊主義者が言っていることが正しいなら、介護生活なんてするわけがないのである。親の介護ということにしておこう。「治る」と言えば「治る」のである。

「治る」と言ったのに、治らないなんてことはないのである。言霊理論にしたがえば!そうなる。

ところが、「治る」と言って、治してやらないのである。

「治る」と言えば、言っただけで、超自然的な言霊の力によって治るのである。治らないのであれば、言霊理論がまちがっているのである。

「自分は、ほかの人の病気を治すことができる」と言えば、ほかの人の病気を治すことができるようになるのである。

言霊主義者だって、普段、「できると言えばできる」と目を輝かせて言っているだろ。「自分は、ほかの人の病気を治すことができる」と言えば「ほかの人の病気を治すことができる」ようになるのである。

ならないのであれば、言霊理論がまちがっているのである。

「言霊は絶対だ」と言っているけど、なにが絶対なのか、まったくわからない。この「言霊は絶対だ」という言葉で、どういうことを言っているのか、よくわからないのだけど、たぶん「言霊の法則は絶対だ」とか「言霊の法則はすべてのものに絶対的に作用する」とか「言霊は絶対に存在する」とか「言霊(理論)は絶対に正しい」とかというようなことだろう。

どのような意味であれ、全部、まちがっている。

介護生活をしていることで、本人が、立証しているだろ。

「他人の病気を治すことができる」と言ったって、治すことができないから、介護生活をしているのだろ。

どうして、「言えば言ったことが現実化する」「できると言えばできる」などと言っているのに、自分が介護生活をしていることに、疑問を抱かないのか?

そっちのほうが、疑問である。 

*     *     *

「治る」と言ったのに、治らないのは、言い方が悪いからだよ! 「自分は他人の病気を治すことができる」と言ったのに、治すことができるようにならないのは、言い方が悪いからだよ!! おまえの言い方が悪いから、現実化しないんだよ。もっとこころをこめて言えば、現実化する。言い方が悪いから、現実化しない。はっはっはは。

いやー。言えば、言ったことが現実化するのだから、言い方は関係がないよ。どれだけ悪い言い方で言っても、言ったら、言ったことが現実化するんだよ。はーーはっはっは。いいかげん、矛盾に気がついてくれないかな。自分が言ってることが、相互に矛盾しているということがわからないのかな?  はーーはっはっは。いいかげんにしろ。はーーはっはっは。はーーはっはっは。


「楽しいと言えば楽しくなるのに、楽しいと言わないからダメなんだ」

なにも不愉快なことは発生してないのに「不愉快になる」と急に言って、言った結果、言霊の力によって不愉快な気持になったわけではないのである……と書いたけど、これは、短く書くと、「不愉快になる」と急に言って、不愉快な気持になったわけではないのである……ということになる。

不愉快な出来事が発生してないのに「不愉快になる」と言ったから、言霊の力によって、不愉快な気持になったのではないということだ。

楽しいことに関しても、状況に関係なく、「楽しいと言ったから、楽しくなる」わけではないのである。たとえば、言い家族に恵まれて、いい友人に恵まれて、楽しいことが、相対的にたくさん発生するような状態でくらしているとする。

その場合、別に、「楽しいことが起こる」と言わなくても、わりと頻繁に楽しいことが発生するのである。これも、持続的な繰り返しがあるから、楽しいことが発生して、楽しいと感じることができるのである。

ようするに、出来事に対応して、楽しいと感じるわけだ。

そういう生活の中で、たとえば、「楽しいと言えば楽しくなる」ということを言われて、「楽しい」と言ったら、なんとなく楽しくなったというだけの話なのである。

あるいは、楽しいことが起こるという繰り返しがあるので、「楽しい」と言った「あと」実際に、楽しいことが起こった場合は、「楽しい」と言った「から」楽しいことが起こったのだと「誤解」することができる。

なので、「事実そうなった」「事実だ」と思うことができるのである。

「誤解」なのだけど、実際に、「楽しい」と言ったあと、実際に「楽しいこと」が、起こったので、「楽しいと言えば楽しいことが起こる」という命題は「真」であると考えてしまうのである。もちろん、まちがいだ。

ところが、精神世界の人も、一般人も、みんなみんな、条件は無視するので、「楽しいと言えば、楽しくなる」という言葉がひとり歩きをするようになるのである。

ようするに、この場合は、一〇〇%詐欺が成り立っているので、状態に関係なく、状況に関係なく、「楽しいと言えば、楽しくなる」ということになってしまうのである。

みんなが、「楽しいと言えば、楽しくなる」ということを信じている状態だと、「そうではない」と言いにくくなってしまうのである。たとえ、言っても、信じている人は、ぼくが言っていることを認めない。

「実際に、楽しいと言ったあと、楽しいことが起こった。これが真実だ」と言って、きかないのである。「楽しいと言えば、楽しくなる」という言葉を命題として考えた場合、偽であるということは、確実なんだけど、「実際に、楽しいと言ったあと、楽しいことが起こった。これが真実だ」と言っている人は、「偽」であることを認めない。「真」であると言いきる。

*     *     *

この人たちは、みんな、最悪の条件をかかえている人よりも、条件が「相対的に」いい人たちなのである。だから、「実際に、楽しいと言ったあと、楽しいことが起こった。これが真実だ」と思えるだけなのである。

ところが、この人たちも「自分だって苦労した」と言ってゆずらないのである。

「くるしいときこそ、楽しいと言えばいいのだ」と言って、ゆずらないのである。

「自分だって苦労した」という言葉で、苦労の質と量を問題にしないようにしてしまうのである。

最悪の条件をかかえている人の苦労と、自分の苦労は、おなじぐらいの苦労だと設定してものを言ってしまうのである。しかし、大きく、苦労の内容がちがうのである。また、苦労だと思えることが発生する頻度がちがうのである。

つまり、苦労の質と量がちがう。「実際に、楽しいと言ったあと、楽しいことが起こった。これが真実だ」と言ってしまう人が、かかえている苦労や、かかえていた苦労なんて、ほんとうに、たいした苦労じゃない。もう、断言できる。

そんなことを言えるはずがないのである。

最悪の条件をかかえている人は、そんなことを、言えるはずがない。

最悪の条件をかかえている人よりも、ずっと良い条件をかかえているので、「実際に、楽しいと言ったあと、楽しいことが起こった。これが真実だ」と言っているだけだ。これ、本人が、わかってないんだよね。

そんなことは、言えなくなる条件がある。そういう条件下でくらしたことがないから「実際に、楽しいと言ったあと、楽しいことが起こった。これが真実だ」などと言うことができるだけだ。

実際に、「実際に、楽しいと言ったあと、楽しいことが起こった。これが真実だ」と言えない条件下でくらしたら、「実際に、楽しいと言ったあと、楽しいことが起こった。これが真実だ」なんて言えなくなる。これが、真実だ。

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ほんとうに、条件が悪い状態でくらしている場合、頻繁に、悪いことが起こるのである。そういう条件がある。まわりの人がどういう人かという条件は重要なんだよ。

ところが、条件が悪い人だって「楽しいと言えば楽しくなる」ということになってしまう。そういう意味で、精神世界の人も、一般人も、「楽しいと言えば楽しくなる」という言葉を使いたがるし、実際に、そういう意味で、「楽しいと言えば楽しくなる」ということばを使っている。

だから、ズレがあるのだけど、条件を無視している人には、ズレが見えないのである。条件を無視している人は、一〇〇%詐欺に引っかかり、どんな条件でも、「楽しいと言えば楽しくなる」ということが成り立つと信じ込んでいる状態でくらしている。

これは、まちがいだ。ところが、まちがいだとは思っていないので、「楽しいと言えば楽しくなるのに、楽しいと言わないからダメなんだ」と条件が悪い人に、ダメ出しをするようになるのである。


2025年3月20日木曜日

言霊主義者は、苦労しないのである

 言えば、言った通りになるのであれば、だれも苦労しない。思えば、思った通りになるのであれば、だれも苦労しない。言霊主義者は、苦労しないのである。思霊主義者は、苦労しないのである。ところが、言霊主義者も思霊主義者も、「自分だって苦労した」と言う。自分たちの思い込みが正しいなら、苦労しない。

2025年3月19日水曜日

はっきり言ってしまうと、言霊思考は、うつ病発生装置、自殺発生装置、廃人発生装置なのである

 ほんとうは、「条件」に対処しなければならないのだけど、「言えば」解決できるというような考え方がはびこっていると、やせ我慢をしている時間が長くなるのである。人間は、短い時間なら、ストレスに対応できるけど、長い時間だと、ストスレに対応できなくなる。はっきり言ってしまうと、言霊思考は、うつ病発生装置、自殺発生装置、廃人発生装置なのである。この関係が、わかってない人がどれだけいるか、わからない。ほんとうは、悪い条件が、悪い状態を作り出しているのである。けど、言霊思考をする人たちは、条件をガン無視して、「言ったか言わなかったか」だけを問題にするのである。言えば、問題は、片づいてしまうのである。言えば、悪い条件なんて、消えてなくなってしまうのである。ところが、言ったって、問題が片づかない。言ったって、悪い条件がそのまま成り立って悪い出来事を次々に生み出してしまう。なので、そのなかで、疲弊していくのである。人間には、ストレス対抗力があるけど、一時的に無理をして、問題を解決しようとしている状態なのである。長期間続いてしまったら、いつかは、はてる。うつ病になったり、自律神経失調症になったり、セルフニグレクト状態になるのである。あるいは、自殺してしまう。

言霊思考は、前向きで、ポジティブな思考のように思われる。しかし、実際には、高ストレス状態を長引かせる思考なのである。本人が、それを選んでいる場合はしかたがないけど、社会にはびこっている言霊思考が、高ストレス状態を長引かせる効果をもっているのである。わかるかな? 言霊ではなくて、思霊の場合もそうだ。「明るいことを考えれば明るいことが起こる」と言っているのだから、なにか、明るい感じがする。しかし、条件が悪い人における、実際の効果は、言霊思考とおなじように、人をバーンアウトさせるものなのである。明るいことを言っているけど、実際には、明るい結果をもたらすのではなくて、暗い結果をもたらすのである。

そんなことを言ったって、「俺は、明るいことを考えていたら、明るいことが起こった」と思う人がいるだろう。それはそれでいいけど、人にさも、有効な問題解決方法のように言ってしまうことは、問題を引き起こす。そして、そういう考え方が社会に、はびこっていると、社会がより悪くなるのである。ようするに、いいことじゃないのである。

 

ほんとうに、ヘビメタ騒音「で」立場がなくなる

 本人しか言いようがないのだけど、ほんとうに、やばい立場にたたされるようになるのである。まあ、「立場にたつ」は、二重表現ではないとする。これ、「側に立つ」や「立場になる」が正しいのだけど、なんか、すわりが悪いんだよなぁ。まあ、いいや。

ほんとうに、ヘビメタ騒音「で」立場がなくなる。ヘビメタ騒音「で」ほかの人から見て、なんだかわからない人になってしまうのである。これがきつかった。ヘビメタ騒音がなければ、それなりの高校に行って、それなりの大学に行って、学問の世界で生きることができたと思う。その場合は、職業を言えるわけだ。けど、きちがいヘビメタ騒音「で」働けなくなったので、職業を言えなくなる。これは、職業に限った話ではなくて、普通なら、大学生か、あるいは、働いている年齢なのに、どっちでもないと、「すわりが悪い」のである。この「座りのわるさ」と言ったら、経験した人しかわからないのではないか。そして、問題なのは、きちがいヘビメタ騒音「で」そうなっているということなのである。みんな、ヘビメタ騒音「で」そうなるとは思ってない。みんな、ヘビメタ騒音「で」そうなっていると、思わない。説明されても、実際に経験しているわけではないから、必然性がわからないのである。「自分なら鳴っていたって、平気だ」という前提で、「そんなの関係がない」と言う。「自分なら、鳴っていたってそんな影響は受けない」という前提で「影響なんてない」と言う。ほとんどの人がそうだったね。だから、居場所がなくなっていくのである。

 

「なんで、暖房器具を買ったんだ?」

  言霊主義者は「言えば言った通りになる」と言っているけど、普段は、言霊的な解決方法を使わないのである。言霊的な解決方法が試みられるときは……つまり、選択されるときは……じつは、たいした問題ではない場合なのである。

そして、じつは、言霊的な解決方法が、まったく解決につながらないので、我慢するということになるのである。やせ我慢をするしかないのである。

たとえば、寒い日に、外に出たとき、「寒い」と感じたとする。そのとき、普通の人は「寒い」と言うのだけど、言霊主義者は、「あたたかい」というのである。

じつは、言霊主義者も「寒い」と感じているので「寒い」と言ってしまうのだけど、言霊的な思考が頭をよぎって、言霊的な解決方法を試みるときがあるのである。

たとえば、「寒いと言うから寒くなる。あたたかいと言えばあたたかくなる」「あたたかい。あたたかい」「あたたかい。あたたかい」「ああっ、なんて暑いんだろう」と言うのである。

ところが、もちろんあたたかくならないのである。あたたかくならないけど、言霊を信じている都合上、「あたたかいと言えば、あたたかくなるはずだ」と考えて「あたたかくなったような気がする」と思うわけだ。

これは、本人が「あたたかくなったような気がする」と言っているだけだ。

「言霊(理論)が正しい」と思っていなければ、出てこないセリフなのである。

ほんとうは、「あたたかいと言ったって、寒ければ寒いと感じる」と言霊主義者だって思っているのである。

けど、言霊主義者なので、「あたたかい!あたたかい!」と言いながら、体を動かして、「あたたかくなった」「言霊は正しい」と言うのである。

いやーー。それ、体を動かしたから、ちょっとあたたかく感じただけだろ。言うだけじゃないじゃない。体を動かしている。

まあ、本人が、言霊を信じているのであれば、信じているから、「あたたかいと言ったからあたたかくなった」と言うだろう。

けど、じゃ、その言霊主義者が、家ではどうすごすのかと言うと、家では、暖房器具に頼って暮らしているのである。ようするに、言霊(の力)ではなくて、物理的な力で問題を解決しているのである。

家にエアコンがある場合は、エアコンをつけるのである。エアコンコントローラーのスイッチをいじって、暖房機能をオンにして、あたたまろうとするのである。まあ、石油ストーブを使っている場合は、石油ストーブのスイッチを入れるのである。

ともかく、物理的な解決方法で解決しようして、言霊的な解決方法を使わないのである。

どうして使わないのかというと、言霊的な解決方法なんてまったく役に立たないことを知っているからだ。まったく役に立たないので、言霊主義者だって、言霊的な解決方法を試そうともしないのだ。

外に出たとき、寒く感じた場合は、言霊的な解決方法以外が、うかばないので、とりあえず、言霊的な解決方法を試すだけだ。

しかも、言霊主義者は、一時的に、自分自身をだましているけど、言霊的な解決方法では、あたたかくならないということを、ほんとうは、知っているのである。だから、言えでは、物理的な暖房器具を使って、暖をとろうとするのである。

これだって、言霊主義者が言っているように、「言ったことが現実化する」とか「言った通りになる」という言葉が正しいのであれば、暖房器具なんて、一切合切、必要がないのである。

「なんで、暖房器具を買ったんだ?」という話になる。

言霊(的解決方法)で解決すればいいだろ。外では、言霊で解決できるけど、家のなかだと言霊で解決できないのか?

