相対的な差というのは二者のあいだにあるような相対的な差のことなんだけど、じつは、絶対的な差がある。条件によって絶対的な差があるのである。ところが、条件の差は無視されるので、絶対的な差も無視されてしまう。
「差なんてない」というのは、宗教的な妄想なんだよ。
「言ったことが現実化する」というのとおなじだ。
妄想。
人間は、さまざまな条件によって、日常のなかで発生するトラブルの数やトラブルの質がある程度、決まってしまうのである。トラブルの質というのも重要なのだけど、とりあえず、トラブルの数に注目しよう。
トラブルの数……。
条件によって、一日にしょうじるトラブルの数が、だいたい決まってしまう。きちがい的な親のもとにうまれると、トラブルの数が多いのである。
いっぽう、温和で思慮深い親のもとにうまれると、トラブルの数が少ないのである。他にも、条件があるのだけど、一日のなかで経験するようなトラブルの数がそもそもちがうのである。
たとえば、人間が一日に一〇個のトラブルを処理できるとしよう。トラブルの質は問題にしないことにする。
だから、これは、たとえ話だ。モデルについて考えているだけだ。
AさんとBさんとCさんがいたとする。Aさんは一日に八個のトラブルをかかえるような環境にいるとする。Bさんは、一日に一二個のトラブルを抱えるような環境にいるとする。Cさんは一日に二〇〇個のトラブルを抱えるような環境にいるとする。
その場合、Aさんは、Cさんに対して、「自分だってトラブルがある」と言える。Cさんは、それを否定できない。環境というのは、条件のことだ。複数の条件が環境をつくっていると考えることにする。
Aさんは、Cさんに対して、「自分だって苦労した」と言える。あるいは、また、Aさんは、Cさんに対して「自分だってトラブルぐらいある」と言える。事実だ。さらにあるいは、Aさんは、Cさんに対して「俺だっていやなことはある」と言える。
みんな、正しい発言だ。
それなら、AさんとCさんのトラブルの数はおなじかというと、おなじではないのである。Aさんの条件と、Cさんの条件がおなじかというとおなじではないのである。
条件の差とトラブルの数を無視して、「ある」か「ない」かの二値にすれば、Aさんの言っていることは、正しいのである。
しかし、Aさんが経験しているトラブルの数とCさんが経験しているトラブルの数はおなじではないので、同数のトラブルを経験しているとは言えない。
個数を無視した抽象的な言葉で還元できないものを含んでいる。Aさんの条件とCさんの条件とはおなじではないので、同数のトラブルを経験しているとは言えない。
たとえば、瞑想でストレスを軽減できるとする。一個のトラブルが一ストレスをうみだすと考えよう。瞑想で軽減できるストレスの量を、二個分のトラブルの量だとする。
そうすると、Bさんは一二個のトラブルから二個分のトラブルをひいた分だけ、一日にストレスをためるということになる。
そして、一日に一〇ストレスを処理できるので、一日のなかでストスレを処理できるということになる。Bさんにしてみれば、瞑想をすればストレス制御ができる状態になるのである。
しかし、Cさんはどうだろう、瞑想をしたって、一日に一九八ストレスが溜まってしまう。一日に一〇だけ処理できるとすると、一八八が次の日に持ち越しになる。
そして、Cさんにしてみれば、瞑想をしても、ストスレ制御ができないということになる。
トラブルは「件」でかぞえるべきなので「件」で書いたのだけど、すわりがわるいので「個」にした。
話をもとにもどす。Bさんは自分が瞑想でストレス制御ができるので、瞑想はストレスに効くと思うわけだ。主観としては、それが正しいということになる。ところが、Cさんにとってはそれは、正しくない。実際に、正しくない。そもそものトラブルの個数、ストレスの量がちがうので、Cさんは、瞑想では、ストレスに対処することができない。
けど、それは、Bさんが一日に一二個のトラブルを経験して、一二ストレスを感じているからだ。Cさんにとっては、正しいことではないのである。
しかし、一二個以内のストレスの量しか感じない状態で暮らしている人が多数派なら、多くの人が「瞑想でストレス制御ができる」という意見に賛成するだろう。
ここでは、条件が無視される。「瞑想でストスレに対処できる」という文言が正しい文言として流通するようになる。
