ほんとうに、一日がひどい状態なのに、経験したことがないやつが、「俺だって経験した」「わたしだって経験した」と言う。そいつらには、きちがい親父も、きちがい兄貴もいない。きちがい兄貴の、きちがい的なこだわりヘビメタ騒音を経験してないのに、「そんなのはなんでもない」「影響なんて受けない」「過去は関係がない」「鳴り終わったら関係がない」と言いやがる。ほんとうに、影響をうけて、できなくなるのに、「いいわけをしている」「家族のせいにしている」と言いやがる。言いやがる。経験してないじゃないか。きちがい兄貴がいないじゃないか。きちがい親父がいないじゃないか。「そんなに鳴っているのに、親が注意しないのはおかしい」と言いやがる。さらに、「おかしいからエイリが嘘を言っている」と思うのだ。そして、嘘を言っているという前提でものを考える。きちがい兄貴やきちがい親父が「盲点」になってしまう。実際に、いっしょに、暮らしているぼくにしてみれば、あきらかなことなのに、他の人たちにとっては、ぜんぜんあきらかじゃないことになる。盲点になる。実害をうけているのから、こまっているのに、「そんなのたいしたことじゃない」「影響をうけない」「うそを言っている」と言われる人間の身にもなってみろ。
きちがい親父のしくみが異常なので、きちがい兄貴がヘビメタをやりはじめたら、注意せずに、裏から援助してしまということになる。黙認して、一切合切注意しないということになってしまう。 きちがい家族といっしょに住んだことがないやつが「そんなのは、へんだ」と考えて、俺のことを(嘘を言うような)悪い人間だと考えて、それ以降、俺の行動や俺の発言を悪く解釈するようになる。しかも、「自分だって経験がある」「自分だってつらい思いをした」と言っているけど、……その人たちは言っているけど……きちがい家族といっしょに住んでいないのだから、きちがい家族が発生源であるような「つらい思い」は一度も経験したことがないのだ。きちがい家族が、どれだけ強烈な意地で、きちがい行為をするか、まったくわかってない。きちがい的な意地でやったことを、どれだけ強烈な意地で、否定するか……「自分だって経験がある」「自分だってつらい思いをした」と言っている普通の人は、まったくわかってない。きちがい家族が……自分がやったことを否定するときの態度と、無視をしてやりきるときの態度がおなじなのである。だから、永遠に肯定しないし、永遠に……本人がやりたければやり続けるのである。なんの疑問も感じないよ。だから、「きちがいだ」と言っているんだよ。そういうことがまったくわかってないということは、おなじ経験をしてないということなのである。おなじ経験どころか、似たような経験もしてないのである。永遠に肯定しない……と書いたけど、これは、きちがいの頭のなかでは「やってないこと」なのである。だから、きちがいは、「自分がやってないことで文句を言われて頭にくる」という反応をする。こんなのは、ない。知らんぷりだよ。じゃあ、やめてくれるのかというと、やめてくれない。きちがい的なこだわりで、やりきる。これが、きちがいでなくてなんだ。
毎日、ものすごいハンディがつみかさなるのに、関係がないわけがない。
ところが、普通の人が……きちがい家族による激しくてしつこい騒音を経験したことがないやつが……「自分だって騒音ぐらいあった」と言う。「どれだけ、うるさくても、宿題ぐらいできる」と言う。「影響をうけないことは可能だ」と言う。「ヘビメタが鳴っていたから、遅刻したなんて、いいわけだ」と言う。ほんとうに、きちがいヘビメタがあの至近距離で、あの音のでかさで鳴っていると、頭がこんがらがって、宿題なんてできないんだよ。宿題って、勉強のなかで簡単な部分なんだぞ。きちがいヘビメタをあれだけでかい音で、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴らされて、夜、眠れるかと言ったら、眠れないのである。これも、「健康管理ができないのは自己責任」などと言われる。どれだけ、くやしいか。「自分なら、鳴らされても、鳴らされてないときとおなじように普通に暮らすことができる」という前提がまちがっているんだよ。けど、親父やきちがい兄貴じゃないけど……こいつらが、まちがった前提でものをいっているということを認めるということはない。こいつらはこいつらで「自分だったら影響をうけない」「自分だったら、鳴ってたってできる」ということに、自信があるのである。そして、こいつらにとっては、ひとごとなのである。実際に、こいつらがきちがい家族といっしょに住んでいて、きちがい的な騒音にさらされ続けるということはない。「よそでは鳴らせないような音で鳴らしている」とずっと言っているだろ。こいつらは、こいつらで、頑固だ。認めないのである。「自分ならできる」「自分なら影響を受けずに、普通の状態を維持できる」という前提で「むりなこと」を言ってくる。もちろん、こいつらのなかでは「むりなこと」ではないのである。「自分なら影響をうけずに、普通の状態を維持できる」と考えているのだから、こいつらのなかでは「むりなことではない」のである。
* * *
言っておくけど、西側の隣人は、ヘビメタ騒音のことを知っている。ヘビメタが鳴り終わったあと、そのうちにきた人もいるので、全員が知っているわけではないけど、知っている。「文句を言ってやろうと思った」と言っている。「すごい音で鳴っていた」というのは、ぼくの妄想じゃない。けど、その西側の隣人だって、きちがい兄貴のスピーカーから、ぼくよりもずっとずっと、はなれているのである。
北側の隣人は、ヘビメタ騒音が鳴り終わったあと、一年ぐらいして、引っ越してきたので、ヘビメタ騒音が鳴っていたということは知らない。で、北側の隣人が、西側の隣人に「その騒音(ヘビメタの騒音は)ほんとうに鳴っていたのか」ということを訊いたことがあるのである。そして、西側の隣人が、北側の隣人に「ほんとうにひどい音で鳴っていた」「エイリさんが言っていることは嘘じゃない」と言っているのである。
あとは、当時、ぼくの部屋に入ったことがある……親友や友達が、実際にものすごい音で鳴っていたということを、証言してくれるはずだ。
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自分が経験しなかったから「できなくなる」ということがわからないだけじゃないか。自分が経験しなかったから「そういうことがある」ということを認めないだけじゃないか。自分が経験しなかったから「そんなのは嘘だ」と思っている人が、「自分だって苦労した」とひとこと言って、同様の苦労をしたことにしてしまう。同様の苦労をしてないから、「そういうことがある」「きちがい家族がきちがい行為をきちがい的な意地でしてしまうということがある」ということがわかってないだけじゃないか。同様の経験をしてないから「不可避的に影響をうける」ということがわかってないだけじゃないか。同様の経験をしてないから「影響はない」「影響をうける必要はない」と言っているだけなのに、同様の経験があると思っている。同様の経験がないから「俺なら、だいじょうぶだ」「わたしなら、だいじょうぶだ」と思っているだけなのに、同様の経験があると思っている。
「み・つ・も・り」がまちがっている。
ようするに、ほんとうは経験してないから「自分ならできる」「自分なら影響をうけないで生活できる」と、かーーーんーーたーーんーーに、考えてしまう。
「み・つ・も・り」がまちがっている。