一時的に、がまんして、自分が感じたこととは、反対のことを言うだけじゃないか。

長らくがまんするのは、体に悪いし、我慢をしたくないから、家では、言霊的な解決方法を使わずに、物理的な解決方法を使っているのである。

基本的に、言霊的解決方法をすすめるということは、役に立たない解決方法をすすめるということなのだ。そして、役に立たないばかりか有害なのだ。どうしてかというと、やせ我慢をしいるものだからだ。

人間には、ストレスに対抗する力がある。とりあえず、ストレス対抗力と言っておこう。人間にはストレス対抗力があるのだけど、一時的に効果を発揮するだけで、長期間続くなら、逆に、ストレスをうみだしてしまうのだ。

やせ我慢をしている状態というのは、かなり無理をして頑張っている状態なのだ。一時的には有効だけど、ずっとやっていると、うつ病や自律神経失調症になってしまう。ストレスに対抗して、やせ我慢をして頑張っている状態というのは、よくない状態で、長く続けば、さまざまな病気の原因になる。

*     *     *

たとえば、親がなんかの病気になったとする。言霊主義者なら、言霊で解決しようとするはずだ。言霊主義者の頭のなかでは「言ったことが現実化する」「言えば言った通りになる」となっているのだから、「言うこと」で治してあげようとするだろう。ところが、言霊主義者なのに、「治る」と言って、治してあげるわけではないのだ。介護が必要なほど、ひどい状態になっても、普通に介護をして、言霊で治してあげようとしない。どうしてか? 言霊では治らないからだ。「治る」と言ったあと、治ることはあるけど、それは、言霊の力で治ったわけではないのである。けど、ともかく、言霊理論が正しいなら「あなたのなんとか病は、三秒以内に、治る」と言って、治してあげればいいだけの話なのである。なんで、長期間、介護をしているのか? 「あなたのなんとか病は、三秒以内に、治る」と言ったって、治らないからだ。まあ、言霊主義者は、自分のことでなければ、「言い方が悪いからダメなのだ」「熱心にこころをこめて言わないから、治らないのだ」と言いやがるのである。そして、「明日、雨になるといったら、雨になった」ということを思い出して、「自分は、実際に言霊の力を使える」と言うのだ。けど、他人にはそういうふうに言っていた、言霊主義者だって、自分の親が病気になり、介護が必要なれば、言霊の力で、親の病気を治してやることができないという事実を受け入れるしかないということになるのである。けど、こういうことになると、途端に、「言霊は正しい」「言霊は絶対だ」というようなことが、頭のなかから消えて、現実的な問題解決方法を採用しようとするのである。そして、介護生活を受け入れたりするのである。あるいは、老人ホームで暮らしてもらうようにするのである。言霊的な解決方法が、有効なら、病気が治らないまま、介護生活に突入するというとはないのである。

2025年3月18日火曜日

いちおう書いておく

 いちおう、本人が誤解をしていたみたいなので、書いておく。ぼくは、2ちゃんとか5ちゃんとか、そういう掲示板に、二条さんのことを書いたことは、一度もない。だれかと誤解したみたいだけど、誤解だ。その人とぼくは、ちがう。ぜんぜんちがう人なんだよ。まあ、どうでもいいけどさ。別人なので、別人だと書いておく。なんか、そういう掲示板の、だれかの発言をぼくの発言だと(二条さんが)思ったみたいなんだよなぁ。

2025年3月17日月曜日

「不愉快になる」と急に言って、言った結果、言霊の力によって不愉快な気持になった

 不愉快な出来事が発生していないのに、「不愉快な気持になるぞ」と思って、不愉快な気持になっているわけではないのである。なにも不愉快なことは発生してないのに「不愉快になる」と急に言って、言った結果、言霊の力によって不愉快な気持になったわけではないのである。

これが、わかってないんだよな。こんな基本的なことがわかってないなんて、だめだろ。そして、こいつらが勝手にわかってないのは、勝手なのだけど……こいつらが、「相手が不愉快なになる発言」をするのである。まちがった前提で、まちがったことを言い、不愉快な助言をしてくるのである。

しかも、どういうふうにまちがっているかということを理論的に説明してやっても、一切合切認めないのである。そのくせ、「すべては、受け止め方の問題だ」などと普段は言っているのである。

受け止め方の問題なのであれば、言霊理論はまちがっていると受け止めればいいだろ。「言霊(理論)は正しい」と受け止めていたけど、「言霊理論はまちがっている」と受け止めなおせば、いいだろ。

普段、こいつらが、生活の中で、不愉快な気持になるとき、ちゃんと、不愉快だと感じることがまず怒って、そのあとに、不愉快だと感じているのである。

別になにも理由がないのに、突然「自分は不愉快になる」と言ったあと、言霊の力で、不愉快になっているわけではないのである。こいつらの、現実無視は、はなはだしい。

基本的に言って、ひとつ、ふたつの例をあげられて、「これはこうだ」と言われると、「これは、こうだ」と思い込んでしまうのである。ほんとうに、そんな法則が成り立っているのかどうか、ちゃんと考えることができない。


出来事の順番と、出来事の繰り返しが、精神世界の人には見えないから、誤解をして、子ども側の人に問題があるように決めつけて、そのように言う

 ネガティブなことが起こったあと、ネガティブなことが起こったと認知・認識するのである。

たとえば、きちがい的な親が、迷惑行為をする場合は、継続的に迷惑行為をするのである。いちおう、迷惑行為ということで、固定しておく。

迷惑行為をされた子ども側の人が、注意をしても、きちがい的な親は、腹をたてて、迷惑行為を続行するので、注意をすればやめさせることができるかというと、そうではない。注意をしても、やめさせることができない。

迷惑行為をしているほうが、つねに、迷惑行為をしているという認識があるかといえば、ない場合もあるのである。きちがい的な親の場合は、つねに、迷惑行為をしているのに、つねに、迷惑行為をしているという自覚がないのである。

なので、きちがい的な親は、迷惑行為を継続的に繰り返すことができる。あるいは、迷惑行為を継続的に繰り返す場合が、ある。

その場合、順序しては、「ネガティブな出来事」→「ネガティブなことが生じたいという認知」→「ネガティブな出来事」→「ネガティブなことが生じたいという認知」という順番になる。

ようするに、きちがい的な親が、繰り返し、迷惑行為をするので、不愉快な気持になるということも、繰り返される。やられたほうが、何回も連続的に不愉快な気持になるということだ。

その場合、何回目かで、「ネガティブなことが起こる」と思うようになるのである。そりゃ、予想すると、そうなるのである。

頻繁に、きちがい的な行為を繰り返す親がいる。頻繁に、きちがい的な行為を繰り返す親がいるということを認めたくない人は、「そんなのは親じゃない」などと、わけのわからないことを言い出すけど、この世には、頻繁にきちがい的な行為を繰り返す(親の立場である)人間がいる。

親がきちがい的な行為を繰り返しているのである。それを、精神世界の人が、外側から見て考えると、子ども側の人が「ネガティブなことが起こる」と思っているから、子ども側の人に「ネガティブなことが起こる」と思ってしまうのである。

実際、子ども側の人間は、「こういういやなことが起こるのではないか」と思っている。じゃあ、この「思い」がきちがい的な親のきちがい的な行為をうみだしているのかというと、そうではないのだ。しかし、やられた側をいじめまくりたい、精神世界の人は、やられた側が「こういういやなことが起こるのではないか」と思っているから、実際に、ネガティブなことが起こると、決めつけてしまう。これは、まちがった決めつけだ。

繰り返されたことだから、予想がつく。

ネガティブなことが起こるという予想は、確かに、ネガティブな「思い」なのだけど、ネガティブな「思い」が、きちがい的な親をネガティブな行為に駆り立てているわけではないのだ。

子ども側の人は、過去のデータから、きちがい的な親はこういう行為をするということがわかっているのである。だから、予想がつくのである。

出来事の順番と、出来事の繰り返しが、精神世界の人には見えないから、誤解をして、子ども側の人に問題があるように決めつけて、そのように言うのである。

しかも、きちがい的な親とおなじように、精神世界の人は、自分がまちがった決めつけをしているということに、気がつかないのである。説明されても、気がつかない。

「思ったことが現実化する」「ネガティブなことを思ったから、ネガティブなことが発生した」と、精神世界の人は、思っているわけである。

けど、これは、時系列的な順番がちがうのである。そして、原因と結果がちがうのである。そして、原因の所在について、まちがった考え方をもっているのである。

だから、こういうところで、きちがい的な親と精神世界の人は、ある程度、似ているということが発生してしまうのである。

自動的に「やられた人」にとって不利な決めつけをしてくるのが、精神世界の人なのである。そして、自分がまちがった前提でまちがった結論に至ったということ認めないのが、精神世界の人なのである。こまっている人がもっている条件を認めないのが、精神世界の人なのである。

だから、きちがい的な親にやられた人にとってみれば、精神世界の人は、「天敵」のようなものなのである。

精神世界の人は、正しいことを言っていると思っていると思うけど、じつはまちがったことを言っている。「因果関係を逆転させるな」と言いたい。

そして、このことは、精神世界の人が、普段、「中立的に事柄を受け止めているわけではない」ということを、意味しているのである。

そりゃ、やられた人間をせめる思考を常にしているのだから、中立的に事柄を受け止めているわけではないということが、あきらかだ。

たとえば、やられた子ども側の人が、「こういうことがあった」ということを言えば、子ども側の人が、ネガティブなことを言ったと(彼らは)認知・認識するのである。

そして、「やられた子ども側の人がネガティブなことを言うから、やられた子ども側の人に、ネガティブな出来事が発生したのだ」と(彼らは)決めつけるのである。

どちらとも、出来事を中立的に受け止めているわけではないということが、あきらかだ。ようするに、精神世界の人は出来事を中立的に受け止めているわけではないということが、あきらかだ。

すで、「こういうことは、ネガティブなことだ」と認知・認識するようなプリセットが(頭の中に)存在しているのである。そして、そのプリセットの内容にそったかたちで現実を認知・認識しているのである。ぜんぜん、中立的に出来事を認知・認識していない。

そして、不幸なことに、このプリセットは、やられた側の人間をひたすら「悪く言う」プリセットなのだ。やられた人間のほうを、原因に関係なく、せめるプリセットなのだ。そういう価値観のプリセットを搭載して、この世のなかを見ているということについて、精神世界の人は、もっと、真摯に認識するべきなのである。

自分たちは、価値観中立的にものごとを認識できるという考え方をもっているのだけど、それは、まちがいだ。ちゃんと、やられた側の人間を悪く言うというゆがんだ価値観をもっている。これは、ゆがんだ価値観であって、中立的な価値観ではない。

2025年3月16日日曜日

家族がもたらす災厄を経験したことがないということなのである

 「俺だって苦労した」「わたしだって、苦労した」と言っている人たちがみんな、きちがい的な家族にたたられた経験がない人たちなんだよなぁ。わかってないんだよなぁ。そして、けっきょくは、きちがい的な家族にやられなかったから!社会に適応して生きているのに、それがわかってない。きちがい的な家族に、毎日やられるということが、どういうことなのか、わかってない外部の他者なのである。外部の他者だって、そりゃ、いろいろな困難を経験するだろう。「自分だって苦労した」というのは、ほんとうのことなのだろう。たしかに、苦労したのだと思う。けど、無視の度合いから言って、やはり、きちがい家族という特殊な相手がいる人たちではないのである。これ、そりゃ、わかるよ。きちがい家族のことをガン無視して、普通の家族だと思って発言しているのだから、無理解だというのがわかる。無理解だということは、きちがい家族がもたらす災厄を経験したことがないということなのである。そして、けっきょくは、社会生活や学生生活を家族によって破壊されたわけではないのだから、やはり、家族によってされたことというのは、たいしたことじゃないのである。普通の人は、普通に働いていて、それで、無職にえらそうなことを言うわけだけど、そんなことができない状態になるんだよ。無職にえらそうなことを言っている時点で、めぐまれているやつなんだよ。きちがい家族に、毎日毎日、何年間も何十年間も、たたられたことがないやつなんだよ。

きちがい的な家族にやられたことがないからこそ、社会に適応できるのに、きちがい的な家族にやられたことがない人が、きちがい家族にやられたことがある人に説教をするのである。「そんなのは、関係がない。自分だって苦労した」……これを、どういう立場で言っているかということなんだよ。きちがい家族にやらたから、社会に適応できなくなった……普通に会社員生活ができなくなった人に……おなじ程度の苦労をしたといっているわけだよ。けど、おなじ程度の苦労を経験したら、そんなことを言える側には立っていないわけなんだよ。わからないかな?

