2025年1月3日金曜日

普通の人が五秒で気がつくことに、何十年たっても気がつかない

普通の人なら、言われなくてもわかることが、まったくわからないんだよね。

言われても、頑固にわからない状態のままになる。

そうなると、まわりの人がこまるんだよ。

きちがい親父は、魚の粕漬のにおいを認めない。きちがい親父が、魚の粕漬を出しっぱなしにしたいと思ったら、都合の悪いことは、認めないのである。

けど、これが、普通の人だと、「くさいのはわかっているけど、くさいということを認めないと、自分が片づけなければならないことになるから、認めない」ということが、わかっている。

どれだけ「くさくない」「におわない」と言い張っても、本人が、「くさい」ということを知っている。

ところが、きちがい親父だと、そのときだけ、ほんとうに、鼻が利かなくなるのだ。そのときだけ、臭覚が異常になる。そのときだけ、感覚器にズレがしょうじる。そのときだけ、感覚器が機能しなくなる。

これが、無意識的なレベルでおこなわれているから、非常にこまるのである。

自分がにおいを出しているときは、「くさない」「におわない」ということになるのだけど、ほかの人が、しかたがない理由で、一時的ににおいを出しているときは、においがわかるので「くさいよ」などと言ってきたりする。

これ、ほかの人にはちょっとだけ、一時的ににおいを出さなければならなくなる理由があるのである。そして、ほかの人は、一時的ににおいを出すけど、頻繁にやることじゃないから、ちょっと見逃してくれという態度だし、ほかの人は、においを出していることを認めている。

ともかく、きちがい親父の鼻は正常なので、ほかの人が一時的に出すことになる、においに関しては、敏感に察知することができるのである。

ほかの人が、一時的ににおいを出すのは、数年に一回なんだけど、その数年に一回のことは、「くさい」と文句を言ってくるのである。親父がほかの人に文句を言う。

これ、おかあさんも、こまっいたんだよな。じゃあ、おかあさんが、めったに魚をこがさないけど、数年に一回の頻度で、魚をこがしたとする。

そうすると、たいしてくさくないのに、きちがい親父は、気ちがいだから「くさいよ」と言って、おかあさんをせめるのだ。

だったら、臭覚は正常なのだ。臭覚は正常。

ところが、自分が、その気になって!くっさーーーい!さかなを出したくなったら、突然、鼻が利かなくなるのである。自分がやっていることに関しては、くさくないのである。

そして、他人が、「くさいからやめてくれ」と言ってきたら、「くさないよ!!」と怒鳴るのである。発狂して、絶対に認めない。

この態度は、兄貴にもある。兄貴は聴覚が正常なのに、自分がどれだけでかい音でヘビメタを鳴らしているのかについては、無頓着なのである。兄貴は、聴覚が正常なのに、きちがい親父とおなじように、ものすごくでかい音で鳴らしているということがわからないのである。

これは、聴覚のレベルでわからないということになっている。

自分がでかい音で鳴らしたい場合は、自分がでかい鳴らしたい音だけ、ちいさい音で聞こえるのだ。たいしてでかい音で鳴らしているつもりではないのだ。普通の音で鳴らしているつもりなのだ。

どこでも、普通に鳴らせる音で鳴らしているという感覚がある。けど、普通の人は、鳴らせないほどでかい音で鳴らしている。聴覚が正常なら、この音がでかいということがわからないということが、おかしいのである。

で、この感覚が、どれだけ、言っても、なおらない。正常にならない。

きちがい兄貴は、ほんとうに爆音で鳴らしている。あんな音で鳴らしているうちなんてないのである。ヘビメタが好きな、兄貴の友達が、うちにきた時、その兄貴の友達が「こんな音で鳴らして大丈夫なの?」「(自分は)うちでは、こんな音で鳴らしたことがない」と言ったのである。

普通の人が五秒で気がつくことに、何十年たっても気がつかない。兄貴の友達が「こんな音で鳴らして大丈夫なの?」「(自分は)うちでは、こんな音で鳴らしたことがない」と言うような音で、普段、鳴らしているのである。

きちがい兄貴もきちがい親父も、自分にとって都合が悪いことは、感覚器を書き換えて認めないのである。

これが、無意識的なレベルでおこなわれることなので、ものすごくやっかいなのである。

俺が、誤解をされる。俺が普通の他人から、誤解をされる。

ところが、他者とのこういうあらそいも、ヘビメタ騒音の一部なのである

 実質的なこの憂鬱が問題だ。ヘビメタ騒音にやられた期間が長すぎて、完全に、この世の認知と一体化している。こんなの、わかるわけがない。

ほんとうに毎日、続いた人じゃないとわからない。ほんとうに、きちがいヘビメタ騒音以降、ほかの人から、誤解されまくりだ。

そして、きちがいヘビメタ騒音が生み出すことが、ダメ人間に属することなのである。ほかの人は、実際に、きちがいヘビメタをやられたわけではないので……「そうなる」ということがわからないのである。

