とにもかくにも、ヘビメタ騒音なしの青春がほしい。ヘビメタ騒音なしのわかい時期がほしい。これ、やられてないやつには、まったくわからないことだと思う。ほんとうに、できることがちがう。まわりの人の態度がちがう。きちがいヘビメタが鳴っていなかったら、できたことがいっぱいある。それに関しても、どのみち他人は、「ヘビメタ騒音がなくたってできなかったことかもしれないよぉーー」と言うわけだけど、ちがう。ヘビメタ騒音なしなら、できた。
「ただ単におとがなっていただけだ」と思ってしまう人がいるのだけど、ぜーーんぜーーん、ちがう。ちがいすぎる。けっきょく、こういうことを言うやつは、普通の騒音しか経験してない。きちがい兄貴が、きちがいヘビメタにこりまくって、きちがい的な意地で、きちがい的な感覚で、ヘビメタを鳴らすまえだって、俺にも、「騒音体験」はあった。普通の騒音は経験しているのである。こいつらは、きちがい家族による騒音は経験してないままなのだ。そして、「俺だって騒音ぐらいあった」と言えば、それで、きちがい家族による騒音と同程度の騒音を経験したということになってしまう。ぜーーんぜん、ちがうということに、気がつけない時点で、きちがい家族による騒音と同程度の騒音を聞かされてないことが、あきらかだ。ぜーーんぜん、ちがうのである。デートだってほかの人とのつきあいだってぜーーんぜーん、ちがうのである。あの生活がどういう生活か、一日にも経験してないからわかってないだけなのに、くそを言うな。自分だって騒音ぐらい経験したと言って、同じ程度の騒音を経験したことにするな!! ぜーーん、ぜーーんということがまーーーったく、まーーーむたく、わかってないのだから、経験してないということが明白なんだよ。