きちがい家族に毎日やられるということは、社会生活ができくなるということなのである。きちがい家族に毎日やられなかったから、社会生活ができている状態なのである。社会生活ができているということは、きちがい家族に毎日やられなかったということなのである。まあ、きちがい家族にやられることが、「激しい騒音」のように、生活を破壊するものだとそうなる。これ、ほんとうによそじゃ、絶対にありえないことだから、みんな、経験してないのである。経験してないから、ぼくと同等の苦労はしてないのである。ぼくと同等の苦労をした人は……たとえば、きちがい家族に「激しい騒音」でたたられた人は、みんな、無職になっている。通勤・通学ができなくなっている。ようするに、ぱっとしない学歴になっているはずなんだよ。どれだけ才能があっても、そうなるんだよ。通勤・通学ができないからだになるんだよ。通勤・通学ができないからだになっていないのであれば、それは、ぼくと同等の騒音被害を受けていないということになんだよ。きちがい家族から激しい騒音でたたられたことがないということなんだよ。それに相応するような、長期間の苦労がないということなんだよ。 

通勤ができる状態……通って働くことができる状態で、えらそうなことを言うな!! えらそうなことを言うな!!! 

 

他人にわかりにくいところで、ものすごくズレているのである

 これは、どれだけ言ってもしかたがないけど、きちがい兄貴が、きちがい兄貴のセンスで、きちがいヘビメタを、こだわってこだわってこだわってこだわって、毎時間、毎時間、毎時間、毎時間、毎時間、毎時間、毎時間、毎時間、毎時間、毎時間、毎時間、毎時間、毎時間、毎時間、鳴らさなかったら、こんなことになってない

。ほんとうに、きちがい兄貴がきちがい兄貴でなかったら、こんなことになってないのである。きちがい兄貴が、きちがい兄貴ではなくて、普通の兄貴だったら、こんなことになっていないのである。

そして、ほかの人は、やられてないわけだから、必然性が見えないのである。通勤・通学ができなくなる」と言ったって、やられてないから「通勤・通学ぐらいできるだろ」と思ってしまう。きちがいヘビメタが小学六年生のときから、鳴り始めて、中学三年間、高校三年間ずっと毎日、土曜日も日曜日も祝日も、夏休みも、冬休みも、春休みも、例外なく、ほんとうに、毎日、鳴らされた。きちがいだから、きちがい的なこだわりで鳴らしたのである。

「一分だって絶対にゆずらない」という気持があるんだよ。

けど、本人は、きちがい親父とおなじで「ゆずってやった」と思えるような……思ってしまうような、きちがい的な性格をしているんだよ。自分が一秒でも、ほんとうに静かにさせられそうになったら、発狂して、絶対の意地で鳴らすのである。

絶対に、しずかな音で鳴らさないのである。絶対に、普通の音で鳴らさないのである。自分が満足できる音で鳴らすということに、こだわりきっていて、自分が満足できる音で鳴らさなければ気がすまない状態だったのである。ずっと、毎日そういう状態なんだよ。

だから、しずかにしてやるといっても、きちがい兄貴が満足できる音で鳴らして、しずかにしてやるということだから、まったく意味がないのである。この、意味がない譲歩を、ほんとうの譲歩だと、本気で思っているのである。

これも、普通の人間だったら……精神異常でなければ、いじわるとしてやることなんだよ。けど、意地悪なことをしたというつもりがほんとうにまったくない。自分が譲歩してやったら、それは、譲歩してやったということになる……ときちがい的な思考回路で、思っている。だから、こういうところでも、おかしいのである。この、異常さがわからないのか? 普通の人なら、いじわるで、効果がないことをするんだよ。いじわるで……。ところが、本気で、ちゃんと譲歩してやったと思っているのだ。本人の耳が悪くなるようなでかい音で鳴らして、ほんとうに静かにしてやったと思っているのだ。譲歩してやったと思っているのだ。それじゃ、ゆずってもらったことにならない」ということを、どれだけ言っても、きちがいだから、きちがい親父のように、はねのけるのである。この、「はねのける」というような言葉を使うしかないんだよな。これでは、だけど、リアルな状態がわからないと思う。きちがい兄貴の、リアルな状態がわからないと思う。そして、譲歩せずに、きちがい的にでかい音で鳴らしているのに、譲歩してやったと思っている……という状態が、こっちにあたえる影響が、実際にやられてない人には、わからないのである。こういう、わかりにくいところで、きちがい兄貴が、きちがいなんだよ。これは、わかりにくい。ほかの人は、なにを言っているかわからないだろ。「そんなに腹がたつことかな」と思うのだろう。けど、ちがうんだよ。この態度が、めちゃくちゃに、腹立たしいものなのだよ。こういうところで、すっぽ抜けた感覚をもっているというのは、きちがい家族と一緒に暮らしたことがない人には、わからないのである。それがもたらすことがどういうことなのか、きちがい家族と一緒に住んだことがない人にはわからないのである。これもこれで、ほんとうにまったくわからないのである。普通の人だったら、知っているけどやるんだよ。けど、きちがいだから、知らないわけ。普通の人の考えだと、知らないわけがないということになる。こういう、他人にわかりにくいところで、ものすごくズレているのである。そして、その影響は、……やられてない人にはまったくわからないことなのだけど……山のようにでかいのである。きちがい兄貴のずれ方が、きちがい親父のズレ方とまったく、おなじなのである。

2025年3月15日土曜日

本物の言霊主義者

 本物の言霊主義者なら、コーヒーを飲みたくなったら、コーヒーが目の前に現れると言って、コーヒーを目の前に出現させて、コーヒーを飲まなければならないのである。コーヒーだけではなくて、ラーメンだって、焼きそばだって、たこ焼きだって、みんな、そうだ。コーヒーが目の前に現れる」と言ったあと、コーヒーをうまそうに飲まなければならないのだ。言霊主義者には、言ったことによって発生したコーヒーが見えるのである。そして、味を感じることができるのである。言霊主義者は、こうでなければならない。完全に、妄想を信じて、妄想のなかで生きなければならないのである。妄想を信じて妄想のなかで生きようとせず、現実的な場面では、現実的な行動をするのは、本物の言霊主義者だとは言えない。死んだ人だって、「この人は、よみがえる」と言えばよみがえるのである。なんで、葬式に出席しているんだろな? しかも、「生き返らせたい」などと言うのである。はぁ? 本物の言霊主義者なら、生き返らせることができるだろ。どうして、生き返らせることができないんだ? 本物の言霊主義者なら、自分が言って、相手を……つまり死んだ人を……生き返らせることができると、本気で思っていなければならないのだ。そして、それを実行して、生き返った相手と、話をしたり、一緒に食事をしたりしなければならないのだ。それができないのであれば、本物の言霊主義者とは言えない。どうして、妄想のなかで生活しようとしないのだ。「言えば言ったことが現実化する」なんていうのは、妄想理論なんだぞ。妄想の上に成り立っている信念なんだぞ。だったら、自分の信念にしたがって、行動すればいいじゃないか。自分の信念にしたがって、生活すればいいじゃないか。どうして、現実的な場面では、現実的な行動をするんだ? 現実的な場面でも「言えば言ったことが現実化する」という妄想的な信念にしたがって行動しなければならないだろ。どうして、妄想的な信念にしたがって行動しないのか? それは、妄想だと知っているからなのである。これ、やっぱり、やっかいな人たちなんだよなぁ。普段、自分が実生活のなかで、「言えば言ったことが現実化する」なんて思ってないことに、いいかげん、気がつけ。

不愉快な気持になるということが、わかってないなら、たいした苦労はしてない

 だいたい、精神世界の人は「元気だ元気だといえば元気になる」とか「楽しい楽しいといえば楽しくなる」と言われたときの、うんざりした気持ちが、わからないだろう。うんざりと書いたけど、破滅的な気持と書いてもいい。これ、どれだけ不愉快な気持になるか、わからないだろ。「楽しい楽しいといえば楽しくなる」と言われたとき、不愉快な気持になるということが、わかってないなら、たいした苦労はしてないと、言える。たいした苦労をしてないから楽しい楽しいといえば楽しくなる」なんてことを言えるんだた。そういうことが言えるレベルの苦労しかしてないんだよ。

普通の人が、普通に「もっている」誤解

 ともかく、ほんとうに、ヘビメタ騒音のことは、他人に理解されなかった。これが結論で、これが、事実。ほとんどの人に、まったく理解されない。みんな、理解の程度が低いのである。みんなというのは、ほとんどの人という意味だ。ほとんどの人が、ものすごく低いレベルで理解して、俺が言っていることを理解してくれないのである。たとえば、精神世界の人の……典型的な反応について述べてきたけど、いろいろと問題があるのである。妄想的な前提がある。妄想的な前提の上にまちがったことをのせて、むりなことを言う。これは、精神世界の人だけではなくて、一般人の……普通の反応なのである。みんな、経験がないから、勘違いをするのである。ヘビメタ騒音というものの、程度について勘違いをする。自分だって経験したと思っている。たしかに、家族とのトラブルを経験したこともあると思うし、騒音のトラブルだって経験したことがあると思う。けど、きちがい家族が鳴らす、騒音のトラブルは、普通の人が経験する騒音のトラブルとは、まったくちがうのである。これ、ほんとうに、みんな、「どういう生活になるか」ということが、わかってないのである。からだでわかってない。経験をとおしてわかってない。だから、まちがった前提でまちがったことを言ってくるようになるのである。きちがい兄貴が、普通の人が絶対にやらないようなやり方で、長期間、毎日やると、そういうことになってしまうのである。世間の反応がそういうことになってしまっのである。だって、世間の人には、きちがい兄貴のような家族がいないので、きちがい兄貴が、きちがい的な意地でやることを、やられる側で経験したことがないということになる。経験したことかないので、わからないのである。けど、わからないわけではなくて、似たような経験がある……とか、おなじようなことを経験した……とかという想像的な補完をして、ものを言ってくるようになるのである。そうでしかないという感じでそうなる。それは、ぼくが経験したきちがい家族による騒音とはちがうのである。その人たちが、ぼくの話を聴いて、想像した「ヘビメタ騒音」と、ぼくが実際に経験した「ヘビメタ騒音」がちがうのである。もたらすものがちがうのである。きちがいヘビメタ騒音が、必然的になにをもたらすのか、まったくわかってないやつらが、わかっているつもりで、説教をしてくるのである。これは、たまらない。なんで、ぼくがこんなことをされなければならないのか? まとはずれな発言。まちがった前提。ヘビメタ騒音の結果・生じた「属性」への軽蔑。ほんとうは、自分だって、小学六年生のころから、やられて、高校生まで通学していれば、それ以降は、通勤通学ができないからだになるのに、それがわかってない。だから、「ひきこもり」に偏見のある人は、偏見をとおして、ヘビメタ騒音のことや俺のことを理解した「つもりになって」あらぬことを言ってくる。理解度が低すぎることを言ってくる。まとはずれなことを言ってくる。ほんとうに、理解度が低いから、どれだけ説明しても納得しないのである。ともかく、精神世界の人に言っていることは、精神世界の人だけに言っていることだけではない。精神世界の人が「もっている」誤解について、ずっと説明してきたけど、それは、精神世界の人だけが「もっている」誤解ではないのだ。普通の人が、普通に「もっている」誤解なのだ。

2025年3月14日金曜日

家族だと、「うち」という閉鎖空間が成り立っているので、ほかの人は、関知しない(2)

それから、もう一つ言っておきたいことがある。それは、実際に、きちがい的な親が、きちがい的なことを、やりきるので、きちがい的な親にたたられている子ども側の人は、ネガティブな気持になりやすいということなのである。

きちがい的な親というのは、きちがい的な親の脳みそにしたがって、普通の人がやらないことをやるのである。普通の人がやる場合は、配慮が必要なことを、まったく配慮しないでやってしまうことも多いのである。

そして、きちがい的な親は、相手がこまっているということが、まったくわからない人なので、相手が「やめてくれ」ということを言ってきた場合には、起こるという反応をする。

その場合、起こって、やりきるわけだから、もともとの不愉快な行為にくわえて、起こられるという不愉快な出来事が付け加わってしまうのである。さらに、もともとの不愉快な行為(迷惑行為を続けてやる)のだから、「やめてくれ」と言ったあとも、ずっと、迷惑行為をやられるということになる。

そして、迷惑行為をしたというつもりがないので、「迷惑行為をしてない」思ったままになってしまうのである。

きちがい的な親側の頭の中で起こっていることは……こういうことなので……迷惑行為をやり続けることになってしまうのである。そうなると、迷惑行為をされる頻度が高くなるのである。

これは、実際に、不愉快なことが頻繁に起こるということだから、もし、普通の愚痴度?で、親の行為について言及した場合、ほかの人から見て、きちがい的な親にやられている子ども側の人が、愚痴の多い人に見えてしまうのである。

いやなことが発生した回数を分母にして、実際にいやなことがあったと言う回数を分子にした値を、愚痴度と呼ぶことにする。いやなことがあったと言うことは、かなしずしも、愚痴を言うことと等価ではない。相手がどのように感じるかが重要なのである。しかし、今回は、いやなことがあったと、だれか言ったら、それを聞いた他人は一〇〇%の確率で愚痴を聞かされたと思うということにする。ようするに、いやなことがあったと言う回数と、愚痴を言った回数がおなじだとする。

以上のことをふまえたうえで、話をすすめる。

たとえば、一〇個いやなことが起こった場合、一個のことについてほかの人に言うという場合の愚痴度は一〇分の一だ。〇・一だということにしておこう。そして、一〇〇個のいやなことが起こった場合、愚痴度が〇・一だと、一〇にいやなことについてほかの人に言うということになるのだ。

愚痴度はおなじなのに、一〇個いやなことが起こる場合は愚痴をあんまり言わない人というとになり、一〇〇のいやなことが起こる場合は、愚痴を言いやすい人だということになるのである。

愚痴度というのは、表面的な意味で、どのくらい愚痴を言うかの度合いのことだから、性格として語られることだ。愚痴を言いやすい人と、愚痴を言いにくい人という具合に、性格として語られる。

しかし、実際に発生個数がちがう場合は、愚痴の言いやすさの度合いとして理解してしまうわけにはいかないのである。性格傾向ではないかもしれないのである。

単位時間当たりの発生個数が問題になっている場合がある。まあ、なにを「いやなこと」と感じるかは、たしかに、人によってちがう。しかし、いやなことだと感じることには一定の傾向があり、ほとんどの人にとっていやなことは、やはり、ほとんどの人にとっていやなことなのである。つまり、なにがいやなことかということについては、確かに個体差があるのだけど、それでも、全体的な傾向がある。事柄と受け止め方の間には、あるていど、人間に共通した受け止め方があると前提して話したほうが、そうではない前提で話した時よりも、えるものが多いので、そうすることにする。つまり、たしかに、受け止め方には個体差があるのだけど、しかし、すべては受け止め方の問題だとは言えない部分があるのである。たとえば、悪臭は、ほとんどの人が、悪臭だと感じる。あるいは、悪臭だと、ほとんどの人が感じるにおいがある。でかい音のすべてが、騒音ではないけど、でかい音は、小さな音よりも、そうおんだとんかんじられるきかいが多いのである。音のでかさと、人間が騒音だと感じるどうかは無関係だと言えない。ある人にとって、そのでかい音が快感をもたらす音だとする。そして、別の人には騒音だと感じるとする。だったら、人によってちがうのだから、全体的な傾向(感じ方の傾向)がないかと言えば、あるのである。だから、すべては受け止め方の問題だとは言えない部分があるのである。

つまり、受け止め方の個体差はあるけど、それでも、完全に受け止め方の問題だとは言えない状況の中で、人は暮らしているのである。このことは、あとでもう一度、考えなければならない。けど、今回は、このくらいにしておこう。

今回言いたいことは、実際に「不愉快だと思う回数」が多ければ、おなじ愚痴度の人でも、愚痴を言う回数が多くなると言うことだ。愚痴を言う傾向(愚痴を言いやすい傾向)はたしかにあると思うけど、いやなことが発生する回数を、無視するわけにはいかないということだ。



 

2025年3月13日木曜日

きちがい兄貴が、やってはいけないことをしていた

 あと、「人のせいにする」という言い方が、きつかったなぁ。

これ、誤解なんだよ。言っているやつらが、まったくわかってない。言っているやつらがまったくわかってないだけ。

これ、ほんとうに、名誉棄損なんだよな。侮辱なんだよな。どういう生活をしていたのか、ぜんぜんわかってないなぁ。これ、きちがい家族と一緒に住むということがぜんぜんわかってないやつらの発言なのである。

これで、「自分は正しいことを言った」と思っているのか?

