「ゴミ拾いをすると、運があがる」と言っている人が、完全に無視していることがある。
それは、複数の悪い条件をかかえている人が、どういう気持で「ゴミ拾い」をしているかということだ。複数の悪い条件をかかえている人は、切羽詰まった気持ちで、ゴミ拾いをしている。
この、切羽詰まった気持ちがわかるか? 余裕がある人が、楽しんでゴミ拾いをしているのとはちがうのだ。
あるいは、ゴミ拾いをすることには意味があると思って、ゴミ拾いをしている人とはちがう。
ゴミ拾いをすることには意味があると思って、ゴミ拾いをしている人は、ゴミ拾いが目標。ゴミ拾いをすれば、目標を達成できる。「運をあげるために」ゴミ拾いをしている人は、ゴミ拾いが目標ではなくて、運をあげることが目標なのである。
これが、どれだけちがうことかわかってない。
ゴミ拾いをしても、運があがらなければ、目標を達成できないのである。行為と目標がずれているのである。これは、大きな影響をあたえる。心理的な影響はでかい。
「ゴミ拾いをすると、運があがる」と言っている人は、悪い条件をかかえていている人の条件を無視している。
つぎに「ゴミ拾いをすると、運があがる」と言っている人は、悪い条件をかかえている人が、ゴミ拾いをしているときの気持ちを無視している。
つぎに「ゴミ拾いをすると、運があがる」と言っている人は、行為と目標がずれていることがあたえる心理的な影響について無視している。
つぎに、「ゴミ拾いをすると、運があがる」と言っている人は、悪い条件をかかえている人の体力的なリソースや時間的なリソースを無視している。
悪い条件をかかえている人は、体力的なリソースがゼロ付近、時間的な余裕もゼロ付近で、暮らしているのである。
そりゃ、相対的に条件がいい人には、体力的なリソースも時間的なリソースもある。どうしてかというと、条件がいいからだ。
条件がいい人が「自分だって苦労した」と言うけど、その苦労は、条件が悪い人の苦労とは質もちがうし、量もちがうのである。
条件が悪い人は、もう、ボロボロになって余裕がない暮らしをしているのである。
ゴミ拾いをしはじめるときの状態が、条件のいい人と、条件が悪い人とでは、ぜんぜんちがうのである。
「ゴミ拾いをすると、運があがる」と言っている人は、条件を無視するので、そんなことは、一切合切、考えてないのである。
あるいは、一切合切、考えてないお気楽さがある。このお気楽さは、裏をかえせば、傲慢さだ。相手の条件を考えずに、でたらめなことを言う傲慢さがある。無慈悲で傲慢なのである。
抽象的な話に興味があって、「あがる(はずだ)」ということを言うけど、相手が、ほんとうはどんなことでこまっているのかいうことに関しては、まったく、無感覚だ。無感覚、無慈悲なのである。実際にやってみた相手の状態なんて、気にならないのだ。
だから、このお気楽さ、無感覚さ、無慈悲さは、容易に、「せめのことば」に結びつく。「そんなのは関係がない」「そんなのは影響がない」「そんなのは、やり方が悪いんだ」「こころをこめてやらないからダメなんだ」などなど。相手の現実的な条件を無視して、相手をせめまくる。
「ゴミ拾いをすると、運があがる」ということが、そういうことを言う人のなかでは、正しいことになっているので、「ダメだった」「効果がなかった」ということを言われると、相手が悪いのだということを言いだすのである。
ようするに、理論は正しいので、相手に落ち度があると考えるのだ。理論が悪いのではなく、相手が悪いと決めつけて、相手の責任を追及しはじめるのである。
そして、ダメだしをする。
けど、理論がそもそもまちがっているのである。
こんな、無慈悲な行為をしているのに、どこに「愛」があるんだ?