そりゃ、あれだけ、日中というか、眠る直前まで、ガンガンガンガン、きちがい的な音を聞かされ続けたら、眠れなくなる。けど、ほかの人は、「鳴り終わったのに、眠れないのはおかしい」「鳴り終わったのだから眠れる」「鳴り終わったのだから、ヘビメタ騒音関係がない」と思うわけだ。

ところが、ヘビメタ騒音で眠れなくなるし、「眠れないとやばい」というような不安が常につきまとうようになる。

そして、眠れない状態というのが普通の人が、普通に経験する眠れない状態とは、ちがうのである。そもそも、それがちがうのだけど、横にきちがい家族が住んでない人は、それがわからない。実際に、きちがい家族に「よその家族が絶対にやられないこと」をやられた人じゃないとわからない。よその家族がやらないことだから、よその人は経験してない。実際に、やられていないから、どういうことが発生するのか、経験的にはわかってない。

わかってないけど、「眠れない状態」というのは経験したことがあるし、「騒音」というのも、経験したことがあるので、経験したつもりでいるのである。

だから、「鳴り終わったのに、眠れないのはおかしい」「鳴り終わったのだから眠れる」「鳴り終わったのだから、ヘビメタ騒音関係がない」と思っている人はその考え方をかえない。そうなると、頑固に無視して鳴らしているきちがい兄貴と、経験がないからわかっていない他者との間に挟まれることになる。

他者は、「鳴ってない状態できること」をぼくに要求してくるのである。「鳴ってない状態できること」は、なっていなければぼくにもできることなんだよ。普通にできることなんだよ。

たとえば、夜……眠るべき時間に眠ることだ。

こんなのは、兄貴が、きちがいヘビメタ騒音を鳴らし始めるまえは、普通にできた。ところが、きちがいヘビメタが鳴っていると、どうしてもできなくなるのである。ヘビメタ騒音を浴びせられたあとだと、どうしてもできなくなるのである。きちがいヘビメタ騒音ということを考えると騒音ということになる。

だから、「騒音なんだろ」ということになる。

ところが、他者とのこういうあらそいも、ヘビメタ騒音の一部なのである。

「鳴り終わったのに、眠れないのはおかしい」「鳴り終わったのだから眠れる」「鳴り終わったのだから、ヘビメタ騒音関係がない」と言われて、不愉快な思いをするのも、ヘビメタ騒音の一部なのである。

もちろん、「鳴り終わったのだから、ヘビメタ騒音関係がない」と言う他者は、そんなことは、認めない。

2025年1月2日木曜日

「うっっ」とくる

 言葉はちがうけど「言えば、言ったことが現実化するので、言えばいい」「思えば、思ったことが現実化するので思えばいい」という内容のことを言われたときの、気持ちが並じゃない。「うっっ」とくる。ぼくの脳裏には、きちがい兄貴のヘビメタ騒音やきちがい親父のきちがい行為がうかぶ。言いきれない気持ちが、こころのなかに去来する。シーンがね……。シーンがうかんでしまう。「おまえ、まったくわかってねぇーな」と言いたくなる。

横から横へ、圧迫面接のような圧力をかけて、社会が明るくなると思うのか?

 「言えば、言ったことが現実化する」「思いは現実化する」「努力すれば、成功する」「すべては、自己責任」「引き寄せればいい」「おカネの量は感謝の量」「受け止め方をかえればいい」……こういう言葉がはやればはやるほど、社会が悪くなっていくのである。たとえば「思いは現実化する」という言葉が、明るく響くか、暗く響くかということを考えると、明るく響くのである。ところが、「思いは現実化する」という言葉がはやればはやるほど、社会が暗くなるのである。どうしてそうなってしまうのかということについて、ぼくは、ずっと書いてきた。こういう言葉には、トリックがある。ある程度、頭がいい人じゃないと、トリックがあるということがわからない。さらに、条件を無視するということがどれだけでかい影響をあたえるのかということがまったくわかってない。さらに言えば、「連鎖」というものについて、まったく考えることができない。「連鎖」というのは、出来事の連鎖だ。『出来事が出来事にあたえる時系列的な影響』と言ってもいい。本人は、いいことを言っているつもりで「言ったことが現実化する」とか「思いは現実化する」と言っているのだけど、本当は、こういうことをすると、社会が暗くなる。そういう影響力をもっている。だから、正しく理解しなければならないのである。

それぞれ、教祖みたいな人たちがいる。インフルエンサーもこういう考え方を布教する。そうすると、信者があらわれる。信者のほうが圧倒的に数が多い。そうなると、こういうことを言う信者が、そこらへんにいるということになる。こうなると、横から横への圧力が加わる。妄想が前提にあることを、条件が悪い人に言うということが、どういうことなのかぜんぜんわかってないやつらだ。はっきり言うと、悪影響しかあたえない。