こういうやつらは、きちがい家族に軽くだまされて、きちがい家族にやられた人間をせめている。「俺だって苦労した」「俺だってつらいことがあった」と言うけど、そういう発言をしている時点で、まったく、同等の苦労をしてないのがわかるよ。

きちがい兄貴が、やってはいけないことをしていた。これが、正しいのである。

これ、まるで、きちがい兄貴が、普通のことをしていたのに、俺が、ひどいことをしていると思っていたというメタ解釈があるんだよ。きちがい兄貴が普通のことをしていたのに、俺が、きちがい兄貴のせいにしているというメタ解釈があるんだよ。こんなのない。

ヘビメタ騒音にたたられまくっている日々がどういう日々なのかぜんぜんわかってないだけなのである。

こいつらは、まちがった前提で、まちがったことを言っている。

あの態度で、自分のきらいな音を、あの音のでかさで鳴らされたら、生活がめちゃくちゃになるんだよ。こころも、からだも、めちゃくちゃになるんだよ。どれだけ、がんばってもがんばっても、めちゃくちゃになるんだよ。やってはならない音で鳴らしているんだよ。

そして、普通の人は、あのくらいの音で鳴らせば、でかい音で鳴らしているということが、いやおうなく、わかるんだよ。その根本的な部分をふっとばして、一緒に住んでいるきちがいが鳴らしてしまう。そして、きちがい親父がそれを支持してしまう。おかあさんのことは、悪く言いたくないけど、おかあさんの反応も普通の人の反応ではないのである。

あれだけでかい音で鳴らしていたら、普通の母親だったら、どうにかしようと思うはずなのである。おかあさんは、協力してくれたけど、こまっているだけで、普通の人の態度ではないのである。ともかく、きちがい兄貴が、道にはずれたこと……悪いことをやっているのに、俺だけが、「強く」兄貴に言っているという状態なのである。

おかあさんは、きちがい兄貴に注意してくれたけど、きちがい兄貴は、おかあさんのいうことなんて、きかなかった。

親父が、竹を植えるとき、おかあさんの注意を無視したように、きちがい兄貴がおかあさんの注意を無視して、「やりつづける」のである。だから、ずっと鳴っている。

これだって、「そんなにでかい音で鳴っているのに、他家族の人がなにも言わないなんておかしい」ときちがい家族と一緒に住んだことがないやつに言われて、俺が……きちがい家族と一緒に住んだことがないやつに、嘘つきだと思われるのだ。

こいつらは、こいつらで「そんなのは、へん。へんだから嘘を言っている」と思うやつらなのだ。こいつらのなかでは、「きちがいヘビメタは鳴ってない」ということになっている。鳴ってないのに、ぼくが「兄貴のせいにして」「言い訳をしている」と思っているのである。

こんなのない。あの生活の実態から言って、こんなのはない。こんなのはない。

ヘビメタ騒音できつかった

 ほんとうに、ぼくの一生はなんだったんだろうなーー。ほんとうに、そう思う。やりたいことができなかったなぁ。全部、よごれがついている。ヘビメタ騒音できつかった。なんの望みもかなわなかった。

2025年3月12日水曜日

家族だと、「うち」という閉鎖空間が成り立っているので、ほかの人は、関知しない(1)

 たとえば、性格がいい父親がいるとする。そして、性格が悪い父親がいるとする。性格が悪い父親が、迷惑行為をきちがい的な意地でやったとする。

その場合、子ども側の人間が、ネガティブなことを考えたから、子ども側の人間にネガティブなことが発生したわけではないのだ。

ところが、性格が悪い父親を外部環境として持っている子どもの「心の持ち方」の問題にしてしまうのだ。性格が悪い親にやられなかった一般人が、性格が悪い父親にやられた人間の「性格の問題だ」と決めつけてしまう。

これ、子ども側の人間は、父親側の人間の脳みそをかえられないのである。父親側の人間が、発狂的な意地で問題行為をするということを、子ども側の人間がかえることができないのである。

どれだけ言ったって、脳みその問題だから、きちがい的な欲望にかられて、きちがい的な行為をするのである。きちがい的な父親は、きちがい的な脳みそをかかえているから、脳みそ癖によって、ひどい迷惑行為をするのである。

一緒に住んでいれば、きちがい行為の影響をうけるのである。父親側の人間が、父親側の脳みそにしたがって、迷惑をかけているという認知がないまま、きちがい的な迷惑行為をした場合、子ども側の人間が影響をうける。

これは、子ども側の「こころの持ち方」の問題じゃないんだよ。子供側の人間の「受け止め方の問題」じゃないんだよ。ところが、子ども側の「こころの持ち方」の問題にしてしまうのだ。

こういう決めつけが、やられた側の人間にとってどれだけ有害か、一般人はわかってない。どうしてかというと、しくみがわからないからだ。

そして、みんなたしかに、トラブルを抱えているのである。ようするに、どれだけできた親だろうが、親とのトラブルは、生活していればあるわけで、そういう意味で、だれだってトラブルは、かかえているし、だれだって親とのトラブルを経験したことがあるということになる。

なら、普通の親の頭と、きちがい的な親の頭がおなじなのかというと、そうではないのである。

普通の親との間に抱えるトラブルと、きちがい的な親との間に抱えるトラブルは、ちがうのである。ところが、一般人は「自分だって親とのトラブルを経験したことがある」と思えば、そのトラブルは、きちがい的な親をかかえている人間のトラブルといっしょだと、無意識的に、あるいは、意識的に思ってしまうのである。

これも、決めつけなんだけど、本人が、否定することが非常に難しい決めつけなのだ。だって、実際に「自分だって(親との)トラブルを経験したことがある」わけだから、トラブルは経験したということになるし、実際に、「きちがい的な親とのトラブルは経験したことがない」ので、きちがい的な親とのトラブルと普通の親とのトラブルがちがうということは、わからないからである。

なら、それとおなじことが、きちがい的な親にやられた人にも成り立っていると思う人もいるだろう。つまり、きちがい的な親にやられた人は、正常な親に育てられたわけではないので、正常な親とのトラブルの質がわからないといういう主張も成り立つ。

けど、普通の親とのトラブルというのは、きちがい的な親にやられた人が、一般人との間に抱えるトラブルに似ているので「ちがう」というのが、なんとなく、わかるのだ。

ようするに、一般的な親とのトラブルを経験してない人も、一般的な人とのトラブルを経験したことがあるので、類推することができるのだ。

そして、なら、一般的な人も、きちがい的な親にやられた場合のトラブルやトラブルの質のちがいについて、類推できるのではないかということになる。たしかに、類推は可能だ。だから、職場のようなかぎられた場所での異常な人とのトラブルから、異常な家族とのトラブルを類することは可能だ。しかし、必要性と感心の度合いがちがうのである。

そして、一緒に住んでいるということがもつ意味がわからない。いっしょにすんだことがないので、一緒に住んでいるということのもつ意味がわからない。わかりようがないのである。

たとえ、きちがい的な人が職場にいたとしても、職場にいるきちがい的な人は、職場という公的な場所で問題行為をおこなうので、職場の人間……みんなに、きらわれているところがあるのである。

ところが、家族だと、「うち」という閉鎖空間が成り立っているので、ほかの人は、関知しないということになる。この性質は、トラブルの「質」に大きな影響をあたえるのである。

そして、職場などでのきちがい的な人間とのかかわりは、一時的だけど、家という場所でのきちがい的な人間のかかわりは、一時的ではないのである。だから、継続性と閉そく性がちがうのである。

そして、一般人というのは、「親」を「親」としてみなすので、問題が複雑になる。一般人が、ある人にとってある人を「会社の人」とみなした場合と、一般人がある人にとってある人を「親」とみなした場合は、関係性にまつわるコンセプトがぜんぜんちがうということになる。このちがいも、じつはで買い。

ようするに、他者が「親子関係」だとみなす関係と、他者が「職場の関係」だとみなす関係では、他者の介在度がちがうのだ。「親子関係」には口を出さないことになっている。「親子関係」というのは、他人が口を出しにくい関係なのだ。


2025年3月9日日曜日

「その人が、ネガティブなことを考えるから、ネガティブな出来事が起こる」

 問題なのは、条件が悪い人の不幸な状態を、条件が悪い人のせいにしてしまうということだ。

精神世界の考え方にこだわっていると、そうみなすようになるのだ。これは、たぶん、しくまれているんじゃないかな。

ようするに、精神世界の考え方がはやっている?のは、不幸な状態の人を追いつめるためなんじゃないかな。

条件がじつは、悪い状態を作り出している。

けど、精神世界の人の考え方というのは、条件を無視して、その人の性格のせいにしてしまう。「その人が、暗いことを考えるから、暗い状態になっている」と考えるわけだ。「その人が、ネガティブなことを考えるから、ネガティブな出来事が起こる」と考えるわけだ。

これは、条件が悪い人のことをせめていることになる。

「条件が悪い人が、悪い状態から抜け出すためには、ネガティブな考え方を捨てればいいということになる。ネガティブな考え方がネガティブな状態を作り出しているのだから、ネガティブな考え方をすれば、ネガティブな状態から、抜けだすことができるのである」……こういう考え方をする。

そして、説教をする。けど、暗い状態というのは、たいていの場合は、条件によって作り出されたものなので、本人が、ネガティブなことを考えなくても、条件によってネガティブな出来事が発生するのである。

「条件によってネガティブな出来事が発生する」ということを無視するということが、そもそも、よくないことなのである。

はっきり言えば、トラブルのもとなのである。

ネガティブな状態である人は、社会的な立場が低く、対人的な立場が低い。

なので、こういう人に、むりなことを言ってマウントをとることが、はやっているのだ。相対的に相手の立場が低ければ、妄想的なことを言って、悦に浸ることがはやっている。

しかも、本人は、いいことをしたつもりなのだ。こんなのは、条件によってネガティブな状態になっている人を、妄想的な理由でせめることにすぎない。

やっていることは、よくないことなのである。狡猾な悪魔が、他人の条件を無視することを、教えているのだ。だから、条件なんて無視する。ただの「こころのもちかた」の問題なんだと決めつけてしまう。

ところが、「こころのもちかた」ではなくて、ネガティブな条件が、ネガティブな状態を作り出しているのである。

たしかに、ネガティブな状態が不愉快な出来事を引き起こしてしまう場合があるけど、すべてではない。すべての場合において、本人が、気をつければ、うまくいくということではないのとおなじように、本人がポジティブな気持になっても、うまくいかないことがある。そういう、ものすごく劣悪な条件がある。

人間である以上、そういう条件では、むりだというのがある。

ところが、そういう条件ではむりだということを認めず、なんでも、こころの持ち方で解決できると思ってしまうのが、精神世界の人たちなのだ。ところが、こころの持ち方では、解決できない問題があるのである。

ようするに、条件からダメな状態がしょうじる必然性があるのかどうかということを考えなければならないのである。ところが、必然性なんて、無視なのである。条件なんて、いろいろとあるから、たいして影響をあたえない条件も確かにある。

けど、不可避的な影響をあたえる条件も確かにあるのであっる。ところが、精神世界の人は、対して影響をあたえない条件と不可避的な影響をあたえる条件の区別をせず、すべての条件が、たいして影響をあたえない条件だと仮定して考えているのである。

だから、すべての問題が、こころの持ち方をかえれば解決できる問題だと想定してしまうのである。これか、よくないことなんだよ。どうしてかというと、不可避的で、必然的な問題をかかえている人がいるからだ。その人たちは、こころの持ち方をかえても、解決できないのだから、無意味なことを言ってこまらせるべきではない。

 

2025年3月8日土曜日

「消しゴムを動かそう」と思わなかったら、消しゴムは動かなかった

 「消しゴムを動かそう」と思わなかったら、消しゴムは動かなかったのだから、思いは重要だという言い方について考えてみよう。

思わなかったから結果的に、そうならなかった。これも、思えば、思っただけで、思いが現実化するというまちがった結論を補強するものとして語られることなのだ。

思わなかったから、現実化しなかった。なら、思ったことは現実化するのか?

だましがある。

そして、思わなかったことというのは、自分の思考に関することなのだ。自分の行動に関することなのだ。「明日は雨がふる」と思わなければ、いつも、雨がふらないのか?

