2024年12月11日水曜日

本人を対象にした自己責任論が、いつのまにか、他人を対象にした自己責任論にすりかわってしまう

 自己責任論というのは、どんな状態だろうが、やられたほうが悪いという理論なんだよ。どんな状態だろうが、やられたほうに落ち度があるという理論なんだよ。

だれになにをやられたにしろやられたやつの責任だという理論なんだよ。こんな、圧迫面接官がやるようなことを、上下関係がない他人にやりまくるやつがいいやつであるはずがないだろ。

こういう場合は、こうだ……という思考がまったくないんだよ。

どういう場合でも、やられたほうには、やられた責任があるという、くそ理論なんだよ。

それじゃあ、悪いやつのかたをもつことになる場合がある。加害者のほうが悪いのに、被害者が悪いと言いはるやつが、自己責任論者だ。問答無用で、条件に関係なく、状態に関係なく、理由に関係なく、ともかく、やられたやつが悪いのである。

こんな、めちゃくちゃなことを得意げに言って、なにも疑問をいだかないやつが、かしこい人間であるはずがない。

本人を対象にした自己責任論が、いつのまにか、他人を対象にした自己責任論にすりかわってしまうのである。そして、たいていの自己責任論者が、それに気がつかない。最初は、アンガー・マネジメントのようなことを言っているけど、最後には、すべての場合において、やられたやつが悪いという理論になる。

他人の責任をとことん追及する理論になる。やっていることは、自己責任論をふりまわして、他人の責任を追及することなのである。そして、その他人に責任がある場合もあるけど、その他人に責任がない場合もあるのである。

けど、理論的に、他人に責任がない場合はないと決めつけてしまう。条件が悪い人にとっては、それ自体が腹立たしいことだ。きちがい的な家族と住んでいる場合、きちがい的な家族は、きちがい的な脳みそを搭載しているので、よそではありえないようなことをするのである。

その場合も、やられたら、やられたやつのせいだということになる。

「やれられやつには、なんだろが、落ち度があり、落ち度があるのだから自己責任だ」とやられやつをせめるようになるのである。

本人を対象にした自己責任論であるならば、他人の責任を追及することはないのである。

だから、最初に提示された、本人の責任を追及する自己責任論と、他人の責任を追及するやつがふりまわす自己責任論は、似て非なるものなのである。

けど、他人の責任を追及するやつにとっては、まさに、他人の責任を追及する自己責任論が、自己責任論なのである。

事実に関係なく、勝手に他人に罪をなすりつけ、「おまえの責任だ」と言い切る自己責任論者が、やっていることは、よくないとことなのである。

しかし、自分はいいことをやっていると、たいていの自己責任論者は思っていることだろう。

まちがっことを思いついて、他人をせめたやつは、自分がまちがっていたと自分の責任をツ級することがないのである。自己責任論者は、まちがったことを思いついて、他人をせめている場合がある。責任を感じるなら、そのことに、責任を感じるべきなのである。

他人の責任を追及する自己責任論者は、普段は、自己責任だと思って生きているつもりなのだけど、ちょっと問題が発生したら「だれだっておこる」といかりをあらわにして、他人をせめるようなやつなのである。

「いやー、おまえがやられたなら、おまえの自己責任だろ」と他人の責任を追及する自己責任論者に言いたくなる。ぼくは言いたくなる。

これ、本人はほんとうに意識してないのだけど、たいていの自己責任論者は「自分の責任だ」と感じなければならないところで、自分の責任だとは感じないのである。

いやーー、だれだっておこるといかりをあわらにしないで、自分の責任だと考えるべきだろ。

アンガー・マネジメントもくそもないなぁ。

実際に、自分の身に、ちょっとでも「おかしい」と思うことが発生したら、これだ。

けど、他人には「すべては自己責任だ」と言う。ここらへんの矛盾が、まったくわかってないんだよね。

「こんなことをされたらだれだっておこる。なんだ!くそ!!」とおこっているときこそ、「すべては自分の責任だ」と思うはずなんだけど、そうじゃないのだ。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



人気の投稿

「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。