こういうこと……を言って金を儲ける層だけではなくて、こういうことをほかの人に言うことで金を儲けるわけではない層が、問題を引き起こす。もちろん、金儲けをしている人たちも、悪い。悪い影響を、社会や人に及ぼしている。しかし、金儲けをしてない人たちも、悪い。悪い影響を、社会や人に及ぼしている。こういうことを言うことで、金を儲けているわけではないのだから、なにもわるいことはしてないと考えていると思う。むしろ、いいことをしていると思っていると思う。しかし、ずっとこれまで述べてきたように、人に悪い影響をあたえ、社会に悪い影響をあたえている。

僕がここに書いてきたようなことを言えば、彼らは「そんなのは、いいわけだ」とか「そんなのは、ねたみだ」とか「そんなのは、嫉妬だ」とか「そんなのは、あまい」とかと言うだろう。これは、基本的に、ディスっている。ぼくをディスっている。条件に付いて語る人をディスっている。「言霊のちから」を認めない人をディスっている。「思霊のちから」を認めない人をディスっている。

こいつらが、社会を明るくしているなんてことはない。社会を暗くしている。社会をよりギスギスしたものにしている。横から横へ、圧迫面接のような圧力をかけて、社会が明るくなると思うのか?

ライフハックをくちにする人たちというのは、こまっている人を、さらにこまらせている。

 言霊や思霊ではないにしろ、ライフハックをくちにする人たちというのは、こまっている人を、さらにこまらせている。これが、まるでわかってないんだよな。この人たちの理解が浅いのである。浅い理解しかしない人たちなのである。たとえば、不幸に対する理解が浅いのである。本人が浅い不幸しか経験したことがないので、深い不幸のことは、なにがなんだかまったくわからないのである。深い不幸に「おちいっているひと」が抱える条件というのものが、まったくわかってないのである。普通の人に、なかなか理解されない深い不幸をかかえている人たちが、深い不幸について説明しても、浅い理解しかしない人は、浅い理解しかしないので、浅い理解の不幸しか思い浮かばないのである。ともかく、深い不幸におちいっている人が抱えている条件について、まったく理解しないのである。だれでも、一分で思いつくようなアイディアを言って、いい気になっている人って、こまっている人を追いつめている。ある意味、バカにしている。バカにしきっている。そして、「そんなことでは解決できない」ということを理解してない。これ、どういうことなのか、わからない人のほうが多いんだろうな。言霊や思霊に関する説明をしてきてそう思う。「言ったことが現実化するから、言えばいい」「思ったことが現実化するから、思えばいい」……。こういうレベルの解決方法がまったく役に立たないということを理解できないやつが、なにを言っているのかと思う。

明るいノリで人を傷つけるのは、よくないよ。「人のために」「こまっている人を救いたい」と思って、ライフハックをくちにするのは、やめたほうがいい。「自分が言っていることなんて、最初に試みたけど、まったくうまくいかなかったんだな」と思って、くちをとざしていたほうがいい。そのほうが、よっぽど、人のためだ。 あるいは、「自分が言っていることは、この人もすぐに思いつことができることだ」と思って、くちをとざしていたほうがいい。

プラス向きの苦労すら、することができなくなる苦労なのである

 きちがい的な家族によってもたらされる苦労というのは、どれだけ、苦労しても、プラスになることがない苦労なのである。あるいは、プラス向きの苦労すら、することができなくなる苦労なのである。きちがい的な家族にもたらされる、不可避的な苦労と、つらい状態でも頑張ってきたというプラス向きの苦労のちがいがわからないということが、マイナスにしかならない苦労をしてないということのあかしだ。証明だ。