ちがうだろ。

「明日は、雨がふる」と思わなくても、雨がふってしまうことがある。これは、自分の身体を動かして、現実化するようなことではないので、「自分が思わなかった」ということとは、まったく関係なく、結果が発生するのだ。


思わないことで、発生させないことができるのかというと、それはちがうのだ。

自分の身体を動かしてやることに関しては、たしかに、思わなかったことで、現実化しないことが多い。だから、全部がそうなのか?

ちがう。

法則性が成り立っているのか?

ちがう。

「(自分が)思わなかったことは現実化しない」という法則なんて成り立っていない。

けど、例として、自分が思わなかったから、自分がしなかったことをあげ、あたかも、「自分(自分が)思わなかったことは現実化しない」という法則が成り立っているようなイメージをあたえるのだ。詐欺。トリック。

*     *     *

「思いが現実化する」という言い方や「思ったから現実化した」という言い方だと、起点として「思ったから」ということが言える。けど、それは、起点として思ったからだ。起点として思って、自分のからだを使って動かしたのだ。

だから、これは、「念力」で動かしたのとは、ちがう。

けど、「思ったから現実化した」と言ってしまう。

消しゴムの場合だと、念力で消しゴムを動かした場合と自分の身体を使って動かした場合は、ちがうのに、そのちがいを、無意識的に無視するのだ。

だから、「思ったから現実化した……。これが正しい」と思うことになる。

たしかに、起点としては、消しゴムを動かそうと思ったということがある。けど、思っただけでは、動かないのである。本人が、本人の身体を使って動かした。

これは、思いの力で、消しゴムを動かしたのとはちがう。ぜんぜんちがう。ところが「おなじだ」と思っているのである。どっちも「思ったから」「移動した(動いた)」と思っているのだ。

ぜんぜんちがうことについて言及しているのに、おなじことについて言及しているつもりなのだ。こういうレベルの錯誤がある。

ところが、Aさんは、自分の「思いの力」によって、雨になったと誤解をするのである

 「思ったから、できた」という場合について考えてみよう。

たとえば「消しゴムを動かそうと思ったから、消しゴムを動かすことができた……だから、思いは現実化する」と考えた場合について、考えてみよう。

この場合、確かに「思った」「から」「思った通りになった」のである。

けど、じゃあ、「だから、思いは現実化する」のかというと、そうではないのだ。

ちがうのだ。

「だから、思いは現実化する」と言う場合は一〇〇%詐欺があり、「例(れい)」と「法則的な言葉」にへだたりがある。

その「例(れい)」が成り立つから、普遍法則として、「思いが現実化する」ということが成り立つとは……じつは……言えないのだ。ここらへんのことがまったくわかってない人たちがいる。

ひとつの例について説明されたあと、普遍法則について語られると、あたかも、普遍法則が、いつも成り立つような気持ちになってしまうのだ。

けど、「へだたり」がある。

理論的ではない。

なんで、これがわからないのか?

たしかに、消しゴムを動かそうと思ったら、たいていの場合は、動かせる。

しかし、動かそうと思ったあと、すぐに死んだ場合は、動かせずに死んでしまうのだから、いつも、動かせるとは限らないのだ。

また、自分が思った通りに身体が動くという前提があるけど、その前提だって、いつも、成り立っているわけではない。

たいていの場合は、腕がある人が、自分の腕をつかって動かすことを前提にしているのだけど、腕がある人ばかりではない。おなじように、たいていの場合は、手がある人が、自分の手を使って動かすことを前提にしているのだけど、手がある人ばかりではない。

けっきょく、思ったあと、自分の身体をつかって、動かしているのである。

この「思ったあと身体をつかって動かす場合」は、たいていの場合において、「思った通り」になる。事実、思ったことが、現実化する。たいていの場合は、そうなる。

けど、だから!!思ったことが現実化するとは言えないのだ。

もう、一〇〇%詐欺のこところでじゅうぶんに説明したので省略する。

今回、言いたいのは、「思った」だけではないということだ。

たしかに、思った。

けど、思っただけではなくて、自分の身体を動かしている。

「思えば、思ったことが現実化する」と言う場合は、「思っただけ」で現実化するという意味をもっているのである。

しかも、ほんとうは、体を動かすのに、体を動かすということが、考えのなかに、入っていないのである。

ようするに、「なんでも思ったことは、思っただけで現実化する」ということと「身体を動かせばどうにかなることについては、思った『あと』身体を動かせば、現実化する」ということは、別のことなのに、おなじこととして語られているのだ。

語られた人の頭の中で、両者の区別がついてないのだ。

まーーったく、区別がついていない。

簡単に説得される人は、区別なく「思いが現実化する」と考えているのである。だまされやすい人たちなのである。

ちがうことについて語られたのに、ちがうことについて語られたという自覚がないのだ。こまったものだ。ちがうことについて語られたことに気がつかない人は、両者の区別をしてないのだから、その通りだと思って、両者の区別をしないまま、今度は、自分が他人に語りだすのである。

「思っただけでそうなる」ということと「思ったあと(思ったことを現実化させるために)行動をしたら、そうなった」ということは、ぜんぜんちがうことなのである。

身体を動かせば、できることに関しては、あたかも、「思えば、思ったことが現実化する」ように思える。

しかし、社会的なことは、自分の身体を動かしても、現実化しないことがあるのである。

ところが、社会的なことに関しても、思えば、思っただけで、自分の身体を動かさなくても、現実化するという意味を込めて「思えば、思ったことが現実化する」と言ってしまう。

ぜんぜんちがうことについて語っているのに、ぜんぜんちがうことについて語っているということがわかってない。

思っただけで、自分の思い通りになることは、案外、少ない。たしょうは、自分身体のことなら、思っただけでそうなる場合がある。たとえば、訓練をすれば、微妙な体温の変化は、自分の意思によって引き起こすことができるのかもしれない。あるいは、自分の脈拍については、自分の意識的な「思い」によって、ある程度!は、制御できるかもしれない。

これは、人間の身体というものを使っているからそうなるのである。

それと、外部の人間がかかわっていることや、自分の身体を動かしても、どうすることもできない自然現象がかかわっていることは、思っても、思ったことが現実化するとは限らないのである。

さらに、「思ったら現実化する」と言う場合は、思ったあとに、ほかの原因で、現実化しているわけで、本人が思ったから、「思いの力」によって現実化したわけではない。「思いの力」を「念力」という言葉に置き換えるとわかりやすいかもしれない。

たとえば、「明日は雨になる」とAさんが思ったとする。Aさんの思いの力によって、雨になったわけではない。ところが、Aさんは、自分の「思いの力」によって、雨になったと誤解をするのである。

これは、幼児的万能感がかかわっている。幼児的万能感は、たぶん、言語の初期的な発達の時期と、因果関係について認識し始める時期が重なるので、脳のなかで、ある程度ネットワークができてしまうことが原因ではないかと思う。

これは、ぼくが勝手に思っているだけだ。

けど、ともかく、幼児的万能感は、大人にもあるのだ。「自分が、明日は雨になると思ったから、雨がふった(雨になった)」と思えるのは、幼児的万能感があるからなのである。

ともかく、普通の人は「思いが現実化する」と言うとき、「思っただけで、現実化した」のか「思ったあと行動をしたから現実化した」のかということについてあんまり考えない。

思っただけで、現実化したと考えるときも、「自分の思いの力で現実化した」のか、「ほかの力(条件を満たしたいろいろな力)によってそれが現実化した」のかということについて、考えない。

それが現実化したということは、結果的に!そうなったということだ。

まず、第一段階で、「思っただけ」なのか「思ったあと行動した」のかちがいについて、誤認識があり、第二段階で、原因について誤認識があるのである。

例としてあがっている「消しゴムを動かそうと思ったから、消しゴムを動かした(結果として、消しゴムが動いた)」ということと「思えば、思ったことが現実化するという法則性がある」ということは、まったくちがう内容を含んでいるのである。

わからないかな?

「消しゴム」の場合は、思っただけではなくて、思ったあと、行動をしているのである。

「思ったから、現実化した」と言えるのだけど、その場合は、日常的な意味としての「原因」をあらわす「から」を使っている。

しかし、実際には、自分の身体をつかって、消しゴムを動かしたのであり、たしかに思ったことが「起点」ではあるけど、思っただけでは、消しゴムは、動かないのだ。何度も言うけど、思っただけでは、消しゴムは、動かない。

これは重要なことだ。

別に「念力」を使って、動かしたわけではない。「思いの力」が、消しゴムを動かしたわけではない。けっきょく、思ったあと、行動をしている。思ったあと、自分の身体を使って、物理的に消しゴムを動かしている。

これは、たしかに、「思ったから」と言える部分を含んでいるのだけど、「思ったから」の「から」がちがうのである。

この場合の「思ったから」はあくまでも、「起点」しか、しめしていないのである。思ったあと、自分の身体を使って、思いを現実化したのである。

結果として、たしかに、消しゴムは動いたのである。

けど、消しゴムは、念力によって動いたわけではない。「思った」から、動いたのではないのだ。

思ったあと、動かす動作をしたので、消しゴムが動いた。思った「から」念力によって、動いたのではなくて、思った「あと」身体を使って、動かす動作をした「から」動いたのだ。

言い方の問題なんだけど、「から」ではなくて、「あと」なんだよ。そして、思っただけではなくて、身体を使って動かしたんだよ。

こういうところに、トッリクがある。

ちがう内容について言っているということがわからないかな?

あたかも、法則として成り立っているような言い方になっているけど、「例」であがったことと「法則性がありそうな文言」とは、ぜんぜんちがう内容を含んでいるのだ。

例と合致することに関しては、日常的な言い方の「から」がからんでいる。

「起点」でしかない。

たしかに「思った」のだ。

思った「から」身体を動かして、結果的に、消しゴムの位置がかわった。だから、日常的な表現だと「から」という表現を使える。

けど、言っている内容がちがうのだ。

*     *     *

2025年3月7日金曜日

思ったか思わなかったかという条件以外の条件を無視しているのである。

起こる確率というのは、条件によって決まる。

だから、条件は非常に重要。条件が、確率を決めているのだから、条件は、めちゃくちゃに重要だ。

ところが、思霊理論は、最初から最後まで、思ったか思わなかったかという条件以外の条件を無視しているのである。

実際には、 思ったか思わなかったかという条件以外の条件が結果に影響をあたえている。思ったか思わなかったかということが、影響をあたえる事象と、影響をあたえない事象がある。

「思った」か「思わなかった」かということは、ひとつの条件なのだけど、これを、固定して考えよう。

その場合、「思った」か「思わなかった」かということよりも、その他の条件が与える影響のほうがでかいことがある。

「思った」か「思わなかった」かということが、〇%の影響をあたえ、その他の条件が一〇〇%の影響をあたえる場合について考えてみよう。

たとえば、天候など、本人の意思とは関係がないものは、「思った」か「思わなかった」かに関係なく、その日のその時刻の、その地域の天候が決まってしまう。本人の思いとは関係がない事象がある。本人の思いとはまったく関係がない事象は、本人の思いとはまったく関係ないのだから、本人の思いとはまったく関係なくしょうじる。

しょうじた結果に関して言えば、生じた結果の影響を本人がうけることはある。これは、その結果が、本人の「新たな条件」になっているということだ。

*     *     *

「思った」か「思わなかった」かということが、大きな影響をあたえ、その他の条件が小さな影響をあたえる場合について考えてみよう。

たとえば、机の上にある消しゴムを動かすということは、「思った」か「思わなかった」かということが、大きな影響をあたえる。けど、この場合も、まず、机の上に消しゴムがあるという条件を満たさなければならないのである。

なので、条件は大きな影響をあたえるということもできる。

まず、消しゴムがなかったら、消しゴムを買いに行って、消しゴムを手に入れたあと、消しゴムを机の上に置かなければならない。消しゴムの入手方法は、他にもある。

だから、なんらかの方法で、消しゴムを手に入れるということを、まず、しなければならない。

すでに、ほかの条件がそろっている状態なのであれば……つまり、これは、さまざまな条件を満たしているということになるのだけど、「意思」が強く影響をあたえることがある。

机の上にある消しゴムを動かそうと思わなかったのであれば、動かさないわけだし、動かそうと思ったから、動かしたわけだから、「意思」は、結果に、大きな影響をあたえている。

けど、そもそも、消しゴムがなかったら、消しゴムを動かすことができないのだから、机の上に消しゴムがあるという条件が、意思以上に大きな影響をあたえているということもできる。

消しゴムがあるかないかという条件について語ったわけだけど、じつは、机があるかどうかという条件も重要だ。机の上に消しゴムがなければ、机の上の消しゴムを動かすことができないのだから、机があるということも重要な条件なのだ。

そして、思ったあと、本人が、死なないということも条件として成立していている。

消しゴムを動かそうと思ったあと、突然、体調が悪くなり倒れて死んでしまった場合は、消しゴムを動かそうと「思った」のに、消しゴムを動かせなかったということになる。

この場合も、消しゴムを動かそうと「思った」かどうかということ以外の条件が、「結果」に影響をあたえている。

*     *     *

もう一つ例をあげておく。たとえば、トマトを食べようと思ったとする。そして、家にトマトがなかったとする。その場合、店にトマトを買い行くというような行為が必要になる。

普通に動ける状態で、買いに行く時間があるのであれば、買いに行って、トマトをゲットすることができる。

しかし、これも、店にトマトがあるかどうかということが、結果に影響をあたえる。いつもよく行く店にはなかったとする。

けど、別の店に行くことを思い立って、別の店に行ってトマトを買ったとする。そのあと、家に帰って、家でトマトを食べたとする。次の店には、トマトがあったわけだけど、これだって、次の店にトマトがあるかどうかという条件が結果に影響をあたえている。

影響をあたえない事象ほうが多い。圧倒的に多い。だいたい、オギャーと生まれるまえから、さまざまな条件が影響をあたえているので、「さまざまな条件の影響をうけない思考」というのが、ほんとうにあるのかどうかわからない。

たぶん、ないんじゃないかな。

*     *     *

思ったあと、念力を使って、消しゴムを動かした場合と、思ったあと、本人のからだを使って動かした場合は、まったくちがうに、「おなじようなものだ」と精神世界の人は思っているのである。

