ライフハックというのは、条件をガン無視したきれいごとなのである。そんなことで、解決するなら、とっくに解決している。
ほんとうに、まったくわかってないなぁ。
きちがい兄貴のしくみがわからないやつが、きれいごとを言う。そうなると、こいつは、俺に対して無理なことを言っているということになる。ところが、こいつは、俺のことを格下の存在とみなして、『いいことを言った』と思うのである。
こいつから見ると、基本的なことがわかってないのはエイリのほうなのである。……きちがい家族による、はげしい騒音生活がどういうものか、まったくわかってない。
ところが、「俺だって苦労した」「俺だって騒音ぐらいあった」と言う。言いやがる。
* * *
いままで細かく見てきたけど、妄想が横たわっているんだよ。
前提が妄想なの……。
こいつらはこいつらで、前提が妄想だということを認めない。
だから、これは言ってはいけないことかもしれないけど、なんとなく、態度が、きちがい兄貴と似てくるのである。
もちろん、きちがい兄貴がやっていることと、こいつらがやっていることはちがう。「似てくる」といっても、きちがい兄貴がやっていることを、こいつらは、やってない。
けど、俺に対する態度が、似てくるのである。
妄想が前提にある。
たとえば、言霊主義者は、「言ったことが現実化する」という妄想をもっているのだけど、「言ったことが現実化する」ということが妄想だとは思ってないのである。
そして、「自分が言った通りになる」と思っているのである。そしてさらに、「自分が言ったのに」自分が言った通りにならなかったことは、ガン無視してしまうのである。
きちがい兄貴は、ものすごくでかい音で鳴らしているのだけど、気ちがい兄貴自身が、ものすごくでかい音で鳴らしているという事実をガン無視してしまう。だから、どれだけやったって、やったことになってないのである。
「しずかにしくれ」と言われれば、発狂して、ガン無視してやりきるのに、「ゆずってやった」「やってない」と思っているのである。まるで悪いことはしてないと思っているのである。
でっ、言霊主義者は、さすがに、そこまでは悪くない。
けど、きちがい兄貴のヘビメタ騒音によって、(こっちの身には)いろいろな障害が発生するのだけど、その障害について、勘違いするのである。
こういう、構造。
言霊主義者にとっては、こっちの不可避的にしょうじる障害を無視しているということを指摘されることは、これまた、不愉快なことなのである。
だから、ここでも、「なんとなく、兄貴に似ているなぁ」と感じることを(言霊主義者が俺に対して)しやがるのである。
もちろん、言霊主義者は、兄貴のように、一般的なルールを無視して、きちがい的にでかい音でヘビメタを鳴らしているわけではない。
だから、そういう意味では、まったくちがう。ちがうんだよ。
けど、なんか、自分勝手さが似ているのである。まあ、似ているといっても、ちょっとだけ似ているだけだ。
何度も言うけど、やっていることがちがう。
だから、言霊主義者が、きちがい兄貴のように、一般的なルールを無視して、悪いことをやりきっているということを言いたいわけではない。
ただ、言霊主義者の妄想的な前提(設定)が、俺の側の言っていることを否定するので、そこに問題がしょうじるだけなのである。
妄想的な前提(設定)というのは、「言ったことが現実化する」という前提(設定)だ。
言わなかったことが現実化したら、ガン無視!!
言ったことが現実化しなかったから、ガン無視!!
そうしないと、「言ったことが現実化する」という妄想を維持できない。
* * *
ライフハックを口にする人たちも、言霊主義者とおなじように、条件を無視している。
条件なんてあったとしても、たいして影響をあたえないものなのである。
『それよりも、自分が主張しているライフハックのほうが影響をあたえる』と思っている。
こいつらの頭のなかでは、「条件が与える影響は、〇・〇〇〇〇〇一%ぐらい」なのである。こいつらの頭のなかでは「自分のライフハックの影響は九九・九九九九九九%ぐらい」なのである。
「条件が与える影響なんて無視できる」……これが、ライフハックをクチにする人たちの前提だ。
ところが、実際には、ライフハックの影響はない。
あるいは、あったとしても、〇・〇〇〇〇〇一%ぐらいしかない。
一方……「条件が与える影響は九九・九九九九九九%ぐらい」なのである。
一番重要なことを無視している。
* * *
ああっ、あとは……。他人がライフハックをした結果、トラブルがしょうじることに関しては、ライフハック主張者は、ガン無視だ。
ライフハックに書いてあることを実行したら、マイナスである出来事がしょうじた場合は、ライフハック主張者は、ガン無視だ。
「そんなのは、そいつの実行方法が悪い」ということになる。
いやー。ほんとうにそうなのかな?
その「ライフハックの方法」に内在している問題が顕在化しただけなんじゃあないかな?
たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんが言霊主義者で、Bさんが悪い条件をかかえている人だとする。AさんがBさんに「言ったことが現実化するから、言えばいい」と助言したとする。
基本的には、「言ったことが現実化する」という妄想的な設定がまちがっているのである。
BさんがAさんに「言っても、現実化しなかった」と言ったとする。
そうすると、Aさんは「そんなのは、言い方が悪いから現実化しなかったんだ」とBさんの言い方のせいにするのである。
これは、言霊主義者にかぎったことではなくて、ライフハックをクチにする人たちは「そんなのは、やり方が悪いから、うまくいなかったんだ」と言うのである。
けど、条件によってはやることさえできないし、条件によってはうまくやることができないのである。
けど、条件は無視して、『主要なこと』を言うわけだ。
『主要なこと』というのは、そのライフハックの短い文だ。
これ、法則性なんてないのに、法則性があるように言われて、流通している。
こんなもの、「現実をガン無視すること」が流行しているのとおなじだ。
そうなると、条件が悪い人が、けっきょく、損をするのである。
複数の悪い条件をかかえている人が、悪く言われることになるのである。
そりゃ、「理論は正しいけど、運用のしかたが悪かったんだ」ということが(ライフハックをクチにする人たちのなかで)決まっているのだからそうなる。
理論がほんとうに正しければいいけど、正しくないのである。法則性もないし、理論が正しくないので、条件が悪い人は、うまくいかないのである。
条件が悪いということが、うまくいかないということを、決定している。
ところが、条件の差を認めない人は、「条件が悪いということが、うまくいかないということを、決定している」ということを認めない。意地になって認めない。
* * *
社会のなかでは、ライフハックをクチにする人のほうがこまってないのである。ライフハックについて語られるほうより、ライフハックをクチにする人のほうが、相対的に優位なのである。
こまっている人たちは、どうして、そんなライフハックを語られるのか?
こまっている人たちは、どうして、助言されるのか?
それは、その人が「こまっている」からだ。
こまっているのである。
だから、立場が弱い。
劣位なのである。
なんで、こまっている人がこまっているかというと、たいていの場合は、悪い条件が「それ」をうみだすからこまっているのである。「それ」というのは、現実の結果、現実の出来事のことだ。
悪い出来事が「それ」によってしょうじてしまうから、劣位になる……。こまる……。劣位になる……。こまる……。劣位になる……。こまる……。
条件が悪くなければ、そういう悪いことが、しょうじない場合だってある。しょうじないほうが、多い。条件が悪いから、こまっているのに、こまってないやつらが、妄想的な前提で助言をしてくるのである。
* * *
たとえば、例外を抜かせば、カネがあるうちに生まれたほうが有利で、カネがないうちに生まれたほうは、有利じゃない。
カネがないということによって、さまざまな点で、損をするのである。
親がなにかを買ってやれば、子どもはそのなにかをゲットする。カネがある親は、子どもにいろいろとかってやられるけど、カネがない親は、子どもにいろいろと買ってやることができない。
そうなると、カネ持ちの子供はいろいろなんで優位に立ち、貧乏な子供はいろいろなところで劣位に立つようになるのである。
この場合、カネがあるかどうかという条件がこのちがいをうみだしている。
ところが、カネのあるやつらが「心構えの問題なんだ」ということを言い出すのである。あるいは「引き寄せ能力のちがいなんだ」ということを言い出すのである。
優位なほうが、助言して、劣位なほうが助言されるのである。
条件が悪いほうは実際にこまっていて、条件がいいほうは、実際にはこまってないのである。
こまってないほうが、こまっているほうに助言をするのはあたりまえだということになっている。
そうなるだろう。けど、条件が、そもそもの差をうみだしているのである。
ところが、助言をする人というのは、ほんとうに差をうみだしている根源的な「条件」を、無視してしまうのである。そして、架空の……妄想的な……理由を作り出して……現実的ではない助言をするのである。しかも、現実的な助言だと思っているのである。どうしてかというと、彼らにしてみれば、「妄想的な前提」ではなくて「現実的な前提」だからだ。
「言えば言ったことが現実化する」……これは、妄想的な前提だ。ところが、言霊主義者のなかでは、現実的な前提だということになっているのである。だから、条件の差で苦しんでいる人に対して「言えば、言ったことが現実化するから、言えばいい」と言うのだ。
けど、条件の差で苦しんでいる人が言ったところで、条件がもたらすことは、言っても、かわらない。言ってもかわらないのだけど、言霊主義者のなかでは「言えば、かわる」ということになっているのだ。
どうしてかというと「言えば、言ったことが現実化するから」だ。