頓珍漢な発言。

  きちがい兄貴は、「あたりまえ」をレイプしているんだよ。普通の人はやらないことをやっているんだよ。普通の人なら、普通にためらうことをやっているんだよ。普通の人なら、普通にためらうから、できないことをやっているんだよ。こんなのは、「あたりまえ」のレイプだ。俺のあたりまえの感覚が、レイプされている。きちがい騒音で無視できない状態だ。そして、きちがい騒音で生じた俺の体の状態は、ほかの人には理解できないのである。どうしてかというと、一般的なことではないからだ。その人たちの家族は、きちがい的な意地で、きちがい的な騒音を、一日に、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴らさないのである。そして、普通の人は、でかい音で鳴らしているということはわかっているので、でかい音で、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴らしたということを、不可避的に理解しているのである。認知しているのである。認識しているのである。これを、認識してない。普通の人が、不可避的に認識してしまうことを、認識していない。これも、「あたりまえ」のレイプなんだよ。ほかの人にとっては、人ごとなので、はっきり言ってしまえば、どうでもいいことだ。本人は、きちがい兄貴のヘビメタ騒音で傷ついているわけではない。生活にゆがみが生じているわけではない。ひとごとだ。そして、うちのきちがい家族によるきちがい行為というのは、うちでしか生じてないことなのである。普通の人は、影響をうけてない。しかし、たとえば、「苦労」というのは、普通の人でも経験していることなのである。なので、苦労というところまで抽象化するなら、「自分だって苦労した」ということになる。そうすると、こいつの頭のなかでは、俺とおなじような特殊な経験をしたということになってしまうのである。あるいは、こいつの頭のなかでは、俺とおなじような特殊な経験と同等の苦労をもたらす経験をしたということになってしまうのである。特殊だから、普通の人が経験してない苦労をしているのに、普通の人が、自分だって同じような苦労をしたという意味で、「自分だって苦労した」と言ってくることになるのである。これだって、こっちにしてみれば「なにを言ってるんだ」と腹がたつことなのだけど、言っているほうは、そんなことは、気にしない。きちがい兄貴のヘビメタ騒音のことについて説明しても、「自分だけ苦労したと思っているのか?」と頓珍漢なことを言ってくるやつだっている。これ、どれだけ頓珍漢なことか、わかってないだろ。こいつらの頭だと、理解できない。あとは、常識的すぎて、俺が嘘を言っていると思っているやつに、どれだけ、ヘビメタ騒音のことを説明しても、信じない。俺が嘘を言っていると思っているまんまなんだよ。特殊なきちがいが、きちがい的な意地で、普通の人が信じられないようなことをすると、俺がうたがわれるのだ。頓珍漢なことを言ってくるやつも、俺の言っていることを信じないやつも、きちがいヘビメタ騒音相当の苦労をしてない。きちがいヘビメタ騒音相当の苦労をしてないから、頓珍漢なことを言い、きちがいヘビメタ騒音相当の苦労をしてないから、そういうことがあるということを、信じない。夢中になって、きちがい行為をして、きちがい行為をしたと思ってない人間がいるということを信じない。その人たちにとってみれば、「お兄さんに、しずかにしてと、言えばいいでしょ」と思えることなのだ。これだって、屈辱だ。頓珍漢な発言。

目下のところ、からだのかゆさが問題。

  目下のところ、からだのかゆさが問題。あとは、『家』関係か。けっきょく、ダニ、外壁、ネズミ、引っ越しが問題か。これ、どうしようかな? 内見が憂鬱なんだよ。どうしてかというと、長期ヘビメタ騒音の後遺症で、自分がいつ起きているのかわからないからだ。次の日、自分がいつ起きているのかわからないのだ。日時を決められると、長期ヘビメタ騒音生活の経験から、非常に、精神が不安定になるのである。不安定なんてものではなくて、自殺したくなるほど憂鬱になる。あの生活を経験しなかった人になにを言ってもわからないだろう。

2025年1月1日水曜日

「なにか見えない力によってそうなるのではないかという危惧」は強迫行為に結びつきやすい

 なにか見えない力によってそうなるのではないかという危惧に関しては、また、別の話なのである。他人のことなら、自分のことではないので、他人事だ。他人事なら、その他人がそう思ったからそうなったんだという棍棒を振り回すことができるというのは、また、別の話なのである。たとえば、ある野球選手が、かならず、右側の靴から靴紐を結ぶとする。左側の靴から靴ひもを結んだら、まったく打てなかったという経験がある。右側の靴から靴紐を結ぶと、何回も勝てた。だから、縁起を担いで、以降、右側の靴から靴紐を結ぶようにした。実際に、身体的には、左側の靴から、靴ひもを結ぶことができるのである。けど、心理的には左側の靴から、靴ひもを結ぶことができない。できないようになってしまった。もちろん、球を打てなくてもいいということになれば、左側の靴から、靴ひもを結ぶことができる。しかし、球を打ちたいというこだわりがあるうちは、左側の靴から、靴ひもを結ぶ行為は、(その人にとって)アホな行為だから、あるいは、損をするような行為だから、できなくなるのである。これは、本人が理由を知っている強迫行為みたいなものだ。強迫神経症者の場合は、本人にも、理由がわからないのである。じつは「なにか見えない力によってそうなるのではないかという危惧」は強迫行為に結びつきやすいのである。そして、「言ったことが現実化する」ということや「思ったことが現実化する」ということにも、この機制が働いている。

