2024年12月23日月曜日

なぜ、言霊主義者は、「水がお湯になる」と言って、お湯をわかさないのか?

 たとえば、言霊主義者が階段から落ちて腰をいたくしたとする。階段から落ちるまえに、「階段から落ちて腰をいたくする」と言ったわけではない。

言わなかったことが、現実化したのである。問題なのは、言霊主義者でも、階段から落ちたから、腰をいたくしたと考えることだ。

階段から落ちて、その際に、階段を構成する物質と自分の腰が接触したので、腰がいたくなったと考えるのだ。

ようするに、腰をうったから、腰がいたくなったと考えるのだ。

そして、腰を打ったから、腰がいたくなったと考えることになにも矛盾を感じないのだ。これは、おかしい。腰がいたくなるのであれば「腰がいたくなる」と言ったあとに、腰がいたくならなければならない。

言えば言ったことが現実化するのだから、そうなる。

言霊主義者は、腰をうった「から」腰がいたくなったと考えるべきではなく、「腰がいたくなる」と言った「から」腰がいたくなったと考えるべきなのだ。

なので、自分はほんとうは階段から落ち前に、「階段から落ちて腰をいたくする」と言わなかったのだけど、どこかで、言ったはずだと考えて、言霊思考にあうように、記憶を改変するべきなのである。

ようするに、階段から落ちて、腰をいたくしたあと、自分は「階段から落ちて腰をいたくする」と以前に言ったはずだということにしなければならないのである。

「言ったはず」というような推量を「言った」という断言に変換して、自分は忘れてしまったけど、過去の時点で「階段から落ちて、腰をいたくする」と言ったので、階段から落ちて、腰を痛くしたと考えるべきなのだ。

ところが、言霊主義者であっても、理由がはっきりしている場合は、階段から落ちた「から」腰をいたくしたと、階段から落ちたという物理的な原因を考えるのである。

そして、階段から落ちても、そのとき、腰と階段を構成する物質とのあいだに接触がなければ、いたくはならないと考えているのだから、腰と階段を構成する物質の接触が、自分の腰がいたくなった直接の原因だと考えているのである。

ようするに、いたくなった理由は、階段を構成する物質と自分の腰の接触だと考えているのである。言霊思考ではなくて、物理思考をしているのである。物理的な接触の結果、いたくなったと考えているのである。

だから、言霊主義者だって、いつも、言霊思考をしているわけではないということが言える。

そして、言霊主義者は、自分が言霊思考ではなくて、物理思考をしているということに、無頓着なのだ。

物理法則ではなくて、言霊法則が成り立つというのが、言霊思考なのである。自分が物理思考をしているということにまったく疑問をもたない言霊主義者ばかりなのだ。

言霊の力によって腰がいたくなったのではなくて、物理的な接触によって、腰がいたくなったと考えるのが、多くの言霊主義者なのである。

『どうして、疑問を感じないのか?』とぼくは思う。

何度も言うけど、言霊主義者といえども、普段は、物理的な思考(物理思考)をしているのである。物理的な接触、つまり、物理的な打撃が腰がいたくなった原因だと(自分が経験したことであれば)さとれるのである。

理由は、物理的な打撃だと思うのである。理由は、言霊ではなくて、物理的な打撃だと思っているのである。

そして、「おちる」ということにも、疑問をもたないのだ。自分の身体が、階段からおちた。これは、物理的な現象なのである。「自分の身体が階段から落ちる」と言ったから、階段からおちたわけではない。

そして、物理的な現象が普通に成り立っているということを認めている。思考において認めているのだ。

別に、「ものは、地面にむかっておちる」と言わなくても、「ものが地面にむかっておちるのは」あたりまえだと思っているのである。ようするに、言葉にしなくても、物理法則が成り立っているということを認めているのである。

言霊主義者は「言ったことが、現実化する」と「言った」ということを重視するけど、物理法則も普通に認めている。ひとつの出来事がおきたとき、その出来事は言ったからおこったのではなくて、物理的な運動の結果、おこったと考えているのである。