あるいは、彼らは、両者を区別してないのである。

だから、「思ったら、思ったことが現実化する」というひとつの文に、「思ったら、念力の力で、思ったことが現実化する」という意味と「思ったら、物理的な力で、思ったことが現実化する」という意味をもたせることができるのである。意味をもたせることができると書いたけど、本人の頭の中で、区別がついていないから、その時々で、ちがった意味を込めて、ひとつの文を使っているということだ。

実際には、もちろん、念力などは使えないから、現実の場面では、念力を使ってものを動かすということはできないのである。

だから、つねに、「思ったら、物理的な力で思ったことが現実化する」と言っているだけなのである。物理的な力というのは、身体的な力という意味だ。実際に行動して、現実化しようとするのだ。

一〇〇%詐欺があるので、現実化しようと思えば、一〇〇%の確率で現実化することができるようなことを言っているけど、これも、詐欺的なポイントだ。

「思えば、現実化する」と前向きな状態で言っているときは、自分には念力のような「思いの力」があるから、物理的な力に頼らなくても、念力のような「思いの力」だけで、現実化することができると言っているのである。

ところが、念力のような「思いの力」なんてないわけだ。だから、つねに、嘘を言っているということになる。

「思ったから、現実化する」という場合は、起点としての「思い」があるから、そのように言えるだけなのである。

「コーヒーを飲もうと思ったから、コーヒーを飲むということが現実化した。コーヒーを飲もうと思わなかったら、コーヒーを飲むということは現実化しなかった。だから、思うということが重要だ」と言っているときは、起点としての「思い」について言及しているだけなのである。

もちろん、起点として思うことは重要なのだけど、コーヒーを飲むということだって、物理法則が成り立っているこの世で、現実しただけなのである。

魔法のような思いの力で、現実化したわけではないのである。念力のような思いの力で、現実化したわけではないのである。

だから、そういうところに、だましのポイントがある。

魔法の力というのは、物理的な力を超越したなんだかわからない力なのである。魔法の力で現実化する場合は、物理法則を無視して、現実化するのである。

もちろん、普通の人や精神世界の人が、物理法則を無視した魔法の力をもっているわけではない。だから、思ったことを現実化するには、物理法則にしたがった行動をする必要があるのである。

しかし、物理法則にしたがって行動をすれば、思いは、いつも、現実化するかというと、そうではないのである。思ったところで、物理法則を無視したことは、この世では現実化しないし、物理法則にしたがったことでも、条件によっては、現実化するとは限らない。

どうしてかというと、外界には、自分の力が及ばない存在が「いる」からである。あるいは、自分の力が及ばない存在が「ある」からである。

どれだけ、雪が降ることを、うまく思い浮かべても、物理的な条件を、みたされなければ、雪は降らないのである。自然現象だけではなく、外界には、自分の思い通りには動かない他者がいるので、自分が思ったとしても、他者が関係していることに関しては、自分の思い通りにならないことがあるのである。

もちろん、他者が、自分の思いに共感してくれと、他者も、自分の思いを現実化しようと動いてくれる時はある。けど、この他者の運動も、物理法則にしたがった運動なのである。別に超・物理的な魔法の法則によって、他者の運動が現実化するわけではないのである。

けっきょくは、そういうことになる。

なので、物理法則にしたがってない「思い」はこの世では、現実化しないのである。

これは、一〇〇%現実化しないのである。

精神世界の人は、物理的な力と超・物理的な力を区別せずに、自分の思いが現実化すると言っている。その場合、じつは、物理的な力と思える力のなかに、魔法の力がしのびこんでいるのである。

精神世界の人は、自分がそういう 魔法の力を使える存在だと思っているところがあるのである。ようするに、これが幼児的万能感なのである。

自分は魔法を使えるということを前提にして言う「思いは現実化する」という言葉の意味と、自分が物理的な法則にしたがった行動をして「思いを現実化する(させる)場合がある」という言葉の意味がおなじはずがないのである。

ところが、精神世界の人は、物理的な法則にしたがった行動をして「思いを現実化する(させる)場合がある」という意味をこめて「思いは現実化する」と言い、「思ったから現実化した」と言うのだ。

そして、自分は魔法を使えるということを前提にして「思いは現実化する」という言葉を使い、「思ったから現実化した」という言葉を使うのだ。

だから、内容がまったくちがうことを「思いは現実化する」という言葉や「思ったから現実化した」という言葉で、あらわしているということになる。

ポジティブなことを思い浮かべて、夢を語る場合は、自分は魔法を使えるので、自分の思いが、物理的な法則を無視して現実化するということを言っているのである。そういう気持をこめて、「思いは現実化する」と言っているのである。

なんらかの不思議な力に導かれて、あるいは、なんらかの不思議な力によって、現実化してしまうのである。自分の思いが、超物理的な不思議な力によって、現実化してしまうのである。そういう意味で言っているのだ。

けど、例としてあげる場合は、ただ単に起点としての「から」を使って、「思ったから現実化した」と言うのだ。例をあげる場合と、ポジティブなことを思い浮かべて夢を語っている場合とでは、「思ったから現実化した」という内容がぜんぜんちがうのである。

 「思いは現実化する」というひとつの文の内容がぜんぜんちがうのである。

 

 

 

2025年3月6日木曜日

『原因すりかえ詐欺』

 『原因すりかえ詐欺』のようなものが成り立っていて、原因がすりかえられているのである。ほんとうは、条件が影響をあたえているのに、ただ単に「思ったから」こうなったと思うようにしむけられているのである。

「思うこと自体」も、じつは、さまざまな「条件」がかかわっている。脳みその状態だって、条件のうちのひとつだ。

条件と「意思」はじつは、切り離して考えることができないぐらいに、接近している。実際に、意思と脳みその状態を切り離して考えることはできないだろう。

しかし、そういうレベルの話ではなくても、「意思」だけが、結果に反映していると思わせるような説明のしかたをしているのである。その説明のなかには「条件」は一切合切、出てこない。

まあ、「思う」ということをひとつの条件として考えた場合、「思う」ということ以外の条件については、まったく語られないということになる。

「こう思った」……「だからこうなった」という思考スタイルを採用しているのである。

これは、条件が満たされていることで、思えば、普通にほぼ100%の確率でできることに関しては、あたかも、正しいことのように感じられるのである。

しかし、厳密なことを言えば、その場合も、じつは、ほぼ100%の確率で可能だという「条件」がかかわっている。「条件」が関係している。

いづれにせよ、精神世界の話というのは、言霊であれ、思霊であれ、引き寄せであれ、すべて、「条件」を無視しているのである。

条件を無視して、「言うか言わないか」を問題にし、「思うか思わないか」を問題にし、「引き寄せ行為をするかどうか」を問題にするのである。

条件はガン無視なのである。

 

2025年3月5日水曜日

一〇〇%詐欺についてずっと、説明してきたので、もう、省略する。

 起こる確率が低いことを心配している場合は、起こる確率が低いのだから、たいていの場合は「落とし穴はないと思って歩いたら、落とし穴に落ちなかった」ということになるのである。

「落ちない」と思って歩いたら、落ちなかった。「だから、思霊理論は正しい」ということにはならない。落ちなかったのは事実だけど、思霊理論は正しくない。

「暗いことを考えなかったら、暗いことが起こらなかった」というケースだから、思霊理論が正しいように思うかもしれないけど、正しくない。なんで、これがわからないのかということが、わからない。一〇〇%詐欺についてずっと、説明してきたので、もう、省略する。

実際に、落とし穴に落ちなかったのは、落とし穴がなかったからだ。あるいは、落とし穴の上を通らなかったからだ。あるいは、落とし穴があるところに、足を踏み入れなかったからだ。

まず、そこに落とし穴がある確率が低いのであれば、たいていの場合は、落とし穴に落ちない。これは、条件によってちがうんだよ。条件のちがいを無視するわけにはいかないだろ。どうして、これがわからないのか、ぜんぜんわからない。

起こる確率が高いことを心配している場合は、起こる確率が高いのだから、たいていの場合は、「落とし穴があると思って歩いたら、落とし穴に落ちた」ということになるのである。

「落ちる」と思って歩いていたら、落ちた。「だから、思霊理論は正しい」といこうことにはならないの。落ちたのは事実だけど、思霊理論は正しくない。

「暗いことを考えたら、暗いことが起こった」というケースだから、思霊理論が正しいように思うかもしれないけど、正しくない。なんで、これがわからないのかということが、わからない。一〇〇%詐欺についてずっと、説明してきたので、もう、省略する。



 

 

2025年3月3日月曜日

精神世界の人だって、ゲロを避ける(2)  その必然性が(やられてない他人には)わからないのである

 もうすでに、きちがい的な家族が、きちがい的な大音量で、自分のきらいな音を鳴らしている場合は、現実的な問題なのである。

もうすでに、現実的な問題が発生しているのに、言霊や思霊で対処できるわけがないだろ。

実際に、「一分以内に、鳴りやむ」と何回言っても、鳴りやまなかった。

現実的な問題について、言霊的解決方法や思霊的解決方法について語るのは、ナンセンス。 現実的な問題について、言霊的解決方法や思霊的解決方法をすすめるのは、ナンセンス。

これ、助言になってないのに、いい助言をしたと(言霊主義者や思霊主義者は)思ってしまう。言霊を信じている人や思霊を信じている人にとっては、言霊的な問題解決方法や思霊的な問題解決方法は、じゅうぶんに現実的な問題解決方法なのである。

けど、相手にとっては、それは、まったく現実的ではない。

これも、言霊主義者だって、本人の現実的な問題に関しては、とくに、言霊を使っていないのである。現実的解決方法だと思ってないから、最初から、現実的な問題に関しては、言霊思考が関与するスキがないのだ。

ようするに、現実的な問題で「余裕がない」と言霊思考にならないのである。

ある程度、問題との距離があり、「余裕がある」と言霊思考になる。

だから、現実度ということを考えた場合、本人のことについては、本人において現実度が高い問題に関しては、現実度が高いということは、わかっているのだけど、相手のことになると、相手の問題だから、本人の現実度が極端にさがるのである。

「本人」と「相手」という言い方をすると、本人の場合は、本人の問題だから、本人にとって現実度が高くて、相手の問題だと、相手の問題なので、本人にとって現実度が低いのである。

だから、普段は、自分の現実的な問題に関しては、言霊思考をしない言霊主義者であっても、相手の問題は、自分にとって現実度が低いので、途端に、言霊思考をしてしまうのである。

すでに発生している問題なのか、それとも、将来(低い確率で)発生する問題なのかということを考えなければならないのである。

これを、区別せずに、「言霊は正しい」「言ったことが現実化する」「思ったことが現実化する」と思っているから、現実的な問題をかかえている人を傷つけるのである。

すでに現実的な問題をかかえている他人を、傷つけるのである。

まちがった助言をして、まちがった助言しているということにまったく気がつかないなんて、ひどいことだと思うけどなぁ。

現実的な問題をかかえているのに、言霊主義ゃや思霊主義者から、現実的ではないことを言われて、問題が増えてしまうだろ。すでに、現実的な理由があって、現実化している問題に関しては、言霊的解決方法や思霊的解決方法は、まったく役に立たないんだよ。無力なんだよ。

*     *     *

きちがい兄貴も言霊主義者も、普段「あたりまえのように」やっていることを、やっていると認識してないのである。けど、もちろん、おなじではない。

言霊主義者の言霊法則の無視は、現実に対応したものなのである。

言霊主義者は、普段、現実主義者で、現実に適応して生きているのである。言霊主義者が、普段も、言霊的な行動をとっていたら、現実に適応できなくなってしまうのである。

言霊主義者は、普段、言霊法則を無視して、現実に適応しているということを、無視しているのである。ごく普通にやっているのに、やっているという感覚がない。

言霊主義者は、自分が言霊法則にしたがってないということを、うまく、認知・認識できないのだ。言霊法則にしたがわず、現実的な行動をしているときは、言霊法則にしたがってないということを、意識することができない。

いっぽう、きちがい兄貴は、よそのうちでは鳴らせないようなでかい音で音楽を鳴らすという逸脱行動をしているのに、逸脱行動をしているということに、気がつくことがないのである。

言霊主義者は、言霊原理にしたがわす、現実原理にしたがって行動しているということに気がつかないわけだから、けっきょく、現実に適応しているのである。

けど、きちがい兄貴は、現実に適応しているとはいえない。きちがい兄貴が無視しているのは、逸脱行為をしている「自分」なのである。「自分」というのは、きちがい兄貴自身のことだ。

つねに、逸脱行為をしているのに、つねに、逸脱行為を「している」という自覚がないし、つねに、逸脱行為を「した」という自覚がないのだ。うちのきちがい兄貴には自覚がない。

そのぶんの、「ズレ」がぼくのほうに、つかれとして、あらわれてしまうのである。勉強することができないということにあらわれてしまうのである。「宿題を忘れる(宿題をやらないまま登校する)」ということにあらわれてしまうのである。

きちがい兄貴が逸脱行為をしているのに、俺が逸脱行為をしているように思われてしまう。

きちがい兄貴が、逸脱行為をするから宿題ができないというのは、鳴っているときの状態から言って、事実なのだけど、その場にいない人には、それがわからないのである。ようするに、「こうなる」という必然性が見えていないのだ。

ヘビメタ騒音が鳴っていれば、宿題ができずに、宿題を忘れるということになるのだけど、その必然性が見えない。

ヘビメタが「かりに」鳴っていても、宿題ぐらいできるはずだと、ほかの人は、思い込んでいる。けど、むりなのだ。

おなじことが、遅刻にもあらわれる。あれだけ鳴らされて、普段、(ヘビメタ騒音がなければ眠れていた時間に)眠れなくなるのは必然なのに、その必然性が(やられてない他人には)わからないのである。

わからなければ、「鳴り終わったら眠れる」「ヘビメタ騒音あびたって、夜になったら眠れる」ということになってしまう。その人のなかで、そういうことになってしまう。

だったら、「エイリがあまえているんだ」「エイリが嘘を言っているのだ」ということになってしまう。その人のなかで、そういうことになってしまう。

精神世界の人だって、ゲロを避ける(1) 「気がつかないことで、暗い出来事が起こることを制御できる」

たとえば、三メートル前に、落とし穴があるとする。落とし穴に気がついた。そのとき、どうるのか?