言霊主義者のなかでは「言えば、言ったことが現実化するから、言えばいい」というのは、じゅうぶんに、現実的な助言なのだ。ところが、「言えば、言ったことが現実化する」ということが、言霊主義者がもっている「妄想」でしかないから、実際には「現実に影響をあたえない」のである。
けど、言霊主義者は、「言ったことが現実化する」ということは、妄想だということを認めたくない。なので、「言った人の言い方が悪いから、現実化しなかったんだ」ということを言いだす。
これは、矛盾している。
言霊主義者は、ガン無視するけど、「言ったことが現実化する」ということと「言った人の言い方が悪いから、現実化しなかった」ということは、矛盾しているんだよ。
けど、この矛盾も、言霊主義者はガン無視だ。こういう、幼稚なやつばかり……。こういう非理論的なやつばかり……。こういう、妄想的なことを言うやつばかりだ。
ぼくが言っていることは、たいへん「うけがわるい」ことを知っている。
言霊主義者や思霊主義者や努力論者や自己責任論者を敵にまわすべきではない。
しかし、言っておかなければならないのだ。
どうしてかというと、こういうことが「正しいこと」ととして流通していると、非常にまずいことが発生するからだ。条件が悪い人が、追いつめられて、自殺することになる。
これ、 言霊主義者や思霊主義者や努力論者や自己責任論者は、自分たちが「いいこと」を言ってると思っているけど、いいことなんて、言ってない。
これ、 言霊主義者や思霊主義者や努力論者や自己責任論者は、自分たちが「いいこと」をしていると思っているけど、いいことなんて、してない。
これ、 言霊主義者や思霊主義者や努力論者や自己責任論者は、自分たちが「正しいことを助言している」思っているけど、正しいことを助言してない。
だれかが、「それは間違っている」と言わなければ、このままだ。
このままなのは、よくないのである。
* * *
横から横に対する圧力になるのだ。これが、社会全体の生きにくさを作り出している。ぜんぜん、よくないことだ。
たとえば、支配者階級と、被支配者階級ということを考えて、上が下に圧力をかけているということは、想像しやすい。
しかし、被支配者階級のなかで、横から横に圧力をかけているということは、想像しにくい。
しかも、支配者階級が、被支配者階級のなかで、横から横に圧力をかけることを期待していたらどうだろう?
横の人に圧力をかけている人は、正しいと思って圧力をかけているのだけど、それが、支配者階級の意図した通りの行動だとしたら、どうだろう?
横から横に対する圧力の場合、横から横に圧力をかけている人は、自分が圧力をかけているとは思わないのである。
相対的に優位である(横)が、相対的に劣位である(横)に妄想的な発言をして、圧力をかけているのである。
社会全体でこのようなことをしているのであれば、社会のなかにいる人が不幸になるのはあたりまえだ。まちがった前提に立ってまちがったことを言う人たちが増え、まちがった前提に立ってまちがったことを言っているにもかかわらず、間違ったことを言っているという自己意識がない。正しいことを言っているつもりなのである。
その場で、どちらかが、優位なのかは、その場によって、ちがう。その場で、どちらが劣位なのかというのは、その場によって、ちがう。
ようするに、ひとりの人が、ある人に対しては、優位に立ち、ある人に対しては劣位に立つのである。ひとりのひとが、場面によっては、優位に立ったり、劣位に立ったりするのである。
たとえば、Aさんと、Bさんと、Cさんがいたとする。Aさんが、Bさんといるときは、AさんがBさんより優位で、BさんはAさんよりも劣位だ。Aさんが、Cさんといるときは、AさんがCさんよりも劣位で、CさんはAさんよりも優位だ。
場面によって、立ち位置がちがうので、だれが優位なのかは、固定的なものではなくて、場面によってちがうものなのである。
しかし、全体的には、やはり、条件が悪い人が劣位に立ちやすいのである。
たとえば、会社のなかで、一番下の人と、二番目に下の人だと、二番目に下の人は、一番目に下の人よりも、優位な立場に立つことができるのである。あるいは、発注する側は、発注される側に対して優位になりやすいのである。
しかし、その会社のなかで一番下の人は、客としては、店員に対して優位に立つことができるのである。
だから、優位とか劣位といっても、相対的な優位とか劣位が、実際の場面では重要だということだ。
しかし、そうなのであれば、社会的な階層のなかでの、劣位と優位がまったく関係がないことになるかというと、そうではないのだ。社会のなかでの、劣位や優位が、その場の相対的な優位さに影響をあたえる。
だから、ここら辺は、社会的な構造と現実的な場面が複雑に絡み合っているから、どちらが優位なのかということについては、単純な決めつけは、できない。
しかし、条件が悪い人は、悪い属性をもちやすく、悪い属性は、相対的な劣位をうみだしやすいのである。相対的に劣位である人は、相対的に劣位である人間として、相対的に優位である人間と、対面するということになる。
逆も、また、しかり。
相対的に優位である人は、相対的に優位である人間として、相対的に劣位である人間と、対面するということになる。