だから、言霊主義者といえども、ほんとうは、いろいろな出来事について「言ったからそうなった」と考えているわけではないということがわかる。

そして、言霊主義者は、そのことを、無視している。認知してない。認識してない。

目覚めていて、意識的な思考をしているのに、自分が言っていることと、自分が普段、ほんとうに考えていることが、くいちがうということに、無頓着なのである。この無頓着さが、逆に、「言ったことが現実化する」という信念をささえている。

ようするに、都合が悪い部分は、全部、無視しているのである。都合が悪い部分は、言霊思考ではなくて、物理思考をしているのである。言霊主義者においても、「言ったことが現実化する」と言霊思考をしてしまう現象というのは、じつは少ないのである。

*     *     *

たとえば、言霊主義者がコーヒーを飲みたいと思って、水を夜間に入れて、レンジにかけ、お湯をわかしたとする。普通のことだ。

けど、すべて、物理法則にしたがっているのである。

なぜ、言霊主義者は、「水がお湯になる」と言って、お湯をわかさないのか?

「水がお湯になる」と言っても、水がお湯にならないことを知っているからだ。

だから、レンジにかけて、お湯をわかそうとする。

もし、言霊でお湯をわかせるなら、言霊の力をかりて、お湯をわかしたはずだ。言霊の力を使うには、どうしたらいいかというと、言えばよいのである。言うと、言葉にやどっている言霊が、物理法則をこえた力を発揮して、言ったことを現実するのである。

なら、「一秒以内に、このヤカンの内側にある水が、すべてお湯になる」と言えばよいのである。 「一秒以内に、このヤカンの内側にある水が、すべてお湯になる」と言えば、言霊の力によってお湯になるのである。

どうして、言霊の力を使ってお湯をわかそうとしないのか?

言霊主義者であっても、言霊の力なんてぜんぜん信じてないから、お湯をわかすときは、物理的な方法でお湯をわかすのである。ガスレンジも電気レンジも電子レンジも、すべて、物理的な法則にしたがって、水をお湯にかえている。

言霊主義者でも、物理的な法則にしたがった機器を使ってお湯をわかそうとするのである。

どうして、言霊主義者は、このことに疑問をもたないのか。

言霊主義者であれば、「コーヒーカップに入ったコーヒーが出現する」と言えばよいのである。あるいは、「コーヒーカップに入った熱いコーヒーが、テーブルの上にあらわれる」と言えばよいのである。

「言ったことが現実化する」のだから、言えば、現実化する。

言ったのに、現実化しないのであれば、「言ったことが現実化する」という言霊理論はまちがっているということになる。

問題なのは、普段、言霊で問題を解決しようとしないことなのである。

そして、言霊主義者が、ぜんぜんそれに気がついていないことなのである。気がつけよ」と言いたくなる。気がつけ! 「言ったことが現実化する。これが正しい」と力説するけど、当の本人は、まったく言霊なんて信用してないのである。

言霊の力でお湯をわかそうとしないのである。まあ、ぼくが観察した範囲だと、言霊主義者は、言霊と言霊の力を使いわけるということがないので、「言霊」と「言霊の力」はわけて考えられていない。ようするに、言霊主義者の感覚で言えば「言霊でお湯をわかそうとしないのはなぜか」ということになる。

言ったことが現実化するのだから、言霊でお湯をわかせばいいだろ。

別にお湯をわかさなくても、熱々のコーヒーが、飲めるよ。

熱々のコーヒーが、目の前にあらわれると言えば、目の前にあらわれるのだ。どうして、目の前にあらわれたかというと、言葉には言霊が宿っているから、目の前にあらわれるのだ。言霊の力が、目のまえに、熱々のコーヒーを出現させるのである。

言霊主義者は、コーヒー豆も、インスタントコーヒーも買う必要がないのだ。

だって、言えば、出てくる。

現実生活のなかで、言霊主義者が、どれだけ、物理法則にたより、物理法則の結果を享受しているか、言霊主義者にはまったく自覚がないのである。

自覚がないだけで、夢や願望にかかわること以外のことに関しては、ほとんどすべて、言霊を無視して暮らしているのである。

言霊の力なんか、ぜんぜん信じてないのである。

言霊の力を借りずに現実的な処理をしているのである。

どうして、これに、気がつかないのか?

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



人気の投稿

「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。