相手が思っていなくても、思ったことにしてしまうのである。こ

 たとえば、「思いは現実化する」と思っている人だって、自分が階段から落ちて、足をおったら、階段から落ちたから、足をおったと思うんだよ。階段から落ちるまえに、「階段から落ちて足をおる」と思ったあと、階段から落ちたわけではない。階段から落ちて、足をおったわけではない。足の骨をおると痛いわけだけど、これも、足の骨をおるといたくなると思ったから、いたくなったわけではないんだよ。思ったあと、思ったから、思いが現実化したわけじゃないんだよ。自分自身のことなら、この通り、現実的に考えることができるのだけど、他人事になると、「階段から落ちると思ったから、階段から落ちた」「足をおると思ったから、足をおった」と考えてしまうんだよ。たとえば、事故にあうということだって、自分自身の事故なら、いきさつがわかっているので、これこれこういう理由でこうなったということを、物理的に、現実的に説明できる。ところが、他人事であれば「事故を引き寄せた」とか「事故にあうと思っていたから、事故にあったんだ」と変な解釈をしてしまう。これは、幼児的万能感から出てくるものなので、しかたがないとはいえ、本人が、自分にとってプロセスがあきらかなことに関しては、普通に物理的な思考をしているということに気がついてないということが問題なんだよ。そこも含めて、幼稚なんだよ。他人事なら、相手の思考をせめるということをやる。「そう思ったから、そうなったんだ」とせめることができる。「すべては自己責任」などと言いつつ、相手の責任を追及しているではないか。この場合、自分は痛い思いをしていない。自分のことではないからね。相手の責任というのは、「思ったこと」なのである。相手が思っていなくても、思ったことにしてしまうのである。こういう間違った思考をしている。他人事であれば「実際に事故にあったなら、事故にあうと思ったはずだ」と自動思考してしまうのである。他人事であれば「そんなのは、そいつが、事故を引き寄せたんだ」と自動思考をしてしまうのである。ようするに、みじめな思いをしたほうは、勝手に、自分が事故をあう前に事故をあうと思っていたということにされてしまう。そして、自分が事故にあうと思っていたから、実際に事故にあったんだということにされてしまう。たとえば、Aさんは、自分の事故に関しては、自分の経験があるので、プロセスを知っていて、現実的な思考をするのである。ところが、Aさんにとって、Bさんの事故は、自分の事故ではない。そうなると、Bさんがその事故を引き寄せたんだと考えてしまう。Bさんが事故にあう前に、事故にあうと思った「から」実際に事故にあったんだと思ってしまう。こういう、誤謬が成り立つ。こんなの、思考の誤謬じゃないか。この思考の誤謬をあたりまえのものとして塗りかえてしまうのが、「思考は現実化する」という考え方なのである。

特殊な悪条件をかかえる人をたたく『棍棒』みたいなものなんだよ

 「言ったことが現実化する」とか「思いは実現する」とかというのは、特殊な悪条件をかかえる人をたたく『棍棒』みたいなものなんだよ。一見よさそうなものなのだけど、実は、『棍棒』になっている。相対的に優位な一般人が、この棍棒を振り回して、特殊な悪条件をかかえる人を、たたきまくっているのが、この世だ。この世界だ。一見よさそうなものに見えるので、たちが悪い。特殊な悪条件をかかえる人やさまざまな悪条件をかかえる人も、一時は、信じることがある。けど、それが、トラブルをうむのである。トラブルをうむしくみについては、棍棒を振り回している一般人にはわからない。「言ったことが現実化する」とか「思いは実現する」とかというのは、条件が悪い人を自殺に追い込む『武器』だ。初期装備の武器なんだよね。平均的な一般人よりも、相対的に悪い条件をかかえている人も、この『初期装備の武器』をもっている。だから、底辺で、たたきあいだ。底辺どころか、中流、上流でも、たたきあっている。黒側公認のくそ武器だからな。

「思うか思わないか」という条件のほかに、いろいろな条件が成り立っている。

 「思うか思わないか」ということを一つの条件として考えよう。この一つの条件はふたつの値をもつ。ようするに、二値だ。「思う」か「思わない」の二値だ。二値ということは、〇%か一〇〇%なのである。そして、現実化するか現実しかないかも、二値だ。二値ということは、〇%か一〇〇%なのである。

「思うか思わないか」という条件以外のすべての条件を無視してしまうから、まちがった結論を導き出すことができるのだ。

「思いは現実化する」という言葉も「思えば、思ったことが現実化する」という言葉に書き換えれば、「XをすればYになる」という言葉の型に落とし込むことができる。 Xの具体的な内容が「思うこと」であり、Yの具体的な内容は「思ったことが現実化する」ということだ。Xがオンなら、かならず、Yもオンになるのである。

しかし、現実は、ちがう。「思うか思わないか」という条件のほかに、いろいろな条件が成り立っている。だから、いろいろな条件を無視しては、いけない。ところが、「無視をすること」が詐欺的な説明を成り立たせているのである。いろいろな条件を無視して、妄想世界に誘導しているのである。いろいろな条件を無視しているので、思っただけで、現実化できそうな感じがする。あくまでも、感じがするだけだ。思うだけで、思いの力が発生するというのも、隠された妄想ポイントだ。詐欺ポイントだ。

 

