「叱責セット」と書いたけど、ようするに、これは、他人をせめる言葉だ。この他人をせめる言葉と、こういうふうに解決できるという解決策が、セットになっている。
そして、その解決策というのが、有効な解決策ではなくて、妄想の上にたつ有害な解決策なので、条件がわるい人が、こまるのである。こまりまくるのである。もう、条件がわるいなら、こまることが決まっているのである。どうしてかというと、解決策が解決策ではなくて、さらにトラブルをうむ有害な策だからだ。
条件が悪いから、こまった状態になっていのである。「Xをすれば、Yになる」とか「Xをすれば、Yという状態になる」というようなことを言うけど、こまっている人がこまった状態でるのは、Xをしなかったからではない。
ようするに、たとえば、ヘビメタ騒音でこまっている場合、ヘビメタ騒音でこまっているのだ。きちがい親父のきちがい行為でこまっている場合、きちがい親父のきちがい行為でこまっているのだ。どれだけ言っても、相手……きちがい兄貴やきちがい親父がやめないから、こまっているのだ。
Xをしないから、こまった状態になったのではない。
「人に親切にすれば、しあわせになる」ということについて考えてみよう。ぼくが、人に親切にしなかったから、しあわせになれず、こまっているわけではないのだ。
原因がちがう。
ところが、 「Xをすれば、Yになる」とか「Xをすれば、Yという状態になる」というようなことを言う人たちは、みんな、相手の現実的な原因を無視するのだ。どんな原因だろうが、「Xをすれば、Yになる」のである。「Xをすれば、Yという状態になる」のである。いまこまっている原因はまったく関係がないのである。条件を無視している。
たとえば、きちがい兄貴のヘビメタ騒音の場合、感覚器を無意識的なレベルで書き換えてしまって、自分の耳が悪くなるほどでかい音でヘビメタを長時間鳴らすから、ぼくがその騒音でこまっているのだ。
過去から、現在にいたるまでの時間、きちがい兄貴が鳴らしているから、こまる。ここで、ぼくが「人に親切にしても」、きちがい兄貴のきちがい行為にはまったく影響がないから、きちがい兄貴のきちがい騒音からもたらされる、不幸な状態が続くのである。