だいたい二四時間以内に、七時間は、きちがい的なヘビメタが激しい音でがんがん鳴っているという生活なのである。土曜日曜は、最長で一三時間に増えてしまう。どうしたって、影響をうける。けど、影響をうけてない人にとっては、影響なんて関係がないことだ。だから、「影響なんてない」「関係ない」と言う。あるいは、「影響なんてない」「関係ない」という前提が成り立っていることを、えらそうに、言う。本人は、ほんとうに、影響をうけてないので、ほんとうに「影響なんてない」「関係ない」と思い込んでいるのだ。そして、きちがいヘビメタ騒音にさらされると、自動的に立場が悪くなるのである。能力がさがるのである。できていたことができなくなるのである。二四時間以内に、七時間、ぼくがきらいな音ががんがん鳴っているとなると、実際に、能力がさがって、鳴っていないからこそ、影響をうけずに「影響なんてない」「関係ない」という前提でものを言えるやつらに、えらそうなことを言われるということになるのである。これは、セットなんだよ。どっちも、きちがいヘビメタ騒音から出てきたことなんだよ。きちがいヘビメタ騒音ではなくても、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音ということを考えれば、こいつらだって、影響をうける。立場が悪くなって、能力がさがる。鳴ってなければできることができなくなる。けど、こいつらは、経験的にこれがわからない。「俺だって苦労した」「俺だって騒音ぐらいあった」と言えば、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音にさらされ続けたということになってしまうのである。ほとんどのやつがこういう思考をするなら、ぼくにとって生きにくい世界になるんだよ。実際に、能力がさがっている。きちがい騒音で能力がさがっている。きちがい騒音で能力がさがるということを、認めないやつらが発生する。こいつらにバカにされるということになる。だから、「やめろ、やめろ」と言っているのに、きちがい兄貴がきちがいだから、よそのうちの人が、絶対にやらないことを、やるんだよ。やられてないよそのうちの人は、わからない。自分の経験の範囲にないことだからわからない。
きちがいヘビメタが鳴らされる前と後ではちがうんだよ。きちがいヘビメタがはじまってからと、きちがいヘビメタがはじまるまえはちがうんだよ。みんな、きちがいヘビメタがはじまるまえの世界で生きている。みんな、きちがいヘビメタがはじまるまえの感覚で生きている。だから、実際にうちの兄貴がもたらした、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音生活を経験してない。経験してなければ、なんとだって言える。自分たちがエイリよりすぐれているから、「無視できる」「影響をうけない」と考えているのだけど、ちがうーー。ちがうーー。わかってないだけ。
そして、きちがいヘビメタ騒音生活以前と、きちがいヘビメタ騒音生活以降では、憂鬱の憂鬱がちがうのである。疲労の疲労がちがうのである。みんな、 きちがいヘビメタ騒音相当の騒音生活を経験してない人だから、ぼくとみんなでは「憂鬱」という言葉や「疲労」という言葉で、あらわしているものがちがう。けど、ちがいがわからないんだよ。きちがいヘビメタ騒音相当の騒音生活を経験してない人たちには、きちがいヘビメタ騒音生活以前の「憂鬱」やきちがいヘビメタ騒音相当の騒音生活以前の「疲労」しかない。だから、比較はできない。比較できるのはぼくだけだ。けど、ともかく、普通の人は、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音以前の生活をしている。だから、わからない。根本的にわからない。「憂鬱」という言葉であらわしているものが、(ぼく)と(普通の人)とでは、ちがう。ちがいすぎる。まったく、ちがう。ほんとうに、なめたことを言いやがって。こんなやつら……。きちがいヘビメタ騒音がなかったら、絶対にそんなことは、言わせない。言わせない。言わせない。