まあ、こういうところでも、『一〇〇%詐欺』をしている。

 5万円のパソコンを手に入れる話をした。「思う」と「思いの力」が発生して、「思いの力」によって、自動的にパソコンが手に入るわけではないということを言いたかった。「思えば、パソコンが手に入る」のではなくて、「おカネがあれば、パソコンが手に入る」とか「お金をかせげば、パソコンが手に入る」ということなのである。「思ったことが、思いの力によって現実化した」のではなくて、「思ったことが、おカネによって現実化した」のである。もし、金があれば、その金で買えばいいし、金がない場合は、お金をかせいで買えばいいということになる。そのほかにも、「パソコンをゆずってくれ」と人にたのむ場合だってあるかもしれない。この場合であっても、なんらかのアクションを必要とするのである。思うだけでは、手に入らないのである。「思えば、パソコンが手に入る」のではなくて「たのめば、パソコンが手に入ることもある」ということなのだ。おカネという条件や、ものをためる友人関係を無視して、ただ単に「思ったか思わなかったか」を問題にするのである。そして、思えば、手に入ると言うのである。まったくもって、詐欺的な説明だ。「思ったら、思ったあと、手に入った」ということはある。それは、「明日、雨がふると思ったら、思ったあと、雨がふった」という場合とおなじだ。ほんとうに「思いの力」が働いているわけではない。ほかの人の意思や制度が関係している場合だってある。「思いの力」とは関係なく、ほかの人があげようと思ってあげたのである。思えば、自然に手に入る……。ほんとうに、一〇〇%こうだったら、いい。思ったら、一〇〇%の確率で、思ったことが発生する……。ほんとうに、そうであるなら、いい。けど、実際はそうじゃない。実際はそうじゃないのに、あたかも、思ったら、思ったら、一〇〇%の確率で、思ったことが発生するということを言うのである。思いは現実化するのだから、思いは現実化しないことがないのである。これは、一〇〇%の確率で、思ったことが現実化するということを意味している。だから、まあ、こういうところでも、『一〇〇%詐欺』をしている。

思ったら、思いの力がしょうじて、思いの力が、思った内容を現実化してくるなら、いい。けど、実際には、思いの力によっては、一切合切のことが現実化しないのである。思ったあと、思ったことが、ほかの理由で現実化することはある。だから、「あと」と「から」の区別がつかない人は、実際に思ったから、現実化したと、事実を曲げて解釈してしまうのである。妄想的な理由を、自身のなかに作り上げて、その理由によって、現実化したと妄想的な解釈をしてしまうのである。

問題なのは、思っているのに、現実化しない場合だ。さらに問題なのは、思って、現実的なアクションを起こしたのに、現実化しない場合だ。条件によっては、アクションを起こしたけど、現実化しないという場合もある。それなのに、あたかも、思っただけで、思ったことが、一〇〇%の確率で現実化するようなことを言う。言いたくはないけど、詐欺的な説明だ。

*     *     *

条件によっては、アクションを起こせない場合だってある。思っていても、アクションを起こせない場合、「思って待っているしかない」ということになる。しかも、思って待っていれば、思いは現実化するので、現実化するはずなのである。けど、現実化しなかったらどうなる? 現実化する前に死んでしまうではないか。現実化する前に死んでしまった場合、その人の思いは現実化しなかったということになる。思いが現実化しなかった。ちがうか?


本人が強く思わなかったから、現実化しなかった。だから、本人の自己責任だ

「思いは現実化する」というのは、非常に希望がもてる話なのである。
 

しかし、「思い」だけが、結果を決定するという、現実離れした理論なので、いろいろな混乱をもたらすのである。

しかし、「思いは現実化する」といって金を儲けている人たちは、そんなことは、気にしないのである。

そして、「思いは現実化する」と思って、自分の夢を追いかけている人も、そんなことは、気にしない。

「思い」だけが、結果を決定するのだから、思っていればいいのである。しかし、外部的な要因がある。これは、「思い」とは関係がないことなのだ。「思い」というのは、「自分のなかの思い」「自分の思い」に他ならない。

自分が思っていれば、自分の思いは現実化するという、非常に自分にとって都合がいい理論なのだ。

思いの強さだけが結果を左右するということになる。

自分のなかの「思いだけ」が、実際には外界にかかわっているさまざまな出来事を決定すると言っているのだ。ようするに、自分にとって都合がいい結果を引き寄せることができるということを言っているのだ。

だから、これは、「引き寄せ理論」でもある。強く思えば、思ったことを引き寄せることができるということを言っているのとおなじだ。

外界というのは、たとえば、自然現象や他人がもたらすものなのである。

ほんとうは、どういう家に生まれたかということが、ある程度条件を決定してしまっている。どういう家族と一緒に住んでいるかということが、いろいろなことを決定する。

この自然現象や他者というのは、じつは「自分の思い通り」ではないのである。

自然現象や他者は、自分の思いとは関係がないのである。

自分が思えば、自然現象が自分の思った通りになってくれるというわけではない。自分が思えば、他人が自分の思った通りに動いてくれるというわけではない。他人は他人で、その他人の「思い」があるので、その他人の思いにしたがって生きている。

なので、これは、自分が思っただけでは、決定できないことなのだ。

けど、最初に述べた通り、「自分の思いだけが結果を決定する」ということになっているのである。もう、最初から、まちがっている。

なんで、外界が自分の思った通りになるのか?

