ヘビメタ騒音でいっぱいいっぱいだから、ぼくの行動にも影響をあたえる。つねに、ヘビメタ騒音のことで、煮えたぎっている状態だ。そりゃ、七年目にはそうなるだろう。七年間毎日鳴り続けなければ、こんなことになっていないということが、いっぱい、いっぱいあった。東側のうちができたときだって、工事のときだって、きちがいヘビメタが鳴っていた。両方にはさまれて、くるしかった。ちょうど、大学受験の時期だ、言い切れない怒りがたまりまくる。人間の「我慢の許容量」には限界がある。きちがい兄貴は「まったくなにもやってないつもり」なのだけど、毎日、毎日、十年年間つもって、くるしかったよ。東側の人に対する感情だって、きちがいヘビメタがなかったら、ちがっていた。北側の人との関係だって、ヘビメタ騒音がなければ、ちがっていた。きちがいヘビメタを鳴らされると、どうしても、生彩を欠いたものになる。履歴が悪くなる。働けないからだになる。どうやっても、睡眠回路がもとにもどらないので、人から、誤解をされることが多かった。
ヘビメタ騒音が毎日、十数年間、つみかさなっていくと、ぼくの側の、まわりの人に対する感情がかわってしまうのである。また、まわりの人がぼくを見る目もかわってしまう。属性や履歴が影響をあたえる。ヘビメタ騒音が毎日、十数年間つみかさならかなった場合のぼくと、まわりの人との関係と、ヘビメタ騒音が毎日、十数年間つみかさなった場合のぼくと、まわりの人のとの関係は、ちがいすぎる。そんなのは、ぼくのほうしか気にしない。ほかのやつは、ちゃんとした理由があると思っている。たとえば、無職に対して偏見があるやつは、無職に対する偏見を、ヘビメタ騒音があったぼくにむけるのだけど、それは、別に悪いことではないのである。そいつにとっては、別に悪いことではないのである。ぼくにとっては、腹立たしいことなのである。おなじことが、いろいろなことに成り立つ。裏にまわって悪口大会をする人たちは、別にそれが悪いことだと思ってないのである。どうしてなら、エイリが嘘をつくような人間だから、そういうふうに言ったって、まったく問題がないと考えているのだ。もちろん、ぼくは、ヘビメタ騒音やきちがい兄貴の態度について、嘘を言ってない。けど、そいつらは、ぼくが嘘を言っていると思っているわけだから、ぼくの悪口を言ったって、悪いとは思わないのだ。
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それから、言霊主義者には絶対にわからないと思うけど、「できると言えばできる」と言われたときの、こっち側の感情がひどいのだ。むなくそわるい気分になる。どうしてかというと、きちがいヘビメタ騒音が毎日つみかさなっていたからだ。まったくやっているつもりがないきちがい兄貴が、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、自分が満足できる音で、しつこく、しつこく、しつこく、しつこく、鳴らし続けたからだ。この間、できると言ってもできなかったのである。「きちがい兄貴が一秒以内にヘビメタをやめてくれる」とか「一秒以内に鳴りやむ」とかと言っても、鳴りやまなかったのである。ただの一度も、言った通りになったことがないのである。だったら、それは、もう、嘘だと証明されているようなものなのである。