2024年12月30日月曜日

自己責任論によって、人が人に圧力をかけやすくなったのである。

 自己責任論だって、自己責任論がはやれば、それだけ、他人の責任を追及する人が減るかというと、減らないのだ。むしろ、増える。「すべては、自分の責任だ」と考える人が増えたなら、その分だけ、他人の責任を追及する人が減るはずなのである。ところが逆に、自己責任論がはやると、他人の責任を追及する人が増えてしまうのである。自己責任論というのは、他人の責任を追及しやすくするための理論なのだ。自己責任論のおかけで「そんなのは、おまえの自己責任だ」と他人の責任を追及することが、楽になったのである。「おまえの責任かどうかわからない」ことまで、全部「おまえの責任だ」と軽く、言えるようになった。何度も言うけど、自己責任論というのは、アンガーマネジメントみたいなことを言っている場合は、自分(本人)を対象とした、自己責任論なんだよ。けど、実際には、他人の自己責任を追及するようになる。自己責任論が流通しているときのほうが、自己責任論が流通してないときよりも、人は、他人の責任を追及しやすくなったのである。「そんなの自己責任だ」と無慈悲に言えば、それで、「正しいことを言った気持になるから」だ。「正しいことをしたつもりになるから」だ。ほんとうにその他人の責任なのかどうかわからないことまで、その他人の責任だと決めつけることができる。これが、自己責任論の正体だ。これも、何度も言うけど、「すべては、自分の責任だ」と考えるのであれば、他人が不幸になっているのは、自分の責任だと考えることになる。「すべては、自分の責任だ」と考えてないので、他人の責任を追及するようになるのである。自己責任論がはやったおかげで、その他人が不幸なのは、その他人の自己責任だと決めつけて、その他人の自己責任だと軽く言うことができるようになったのだ。自己責任論がはやっている時代と、自己責任論がはやってない時代を比べると、自己責任論がはやっている時代ほうが、「さまざまな、不可避的な悪条件」にたたられている人たちにとっては、生きにくい時代なのだ。

これは言ってはいけないことなのかもしれないけど、「すべては自己責任だ」と考えている人は、実際に他人が失敗したときは、他人の責任を追及する。自分が他人の責任を追及していることに、なんの疑問もいだかない。「すべては自己責任」なのだから、他人が失敗したって、「自分の側の自己責任」だ。なんで、対象が、自分から、他人に移ってしまうのか? 自己責任論をはやらせた人は、普通の人なら、自己責任の対象が自分から他人に移るということを知っていて、わざと、はやらせたのではないかと思う。ようするに、悪意があって、はやらせたのである。社会をより悪くすために、自己責任論なるものをはやらせたのである。社会のなかで、人が他人に圧力をかけやすくするように自己責任論なるものをはやらせたのである。

横から横への圧力ということを言ったでしょ。あれが、自己責任論でも成り立っている。自己責任論によって、人が人に圧力をかけやすくなったのである。自己責任論が「正しいこととして」流通していれば、人は人に対して、つめたくなれるのである。

普通の人が自己責任論を信じると、アンガーマネジメントみたいなことを言っているのは最初だけで、だんだん、他人の自己責任を追及するようになるのである。自己責任論がはやっていると、人が人に対してあたたかくなるのか、つめたくなるのか? もちろん、自己責任論がはやっていれば、人が人に対してつめたくなるのである。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。