実際には、外界は自分の思った通りにならない。そして、外界が自分の思った通りになるという理論は、最初から、でたらめだ。

「思い」というのが、言霊における、「言霊」のような役割をしているのである。だから、「思いの力」によって、そうなるのである。ところが、「思いの力」によって、外界のものが思い通りになるということ自体が、まちがった前提なのである。

そりゃ、幼児的万能感にしたがえば、外界が「自分の思いの力」によって「思い通りに動いてもいい」のだけど、そうはいかないのだ。

外界の他人は、他人の思いによってしたがって生きているわけで、自分の思い通りには生きてくれない。外界の物質は、物理法則によってしたがって、物理的な運動をしているので、自分の思い通りには運動してくれない。

人間以外の生き物も、その生き物の本能や意思にしたがって行動しているわけで、自分の思った通りの行動をしてくれない。

*     *     *

蚊がたくさいる竹やぶに入ったら、自分が「刺されない」と強く思っていても、ごく自然に蚊が寄ってきて、蚊が自分を刺す。蚊の行動ですら、自分の思いの力では、制御できないのだ。

地球独自の運動も、さまざまな物質の相互作用によって運動している。

じゃあ、たとえば、自分の思いの力によって、マントルの動きを制御できるのかというと、制御できないだろ。これだけ、「思い通りにはいかない」ということがわかるだろ。

地球の自転が「自分の思い通り」ではないとする。

じゃあ、自分の思いの力で、地球の自転をとめられるかといったら、とめられないだろ。海流の動きを自分の思いの力で、かえることができるかといったら、かえることはできないだろ。雲の動きを自分の力でかえることができるかといったら、かえることはできないだろ。

できない。

ところが、自分の思いの力でかえることができるという前提に立って、ものを言っているんだよ。まちがっている。

外界について勘違いしているのだ。あるいは、幼児的万能感が強すぎて、現実を受け入れることができないだけだ。

そりゃ、外界のいろいろなものや、いろいろな生き物が、自分の思いの力で、自分が思った通りに動いてくれれば、それで、いいわけだけど、自分が思った通りに動いてくれるとは限らない。

外界のいろいろなものや、いろいろな生き物が、自分の思いの力で、自分が思った通りに動くわけじゃないだろ。

*     *     *

だいたい、「思いが現実化する」なら、その時点で、過去の思いがすべて現実化しているので、いまさら、なにかの思いを現実化するために頑張る必要はないのだ。

希望があるとして、どうして、その希望が、すでにかなってないのか?

希望があるとして、どうして、その希望が、すぐにかなわないのか?

無条件に「思い」が現実化するなら、思っただけで、現実化しているはずだ。

思っただけでは、現実化しないから、思いを現実化するために努力するのだろ。願いをかなえるための最初の行動を起こすわけだろ。

思ったら、現実化するのであれば、思った時点で、現実化している。

思い通りになってないから、希望が生まれるんだろ。希望通りになってないのはなぜなんだよ。「思いが現実化する」のなら、いまの時点で、希望がかなっているはずだ。

*     *     *

個人が「思いは、いつか、現実化する」と思って、願いがかなうように努力するのは、別に否定しない。まあ、どうして、「いつか」かなうことを期待するのかという問題はあるけどな。

問題なのは、自己責任論とむすびつくことだ。

思いが現実化するわけだろ。

けど、いつか、思いが現実化するはずだと思っている時点では、思いは現実してないんだよな。

すべての条件は関係なく、「思った」のか「思わなかった」のかが、結果を決めるんだよな。だって、思ったら、現実化するわけだし、思わなかったから現実化しないわけだから。

「いつか」現実化するかもしれないことは、今は現実化してない。そうなると、どうして現実化してないのかということが問題になる。

そこで、出てくるのは「思いの強さ」だ。自分の思いが弱いとだめなのである。あるいは、思う力が弱いとだめなのである。

思う力が弱いと現実化しないのである。

なら、「思いは現実化しないこともある」ということになる。どうして、「思いは現実化する」ということになっているのか?