落とし穴があるから、避けようと思うはずだ。そして、避けて、落とし穴にはまらず、通り抜けることができる。

精神世界の人が言っていることは、「落ちると思うから落ちる」ということだ。

三メートル前に落とし穴があって、それに気がついた。

「落ちると思うからおるのだ。落ちないと思えば落ちない」と言って、穴の上を通り抜けようとしたら、実際には、落ちる。精神世界の人が言っていることは、まさしく、「落ちると思う『から』落ちる」ということだ。

いや、物理法則にしたがって落ちるのでしょう。

歩くということだって、精神世界の人は無視しているけど、物理法則にしたがって歩いているのだ。

精神世界の人が、妄想的なことを考えて、行動しているだけだ。

けど、精神世界の人たちが、ずるいところがある。もし、ほんとうに、落とし穴がある場合は、精神世界の人だって、ちゃんと落とし穴をよけようとする。

「落ちると思うから落ちるんだ」「落ちないと思えば落ちない」なんて……人には言っているけど、本人が、現実的な問題に直面した場合は、すぐに、物理的な思考をして、落とし穴を避けようとするのだ。

「あそこの上を歩くと落ちるから、あそこの上を歩くのはやめよう」と思って、落とし穴があるところを避けるのだ。

だから、ほんとうは、思霊主義者が落とし穴を避けた場合は、「どうして、自分は、普段、落ちると思うから落ちるなどと言っているのに、いざ現実的な場面になると、落とし穴を避けてしまうのだろう?」ということについて、ほんとうは、考えなければならないのである。

思霊主義者なら、落とし穴が見えているときも、「落ちると思うから落ちる」「落ちないと思えば落ちない」と思って、落とし穴の上を歩こうとしなければならないのである。

そして、落ちたら、落ちたということを、認識しなければならないのである。

つまり、「落ちると思うから落ちるのだ」という考え方はまちがった考え方だということを、認識しなければならないのである。「落ちないと思えば、落ちない」という考え方は、まちがった考え方だということを、認識しなければらないのである。

「落ちないと思えば、落ちない」と思って、歩いたけど、「落ちた」ということを、認識しなければならないのだ。

ところが、思霊主義者は「見てわかること」だと、途端に、物理法則にしたがった現実的な思考をしてしまうのである。

そして、思霊主義者は、自分が現実的な思考をしているということを、無視してしまうのである。

だから、「思ったことが現実化する」というような考え方が、思霊主義者のなかで、くずれないままなのである。

思霊主義者だって、現実の生活場面では、実際には、物理法則したがった考え方を優先して、思霊法則にしたがった考え方を軽視しているのである。

現実的な場面では、思霊主義者といえども、現実を無視せずに、思霊思考におちいらずに、現実を判断して、行動しているのである。

ただし、思霊主義者は「現実を無視せずに、言霊思考におちいらずに、現実を判断して、行動している」ということに、まったく気がつかないのである。

思霊法則にしたがわずに、物理法則にしたがって行動している自分というものを、認めることができないのである。都合よく、(自分の真の姿を)無視してしまっているのである。認識しないことにしてしまっているのである。思霊主義者は無自覚なままだ。

*     *     *

落とし穴ではなくて、ゲロでもいい。

ゲロが、道路の上にあったとする。このまま進むと、踏んでしまう。その場合どうするか?

思霊主義者だって、ゲロを避けようとするのである。ゲロを踏まないようにするのである。「ゲロを踏むと思うからげろを踏んでしまう」「げろを踏まないと思えば、ゲロを踏まない」と思って、そのまま進んでゲロを踏んでしまうわけではない。

ゲロがあったら、避けようとするのだ。

犬のフンでもおなじだ。犬のフンがあるということがわかったら、避けようとする。ネズミの死骸があったら避けようとする。なんの汚れだか知らないけど、汚れたところがあったら、避けようとする。

避けて通る。

踏まないように気をつける。

「踏むと思うから踏む」「踏まないと思えば踏まない」などと考えて、そのまま、踏む経路を歩くわけじゃない。

気がついたらよける。

気がつかない場合は、よけずに進んでしまう。

ゲロを踏んでしまったときは、そこにゲロがあると気がつかずに、足を踏み入れ、ゲロを踏んだあとに、ゲロを踏んだと認識するのだ。

これは、まさしく、「暗いことを考えなかった場合」なのである。

「ゲロを踏んでしまう」という暗いことを考えずに、ゲロに進む経路(道すじ)の上を、歩いてしまったから、ゲロを踏んでしまったのだ。

ゲロに気がつかない状態というのは、まさしく、「このまま歩くと、ゲロを踏んでしまう」という「暗いこと」に気がつかない状態なのである。

落とし穴でいえば、「落ちる」と思っていない状態なのである。落とし穴があるということに、気がつかないで、落とし穴に落ちる経路の上を歩いている状態なのである。この状態のとき、人はたしかに暗いことを考えていないのだけど、暗い出来事が発生するように、行動しているのである。

*     *     *

意識の集中というのがある。言霊主義者がどういう説明を受けるかということだ。

たとえば、「右を見ると右に進んでしまう」ということを言われるのだ。そういうふうに説明される。けど、右を見ても、まっすぐに進もうと思っているときは、すぐに、前を見て、先に進もうとする。

確かに、人間は、見た方向に進んでしまうというところがある。

けど、それと、「思ったことが現実化する」「思わなかったことは現実化しない」ということはちがう話だ。

まちがった説明をうけて、まちがったことを信じてしまうのだ。

例としてあがっていることが不適切なのである。

ようするに、その例からは、「思ったことが現実化する」「思わなかったことは現実化しない」ということは、言えない。言えないのだけど、言葉たくみに説明されると、「思ったことが現実化する」「思わなかったことは現実化しない」ということを信じてしまう。

これ、トリックなんだよ。意識の集中と、意識が集中しているところに、行こうとする性質はあるのだけど、それは、思霊とは関係がないことなんだよ。

*     *     *

右を見ると右に進んでしまうということは、ゲロの話に置き換えると、ゲロに気がついて、ゲロを見ていると、ゲロのある方向に進んでしまうということになる。

ちがう。

ゲロを見て、ゲロに気がついたら、ゲロを避けるようにする。言霊主義者だって、思霊主義者だって、実際にはそうしている。

ところが、「ゲロに気がつくと、ゲロを見てしまう。ゲロを見てしまったら、ゲロがある方向に進んで、ゲロを踏んでしまう」……と考えているのが、言霊主義者であり、思霊主義者なのだ。

言霊主義者や思霊主義者は「ゲロに気がつかなければいいんだ。ゲロを踏んでしまうという暗いことを考えなければ、げろを踏むことはない」と考えてしまうのである。

右を向くと右に行ってしまうというのは、ひとつのたとえであり、すべの例について語っているわけではないのである。

運転中に右を向くことはあるけど、だから、すぐに、右にハンドルを切って、右に行ってしまうのか? そんなことはない。

問題なのは、言霊主義者や思霊主義者が、いったんは暗いことを考えたのに、自分が、いったんは暗いことを考えたということに気がつかないことなのだ。

そして、自分が、回避行動をとったということに気がつかないことなのだ。

言霊主義者や思霊主義者だって、現実的な問題には現実的に対処しているのである。その対処の過程でおこなわれる思考は、物理的な思考なのである。

言霊的な思考や思霊的な思考ではないのである。

言霊主義者だって、思霊主義者だって、三メートル先にゲロがある場合は、ゲロに気がついて、ゲロを避けるのである。

言霊主義者だって、思霊主義者だって、「ゲロに気がつかないようにすれば、ゲロを踏むことはないので、ゲロに気がつかないようにしよう」とか、「ゲロがあるということに気がついてしまうと、ゲロを踏むことになるので、ゲロに気がつかないようにしよう」とかということは、考えないのである。

言霊主義者だって、思霊主義者だって、ゲロを見たら、ゲロを避けることができるのである。ゲロを見たから、ゲロがある方向に進んで、ゲロを踏んでしまうということはない。

*     *     *


おカネについて考えてみよう。


普通の人は「このままおカネを使っていると、赤字になってしまう」といったんは、暗いことを考えて、おカネをなるべく使わないようにしているのである。言霊主義者だって思霊主義者だって、普段生活のなかでは、そう考えるのである。

「赤字になってしまう」と暗いことを考えると、実際に赤字になってしまうので、赤字になるということは考えないようにして、そのまま、おカネを使い続けるわけではない。

むしろ、そのまま、おカネを使い続けるのは、よくないことなのである。

そのままおカネを使い続けると、実際に!赤字になってしまうのである。「赤字になってしまう」と暗いことを考えないと、そのまま、おカネを使い続けて、実際に!赤字になってしまうのである。

この場合、問題なのは、おカネを使いすぎているということであって、おカネを使いすぎていると考えることではない。

おカネを使いすぎているということは、暗いことなのである。暗いことを考えないと、逆に、そのまま、おカネを使い続けて、赤字になってしまうのである。

暗いことを考えないようにすれば、暗い結果をさけられるというのが、そもそも、まちがった考え方なのである。暗いことを考えないようにしたから、暗い結果を招来してしまうのである。

問題なのは、言霊主義者も思霊主義者も、現実生活のなかでは、いったんは、暗いことを考えて、普通に回避行動をしているのに、それについて、まったく自覚がないということなのだ。

だから、「思ったことが現実化してしまう」と考えるのだ。

だから、「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」と考えしまうのだ。

これは、夢、希望、期待などがかかわる部分で、ある程度、空想的な部分があることなのだ。

いっぽう、道の上にあるゲロとか、横から飛び出してくる人とか、貯金不足とかという、現実的な問題に関しては……言霊主義者といえども、思霊主義者といえども……現実的に対処しているのである。

いったんは、暗いことを考えているのである。いったんは、回避したほうがいいことについて、思いを巡らしているのである。

あまりにも、日常的だから、現実的な問題に関しては、暗いことを普通に考えて対処しているということに、言霊主義者や思霊主義者は、気がつかない。

問題は、そういう思考スタイルを採用しているのに、そういう思考スタイルを採用しているということに気がつかないことなのだ。そういう思考スタイルというのは、現実的な思考スタイルのことだ。言霊思考や思霊思考が介在しない!思考スタイルのことだ。

実際には、いったんは、暗いことを考えて、回避行動をしているのに、(本人は)暗いことを考えたという自覚がないのだ。

だから、いつまでも、まちがった考え方に取りつかれているのである。

精神世界人は、「見ないようにすること」や、「気がつかないようにすること」で、暗い出来事が発生しないようにすることができると思い込んでいるけど、それはちがう。

見ないようにすることや、気がつかないようにすることは、無防備な状態を作り出すのである。

むしろ、将来のある時期において、暗い出来事をつくりだしてしまう。

精神世界の人だって、現実的な問題に関しては、とっさに暗いことを考えて、暗いことを回避するような行動をしているのである。

なんで、これに気がつかないかな?

精神世界の人が「暗いこと」だと思っていることは、あるていど抽象的で、空想的な部分があることなのである。

たとえば、将来に関する漠然とした不安などだ。

精神世界の人だって、ゲロや、飛び出してくる人や、現実的な金銭問題に関しては、ちゃんと、いったんは、暗いことを考えて、暗いことを回避する行動をしている。

抽象的で空想的な部分があることに関しては、暗いこと考えないようにするということは、まあまあ、有効なことだ。

これは、現実感が薄いことで、現実する可能性がないことか、現実する可能性があるにしろ発生する確率が、比較的に言って、低いことだからだ。

実は、明るいことに関しても、抽象的で空想的な部分があるのだ。だから、「夢、希望、期待」がかかわることについて、特に、言霊の話や思霊の話が出てくるのである。

*     *     *

「気がつかないことで、暗いことを避けることができるかというと、できない」ということだ。気がつかなければ、暗いことが起こらないというわけではない。

気がつかなければ、暗いことが起こらないと思っている人たちがいるのだ。

「ゲロがあることに気がつかなければ、ゲロを踏むことはない」という、かわった考え方だ。

けど、「思ったことが現実化する」とか「言ったことが現実化する」というような精神世界的な思考にこだわっていると、「ゲロがあることに気がつかなければ、ゲロを踏むことはない」というような……かわった考え方をするようになるのである。

これは、むしろ、現実的な問題に対して、無防備になるということを意味している。

気がつかないようにして、暗い出来事について考えなければ、暗い出来事が起こらないようにすることができるという考え方自体が、まちがっている。気がつかないことで、制御できないのだ。

彼らは、気がつかないことで、暗い出来事が起こることを制御できると考えているのだけど、制御できない。

「気がつかないことで、暗い出来事が起こることを制御できる」という考え方は、言霊思考や思霊思考から、必然的に導き出される思考スタイルなのである。

けど、この思考スタイルを採用していると、現実な問題に対処できなくなってしまう。むしろ危険な状態を作り出してしまう。現実的な問題というのは、現実的に高確率で起こりえる問題だ。あるいは、すでに起こった問題だ。

ちょっと話のベクトルがちがうけど、現実的な問題というのは、物理法則にしたがって発生するのである。言霊法則にしたがって発生するのではない。思霊法則にしたがって発生するのではない。

だから、現実のなかにいる言霊主義者や思霊主義者は……本人たちが、どう思っているか別として、現実のなかでは、物理法則にしたがって、行動しているのである。

認知やメタ認知が、物理法則にしたがった、推論を可能としているのである。言霊主義者や思霊主義者においても……。

*     *     *

見た方向に動くというのは、本能的な行動と学習行動が組み合わさったものだと思う。しかし、すべての場合においてそれが成り立っているかというとそうではないのである。

危険な存在を見たら、避けようとするも、本能的な行動と学習行動が組み合わさったものだと思う。「やばい存在」を見たら、そっちの方向に、体を動かすことよりも、そっちの方向から逃れようとして体を動かすことのほうが多い。 

見るというのは、たいていの場合、目で見るということを意味している。バッターボックスに立ったら、ボールをよく見ようとする。見た方向に体を動かすのであれば、ボールが目にあたるように体を動かすことになる。

まあ、野球のボールが接近しているのを見たら、顔面をボールの前に動かすなんてことは、普通の人はしない。

アニメや漫画で、ぼーっとしている主人公に、サッカーボールがあたるというような描写があるけど、これも、サッカーボールに気がつかないから、サッカーボールが主人公のからだにあたってしまうのである。たとえば、頭とか……。

