自己責任論というのは、どんな状態だろうが、やられたほうが悪いという理論なんだよ。どんな状態だろうが、やられたほうに落ち度があるという理論なんだよ。
だれになにをやられたにしろやられたやつの責任だという理論なんだよ。こんな、圧迫面接官がやるようなことを、上下関係がない他人にやりまくるやつがいいやつであるはずがないだろ。
こういう場合は、こうだ……という思考がまったくないんだよ。
どういう場合でも、やられたほうには、やられた責任があるという、くそ理論なんだよ。
それじゃあ、悪いやつのかたをもつことになる場合がある。加害者のほうが悪いのに、被害者が悪いと言いはるやつが、自己責任論者だ。問答無用で、条件に関係なく、状態に関係なく、理由に関係なく、ともかく、やられたやつが悪いのである。
こんな、めちゃくちゃなことを得意げに言って、なにも疑問をいだかないやつが、かしこい人間であるはずがない。
本人を対象にした自己責任論が、いつのまにか、他人を対象にした自己責任論にすりかわってしまうのである。そして、たいていの自己責任論者が、それに気がつかない。最初は、アンガー・マネジメントのようなことを言っているけど、最後には、すべての場合において、やられたやつが悪いという理論になる。
他人の責任をとことん追及する理論になる。やっていることは、自己責任論をふりまわして、他人の責任を追及することなのである。そして、その他人に責任がある場合もあるけど、その他人に責任がない場合もあるのである。
けど、理論的に、他人に責任がない場合はないと決めつけてしまう。条件が悪い人にとっては、それ自体が腹立たしいことだ。きちがい的な家族と住んでいる場合、きちがい的な家族は、きちがい的な脳みそを搭載しているので、よそではありえないようなことをするのである。
その場合も、やられたら、やられたやつのせいだということになる。
「やれられやつには、なんだろが、落ち度があり、落ち度があるのだから自己責任だ」とやられやつをせめるようになるのである。
本人を対象にした自己責任論であるならば、他人の責任を追及することはないのである。
だから、最初に提示された、本人の責任を追及する自己責任論と、他人の責任を追及するやつがふりまわす自己責任論は、似て非なるものなのである。
けど、他人の責任を追及するやつにとっては、まさに、他人の責任を追及する自己責任論が、自己責任論なのである。
事実に関係なく、勝手に他人に罪をなすりつけ、「おまえの責任だ」と言い切る自己責任論者が、やっていることは、よくないとことなのである。
しかし、自分はいいことをやっていると、たいていの自己責任論者は思っていることだろう。
まちがっことを思いついて、他人をせめたやつは、自分がまちがっていたと自分の責任をツ級することがないのである。自己責任論者は、まちがったことを思いついて、他人をせめている場合がある。責任を感じるなら、そのことに、責任を感じるべきなのである。
他人の責任を追及する自己責任論者は、普段は、自己責任だと思って生きているつもりなのだけど、ちょっと問題が発生したら「だれだっておこる」といかりをあらわにして、他人をせめるようなやつなのである。
「いやー、おまえがやられたなら、おまえの自己責任だろ」と他人の責任を追及する自己責任論者に言いたくなる。ぼくは言いたくなる。
これ、本人はほんとうに意識してないのだけど、たいていの自己責任論者は「自分の責任だ」と感じなければならないところで、自分の責任だとは感じないのである。
いやーー、だれだっておこるといかりをあわらにしないで、自分の責任だと考えるべきだろ。
アンガー・マネジメントもくそもないなぁ。
実際に、自分の身に、ちょっとでも「おかしい」と思うことが発生したら、これだ。
けど、他人には「すべては自己責任だ」と言う。ここらへんの矛盾が、まったくわかってないんだよね。
「こんなことをされたらだれだっておこる。なんだ!くそ!!」とおこっているときこそ、「すべては自分の責任だ」と思うはずなんだけど、そうじゃないのだ。