おかしいだろ。

まあ、いいや。

ともかく、ほんとうは、条件がいい人は、希望をかなえやすいし、条件が悪い人は、希望をかなえにくいのだ。

ところが、条件を無視したので、「思いの強さ」「思う力の度合い」が問題になる。かなわなかったのであれば、「思う力の度合い」が弱かったから、現実化しなかったということになる。

だれの思いかというと、本人の思いのなのだから、本人が悪いということになる。

弱い力でしか思わなかったから、だめなのだということになる。本人が、弱い力でしか思わなかったから、現実化しなかったということになる。弱い力でしか思わなかった本人の自己責任だということになる。

本人が強く思わなかったから、現実化しなかった。だから、本人の自己責任だということになのである。

しかし、「思いは現実化する」のだから、弱く思っても、現実化してしまうのである。「思いは現実化する」ということが正しいなら……。

実際には、正しくないので、弱く思っただけでは現実化しないことが多い。思う内容によるけど、どれだけ強く、強く思っても、現実化しないものは現実化しない。

思いは現実化するというのは、間違っていて、どれだけ強く思っても、現実化しないものは現実化しないということが、正しいということになる。

ところが、思いは現実化するということになっているので、そんなのは、思わなかったやつが悪いんだということになってしまうのである。そして、思ったのに現実化しなかったなら、強く思わなかったやつが悪いんだということになってしまうのである。

「そんなのは、自己責任だ」ということになる。

条件を無視して考えたから、こんなおかしなことが成り立つ。

「思い」というひとつの要因が、現実化するか現実化しないかということを決めてしまうという理論がおかしい。

最初から、「思い」というひとつの要因がすべての結果を決めてしまうという理論がおかしい。

*     *     *

所持金が一〇〇円の人と、所持金が一〇万円の人がいるとする。秋葉原で五万円のパソコンを買うとする。どっちのほうが、「パソコンを買う」という夢をかなえやすいか?

当然、所持金が一〇万円の人のほうが、「パソコンを買う」という夢をかなえやすい。「所持金が一〇〇円の人は五万円稼いでから、秋葉原にくればいいじゃないか」と思うかもしれない。いやいや。

「思い」というひとつの要因が結果を決めるのだから、所持金が一〇〇円の人も、その場で、五万円のパソコンを買えるべきなんだよ。

もし、「思いが現実化する」というのであれば……。

もしかりに、五万円を稼ぐ努力をすればいいというのであれば、五万円を稼ぐ努力をするかどうかが、「パソコンを買えるかどうか」に影響をあたえる。

なら、五万円を用意できたかどうかという条件が五万円のパソコンを買えるかどうかに影響をあたえるということだ。

これは、条件が買いやすさを決めているということだ。

「思いが現実化する」という話のなかには、おカネの条件なんて出てこない。「思いが現実化する」という話のなかには、努力をどれだけするかということは、出てこない。

「思い」という要因が、現実化するかどうかを決めるのだ。

ほかのことは、関係がない。

どうしてなら、最初から、条件をガン無視しているからだ。パソコンを買うというようなことですら、所持金がいくらかという条件が、影響をあたえる。現実の場面では、さまざまな条件が、「思い」を現実化できるかどうかを決定している。

どうして、さまざまなな条件は、ガン無視して、「思い」があるかどうかだけを問題にするのだ?

そして、思いが現実化しない場合は、「思いの強さがたりない」ということになるのだ?

思いというひとつの要因だけが、結果に影響をあたえるということになっているのだ。

トリックがある。だましポイントがある。

「思う」ことなら、だれだってできる。

「思う」だけで、現実的な結果に影響をあたえることができるという理論だから、言われたほうは、ここちがいい。

もっとも、思っても現実化しなかった場合には、「思いの強さがたりない」と言われることになるのだけど……。

思いの強さが影響をあたえるなら、思うだけじゃダメなんじゃないか。こいつら、ほんとうに、悪党だな。

*     *     *

思ったことが現実化するなら、思った時点で現実化していなければおかしいのである。

それから、もし「今、思ったことが一秒以内に現実化する」と思ったら、一秒以内に現実化しなければおかしいのである。現実化してなければ、おかしいのである。

「このヤカンの水が一秒以内に一〇〇度のお湯になる」と思ったら、一秒以内に一〇〇度のお湯になっているはずなのである。

もし、ならないのであれば、「思いが現実化するわけではない」ということになる。

思ったことが現実化するなら、努力なんて必要がない。現実化させようとして努力する必要なんてない。「思えば」現実化するからだ。

思ったことが現実化するなら、現実的な行為は一切合切必要がない。現実化させようとして行動をおこす必要がない。 「思えば」現実化するからだ。

「思えば、思っただけで、思ったことが現実化する」……これが、「思いは現実化する」ということのほんとうの中身だ。

ところが、夢はいつかかなうと努力しなければならないのである。夢をかなえるような行動を起こさなければならないのである。

思っただけで、現実化するわけではないのである。

いや、思っただけでは現実化しない。

思ったあと、現実化するということはある。「明日、雨がふる」と思ったら、雨がふった。思ったから、思いの力によって雨がふったのか?

ちがう。ちがう。ちがう。

思ったあと、ほかの理由で雨がふった。個人の「思い」とはまったく関係がない。詐欺的な説明をする人は、まったく関係がないことを例として使うことがあるんだよなぁ。

思えば、思ったから、思いの力によって、思ったことが現実化するなら、努力なんて必要がない。行動する必要もない。

思った時点で、「思いの力」によって、「それ」は、現実化されている。

 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。