しかし、みんながおなじ個数のトラブルを抱えているわけではない。トラブルが多い環境とトラブルが少ない環境がある。環境と言ったけど、これは、条件のことだ。
というわけで、たとえば、ライフハックとして「瞑想でストレス制御ができる」という意見が蔓延していると、一三個以上のトラブルを抱えている人は、いやな思いをするのである。
どうしてかというと、「できないのはおまえが悪い」ということになるからだ。条件なんて無視だ。そして、瞑想が効くか、効かないかという話になってしまう。
そして、効くと思っているほうが多数派なら、「瞑想でじゅうぶんにストレス制御ができるのに、できないと言ってるやつらが悪い」ということになってしまうのである。
しかし、「瞑想でじゅうぶんにストレス制御ができるのに、できないと言ってるやつらが悪い」と言っている人たちは、トラブルの個数を無視している。条件を無視している。環境を無視している。
そして、条件や環境は関係がないという考え方をもっているということに無頓着だ。
* * *
たとえばの話だけど、ある人は「瞑想でストレスを調節できる」と言うわけ。もちろん、その人の生活のなかでストスレを調整できるということだ。その人よりも、ストスレ量が大きい人やストレスを発生させる出来事の数が多い人は、「瞑想では、ストレスを調整できない」かもしれない。
けど、「瞑想でストレスを調節できる」ということが独り歩きを始めるとどうなるかということだ。「ストレスは瞑想で調節できるのだから、瞑想で調節しようとしないやつがいけない」ということになる。「調節できるのに、調節しようとしないやつの自己責任だ」ということになる。
「ストレスは瞑想で調節できるのだから、瞑想で調節しようとしないやつがいけない」といっている人の頭のなかには、条件の差はない。条件の差を考慮に入れてないので、「みんなおなじ量のストレスを感じている。どんなストレスも瞑想で調整できるはずだ」と思ってしまう。
「俺だって、ストレスを感じることはある。だから、瞑想で調整してるんじゃないか」と思うわけだ。ようするに、「自分だって、ストレスはあるのだから、調整できないといっている人だって、調整できる」と思うわけだ。
前提として、自分のストレスと「調整ができない」といっている人のストレスは、たいして差がないか、おなじだと思っている。
だから、「調節できるのに、調節しようとしないやつの自己責任だ」ということになる。
隠れた前提としては、「条件の差がない」「自分と相手はだいたいおなじじぐらいのストレスを感じている」ということが成り立っている。頭のなかに成り立っているこの前提が、そもそも、まちがっているのだけど、そういうことを言う人間にとって、この前提は空気みたいなものだから、別に、疑問に思ったり違和感を感じたりしない。
ようするに、そういう前提でものを考えているという意識がない。
ごく自然に「条件の差がない」「自分と相手はだいたい同じぐらいのストレスを感じている」と考えてしまうのだ。
ちなみに、相手が「差がある」ということを言ってきた場合は「自分だってストレスがある」と言って、「差」を認めない。そういうことを言う人が、頭のなかで見積ると、いつも「だいたいおなじぐらい」なのである。
こういう人たちは「ちがいがあったとしても、『たいした差』ではない」と、頭のなかで思っている。「自分はポジティブに調整できると考えて調整しようとしたから、調整できるんだ。そういう調整をこころみない相手がさぼっているだけなんだ」と思うのだ。
こういう人たちは「条件の差がない」「自分と相手はだいたいおなじじぐらいのストレスを感じている」と思う人は、夜郎自大な人格で、ごく自然に「相手がさぼっているだけなんだ」と思うことができるのだ。
こういう人たちは「ネガティブに考えて調整しようとしないからダメなんだ」「調整するための努力をしないで、さぼっているからダメなんだ」とごく自然に思うわけだ。
口に出して言う場合もあるだろう。
だから、「瞑想でストレスは調整できる」というような文言がはやっていると、条件が悪い人が、相対的に条件がいい人に、がたがた、文句を言われるということになる。マウントをとられるということになる。
そうしたら?
ただでも、条件が悪くて、普通の人よりもストレスの量が多い人や、普通の人よりも、ストレスを感じる出来事が多い人は、文句を言われたり、マウントをとられたりして、不愉快な思いをするということになる。
つまり、ストレスの量が増え、ストレスを感じる出来事の数が増える。