ボールが頭にぶつかりそうだったら、よけようとするのが、人間だ。

もちろん、サッカーをしていて、ヘッディングシュートを決めたい場合は、ボールに、頭をぶつけようとする。

だから、ボールの接近に対して、人間がとる行動は、場面場面によってちがう。背後の文脈によってちがうのだ。ボールが接近していて、そのボールを見たとしても、そのボールのほうに体を動かすとは、かぎらない。とくに、顔面を動かすとは、かぎらない。

けど、「見ている方向に体を動かす」「見たものに向かって体を動かす」ということは、なんとなく納得しやすいことだから、精神世界の話をするときに、例としてあがるのだ。どうして、なんとなく納得しやすいことかというと、実際にそういう場合が多いからだ。

けど、「だから、言霊が正しい」ということにはならないし、「だから、思ったことが現実化する」ということにはならない。

2025年3月1日土曜日

「こだわっているからダメなんだ」

 きちがい兄貴が、ヘビメタを「思いっきり」でかい音で鳴らすことに、こだわった。こだわって、ゆずらなかった。俺が「ヘビメタ騒音にこだわっている」わけじゃないのである。俺が、ヘビメタ騒音にこだわっているように見えるのは、「ヘビメタ騒音にこだわっている」とみなすやつが、「影響の度合い」について勘違いをしているから、こだわっているように見えるだけなのである。ようするに、影響をうけて当たり前なのに、影響をうけないことが可能だと考えているから、俺がこだわっているように見えるだけなのである。影響をうけないことは可能じゃない。ところが、バカだから、あるいは、うぬぼれやだから、それがわかってないだけなのである。もちろん、本人だって、おなじことをやられて、おなじことを経験すれば、わかるようになる。けっきょく、この手のバカは、経験がないからわかってないだけなのである。この手のバカだって、家族から、おなじことをやられ続けたら、表面的には、「こだわっている」状態になるのである。これ、表面的にはというのは、バカな他人から見れば……ということだ。バカな他人は、やられてないから、影響がない。たとえば、俺に対して「こだわっているからダメなんだ」と言った他人がいたとしよう。この他人をバカな他人Aさんだとする。バカな他人Aさんは、自分がやられていないので、影響を認めていないだけなのである。かりに、バカな他人Aさんが、ヘビメタを好きだとする。その場合は、バカな他人Aさんにとってきらいな音が鳴っていたとする。至近距離で、大音量で、自分のきらいな音が鳴っていたら、それが気になるのである。気になって勉強することができない状態になるのである。その状態のことを、「きらいな音を気にしている状態だ」とか「きらいな音にこだわっている状態だ」と(バカな他人ではない人が)思っているだけなのである。じゃあ、バカな他人ではない人を、他人Bさんだとする。他人Bさんは、バカな他人Aさんが、「きらいな音にこだわっているからダメなんだ」と言うわけだ。

まあ、この言い方はやめよう。ともかく、こまっている人と、こまってない人がいるとする。こまっている人は、こまっているから、こまっているのに、こまってない人は、それがわからない。こまってない人から見ると、こまっている人が、「そのこと」にこだわっているように見えるのである。だから、浅はかな考えで「こだわっているからダメなんだ」とダメ出しをする。こういうやつが、どれだけ多いか。必然性がわかってないだけじゃないか。

相手の状態を無視して、相手における必然性を無視しているので、不必要なことにこだわっているように見えるのである。不必要なことというのは、こだわる必要がないことだ。けど、こだわる必要がないものだと思えるのは、やられてないからだ。こまってないからだ。こういうレベルの人間がどれだけ多いか。

ほんとうに、きちがい兄貴に(うちで)やられると、よそのやつから、バカにされるようになる。こまってないよそのやつが、こまっている俺をバカにするのである。どうしても、できなくなるからこまっているのに、(きちがい兄貴の行動で)できなくなるからこまるという必然性を、無視するやつが、わいて出てくるのである。こういう、失礼なやつばかりだ。こいつらは、えらそうに、説教をし始めるけど、必然性がわかってないだけのやつなんだよ。自分だって、ほんとうに、同等のことをやられたら、こまるわけ。必然的に困ることをやられたら困るんだよ。その人だって困るんだよ。けど、夜郎自大で、バカだから、「こまらない」「自分なら平気だ」と思って、まちがったことを言い始めるのである。まちがっている。

ほんとうに失礼だな。きちがい兄貴みたいな感覚で、きちがい兄貴みたいなことをするやつが、珍しいので、ほかの人は、やられていないだけなのである。こいつら、ほんとうに、弱っている人間に、説教して、いい気になっているだけだ。まちがっている。前提がまちがっている。平気じゃないのである。そいつだって、おなじことをやられたら、普通にこまるのである。つかれたら、つかれるのである。けど、「つかれにこだわっている」ということになってしまう。「つかれてできなかったことに、こだわっている」ということになってしまう。 

あんなでかい音で、自分のきらいな音が、一日に、何時間も何時間も鳴っていたら、こまるんだよ。こういう基本的なことを、ガン無視して、自分なら平気だという前提で、クソを言ってくるやつが、多すぎる。頭がわるいことを言ってくるやつが、多すぎる。

これ、ほんとうに、いいことを言っているつもりなの? これ、ほんとうに、正しいことを言っているつもりなの? これ、ほんとうに、いいことをしているつもりなの?

くそ、おろか。くそ、おろか。こんなことを、言われたら、腹がたつに決まっているだろ。「心外だ」と思うに決まっているだろ。どうしてわからないんだ?

自分だって、やられみればわかるよ。自分にとって必然性があることを、あたかも必然性なんてないように言われて、おもしろいはずがないだろ。ほんとうに、まったく、わかってないなぁ! 

悪いことを絶対の意地でやるやつじゃなくて、やられてこまっているほうを、悪く言うなんて、ほんとうに、おまえら、鬼畜だな。悪いことをやることに、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、絶対にゆずらずにやっているほうに、ダメ出しをしないで、やられてこまっているほうに、ダメ出しをするなんて、おまえら、鬼畜だな。

2025年2月28日金曜日

みんな、みんな、「ひきこもり」になる。

  ともかく、だれでも、あんなことをやられたら、「ひきこもり」と呼べる状態になるんだよ。

どれだけ体力がある人だって、どれだけ頭がいい人だって、どれだけコミュ力がある人だって、みんな、みんな、「ひきこもり」になる。

ひきこもり」に偏見がある人だって、あんなことをやられたら、ひきこもりになる。それがわからないのだから、たいした苦労をしてないと言える。

同質・同量・同期間の苦労をしたら、「ひきこもり」になる。これは、もちろん、照明はできない。そりゃ、実験するわけにはいかないからなぁ。だから、俺が勝手にそういうふうに言っているだけだということになるのだろう。

けど、自信をもっていうけど、だれだって「ひきこもり」になる。

どういう状態で毎日すごしているか、サル並みの頭だと、わからないだけだろ。こいつらに、俺が説明したって、理解しないんだよな。こいつらはこいつらで、「ひきこもり」に偏見があるから、エイリさんがひきこもりだから、そういうふうに言っているだけだと解釈してしまうんだよね。

そして、ひきこもりになるような人だから、コミュ障なのだろうと解釈してしまう。妄想的な解釈だ。

けど、サルのようにつたない頭だと、自分のまちがった解釈に自信をもってしまう。

そして、否定されても、受けつけない状態になる。

悪いけど、この状態も、ほんのすこし、きちがい兄貴の状態に似ているんだよな。きちがいあにきの「受けつけない状態」に似ている。

「エイリさんは、ひきこもりだからコミュ障だ。コミュ障だから、お兄さんにちゃんと言うことができなかったんだ。だから、お兄さんが気がつかずに鳴らしていたんだ」……と考えるやつらだっている。

こんなの、ほんとうにまちがいなのに、本人は、自信があるんだよな。そして、一度「エイリはコミュ障だ」と決めつけると、すべてを、「エイリはコミュ障だ」という線で?考えようとする。

さらに、たとえば、エイリが嘘を言っていると考えるやつは、ぼくが精神病か人格障害者だと思ってしまうのだ。

こうやって、ぼくのことを軽蔑して、いろいろとまちがったことを言ってくる。そういう存在になってしまう。きちがい兄貴もきちがいだけど、こいつらの思考力も思考力だ。こんなに、偏見ばかりのやつが、うようよしているのが、この世だ。

きちがい兄貴がもたらしたことを、普通の人は経験してないんだよ。けど、自分だってつらい経験をしたと言って、ぼくと同等の経験をしたということにしてしまう。

「ぼくと同等の経験したけど、自分は、通勤・通学ができる。つらいけどがんばっている」……と言うわけ。えらそうなんだよな。自分が、普通の家族と住んでいて、きちがい家族がどういう頻度で、どういう感覚で、どういう行動をするか知らないだけじゃないか。きちがい家族と一緒に住んだことがないから、わかってないだけじゃないか。きちがい家族と一緒にすんだことがないから、きちがい家族の影響を受けずに生きてきただけじゃないか。同質・同量の経験なんてしてない。ぜんぜんちがうことについて、言っている。たとえば、「朝のつらさ」はきちがいヘビメタ騒音が毎日ほんとうに続いたときの朝のつらさはちがうつらさなのである。ちがう「朝のつらさ」なのに、いかにも、自分が、同質・同量の「朝のつらさ」を経験しているように思いやがって! ほんとうに、むかつく。

こいつらに、「ぜんぜんちがうんだ」ということを、言ったって、こいつらはこいつらで、認めないのだ。

ほんとうに、通勤・通学ができなくなったのは、きちがいヘビメタ騒音のせいなのである。きちがいヘビメタ騒音が原因で、通勤・通学が「できなくなっただけ」なのである。原因について、勘違いをしているんだよな。そして、それは、とりもなおさず、ぼくと同等の経験をしてないということなんだよな。ぼくと同等の経験していたら、本人も通勤・通学ができない状態になっているし、本人が、その過程についてよく知っている状態になっている。ところが、「その状態」「その過程」について、まったく理解してないのだから、ぼくと同等の経験はしてないということになる。けど、「俺だって苦労した」「俺だって、朝はつらい」「俺だって、騒音ぐらいあった」と言う。けど、その「苦労」は、ぼくの経験した「苦労」とは全然ちがう「苦労」なんだよ。けど、その「朝のつらさ」はぼくが経験した「朝のつらさ」とは全然ちがう「朝のつらさ」なんだよ。けど、その「騒音」は、ぼくが経験した「騒音」とは全然ちがう「騒音」なんだよ。同質・同量の騒音を経験したら、ぼくとおなじ体になっているので、ぼくが言っていることがわかるはずだ。わからないのだから、ぼくとおなじ苦労をしてない。ぼくとおなじ「朝のつらさ」を経験してない。ぼくとおなじ「騒音」を経験してない。

きちがいヘビメタがはじまってから、三週間で、ひきこもりになったのと、ちがうよ。十三年後に、ひきこもりになった。だいたい、前半の七年間ですら、普通の人は耐えられない。普通の人だったら、一年で引きこもり状態になっていると思うよ。俺がどれだけ無理をして、学校に通っていたかわかってないなぁ。だから、同質・同量・同等の経験はないと言える。この、七年間の通学が、通勤・通学ができない体(からだ)を作った。七年間の通学が、通勤・通学ができない体(からだ)を作ったということが、わからないやつが、くそを言うな。わかったようなことを言うな。これがわかっていないのだから、わかっていない。実際には、「ひきこもり」状態になったのは、きちがいヘビメタがはじまってから二〇年後だ。きちがいヘビメタがはじまってから一五年間、鳴ってた。実際には、一四年と六か月間だけどな。友だちづきあいが、まだ、二〇年後あたりまではあったんだよな。

「過去は関係がない」「そんなのは関係がない」という人たちは、まったくわかってないんだよな。わかってないということが、わかる。こいつらは、ほんとうにくそ。こういう頭がわるいやつらに、バカにされるようになった。これ、ほんとうに、きちがい兄貴が、きちがい感覚で、きちがい的な騒音を毎日鳴らしたからなのである。どれだけ、つらいか、みんな、わかってない。どれだけ、体にひびくか、みんな、わかってない。

*     *     *

約七年で、通勤・通学できないからだになるわけだけど、そのときは、まだ、中学時代の友達とつながっていた。中学時代の友達というのは、近所に住んでいるわけで、予定をいれてなくても、起きているときは、あうことができた。だから、そのころは、ひきこもりの定義からは、はずれる。日時を決められてしまうと、前の日から眠れなくなり、二四時間起きっぱなしのまま行くことになる。俺だって、もとから、そういう状態ではないのである。どうしてそうなったのかというと、ヘビメタ騒音が毎日なっていたからそうなった。ここらへんのことが、わかってないやつが……体(からだ)でわかってないやつが、えらそうなことを言う。そりゃ、俺だって、ヘビメタ騒音がはじまる前の時期においても、「朝がつらい」という日はあった。けど、ヘビメタ騒音の「朝のつらさ」とは、ちがうんだよ。ひとこと、説明して、これがわからないなら、わかってないよ。ヘビメタ騒音の「朝のつらさ」とおなじレベルの「朝のつらさ」なんて経験してない。「ぜんぜん、ちがう」と言っているのに、こいつらは、こいつらで、認めない。こういうやつらになめられるようになったのも、きちがい兄貴が、関与を認めないまま、でかい音で鳴らし続けたからだ。こたえるにきまっているだろ。普通の人は、ほかの人に迷惑がかかると思って、そもそも、鳴らさないようなでかい音で鳴らして、まったくなにも感じないんだよ。俺がどれだけ「迷惑だからやめろ」と言っても、「迷惑をかけている」ということを認めない。きちがい兄貴が認めなかったら、きちがい兄貴のなかでは「迷惑をかけてない」ということになってしまうのだよ。こういうところの、都合のよさが、きちがいレベルなのである。こういうところの、つうじなさ」がきちがいレベルなのである。だから、よそのうちには、気ちがい兄貴みたいな人がいないから、きちがい兄貴みたいな人がやり続ける騒音にさらされ続けることがない。だから、「ちがう」と言っているのに、こいつらは、こいつらで、ほんとうに、わからないままだ。

 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。